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孤独な夜に、はじめて寝酒を体験したときの覚書

24歳、まだ大学生。毎日やるべきことに目を背けながら、暇を持て余している。この頃、宵っ張りが輪にかけて悪化してきており、午前中に起き上がれない日が続いていた。

今日も自分にあまり期待はせず、とりあえずふかふかの布団に潜り込んで、ベッド付属のサイドランプのオレンジの明かりだけを灯し、日記を書きながら白湯を飲む。これだけ聞くとなんだか丁寧に暮らしている人みたいなナイトルーティンだと思われてしまいそうだけれど、そうではない。白湯を飲むのは身体の体温を一度上昇させることで温度が下がるときに眠気が生じるという科学的な効果を期待してのものだ。こうして眠れない予感に気づきながら眠る準備をするのにも、もう慣れてしまった。

日記を書き終えた途端に脳裏を過るスマホ弄りたい症候群を見なかったふりでやり過ごし、強い意志でサイドランプを消す。眠りにつくことができないながらに暗闇で数分間目を閉じて布団に身を潜めていたら、不安ごとが一気に襲ってきた。ドッ、という音で表現するのが最も適切なくらい、本当にいきなり。枕に付けた後頭部から、これまで見ないことにしてきた懸念事項が額の表面に物理的に浮き上がってくるような気がしていた。頭の中に道があって、心配事がそこを通ってくるのがわかり、次第にそれは目に届いて覚醒を促してくる。そうこうしているうちに白湯で誘発したはずのゆるやかな眠気はどこか遠くへいってしまい、気づけばそこには冷めきった身体を意味なく横たえている自分がいるのみであった。こう、寝ようとしている時間って、無為に時間を消費している気がしてもどかしくなってしまうのは私だけだろうか。

孤独で眠れない夜の過ごし方といえばいろいろあるが、そのときぱっと浮かんだのは『孤独な夜のココア』だった。田辺聖子の短編集のタイトル。こういう夜に寄り添ってくれる小話がいくつか収められていて、大変心づよいのだけれど、本を読むと本格的に眠れなくなってしまいそうでどうにもその気になれない。それなら、いっそ題名にかけてココアを飲もうかと考えるが、しかし、ひとりキッチンでココアを飲むような勇気はなかった。台所でガサゴソやりすぎるとリビングで寝ている母と犬が起き出してきてしまってなんだか申し訳なくなるし、あまり物音を立てずに済むお湯を入れて作る即席ココアは薄味なので個人的にあまり好きではない。そもそも家に置いていないし。100%のココアパウダーと砂糖と牛乳を弱火で煮て作るのがお気に入りの味だが、出来上がりを待つ時間を愛おしく思えないときにココアは作るべきではない。そう判断し、あえなく却下することにした。

何なら眠れるだろう、睡眠薬があったら良いなと本気で思う。ああ、こういうときに大人は寝酒を飲むのだろうな、とそのとき生まれて初めて理解する。

そうだ、酒を飲もう。と思い立った。

思い立った途端、何を飲むのがベストなのか冴えた頭が考え始める。缶チューハイの類は口の中がすぐべとつくから嫌で、ビールや発泡酒も同じ理由で飲む気になれなかった。冷やして美味しいお酒を真冬の夜中に飲むなんて考えただけで身体が凍えそうだ。しかも、私にとってそういった缶のお酒は仲間と飲むお酒の意味合いが強く、例えばもう一軒行くには終電まで時間が迫っているけれどまだ帰りたくないなというときにコンビニで一缶づつ買って、世界で最もくだらない会話の延長戦を繰り広げたときの思い出などが缶の無機質な手触りに染み付きすぎている。そのため、ただでさえ一人でめったに飲まない私が家で缶酒を飲むなんて、孤独が極まりすぎてしまって厳しかった。

口がべたつきすぎなくて、温められるお酒。このときの私には、父が常備している黒霧島の紙パック酒をお湯割りするくらいしか思いつかなかった。でも、芋焼酎というセレクトは我ながら見事な采配であったと思う。はじめて挑戦するならば、普段そんなに口にしないお酒のほうが大人な気分を味わえてぴったりな気がした。別にふつうに好きだし飲めるのだけれど、いつもは選ばない。それが私の中での芋焼酎の位置づけだった。やっぱりまだどうしても炭酸割りで色とりどりに味のついたお酒をがぶがぶ飲みたいお年頃なのかもしれない。いつか銘柄をいろいろ飲み比べて、味の違いがわかるようになりたいと思っている。そうと決まったら、と、靴下を履いてベッドを抜け出した。

まるでこれから悪事をはたらくかのような心持ちで、抜き足差し足で階段を降り、リビングを目指した。音を立てないようにそろそろと引き戸を転がして、侵入。犬がいびきを掻いているのを横目に、ダイニングテーブルに置かれていた紙パックを抱え、そのままキッチンへ。保温機能のある水筒にポットのお湯を注ぎ入れ、きっちり蓋を締めて脇に抱える。一つのマグカップにはできるだけ多く芋焼酎を入れ、もうひとつのマグカップは空のままで、それらを両手に持つ。紙パックはばれないように元の位置に戻しておいた。一杯だけでは眠れる気がしなかったから、ちゃっかりお湯割りセットを持って、自室へ帰る。

部屋に戻って抱えた荷物を床に置き、ふかふかベッドに入ってサイドランプをつけ直したら、まず一杯目を作る。マグカップには注ぎ口もなにも付いていないので、布団や床に滴りこぼさないよう、慎重に3割くらいの焼酎と、ちょうどよい量のお湯を空のマグカップへ。この、焼酎を注ぎ入れるときに立つ芋の香りが好きだった。アルバイトでドリンクをつくるときに覚えた匂いだ。銘柄によって若干香りに違いがあるのもまたよかった。黒霧島はやすいお酒だけれどはっきりと香りが立ち、飲酒への欲求が掻き立てられる。深夜テンションだから余計な美化フィルターが五感にかかっていた節も否めないが、なんだかその芳しさにふわふわして、舐めるように一口含む。ちょっと苦くて、強いアルコール感。けれど、満足だった。そうして二杯目、三杯目と飲み進めるごとに、しあわせと麻痺の感覚がゆるく頭のてっぺんを支配していく。

このしあわせの種類ってなんだろう。ひとりぼっちで慣れない寝酒を口にしている私はどう考えたって孤独なはずなのに、よくわからないけどしあわせだった。これまでびくともしなかった身体が眠りへ向かい始めたことへの喜びなのか、選んだお酒をきちんと楽しめていることへの安堵なのか判らなかったけれど、とにもかくにも身体がもう一度温みを帯びていく感覚が、しあわせを感じさせてくれていた。温みは次第にきもちのよい麻痺に変わり、じんわりと身体の末端を包みこむ。そのときどきでぴったりのツマミや仲間のおしゃべりがなくても、お酒は美味しく飲める。こんなこと、はじめてだった。

酔いが回るころにはもう、眠れないことや、先程まで頭を占領していた心配事などどうでもよくなってしまっていた。消えたわけではない。ただ、一時的に脳髄の内部で境目がわからなくなるくらいに溶け合っているだけだ。それでも、無為に眠れないまま孤独に過ごす夜を帳消しにしてくれるなら、ただただありがたかった。気持ちよくなれるし手軽に眠れてしまう、これはすごい。大人はこうして寝酒に手を出し、やめられなくなるのだ、と身体が理解する。これは、ハマったらやめるのが難しくなるぞ、となんだか怖くなった。理由のない幸福ほど怖いものはない。

三杯目を飲み終えて以降の記憶が曖昧で、気づけばしっかりと布団を被って寝ていた。私は無事、眠ることに成功したのだった。

孤独な夜の寝酒とときたまする背伸びは案外、悪くない。悪くないが、もうしばらくは辞めておこう、と肝に銘じて、この頃はまたお酒に頼らず眠る方法を模索している。



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