見出し画像

では意識とは何か?

なぜ「作る」のか?

「作る」は本能で言うところの「巣作り」が1番近い。
それは外敵から子を守るためのもの。
種の保存。生命活動の維持。
食べること寝ることと近い領域。

現代の「作る」は衣、食、住と文化、芸術、流通、交通あたりに分類。
つまり「作ったもの」は分類される。
では「分類されないもの」はあるか?
ぱっと想像はできない。
見えてるもの感じられてることには名前がつく。
つまり意味とは言葉そのもの。名前そのもの。
名前のないものこそ「分類されないもの」。

では「名前のないもの」は作ることはできないか?
人である以上社会性があり誰かの主観において名前や枠組みはつけられる。
せめて自分の中だけでも「意味のないもの」は作れないか?
見えてないものには名前をつけようがない意味をつけようがない。

1番近しいものを探す。

オブジェやモニュメント、モノリスのようなもの。
それも限りなく自然物に近いような。
作者が分かると枠組がつけられやすい。
作者不明は絶対条件。
承認欲求からは抜け出さないといけない。
解脱解脱。

人が作るもので1番近いのは子供の頃に土や砂や枝で作った「何か」。
親からは「捨ててきなさい」と言われた「何か」。
アレが実は1番に「意味のないもの」に近い領域。

人工物として生成されてしまったものを利用する場合、
リサイクルだのの意味が生まれてしまう。
かと言ってゴミのようなビジュアルでも「ゴミ」に分類されてしまう。
使う材料は自然のもの。
放置されてても気づかないもの。

ここで「なぜ作りたいのか?」に立ち戻る。
自分にとっての「作る」は何か?

建築業界に入ってから20年、建築設計事務所として独立してから10年。
建築は意識的な「作る」であり、無意識的な「作る」はなくなった。

無意識を作りたい。
おそらく反動。
子供の頃から繰り返してきた行為。
山で木を組み、土を練り、砂で川を作った。
もはや無意識。つまり生存本能。
自分の中の何かの釣り合いを取るために必要な行為。
集中、没頭、没入。
無性にソレが必要な気がしている。

5年ほど前から動詞のみの行為を続けている。
だんだん戻ってくる無意識。
それと同時に自分の内側の何かと触れ合ってる感覚。
辞書的には「内なる神との対話」、それを「祈り」と言うようだ。
祈りは同時に「他者や世界へ願いや想いを込めること」ともある。
つまり内側と外側の境界。意識と無意識の境界。

では意識とは何か?

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?