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1840年代生まれ 建築家 10名

1.山田清重(1841年 - 没年不明)東京府の平民

1872年 開拓使等外二等
1872年 等外一等
1874年 十五等出仕
1875年 十四等出仕
1878年 九等属
1880年 八等属
1881年 免本官
1882年 皇居造営事務局雇監材課に勤務
1884年 被免

2.柏木貨一郎(1841年 - 1898年)江戸

神田和泉橋の糸屋・辻家に生まれる
幕府の大工棟梁・柏木家の養子となり9代目を継ぐ
明治維新後は文部省に勤務
町田久成らとともに正倉院をはじめ古社寺の宝物調査にあたった
町田が博物館行政から離れた後官職を辞した
三井集会所、益田孝邸、渋沢栄一邸など和風建築や茶室の設計を行った
大隈重信の妻の綾子が大隈に嫁ぐ前の夫
1898年 渋沢栄一邸に向う途中下駄が線路に挟まり汽車に接触し死亡

3.大島盈株(1843年 - 1925年)

江戸幕府大工大棟梁甲良家10代棟全の子で建築を学ぶ
その後大島家の養子となる。
江戸幕府作事方で安政大地震後の江戸城修復に参加
1867年 パリ万国博覧会に出品する多聞櫓、大名屋敷門などを設計
明治維新後は新政府に仕え明治宮殿普請に参加
1871年 ブリジェンス設計の新橋駅建設に関わる
1890年まで官設鉄道の建設に従事
1893年 シカゴ万国博覧会に出品の鳳凰堂を設計
1910年 日英博覧会出品のため書院造を設計

4.山岸平吉(1843年 - 没年不詳)東京

1876年 開拓使雇
1878年 被免
1882年 皇居造営事務局雇・建築課に勤務
1886年 工業部に勤務

5.和田善平(1844年 - 1908年)京都

家は代々朝廷の内匠職
明治時代になり東京に移る
内匠課雇として宮内省に入る
建築掛設計方として皇居造営、小松宮、東伏見宮、梨本宮の邸宅の設計などに関わる
造営では賢所、神嘉殿などを担当
1897年 東宮御所に新築の新御座所を手がける
1908年5月2日歿。享年65歳

6.木子清敬(1845年 - 1907年)京都府京都市上京区

1844年 山城国上京中立売通宝町に生まれる
幼名は勝治郎
木子家は代々宮中の修理職棟梁の家柄
明治維新前から宮中に奉仕
1873年 宮内省に入る
1881年 皇居造営掛、明治宮殿御造営の御造営掛として設計施工に関与する
1887年 宮内省一等匠手
1890年 内匠寮技師、土木課長となる
     日光田母沢、熱海・沼津・葉山・箱視官ノ下・静岡・鎌倉の各御用邸を担当、青山御所、皇居造営などの建設にも携わる
     技術顧問として日光東照宮や東大寺大仏殿の修復工事に関わる
1889年 辰野金吾の要請を受け帝国大学工科大学造家学科で初めて日本建築の授業を受けもち、伊東忠太や関野貞といった人材を育てたと言える
1895年 伊東忠太と平安神宮を共同で手がける
1905年 脳溢血に罹り、侍医局長長岡玄卿の治療にて一時快癒したが、胃潰瘍に罹り逝去享年64
子息に建築家の木子幸三郎、木子七郎がいる

7.高橋兼吉(1845年 - 1894年)山形県鶴岡市

1845年 鶴岡の大工町に大工・高橋半右衛門の二男として生まれる
父半右衛門の大工職を継いで父の下で修行を重ねる
1867年 上京、牛込津久戸前の請負師・佐野友治郎の門下になり東京や横浜で洋風建築を学んだ
1875年 羽黒町松ケ岡で4つの蚕室を建てる
1879年 旧清川学校を建設
1882年 湯田川の由豆佐売神社を建設
     常念寺観音堂を竣工
     旧鶴岡警察署を落成
     鶴岡警察署大山分署を完成
     東田川郡役所
     旧西田川郡会議事堂
     西田川郡医事講究所
     大山尋常高等小学校
     鶴岡役場などの擬洋風建築を手掛ける
     善宝寺の五重塔を完成
1894年 酒田米穀取引所倉庫を完成

8.高原弘造(1845年 - 1918年)

1871年 高松藩から英国に派遣され建築学を学ぶ
     廃藩置県後は工部省の留学生となる
1874年 帰国後ジョサイア・コンドルの助手を勤める
     日本土木会社(現在の大成建設)の技師長をつとめる

9.堀江佐吉(1845年 - 1907年)青森県弘前市

弘前の覚仙町の生まれ
祖父の代から弘前藩の御用大工
父の伊兵衛も「お城大工」として知られる
1879年 北海道に出稼ぎに渡る
1880年 軍関係の施設の建設などに携わる
1886年 東奥義塾校舎の類焼後に再建を竣工
1889年 大倉組(後の大成建設)の依頼で屯田兵舎建設のため再び北海道に渡る
1890年 再び焼失した東奥義塾校舎の再建
1896年 五所川原の佐々木嘉太郎邸竣工
     弘前城本丸石垣修復工事
     市内の革秀寺、長勝寺などの修理
1898年 第8師団司令部竣工
1904年 第五十九銀行本店を手掛ける
1907年 旧弘前偕行社が起工
同年8月に亡くなった
生涯に手掛けた建築数は1000件以上
長男彦三郎、四男伊三郎、六男金蔵、七男幸治、西谷市助など、彼の下で働いた人間も多くの洋風建築・近代建築を残している

10.原忠治(1849年 - 没年不詳)

1880年 工部省営繕局有栖川宮邸建築掛で建築職工世話掛で出仕、鉄道局建築掛、第三海軍区鎮守府建築委員雇
1887年 海軍省技手
1891年 宮内省内匠寮技手
1895年 京都帝室博物館の工事を担当
     東宮御所御造営にも参加

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