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離散(二)


 弓香の秘密は、望希にとっても絶対に、踏み込めない領域にあった。それに否定したくても否定できないものだった。
 なぜならその切欠は対外的なものだったし、その秘密には彼女の居場所を決定付けるものがあった。
 弓香は外国語大学への入学を取り止めていたのだ。そして移住まで決めてしまっていた。
 彼女が大学入学を取り止めたのは収入の都合だった。弓香は決して望希に告げなかったが、彼女の父親が高校三年の年末、事故に遭い怪我をしていたのだった。それは彼の趣味である登山の最中に、足を滑らせた仲間を支えようとして坂を転落し、負傷したというものだった。
 怪我の程度は重いものだった。木の枝が腰に突き刺さり脊椎まで損傷してしまった。結果として彼女の父親は両足を動かせなくなり車椅子での生活をすることになって、リハビリをしても元に戻る可能性はないということだった。
 消防士だったために現場からは当然外れることになり、事務職に回ることになったが彼の性には合わなかった上に、気分が滅入ると事故当時をフラッシュバックのようなものを体験するようになった。短時間勤務で消防署に復帰をしたが、医師の勧めにより精神科で診察を受けPTSDと診断された。そのときから障害の等級が上がり、障害共済年金を受け取りながら働くことになった。
 残業代がなくなり、短時間での勤務が基本となったために収入は大きく目減りして、治療費は家計に大きく響いた。でもそれは仕方のないことで、避けられないことであり、それだけで済むことだった。
 弓香は、影響を受けた。大学に説明をし入学を取り止めたいと申し出た。そして就職することを考え始めた。
 そのとき彼女の両親はその選択に大きく反対した。無理をすれば何とか大学に行かせることくらいできた。
 しかし彼女はその無理の部分を気にしていた。そして一度気にしてしまえば、動き出す気にはなれなかった。そうして時間だけが経過していき願書の提出期日が過ぎてしまった。
 最後は彼女が働きながら大学に行けないか模索すると言い、両親はそれを応援するという形に治まっていった。
 弓香は、本心では、大学に行くことなど無理だと、そう思っていた。学費を貯めるには何年もの時間が掛かるだろう。場合によっては二十代後半や三十代でという話にもなりかねない。そこから四年かけて卒業して就職しというのは現実的とは言い難かった。つまり嘘を吐いたのだった。
 彼女の就職先は近所に住む母親の友達から勧められて面接を受けた会社だった。歴史のある会社らしく評判も良くこの辺りにしてはきちんとした額の給与も支払って貰えるということだった。だから採用が決まったとき皆で安心をすることになった。
 弓香の仕事は覚えてしまえば単純なものだった。ラインに立って出来上がった加工食品の梱包をすることから始まり、材料の水洗いや下処理を覚えといった具合だった。ずっと採用に苦しんだ上に彼女の覚えも早かったらしく褒められた。
 ただ一つ、予想もしていなかったことは、弓香は入社してすぐ恋をしたことだった。それは突然のことだった。葉桜がまだ柔らかい季節に始まった。
 その会社で働くベトナムから来た青年に出会い、二人の感情は若さもあって一瞬で燃え上がり、そのまま一緒になることも約束していた。
 きっと二人の間に常に存在していた期限も焦燥を生んだ。青年は外国人実習生で在留期間の最後の更新が終わり、二人が出会ったとき彼に残された日本での時間は、あと一年なかった。
 それは始まった途端に焦らされるような恋だった。しかし始まった以上はその焦燥は抗えないことだった。抗えば抗うほど雁字搦めになって行くようだった。
 だから、弓香は約束をした。その約束とは彼女がベトナムについて行くということだった。そしてそれを両親に告げることになった。
 そのベトナム人の青年が弓香の両親を訪ね、秘密裏にそのことを告げたとき、そこに結論はあったと言える。
 彼女の両親は二人の考えを否定することはなかった。理由は主に二つだった。一つは彼ら自身に彼女の計画を怪我によって変えてしまったという負い目があった。一つはグエンが、そのベトナム人の青年が弓香を気遣って独白したことで、両親はグエンを直感的に信頼していた。
 「弓香は外国に行きたがっていたもんね。」という母親の言葉があった。それは父親にとって呟かれた音量に反比例して重たいものだった。
 初めて四人で話し、その会合が終わると、二人は彼の実習期間が終わったらベトナムで暮らすことに同意があった。両親は応援まではしなかったが許容はしたという感じだった。
 「それにダメだったら戻ればいい。」
 そう言葉にしてみると、二人にとってそれが真実のような気がして、素直に頷く弓香に安堵していた。
 望希が聞くに、弓香の両親には、彼女がわりと冷静に見えたのだという。

 

 七月の終わり、望希と弓香は帰省に合わせて時間を取った。直にあって話すのは三月以来だった。
 「じゃあ、結婚するの?」と望希は訊いた。
 「ううん。結婚はまだ。ただそれを前提で来年からとりあえず向こうで暮らしてみようかなって思っている。」
 「そっか。」
 とにかく驚くばかりだった。最初に人伝に聞いたときも信じられなかったくらいだった。
 二人が行こうと思っていた地元の喫茶店はつい先月閉店となっていて、国道沿いに唯一つだけあるファミレスに弓香の車で向かい話をした。望希は運転をする弓香に変化というものを感じとっていた。
 「つきは?」
 「え?」
 「大学はどう? それに誰かいい人はいた?」
 弓香は望希にそう聞いたが、彼女の答えは首を振るというものだった。
 望希はなぜか祐一のことを思い出した。彼女は弓香の祐一への好意は勘違いだったかとそんなことを考えていた。
 そしてそんなことを感じている間に、前まで弓香にあった心の壁のような印象が、きれいさっぱり消えていると気が付くことになった。
 「きっとつきにもいい人が出来るよ。」弓香は言った。
 それはきっといい変化だ、と望希が思った。弓香は大人になっていた。
 「大学での勉強はどう?」
 「まあ楽しいよ。」
 「そっか。」
 「どんなものか、行っていないと想像もつかない。」
 「うん。」
 「やっぱり新歓とかあるの?」
 「あったよ。でもあまり好きじゃなかったな。」
 「好きじゃなさそう。お酒とか飲まされるんでしょう?」
 「そんなこともなかったかな。そう言えば思っていた感じとは違っていたかも。みんな結構真面目というか。」
 「へえ。そうなんだ。」
 「うん。」
 それから二人は少しの間ドライブをした。久しぶりに町中を眺めてみるとたった数ヶ月で風景が彼方此方変わっていた。いつまで帰省しているのか訊くので、その週末だけだと教えた。それ以後はアルバイトの予定が入っている。
 弓香の仕事の話をしていると、ほんの一瞬だけグエンの話が出て来た。彼はとても真剣に黙々と働くという。お昼の時間だけ少し話すのだそうだ。
 望希は弓香が彼のことを話す仕草に新鮮な気持ちを抱いた。今までの眼差しは何処か苦しみのようなものを孕んでいたのだと分かった。
 望希は帰省している間にもう一度だけ弓香と会った。夏祭りの日だった。
 年々寂しくなる露店でたこ焼きを買い二人でシェアして食べた。こんなことが出来るのはもしかするとこれが最後かもしれないと望希は思った。
 「つき、こっち。」
 望希が弓香に手招きされ、二人で細やかな手筒花火を見たとき、つきと下の名前で呼んでくれる人がもういなくなるのかもしれないと、ふいに切なくなった。
 「正直に言えば、まだ現実感が湧かない。」
 弓香はそんなことを言っていた。望希にもその気持ちが分かって、立場が違うが同一のセリフで表現できる感情を持ち合わせていた。
 「行く前に会おう。」
 何回も、出来る限り会おうと、望希は弓香に約束した。でもその約束がなかなか果たせないものだということは知っていた。
 この夏が終わらなければと、望希は秘かに思念した。きっと次に会えるのは年末年始になるのだろう。

 

 それから望希にとって忙殺されるような日々が続いた。
 夏の間はアルバイトに追われ、秋になると学業で試験やレポートの提出が相次ぎ、季節の移り変わりと共に次第に残暑が和らぐように、身体の中にあった熱は冷め、ただ約束を思い返すだけになった。
 まるで生活の違う、距離を隔てた二人の予定を合わせるのは、気付くと至難の業になっていた。
 そんな折、望希はその秋に予想もしていなかった人と出くわした。街に一つだけある大型書店から帰ろうとしたとき祐一と道で擦れ違ったのだ。それは良く晴れた空気の乾いた日のことだった。
 祐一とは豪雨の後、彼が故郷を離れてから、一度も顔を見たことさえないくらい別々で、居場所の手掛かりさえない状態だった。
 そのとき祐一は望希を見止めなかった。気が付かなかったのかもしれないし、覚えていないのかもしれないと思ったが恐る恐る、彼女は祐一に近付いて声を掛けた。
 その風貌はかつての明るく活発だった祐一のものとはまるで違っていた。祐一はスーツを着ていたが、それは所々汚れたり解れたりしていて、その姿で働いているようには見えなかった。
 「祐一…?」
 望希は自分が彼のことを下の名前で呼んでいた。今までそんな風に呼んだことなんてなかった。
 「中島さん、か…?」
 祐一は望希の顔を見るとそう言った。夕暮れ時の街は少し騒がしく声が微かに車のクラクションに消された。
 そのとき、二人は連絡先を交換するだけで、何を話したということはなかった。でも同じ街、それももはや近所と言っていいくらいの距離しかないところに住んでいることは、どちらにとっても明白なことだった。
 初めて会ったのは、それから一週間ほどたってからだった。望希は祐一の部屋を訪ねて豪雨災害の後の話を彼から聞くことになった。
 祐一は父親が失業し夜逃げすることになったと言った。家族が逃げた先は大阪で父親は何とか仕事を見付けたが最低賃金で働かざるを得なくサービス残業ばかりの仕事だった。父親の収入と多忙を理由に両親が不仲になり、二人の離婚が決まるまで一ヶ月という短期間だった。それを切欠に祐一は母方の実家で暮らすことになった。その実家がこの近くにあるということだった。
 祐一は高校には行けなかった。祐一は中学卒業前から秘かに新聞配達などのアルバイトをして家計を支えていたらしい。大阪に言った後もアルバイトや非正規労働で家にお金を入れていたという。
 両親が離婚した後はなおのこと働かざるを得なかった。祖母は優しかったが母方の祖父は既に亡くなっており生活に余裕などなかった。それにその頃、祐一は造園土木業の仕事に就き、きついが体力のある自分に合った仕事だと思っていたらしい。
 祐一がその仕事を辞めざるを得なくなったのは会社が倒産したからだった。一度失職した後は母親が体調を崩しがちになっていたため残業の少ない仕事に就いた。それは携帯ショップの受付業で、半年ほどで母も体調が戻ったため祐一は一人暮らしを始めて、そろそろ元の仕事に戻りたいと、今仕事を探しているらしい。
 とても清潔で、学生が住むような部屋だと祐一は言うが、綺麗でくすんだ部分のない部屋だった。望希は彼の部屋に今の彼の投影があるように感じた。小さくてもしっかりとした、堅実で誠実なその性格を表しているような、そんな所だと思った。
 望希が自身の近況を告げると、祐一は同級生が皆大学生になる頃合いであるということに気付いて、妙に懐かしがっていた。
 彼女は一人一人、彼女が知っている範囲で同級生のその後のことを祐一に話した。祐一と仲の良かった面々のことを話すと彼の質問は留まることを知らなかった。
 「中島さんは、確か、弓香と仲良かったよね。弓香も大学生?」
 祐一が最後に訊いたのはそのことだった。望希は弓香が今働いていることと来年日本を離れることを教えると、祐一はほんの一瞬だけ無口になったように見え、そうなんだ、すげえじゃん、と笑った。
 「ってことは結婚するの?」
 「いや、結婚はまだ、でも婚約はした。」
 「そうなんだ。」
 二人は夕食を一緒に食べた後に別れた。祐一は普段から料理をしているらしくまだ家事の得意でない望希より遥かに上手く調理をこなしていた。
 それから、二人は一週間に一度ほど、彼の部屋で会って食事をするようになった。二人で料理をしながらお互いの近況を話して、食事が済むと時間が遅くなるまでそこで過ごした。
 望希は、祐一が本心から訊きたがっていることを訊かれるのを、ただ待っていた。弓香のことをもっと詳しく知りたいと彼が思っているだろうことは、最初にこの部屋を訪れ質問されたことから、簡単に読み取ることが出来ていた。
 しかし祐一は、一向にそんなことを訊こうとしなかった。その心の中で何が起こっているのか、望希には具体的には想像できなかったが、そこにある恐怖心というものは、なんとなく分かった。
 そもそも、望希は祐一を傷付けたいと考えていた。彼が自分の恋心が叶わないと知り自分や運命に失望する顔を見て、彼女はそれを優しく慰めるつもりだった。
 それだけ卑怯な感情を、望希はいつの間にか持っていて、いつしか芽生えた心の根底にある彼への好意や欲望を、彼に弱みに付け込んでも、発散したかった。
 祐一はそんな望希を知ってか知らずか、当たり障りのない言葉や行動を繰り返すばかりだった。
 「『つき』と呼んで。さん付けではなく。」
 望希がそう願った日、祐一は自分で自分をずるい奴だと、躊躇っていた。そして彼女に興味がないのだと告げた。
 「そんなことは、分かっているよ。」望希は言った。「祐一が弓香のことを考えているって。それでもいいの。」
 そこには肯定も否定もなかった。そんなことは出来ない、と祐一は言いそうで言わなかった。いや確かに言い掛けたが、言おうとはしなかった。
 望希にはそこに隙があるだと理解できた。きっと心の中で望希と弓香を比べている。しかも一人はもう三年以上会っていなくて、そのうえベトナム人の婚約者と一緒に日本を離れようとしている。
 彼はそんな隙を、彼女に見せているのだと、手に取るように分かった。

 

 その秋は例年に比べて寒くなるのが早かった。残暑が和らぐと一瞬で空気は凍り付き、紅葉した木々はほんの一週間も待たずに肌を晒され、吐く息が白んだ。
 望希は冬期の試験が始まる頃、初めて祐一に身体に手を触れられた。彼が暮らす部屋に行き、いつものように料理をしているとき彼が鍋を溢し、誤って熱い鍋を腕に受け止めてしまったのだった。
 二人は風呂場に行き、彼の腕を洗い冷やした。幸い火傷は軽度のものだったが、腫れが引くまで流水に充てなければならなかった。
 望希が祐一の腕をつかみ、蛇口まで引き寄せると、そのよく日焼けして筋肉質な肌が自分のものとはまるで別物のように感じた。
 祐一は造園の仕事に復帰していて、毎日太陽の下で汗を流して働いていた。
 「痛い?」と聞くと首は横に振られた。
 望希は気付くと、祐一に手を握られていた。冷たい水のせいで少し温度を失った掌が少しずつ熱くなっていくのが分かった。
 だけど、それ以上のことはなにも祐一はしようとしなかった。ふいに目が合うと我に返ったように手を放してしまった。
 「つきは、あの町を離れて、こっちでずっと暮らすのか?」
 その日、望希はそんなことを訊かれた。まだ未確定なことの多かった彼女にとって、返事ははっきりとさせられないものだった。
 「うん。たぶんそう。」
 「だぶん?」
 「なんというか、現実的には思えないから。」
 あの町に戻るのは、想像もできない。それが望希の本音であり、おそらく訪れるだろう未来のすべてだった。でも戻りたくない訳ではなかった。
 「そうか。」
 期末試験を終えると望希は弓香と連絡を取り、年始に会う約束を取り付けた。祐一も誘ってみたが彼は夜逃げした手前、顔を見合わせるのはバツが悪いようだった。
 祐一の生活は、望希から見ればなにも負い目を感じるようなものではなかったが、彼自身はそれをとても貧しく劣ったもののように捉えている節があった。それに高校に行けなかったことも気にしているようだった。
 弓香はベトナムに一度行くのだと言った。引っ越し先を探しにグエンの生まれた町に滞在するのだ。その町はハノイの外れにあった。
 「ハノイってどんな所なの?」
 望希は海外旅行もしたことがなかった。そしてそれは弓香も同じでどんな場所なのか人伝の情報しかなかった。でも弓香は理想に適うような場所ではないとグエンから聞いているようだった。インフラ整備や経済発展において此処とは比べ物にならないという。特に彼の住む場所はハノイから離れていて都会とは言えないのだそうだ。
 「もしグエンと一緒にその町に行って、私たちの気持ちがお互いに変わらなければ、このことを会社にも伝える予定でいる。」
 グエンは弓香の心変わりが、かなり現実的なものとして考えているようで、いくら否定してもその可能性に言及し続けているのだという。
 「まだ入って一年。滅茶苦茶なことをしている。確かにそう言われれば滅茶苦茶過ぎる。正直に言えば、自分は冷静じゃないのかもしれない。」
 二人にはそんな不安が付き纏っていた。それを拭い去れればいいと願っているようだった。
 望希は年末に故郷であるその町をひたすら歩いた。歩きながら祐一のことを思い出したり、弓香のことを心配したりしていた。
 彼女の記憶の中の情景は、今とは別世界のような、そんな気配があった。それもそのはずで当時そこに在った物や人はもはやどこか別の所に行ってしまっていた。
 かつて訪れた場所、商店街、駄菓子屋や文房具店、書店、道路は舗装され直し、廃屋や廃ビルが草木に覆われ、単身者用のお城のようなアパートが建ち、アパートの向かいの公園ではサッカーをする外国人がたくさんいた。
 ここは確かに故郷だったが、もうすっかり変わり果てて、まるで別の街や国に迷い込んだようだった。
 望希は商店街の一画で立ち止まった。豪雨災害被害者の会という看板が立てられていて、一つのこぢんまりとした事務所がそこにあった。
 それは彼女が町を出る前からあったが、以前なら気にも留めずにいたものだった。事務所はもう機能していないようで中を覗いても人気はなかった。
 イラク人の被害者は結局救われたのだろうか。今何処にいてどの様にして暮らしているのだろうか。
 私たちは無名の存在に、なぜこうも無関心なのだろう。そして無視した無名の存在を一つの縄で括ってカテゴライズして分かった気になっている。
 望希はそんなことを思って年末年始を過ごした。弓香と次に会えるのはおそらくお別れの直前になることだろう。
 祐一のことは、弓香に秘密を保ったまま、あるいは一生涯に亘って話されることはないだろう。
 そもそも、望希は彼との関係が成就したとしても、短期的なものになるような予感があった。
 いや、違う。望希は祐一に抱かれてみたかったが、結婚などしたくはなかった。それが幸福な結果に繋がらないと考えるのは、まさに負い目を抱いている男の個人の特性でしかなかった。
 人は良い、屈強で精神力があって、それ故に魅力的で性的であって、それだけだった。それは欲望の対象にはなったが、安定の材料にはなりそうもなかった。
 つまり、望希は祐一を見下していた。そして彼が彼女の誘惑という餌に食らいつかないことを、隙を見せいつでも襲われてもいいと思っているのに何もされないことに、焦らしのような恨みのような、そんなものを抱いていた。

 

 「やっぱり彼といたい。」というのが弓香の別れの言葉だった。
 ベトナムには予定通り出立し、会社を退職する際には残念がられると同時に、僅か一年で退職することを迷惑そうにされたらしいが、二人共そんなことは眼中になかった。
 「幸せになってね。」と望希は言ったが、本当はいつ戻ってきてもいいと、そう考えていた。
 「うん。」
 それだけが弓香の返事だった。弓香は望希に反して素直だった。望希は何故だか弓香に負けた気がして黙った。
 望希が初めて祐一に抱かれたのは、弓香が出発した次の週のことだった。そのことを告げると彼は苛々したような表情を見せ、その敵意を証明するみたいに彼女に覆い被さった。
 祐一の身体は握られた拳のように硬かった。まるで真っ直ぐで歪みのない心を表しているようで、望希は自分がじめじめと陰湿な存在であるような気がしてしまった。
 「泣いているのか。」と祐一は耳元でささやいた。
 望希は首を振るだけで、何も返事らしい返事はしなかった。
 泣いてはいない。悲しんでもいなかった。でもそれに似た感情であり、より悪意的な思いが混じったものだった。
 そうして夜が明けると、望希は二度と祐一とは会わなかった。祐一がそもそも彼女に連絡をしようとしなかったし、思えばある時を境に望希から連絡する以外に遣り取りをしたことがなかった。
 何故だろう。会わなくなってみると忘れるのは早かった。
 望希はその後、自分の進路を決めた。役所に勤められないかと地方公務員試験について調べて勉強を始めた。
 そして望希が大学四年生になる頃、弓香がグエンと結婚した。彼女は卒業旅行も兼ねてベトナムに行くことを計画し始めたが、友人たちと多数決で負けてしまい、別の場所に行くことになった。
 彼女は市役所で働き始めると、忙殺されるように旅行など行けなくなった。弓香とは時々連絡を取り合ったが、それは味気のない内容に終始してしまった。
 そもそも話すことが違うのだ。味わっていることも違い過ぎてお互いが別の物語を読んでいるような会話にしかならなかった。
 望希は、何年かが経つと、途端に祐一のことを思い出すようになった。だけどもその懐古は我儘な感情のためでしかなかった。
 ただ、もう一度だけ、と思って連絡をしてみると、その電話番号はもう使われていなかった。離別というものが、本当の意味で現れたのは、それが所有者不在の電話番号であると告げる電子的な音声の再生の瞬間で、私たちは別々になったのだと、そう悟った。
 こんなことなら、と望希は思った。
 「こんなことなら、もっと別の選択をしておくべきだった。」
 彼女の言葉は呟かれれば虚しくつまらないものだった。まるで息が詰まりそうにくだらないものだった。
 二人には、あの町に帰れない理由がある。そんなことを望希が羨ましく思うのは、臆病なことでしかなかった。
 望希は自分がいつの間にか逃げられない場所に迷い込んでしまっている気分になった。そして言い知れぬ何かに圧迫されたような生活がそこにあった。
 私は上手く逃げたつもりだった、そう望希は思うとそれこそが逃げられなかった理由のような気がして言い訳みたいに、せめて二人が逃げ切れるように、と願っていた。


(了)

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