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生きづらさと今日の私

みんな〜、ご自愛くださってますか〜?

私は今風呂に入っている。
10袋くらいあったラベンダーの香りの入浴剤ラスト一包。こんなに臭かったっけ?
鼻が曲がりそうです。

ここ1週間ぐらい喉の調子が悪くて、歌を歌うと咳が出てしまいます。
頭の中はいつもぐちゃぐちゃで自分の気持ちを整理するために曲を作るのですが体調のせいでそれもうまくいかず、モヤモヤした日々を過ごしております。

それに加えて悲しいことがたくさんありました。
人を嫌いになってしまったり、逆に人を傷付けてしまったり。
今だって風呂場の電気が切れていて窓から入る外の光だけで文字を打っています。
夜になったら湯船に浸かってゆっくり、なんてできませんね。
やりたいことをやりたい時にできないのはとてもストレスになります。

私は我慢すべきこととそうでないことの判別がとても苦手です。
これには理由があります。
私はとても自分に自信がない。
正確に言うと無かった、という感じです。
長いようで短い人生の中で少しずつ身につけていった小さな自信を、大きく見せながら生きています。

私は昔から、本当の自分よりも少し良い状態で見てもらえることが多いです。
それのおかげで過度に期待をされ、力及ばずガッカリされたり。よくしてました。
やりたくないことを「やれ!」と言われただけでやることができず、期待を裏切ってしまうことが多かったような気がします。

理由がわからないことを納得できないままこなすことが幼い頃から苦痛でした。
言葉ひとつで他人をコントロールしようという傲慢さに、幼いながら怒りを溜めていました。

そんなに従わせたいのなら納得するまで説明してくれればいいのに。と思っていたけど、訳のわからないガキ1人にそこまで時間を割ける大人が周りに1人もいなかったので、生きづらさだけが蓄積されていきました。

幼い私はそれらを『誤解』だと認識し、理解されない苦しみの中捻くれながらも一生懸命生きてきました。

少し大人になった時、嘘の自信を纏うことにしました。『誤解』を逆手に取ろうと思ったのです。
自分の生きづらさと向き合い始めた瞬間です。

しかしとても悲しいことが起こっていました。
気付かないうちに、本気で生きることができなくなってしまったのです。
何に対してもすぐに諦めるようになってしまいました。

これは堕落のつもりはなく、恐れです。

生きづらさを抱え、自分自身を否定され続けるのは幼い心と身体には耐え難いものでした。
寄り添ってもらえない悲しみはいつしか諦めに変わっていきました。

私は自分自身を社会に溶け込ませることで身を守ろうと決意しました。
要するに他人に合わせることで立場を確立しよう、悲しみを減らそうと思ったのです。

それは根本の解決になるはずもなく、小さなヒビが入り続けます。
そのヒビを上から塗り固める。その繰り返しです。
当然追いつかなくなります。社会というものはとても大きく、そんなに甘くないから。

塗り固められず放置した小さなヒビたちがやがて大きな亀裂になり、ついにはガラガラと音立てて崩れ落ちていきます。

そうなったとき、剥がれ落ちたものの内側には何があるのだろう?
そこには幼さを残したまま腐り始めている本来の私だけが残るのです。

それはとてもグロテスクで直視したくないようなものです。

私に残された選択肢は1つ。
そのグロテスクな塊を恐れず曝け出し、強くかたくそして丸くしていくことだけです。
川を流れる石のように時間をかけて形を変えながら自分というものを作り上げていくのです。

最近悲しいことが沢山あったと言ったけど、いいことも沢山ありました。
そのうちの一つの話をします。

他人に頼ることを覚えました。

先程も書かせていただきましたが、私は全てに対して諦めの姿勢を向け続けていました。
そのせいで誰かに頼ってもどうせ何も変わらない、望むものは与えられない。という考え方になっていました。

だからこそ他人に期待しないよう、頼らないようにしてきたつもりでした。
しかし、だからこそ、いざという時他人に頼ることへの期待が、大きな風船のようにどんどん膨らんでいってしまいました。

それは私にとってタブーのようなものになっていました。
辛くどうしようもなくなったときのために、鍵をかけてしまっておくことにしました。

そんな私に転機が訪れます。頼ってくれ、という人が現れました。

心の底から心配してくれる人が私のそばに立っているのです。
悲しみや苦しみが自然と解けていくことを肌で感じました。私の人生の中に新しい幸せが舞い込んできたような感覚です。
少しだけ、許されたような気持ちになりました。
私はそれに埋もれながら今までの苦しみを溶かしていきました。

気付けばそれはまた別の苦しみを呼び寄せました。

私は何もかもがわかりません。他人を頼るということがどういうことなのか、全くわからないのです。

結果的に沢山の人を悲しませてしまいました。
私は初めて舞い込んできた幸福とその材料を、自分の愚かさで全て無駄にしてしまったことに泣きました。
泣いていても変わりません。でも、どうしたらいいのかわからないのです。

しかし私はもう、誰かに寄りかからないことも難しいぐらい不安定になっていました。

幼い頃から強い川の流れの中で必死にもがいていた私は周りが見えなくなっていました。

小さな溝にはまったとき、ふと目線を変えてみます。
すると、私が恐れていたことやタブーとしていたことを、当たり前のように繰り返す人が山のようにいるのです。私は驚きました。

驚いたのはそれだけではありません。私の目に映るそれらは、全く悪には見えないのです。
私が悪として抑えつけてきたこれらは一体なんだったんだろう?どうしてこんなことが起きているんだろう?と、純粋に不思議に思いました。

気付けば少しずつ、自分と他人の差異に苦しみました。
何もかもが違って見える。もう手遅れなのかもしれない、と思いました。
広い海に繋がっているはずなのに、もうこの川はここで終わりなのだろう。と思ってしまいました。

死んでしまおうと思いました。何度も思いました。
でも私は死にたくなんかないんです。
生まれてきてごめんなさい、生まれてこなければよかった、なんて思いたくないんです。

他人が勝手に創造した私の命を救えるのは私だけ。だから私が私を否定してしまうのはおかしなことです。自分の首を自分で締めてしまっているようなものです。

もう八方塞がりな気がする。
でも私は取り戻したい。見たい未来がある。
本当は死んでしまいたくなんかない。


最終手段を使おう。今使おうと思い吐き出しました。助けてくれと言いました。

なるべく近い存在、家族や親戚。
あとは少し遠い存在。今まであまり喋ったことのない友達や、少し遠ざけてしまっていた人たちに縋るような気持ちで、助けてくれと言いました。

すごく不思議な気持ちになりました。誰も助けてはくれないんです。
でもすごく心配して、すごく寄り添って話を聞いてくれるんです。
本当にダメになったら助けてあげるよ。と言ってくれるんです。
甘えたいけど甘えてはいけないことが、自分でも驚くほど自然にわかりました。

『自分を救えるのは自分だけ』という言葉を、今まで履き違えて解釈していました。

望むものを与えるのは自分の役割であり、その過程の為なら、他人に少しだけ寄りかかっても良い。少しだけ他人に何かを求めてもいい。
でも、そこに感謝は忘れない。

全ては自分で決める。自分で自分を助ける。
他人から差し伸べてもらった手に縋り、しがみ付くのではなく、手を引いてもらい少しずつ前に進む。
そういうことなのかもと思いました。


『幸福は相対的なもので無く、絶対的なものであるべきだ。』
一つ、返ってきた言葉で印象に残っているものです。

意味がわかりません。幸福にも種類があるの?

『他人と比べて幸せかどうか、ではなく自分自身の幸せを沢山増やしていくこと。』

うーん、?

『大切なことは、飯を食ってうまい!風呂に入って気持ちいい!等、絶対に変わらない幸せである。
幸福の指標をそこに持っていくこと、それに近しい自分なりの絶対的な幸せをなるべく多く見つけること。
それが自分の絶対的な自信になる。』

そこまで聞いて、少し納得しました。
ああそうなのか。それでいいのか。

自分が生まれた時から自然に感じてきた幸せを、当たり前だと思わず大切にしてもいいのか。と思いました。

私の気付きは殆ど全て、自分を許すことに繋がっていると考えています。
自分自身であれはダメ、これもダメ。と気持ちや行動に制限をかけ続けてしまっているような気がします。
だから○○してもいいんだよ。と許しの姿勢で語られると、素直に心に入ってきます。

沢山の人と話して私は少しだけ大丈夫になりました。
状況は殆ど変わっていないはずだけど、私の心は90度くらい変わりました。

この心の変化が自分を救うのかもしれない。と思いました。
しかし心の賞味期限はとても短いです。また少しずつ腐っていきます。
そんな時また誰かに少しだけ寄りかかったりしてもいいのかもしれない。そうやって自分の心を守っていくものなのかも。そう思いました。

『こんなこと、自分にとって都合のいい人間を利用しているだけだろう。』
昔の私ならそう思ってしまいます。
でも今は自分でも不思議なくらいそんな考えは浮かびません。

ほんの数週間前まで怖くて仕方がなかったこと、ズルで卑怯だと思っていたこと。

やってみたら案外平気だった。とはまた少し違った感情です。

こんなことを繰り返して自分自身が構築されていくのだろうと思います。


大好きで大切な友達はそよ風のようです。
私のことを大きく柔らかく包んでくれます。
ずっと私の人生に、生きていてほしいなと思います。

大好きな音楽は私に寄り添ってくれます。
真っ直ぐな言葉と歪んだギター。心地よいリズムが私の心臓の周りにかかる黒くて濃い霧を、細く長い血管のように変えてくれます。
その霧は列をなし、身体中を駆け巡ります。
モヤモヤした気持ちは私を蝕む悪いものから私を構築するものの一つになるのです。

情熱を向けられるものが少しずつ増えました。
大嫌いな人間やどうしても許せないこと、それに加えて理由の少ない好きという感情です。

好きという感情を恐れていました。
理由のないことは嘘であり、建前であると思っていました。
私が納得できないことは全て嘘だと思っていました。
それがまた私を少しずつ抑えつけていました。

でも、好きならそれでいいみたいです。
人に限らずですよ。全てに対する好き。
その気持ちを大切にしていいみたいです。
いても立ってもいられなくなってしまうようこと。そのためなら少しだけ頑張れること。
理由なんかなくてもいいし、誰に何を言われてもそれを抑え込む必要はないみたいです。

色々なことを教えてもらったら、自分の人生に他人が介入することが少なくなると同時に怖くも無くなりました。
自分が太い柱のように立っていて、そこに沢山の人からの愛を受け取り、抱えながら育っていく。そんなイメージが持てました。

傷付けてしまった人たちへ、ごめんなさい。
大好きで大切なはずなのに、幼く我儘な私があなたを泣かせてしまったことを深く反省しています。
変わりたいのに変われないことがとても苦しいです。
でも諦めないことにしました。

優しくしてくれた人たち、本当にありがとう。
友達や血の繋がった人間に対して、存在してくれていてよかった。と心から思ったのは本当に久しぶりです。
私自身を受け入れてくれる人がこんなに沢山いるのか、と思いました。

きっとこの人たちは私が死んでも私を、そして自分自身を責めないだろうな。と思えた時に少しだけ楽になりました。

それでも無条件に私を大切に思ってくれることに安心しました。
それと同時に、1番寄り添おうと奮闘してくれたあなたに謝りたいと思いました。
ありがとうと言いたいと思いました。

私は私の好きなものや大切なものを、本当の意味で大切にできるように頑張りたいです。


これは、今日の私です。
いつか変わるかもしれない私。明日にはいなくなってしまうかもしれないけど、今の私はこんな感じ。

歌にできないから長い言葉にしてしまってごめんなさい。頭の中がスッキリしたような気がします。

生きづらさはきっと変わらないけど、少しずつ自分を受け入れて許してあげたいなと思いました。

もしここまで読んでくれた人がいたら、とってもとってもありがとうございます。

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