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2018/8/31

さくらももこさんが亡くなったらしい。名前を知っている有名人の訃報を聞くと、時は経つものだ、という当たり前のことを実感する。元号は変わるし、ネットでは北川悦吏子や野島伸司の脚本が時代錯誤だとたたかれている。かわいそう。

わざわざ言及すべきではないかもしれないけれど、さくらももこに関して、他の同世代ぐらいの人と比べてもほとんど感慨がないと気がついた。幼稚園生の頃クラスメートに『おジャ魔女どれみ』のハンカチを見せられて「どのキャラクターが好き?」と聞かれたときのことを思い出す。よく知らなかったので、勘で「すみれちゃん」と答えたら「そんな子いないよ……」と困っていた。コミニュケーションの手法に問題アリなのは置いておいて、みんなが当たり前に触れてきたコンテンツになぜか自分だけ馴染みのないような、そんな感じは昔からである。みんないつの間に観たり読んだりしているの?

この間映画好きの知人と話していたら「変わってるねぇ」と言われたのだけど、キューブリックで唯一見たことあるのは『博士の異常な愛情』だし、黒澤明だったら『酔どれ天使』。ちなみに手塚治虫だったら『ノーマン』で森見登美彦だったら『恋文の技術』である。

なんで代表作から外れたところしか知らないんだろう。なんとなく自分の情報感度のようなものが不安になる。エルレガーデン、というバンドが復活して少し前に話題になったけれど、同年代の人たちの盛り上がり具合に反して「エ」の字も知らなかったので、持ってる情報がこんなにも違うのかとかなりびっくりした。今日ははてなダイアリーのサービス終了で盛り上がっていたけど、初めて聞いた単語だった。みんないつの間に……(その2)

じゃあみんなが「朝の読書の時間」にさくらももこや重松清を読んでいる間、何をしていたんだっけと考えたら、そうだ、祖母の家から持ち出して、かつては伯母のものだった赤川次郎を読んでいたのだ。お気に入りは『親しき仲にも殺意あり』。やはりマイナーである。『三毛猫ホームズ』シリーズも随分読んだ。……親に本を買ってもらえていなかっただけでは?

同年代の人たちと記憶のとっかかりの場所が異なる分、自分が見聞きして、抱いたはずの固有の感情をこうしてそれなりに丁寧に拾って書きつけておきたいなと改めて思うわけである。自分自身の曖昧な記憶力も方向感覚も許していくという気持ち。夏の終わりを寂しがりながら、秋服を買う。遠くへ行きたくなったら行けるところまで行ってみる。なるべく照れずに写真を撮る。嫌いな人とのご飯は断る。そういうのと同じ。

#日記

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