女体

「ありゃ、修くん。作ってくれたの、これ」
望美は、裾を踏んでしまいそうに丈の長いネグリジェを、呑気にひらひらさせながらフライパンのうえの炒飯を指さした。
「さっき自分で作ってたじゃない。忘れちゃった?」
私がそういうと、望美は小首を傾げ、フライパンの上の炒飯を指ですくってひとくち食べた。
「確かに、私の味付けだね」
記憶喪失と言えばいいのだろうか。いや、イメージとしては二重人格というのが近い。本物の方の望美は料理なんてできない。

ある日、二人で出かけた帰りに望美を送り届けていると、マンションから煙が上がっているのが見えた。望美の部屋だった。消防車を呼んだはいいものの他に為せることもなく、避難してきた他の住民と野次馬たちがぼんやりしているところだった。
望美は部屋へ向かいたがったが、周りの人々と共に必死で止めた。危険だし、もう部屋の中のものをどうしようもないのは明白だったからだ。一番大切なものは紛れもなく命である。しかし私にとってはそうでも、望美には違ったのかもしれない。消防車が到着し、消火活動が始まった。いつもは冷静で、明るく、微笑みを絶やさない望美が終始ぐちゃぐちゃに泣いて、何度か嘔吐した。背中をさすってやっている私の優しさなど、彼女にとってはあってもなくても変わらないものだった。火事の原因は、放火だということだった。

望美は私の家で一緒に暮らしはじめた。火事現場ではショックを受けていたものの、すっかり落ち着いてもとの明るさを取り戻しているように見えた。実際無理して振舞っている気配もない。
ただ、ひとつ変わったことがあった。望美は自分の力では一睡もできなくなってしまっていた。
夜は強めの睡眠薬で無理矢理ねむる。副作用が強いらしい。目が覚めても意識がはっきりするまでに時間がかかる。つまり、寝ぼけている間にはもう二度と火に近づけないはずの望美が料理を始めるようなことが起こりうる。入眠時も同様で、とにかく薬が少しでも効いている間は別人格が現れたかのような行動をすることがあって、薬が切れてしまうとそのことを本人は覚えていない。

外出着に着替えてきた望美はなんてこともなさそうにもう一人の自分が作った炒飯を食べ始めた。
「私さ、ネグリジェのまま料理してたってことだよね」
「そうだよ」
「今度やってたら注意しといてよ」
「うん」
私も炒飯を一緒に食べる。望美にはとても言えないが、彼女が作ったごはんをこうしてたまに食べられると嬉しい。
「今日はなにするの」
私が聞く。
「仕事探す」
「無理しないでね」
望美は返事をする代わりににっこりと微笑んだ。前に進もうとしているのだ。もうほとんど元通りだよな、と思った。

夜、私が仕事から帰ってくると、望美は寝る用意を済ませたあとらしく、ネグリジェ姿でリビングでテレビを眺めていた。
ふと構って欲しくなって、ぴったりと隣に座ってみる。
「どうしたの」
答えず自分の頭を望美の肩に預けてみると、反対側の手で撫でてくれた。
「疲れちゃった?」
そういえばあの日から望美に触れていなかった。望美の背中をいくらさすってもなんの反応もなかったあのときの、途方のなさを思い出したくなかったのかもしれない。
抱き寄せると望美の身体がピクリと反応するのがわかった。良かった、と思った。
ベッドに移動して、望美をそっと押し倒しキスを浴びせる。背中をぐりぐりとなぞってやると普段は出さない甘い声を漏らした。その声で修くん、修くん、と私を呼ぶ。昂ぶっているときの望美の癖だ。望美が私の身体に手を這わせる。私も望美の喜ぶところすべてを触ってやる。望美、と呼ぶとビクンと反応する。互いの息遣いが荒くなっていくのがわかる。
「ね、もう、ほしい」
望美はすっかり主張しきった私のそれを擦っておねだりをした。私も限界だった。避妊具を装着していると、おや、と思った。望美がトロンとしている。性欲のせいではない。睡眠欲のそれであった。
「眠い?」
思わず声が低くなる。望美はコクンと頷く。
「睡眠薬、もう飲んでたの?」
望美は再び頷いた。
ああ。しまった、と思った。
私が抱いているこの女は、この、本物じゃない方の望美は。
望美ではないこの女は、一体誰なんだろう。

#小説

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