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小説を書くはなし~#フォロワーが5秒で考えたタイトルからあらすじをつくる のこと~

4月の末のこと、ツイッターのタイムラインに「#フォロワーが5秒で考えたタイトルからあらすじをつくる」というタグが流れてきて、これは小説を書くためのいいトレーニングになりそう! とおもってわたしもやってみることにしました。6月13日にぶじに完走しましたので、実際に書きあげたあらすじについて振り返っていきます。

振り返りのまえに

このタグに取り組むにあたり、下記のルールを設けていました。

①「このあらすじで実際に小説を書いてください」と言われても大丈夫なようにあらすじをつくること
②原稿用紙30枚~50枚の短篇小説になるように考えること
③あらすじは750字~800字で結末まで書くこと(レイアウト上の例外を認める)

140字で書いて秒で返す、という大喜利のような即興性も捨てがたかったのですが、背筋を正したかったのと、ある程度負荷をかけたほうが楽しい・燃える・スキルアップにつながると感じる性質の人間なのでかっちりめに取り組むほうを選びました。ちなみにルールのベースとなっているのは、12年前、大学1回生のときに受けていた必修授業(※)です。

(※通称「百讀」。1回生の4月から翌年1月までのあいだに学科指定の課題作リスト100タイトルのうちから60タイトルを読み、750字~850字であらすじと評を書いて担当教員(とても厳しくて怖がっていた学生も多かった)に提出する。最近はカリキュラムや担当教員が変わったのでもっと優しく/易しくなっているかもしれない。)


Ⅰ あかい庭で待つ

藪透子さんからいただいたタイトルは「あかい庭で待つ」。ぱっと思い浮かんだのがGARNET CROWの楽曲「dreaming of love」に出てくる〈紅い~花の行く先は 投げ捨てられたの〉という歌詞で、このフレーズに触れるとガルシンの『紅い花』を読まなきゃなあといつもおもいだします(おもいだしすぎるのですぐに忘れる)。おもいだしついでにガルシンの『紅い花』のあらすじを調べてみて、じゃあ悪意のはなしを書いてみようとおもったのでした。

文体は誰とまでは決めていないけれど文豪のイメージです。モチーフ(悪意の種/瘡蓋になりきらない傷の湿りのようにじゅくじゅくと)からおもいついたので青年と屋敷の娘が仲を深めるまでのストーリーを組み立てていくのに苦労したのと、〈待つ〉という切なさ・寂しさのある語をどうやって取り入れるか最後まで悩みました。ちなみに〈どうしたってあなたを愛しているから〉の〈どうしたって〉は堀辰雄の「風立ちぬ」を意識しています。

……「節子! そういうお前であるのなら、私はお前がもっともっと好きになるだろう。私がもっとしっかりと生活の見透しがつくようになったら、どうしたってお前を貰いに行くから、それまではお父さんの許に今のままのお前でいるがいい……」そんなことを私は自分自身にだけ言い聞かせながら、しかしお前の同意を求めでもするかのように、いきなりお前の手をとった。

堀辰雄「風立ちぬ」(『風立ちぬ・美しい村』より/新潮文庫/1951年発行)


Ⅱ おじいちゃんの成長

にゃんしーさんからいただいたタイトルは「おじいちゃんの成長」。最初に思い浮かんだのは映画の予告映像(白いタンクトップを着たおじいちゃんが「ハァ!」とか「ふんぬ!」とか言いながらトレーニングをしていて、最後に優しい感じの男のひとの声で「おじいちゃんの成長」とタイトルコールが入る)だったのですが、それだとストーリーがまったく組みあがっていかなかったのと、このタイトルでおじいちゃんを出したらそのまますぎるのではないかという葛藤があり、若者が老人を演じるはなしになりました。いかにも怪しい依頼なのになぜ応じてしまうのか、なぜ阿久津家がこんなことをしているのかという部分でどう説得力をもたせるかを考えていくのが楽しかったです。文体はアクの強い、意思をもった三人称の語りを想定しています。獅子文六の『てんやわんや』や三島由紀夫の『命売ります』、大江健三郎の「孤独な青年の休暇」のようにすこし足を突っ込んだだけのつもりがいつの間にかずぶずぶとはまってしまって逃げられなくなってくる雰囲気を意識しながらあらすじをつくりました。


Ⅲ スンドゥブが煮えてる

ひざのうらはやおさんからいただいたタイトルは「スンドゥブが煮えてる」。タイトルを見た瞬間に〈「あたし」には十年ものあいだ別れられないでいる彼氏がいる〉という一文とぐつぐつと煮えたスンドゥブを見て泣く場面が降りてきたので、つまりそういうはなしなのだなとおもって進めていきました。いや、愛もなく十年も付き合うのはおかしいのでは、と疑問を抱きつつ、『深夜のダメ恋図鑑』という漫画の佐和子と諒の関係に近いのかもなあともおもいます。

一番難しかったのが「あたし」がジュンと別れられない理由でした。結局こういうところがすきなんだよねなんていって別れられないはなしになるのは甘えていて嫌だし、とはいえそれなりの理由がなければ十年も関係を続けることはない。最終的に、お前と別れたら俺は死ぬ、のようなかたちに落ち着いたのですが、このジュンの主張だけだと弱いので、実際に書くときに「あたし」の性格と感情の流れをうまくつくりこんでいく必要があるなあと感じています。文体は舞城王太郎さんの『阿修羅ガール』や綿矢りささんの『勝手にふるえてろ』のようなすこしやけくそ気味で正論を言おうとする強い言いまわしをイメージしています。というか、ひさしぶりにページをめくってみたのですが、『阿修羅ガール』の書きだしめっちゃよくないですか。

 減るもんじゃねーだろとか言われたのでとりあえずやってみたらちゃんと減った。私の自尊心。
 返せ。
 とか言ってももちろん佐野は返してくれないし、自尊心はそもそも返してもらうもんじゃなくて取り戻すもんだし、そもそも、別に好きじゃない相手とやるのはやっぱりどんな形であってもどんなふうであっても間違いなんだろう。

舞城王太郎『阿修羅ガール』(新潮文庫/2005年発行)

ちなみに今回のあらすじでは、ひと息でばあっと喋る「あたし」を表現できないかと試しに読点を使わずに書いてみました。効果的だったのかはわからなかったけれど書くぶんには楽しかったです。


Ⅳ トンネル・ダンス

泉由良さんからいただいたタイトルは「トンネル・ダンス」。ともだちではない女子高生ふたりがふらっと会って話す、名前は千佐都とエヌでどちらも本名ではない、いや、千佐都は本名かもしれない、エヌは煙草を吸っている、そのことに千佐都は気づいている、いや、気づいていないほうがいい、千佐都は社会人かもしれない、エヌはクラスメイトをいじめている、エヌは生まれなおしたい、ふたりは深夜のトンネルに行く、エヌがふざけて踊る、ふたりは胎内めぐりをする、エヌがふざけて千佐都の手を離す……と、設定や場面がふわっとおもいつくものの、ひとつのストーリーにまとまっていかなくて苦労しました。生まれなおす=アカウントを消す、をおもいついたときにやっと必要なモチーフがつながっていった感触があって、このようなかたちになりました。文体は保坂和志さんの『プレーンソング』のような、正しい順序で物事を描写する、するすると流れていくようなイメージで、大島真寿美さんの『チョコリエッタ』、映画『裸足で鳴らしてみせろ』などのふたりでどこまでも行けてしまいそうな安心感や危うい雰囲気も醸しだしたいところです。


Ⅴ 夜明けのアポトーシス

たけぞうさんからいただいたタイトルは「夜明けのアポトーシス」。アポトーシスとはなんぞや、とまずは調べるところからはじめてみて、一日で生まれたり死んだりするはなしにしようとおもいました。そして、たけぞうさんが他のかたと二人称がどうのこうのとやりとりされていたのを見たような気がしたので、じゃあ二人称小説にしようと決めました。二人称小説といえばリチャード・ブローティガンの『西瓜糖の日々』で、透明感があって、かつ、裏でなにかがうごめいているような世界観がいいなとおもったので、「きみ」がひとりでに一日の人生を繰り返しているのではなく、「ぼく」が「きみ」を何度も殺して(何度も生き返らせて)いるはなしにしました。

あらすじの書きかたについては、最後の1タイトルだったので変化球を投げようとおもってゲームの紹介ページ風にしました(先述の必修授業の課題もある程度数をこなすと自由に書いてもいい、むしろ自由に面白く書けというお許しが出ます)。物語の全貌がこれで伝わりきるという自信はなかったのですが、結果的には表向きは綺麗なはなしだけれどよく見ると裏がわで恐ろしいことが起こっているという構造をニュアンスでふわりと示すのに適した書きかただったのかなとおもいます。ゲームの紹介文っぽく書く・雑なレビューっぽく書く・理解しているようで曖昧なことしか言っていない長文レビューっぽく書くといった、っぽく書く、がすごく楽しかったです。文体は上橋菜穂子さんの『狐笛のかなた』や横山充男さんの『水の精霊』のような凛とした清さのあるものをイメージしています。


最後に、それから、そういえばのはなし

このタグに取り組んでみて、小説を書くことのなにが難しいって物語に説得力をもたせることと完結させることだよなと改めて認識しました。そして、小説はじぶんが書きたい・美味しそうにみえる設定だけでは成り立たなくって、文体の工夫、語りの工夫、視点の工夫、構造の工夫があって、魅力的になっていくのだとおもいます。すくなくとも、わたしはそういった神経の行き届いた小説がとてもすきです。

それから、あらすじだけではあるけれどひさしぶりに物語を書いてみて、そういえばわたしがなにか書いているときって部屋が本で散らかるのよなということをおもいだしました。あの小説の綺麗な雰囲気ってどうやって出すんだろうだとか、あの小説のごつごつした文体ってどうやって書いているんだろうだとか、本棚から引っ張りだしてきて、読みながら書いていることがけっこうあります。わたしが書くものはわたしがこれまでに読んできた・触れてきた物語の蓄積でできていて、そのなかでならどこまでも自由にやっていけるから、書くためには読むことが欠かせないし、読んだら書かざるをえなくなって、わたしは読むのも書くのもどちらもかけがえがなくすきなのだなとおもいました。

9歳のころから小説らしきものを書いてきて、きょねん30歳になって、これまで進路も仕事も小説を書くためにしか考えてこなかった人生、書きつづけていること自体に善がって甘えて美化していたんでないの、書かない人生だって選べたんでないのと悩んでいた1年だったのですが、やっぱりこれからも書くことから離れずにいようと結論のようなものが出つつあります。

至らないところばかりですが、これからもどうぞよろしくお願いいたします。

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