見出し画像

ギャグって救いなんだよな

 会えない時のためにこんにちは、こんばんは、そしておやすみ。リアルトゥルーマン・ショーこと残響室です。 
 なんか書きたくなったから自語りを書きます。暗い話もあるかもしれないのでいつもの根暗で愉快な残響室さんを期待してる方は回れ右してくれよな。

 おれはまあ、こんな芸風だからわかるかもしれないけどギャグが好きです。りなちゃよりコロコロ派、少女誌でもギャグ漫画やギャグスピンオフにばかり惹かれてて銀●はシリアスパートよりギャグパート派でした。(だから最後らへんは正直めっちゃ退屈だったかも…てかもう追いませんでした 周りの女子はキャアキャア言ってたけど)小学校時代にはギャグ四コマで教室中を虜にし、齢十歳未満にしてアンチをも生み出すような八面六臂具合。まあ当時の四コマは小学生らしく倫理観皆無で正直言って見ただけで目眩がしてくるんですが毎週(個人制作なら毎日)続けたその根性だけは褒められると思います、我ながら…
 それからン年、色々あってこんなドブカス根暗になってもギャグに執着し続けるおれがなぜそこまでオモシロに執着するのかと言うと、やっぱり「オモシロ」は「欠陥」を内包して、あわよくばプラスにしてくれるという事をきっと、ずっと感じていたからだと思います。
 まあその性質が甚大な差別をも肯定してしまうのは知っています。それが許すべきでないこと、または特定の属性による「オモシロ」を否定してしまう事も認識しています。笑い者にならないと生きていけなかった人、笑わせたくても笑わせられなかった人を知っていますし、おれも広義の「笑い者にならないと生きていけなかった人」です。
 それでも、異常なまでの完璧主義(これもなんかある側面では褒め言葉っぽくてキモいな)とそれに付随する異様な劣等感を持ったおれには、「誰にも欠陥はあって、それが大して大きく受け取られずギャグとして消費されている」という世界観は救いに映ったのです。そういう世界なら、おれの病的なまでの自虐も、今見ている視界すら揺らぐほどの不注意も、どうしようもないほどに歪んだ価値観も「ギャグ」として受け入れられるんじゃないかな、と思ってしまったのです。

 だからおれの性癖ギャグは「ツッコミ役が場面によって変動するギャグ」です。ツッコミ役が強者であり続けるのも、ツッコミ役がひたすら受難をし続けるのも対等でなくて苦しいから。そう思うってことはおれは全ての人が対等であれば良いのかな、でもそうしたらおれみたいなどうしようもなく弱い人はどうなるのかな。何もわかりません。わからないけどやっていくしかないのです。

 というワケで、自語りでした。なんか前向きな事を言えそうだったから書いたんですが結構後ろ向きですね。ごめんね。ここまで見ていただいた方、ありがとうございました。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?