新NISA始めます。金爆派へのいざない


旧友との再会(それはうそです)

 ある昼下がり、いつも通り無気力、無目的、無我夢中にユーチューブをテレヴィジョンでザッピングしていると、また新ニーサ始めます的な動画がレコメンドされておりました。
 こう見えてもわたくしはお金がたくさんあると心の安寧が実現できると悲しくも体験的に理解しているので、イワユル金融商品的なあれを、きちんとあれして、あれしておきたいと思うような種類の人間であります。
 而、新ニーサ始めます的動画におかれましては、それこそ証券会社が極めて行儀よく作ったものから、金融商品なぞ色んな意味で縁がなさそうな芸能人を配した見栄えのする動画、さらには新ニーサ、地獄、ダン。みたいな新ニーサ水平の広がりを素人にも否が応でも感じさせるタイプのやつまで、ありとあらゆる種類の新ニーサが始まっているのをだいぶ前からつぶさに観察して来たのでして。
 故、テレヴィジョンザッピングからのシンニーサは自分にとっては、すり減っちゃって、もうどうやすってもちょっと熱くなるくらいでもうやすれない紙ヤスリみたいな強さでしかわたしの心象に影響を与えることができず、悲しくもスムースなお取引くらいのあれでそのまま右の動画にいっちゃおーかなーってリモコン押そうと思ったその刹那。
 なんかおかしいね。新NISAってかいてあるけど、ガクトみたいな人がポーズ決めてる。あれなのかな、としばし思いを巡らすこと0.3秒程、投稿者を見て少し考える。ゴールデンボンバーとあり。

何を見たのか

 「私が見たのは、フェティッシュ(*1)に着飾ったとあるメンバーがキラキラギラギラなMVでなんか歌い上げるいい感じの新NISAでした。」「でも、おそらくドラムの人なんだと思うけど、あの人白狐みたいなメイクいつもしてた気がするけどそれを辞める感じの新機軸?とか余計なこと考えながら、場面が変わるごとに出てくる人が結局同じ人なのか、違う人が混ざってるのかわからずじまいでした。」「あと、出だしから新NISAが始まるまでの、いい意味でのスムースなお取引感が凄まじく、これはバズるやつや、と思って再生回数を見てみたらそこまででなくて自分の感性にがっかりしました(*2)。」
 
(*1筆者注: いや、あれはフェティッシュとは言わないよ、ビジュアル系の現代版だよ。いや、BLを意識してるんだよ。いや、シンプルにガクトだよ。いや、虹が出るよ。など、色々な人が色々な意見を持つだろうことに異論は挟まない。なぜならそれ自体が彼らが何を成しているか --- つまり本駄文の本旨 --- を如実に表しているからであり、それについては後ほど自然と語られることになろう。)
 
(*2筆者注: その後これをダランダラン書いている間に100万再生くらいになっていましたとサ。カワイイね。)

火気使用でニュースになる人たちくらいの認識

 ゴールデンボンバーについて、私は寡聞にしてよく知らない。(ちなみに、この瞬間まで寡黙にしてよく知らないだと思ってた。静かにしてたらそりゃ知らないよなー、なんか変だなーと思ったら寡聞だった。ふふ。)いや、寡黙だから知らなかったのかも知れない(だまれ)。
 寡聞にして知らないとか気取っていうほどのことはミジンコも無く、自分のカルチュアと、ゴールデンボンバーの発する(と勝手に思っていた)エネルギーの種類、方向性、強度がほぼほぼ相性わろし、だったという世の中に存在するあらゆる種類のインタラクシュンを究極平板化して横にDistinctに並べたら71%くらいが該当するくらい、それくらいのありふれたやつだったです。
 でも、そんな僕でも知っている。4人組くらいのビジュアル系っぽい人たちで、ボーカルは歌がうまいけど後の人たちはエアーなのでうまいのかはわからないけど、閉鎖空間での火気使用でときどきニュースになる人たちであるということは。(しらんけど。)
 あと、女々しくては知ってる。当時(だいぶ前だと思うのですけれど)、メンバーの皆さんのビジュアルと上記のようなバンドの成り立ちを見て、「どの層に短・中・長期的にささるのだろうか」などと、シンに余計なお世話、むしろ失礼な思索にふけっていたものであった。
 それでも、その日見たMVのいい意味の方のスムースなお取引のキャロリーが本当に高かったので、私にとっては非常に珍しいことではあるがそのシンニーサをおそらく合計3,4回程視聴した。(大好きかよ。そして毎回MV終盤に向けての尻窄み感(当社調べ)に、本来にそこに隠されているはずの輝き、真の芸術を感じることのできない自分の無力を呪った。この時点でだいぶゴールデンボンバーを信頼していることが分かる。)
 そして、あまつさえ20周年記念40分にわたるロングインタビューなるいろいろな感じですごいコンテンツを日テレ界隈で発見し、最初の3分と所々確認しながら合計5分ほどゴールデンボンバーの何たるかについて一次情報取得に勤しんだのである。(雑な消費の一様態の典型例として。)
 それをもってしたところにおいては、この方達はただの変な人達ではなく、20年間世の中に求められている、もしくは価値を提供し続けている人たちではあることまではさすがに全方位に雑で失礼なワテクシにも分かったが、それが何なのかとかは、無気力ザッピングのSa・Gaないしは既に多重多層にかかっていると思しきいろんな呪いの結果、私の前に明確な姿をついぞ顕すことはなかったのであった。(完)

それは結局色々やっぱりやってくる

 その夜、私は床に就き、このまま寝るべきかどうかまたも雑に迷っていた。
 別に耽美的な心の動きとかではなく、加齢によって睡眠に至る神経活動の局所最適間移行の平滑さが失われて来ており、「寝れるといえば寝れちゃうんですよねー」みたいな、自尊心を少しずつ削る100のコトの末席を占めるやつと意外と真剣な対峙を試みているのではあった。(ちなみに、この100のコトは、たぶんだが私はまだ30個くらいしかお目にかかってないと思料しますが、おそらく30歳以下の人はその存在が信じられず、それ以上40歳以下の人は存在は認めざるを得ないが、自分のPathに揃えて置くだけの解像度と現実味は無く、私くらい40代中盤になると、ひとーつ、ふたーつ、みーっつとゆっくりとそれでいて着実にコトは私の体と頭にはじめは他人のフリをして近づいてきて、それでいて気づく頃には「え、ずっと居たけど」乃至「お忘れなくですニャ~」みたいな顔をするのに少しずつ慣れていっている頃合いかと思います。若い人のためにドラえもんよろしく未来からお伝えしておくと、このようなことは諦めを強要し、そのような強要はすべからく自尊心の低下と言うかたちで顕現することとなります。人それぞれだけどねーきっと。)
 そんなこんなでそれ(「寝ちゃうのかな、ボク」)と対峙するうちに、これまたコロナの後遺症かただの加齢化もはや誰も知る由はありませんが、認知機能の低下により比較的思考がまとまらない、(無効なほどに)ポジティブに言えばランダムにトピックが頭を巡るといった精神状態の中で、先ほど日中に極めて雑に行ったインプットが、それでもなお果敢に、長年の修行により身に染み付いたアウトプット思考()のあれとして突如火を吹くのでした。「ゴールデンボンバーは哲学者である」と。

そもそも哲学とは

 私は常々(2024年秋時点)好んで物理・数学と哲学の役割を以下のやうに整理している。物理・数学は人間認知の水平を拡げ、哲学はそこ(過去の領域も含む)に意味を与えるものである。これは、私が高尚にもたどり着いたわけではなく、ユーチューブで京都大学の哲学の先生が(たしか少なくとも後者については)そんな感じのことをおっしゃっていたのでまあそう考えても生きてく上で大きな問題にはならんであろう。
 この整理に基づきまずここで早めに無力化しておきたいのが「哲学的ですねぇ」という御仁である。(言っている人ではなく、哲学的ですねぇの擬人化したもののことです、あしからず。テッチャンとでも言いましょうか。)やうするに何かと言えば、「ゴールデンボンバーは哲学者であるだなんて、哲学的ですねぇ」とか言う感じは許すまじな覚悟であります。
 「自分、生きてる意味が少しわかってきた気がするっす。」「哲学的ですねぇ」
 「こうのとりが運んでくるのは、赤ちゃんでも、幸せでもなく、自分の行った過去からすくい取られた上澄みなのだと思うの。」「哲学的ですねぇ」
 「オイラー等式には宇宙の神秘が隠れていると実感する。」「哲学的ですねぇ」
 「ドリトスの三角形は、知力・体力・勇気を顕しており、故に食べるとみんな元気になれるんだ。」「哲学的ですねぇ」
 コレくらいの雑さ。雑な人間関係、雑な思考、雑な丁寧な暮らし、すべてまとめて「哲学的ですねぇ」に持たせるその厚顔。
 別に他人を糾弾する趣味も、揚げ足を取る癖も本格的には持ち合わせておりませんが、此処で言っている「ゴールデンボンバーは哲学者」とは決して哲学的ですねぇ(以後テッチャン)的な言説ではなく、極めて地に足の付いた、具体的な意見表明であることを担保することに、ワテクシは健気で一所懸命なのであります。
 というわけで改めて、哲学者とは広まる地平もしくは既に存在しているフィィルドに対して、新たなもしくは繰り返し意味を付与する者である。という感じで次行きまーす。

突然ですが、パロディウスだ

 ゴールデンボンバーが哲学者であることをご説明したいのはやまやまなのですが、急く気持ちをいなしながらも、パロディについても整地させていただきたく候(是以狂詩是必須時理解或金爆哲学者於真姿)。
 パロディとは、多くの場合は実際に存在するもの(以下に示すステップ2以降に着目することで非実在に対するパロディも存在する。その辺りは後で少しだけ触れるかもしか。)を、以下のステップで処理することで再表現することを言う。(なお、各ステップがそれぞれパロディとして認識されており、異なるものとして理解されるケースが多い気がする。また、一言で言えばいつもどこでもいやでも何度でもお見かけする守破離といやつであります。)

 1 対象を可能な限り真似る。これは、主に視覚、聴覚に関わる要素が対象となる。なお、これらが高じていわゆる第六感ないしは「雰囲気」に転じるケースもあり、これは次のステップにおいて重要な要素となってくる。
 
 2 オリジナルの特徴量を的確に把握し、多くの場合それらをやや誇張することで、表面的に似ているかどうかよりも、対象「っぽい」かに注力点がシフトする。この段階から、少しずつオリジナルに対する尊敬とそれでいて斜めな(皮肉な)視線を照射した結果の反射パーティクルを集めて早し最上川することが多くなる。結果的にはステップ1で、非常に「似ている」状態に達した上で、余計な要素を削ぎ落とすことで結果的に「雰囲気」が「ぽい」となるケースが多い気がする。

 3 純化した特徴量が個性を持ち、新たな「モノ・コト」として独立する。2で見られた皮肉は純化のち昇華して、それ自体を見るべき対象とする。つまり、ステップ1,2ではあくまで対象は高みにある追っても手が届かない存在であるのに対し、ここにいたっては、オリジナルを踏み台として新たな個性を打ち出すに至ることすら多い。

 わかりやすく人で言えば、多くのものまね芸人は2をゴールとして(となって)いることが多いが、稀にコロッケさんはじめとする限られた才能者だけがステップ3の戦いをしていることには皆さん納得していただけるんじゃないだろうきゃ。
 わかりにくく(本当はわかりやすく)パロディウスで言えば、局所的には元ネタと同じドット絵を見せたりもしながら横スクロールシューティングとして在り(ステップ1、見た目同じ)、本質的にそれらのゲームが何をしているのかを明らかにしながらもそれを茶化し、具体的には自分・敵の「まじめなSF感」は実際にはゲームの面白さの要素としては大したコトはな(いときも多)く、それらがどのように動き・交戦するのか自体が横スクロールシューティングをそれたらしめるほぼ唯一の要素であることを面白おかしく示し、(ステップ2、特徴量の抽出と再現、一部皮肉を含む)、最終的には単体ゲームとして「面白い」ことを認識させる。操作機体が何ならオリジナルを選べるのは上でお話したように、オリジナルはもはや踏み台となり、パロディウスの一部に取り込まれていることの証左であり、シリーズ派生が偉大なオリジナルのそれと同じくらい多いのは、それが新たなオリジナルとして同じように偉大であることの理をあらわす。べんべべん。(ステップ3、それ自体の自我確立)。やるなパロディウス。

ゴールデンボンバーが哲学者として貴社会において実現すること

 と言うわけで、本旨に戻ってまいりましたが、さんざん寄り道をした挙げ句にそんなことはまるでなかったかのように(大学病院で6時間待たされても先方はついぞそれに触れてくれないやつと同じ。しょうがない。)、コンサルの提案資料3枚目くらいの見出し風にゴールデンボンバーが実現することの結論を書くと、

  1. さまざまなパロディを通じて、私達がありがたく音楽コンテンツ(極小的にはヴィジュアル系バンド、少し拡げてロック、広義には例えば音楽)として消費しているものが真に何なのかを要素分解・提示してくれる。

  2. おのおの、解像度の上がった要素の中で自分が本当にスキなものが何なのか気づき、そこからの逆展開で多くのコンテンツを再探究することができる。

  3. そのような探究活動の総和として、日本の芸能シーンの底上げを実現することができる。すごいね。とことんしらんけどね。

です。
 これは、聡明な皆さまは既にお気づきかと思いますが、哲学的思索そのものであります。つまり、私達が曖昧模糊として無自覚的に立っているこのフィィルドが実際には何なのか、その意味を噛み砕いて理解しまして、実際にやっていること、感じていることの真の内容を自覚するに至る。その導入としては、あくまで私達にとっかかりを作るためにパロディという手段を取っていただいており。
 でしまて、これを先導するゴールデンボンバーは哲学者として左様な私達の哲学的思索を、テッチャン的なものとは一線を画したものとして実現させてくれるのでちた。(完・二回目。)

そこにリアル(現実)はあるのか

 木根さんがギター弾けないと最初に聞いたときのことは(この論に便宜を図る目的だけにおいて)忘れられない。その瞬間の心の作用はまあなんというか、え、自分があれほど良いと思った音楽がエアー(Air)だったのだ、からの、でもそれは何も毀損しない、という乱暴な結論を急ぐ系のあれ。本質的には、善処します、直ちには影響はない、からの記憶にございません、そして真の忘却へ(良くいけばアウフヘーベン、悪いやつは元の木阿弥)のプロセスと全くおなしやつ。
 ノストラダムスくらいのレベルから、集団的自衛権解釈変更や、森友学園決裁文書改竄国賠訴訟での請求認諾くらいまで、人間(社会)のしなやかさ、乃至はキズパワーバンド顔面蒼白のレジリエンスは皮肉とかではなく、心の底から感心するのであります。そうでないと生きていけない。変数が多すぎて。誰か助けてくださーい。(言えた。)
 そのような意味において、木根さんを責めることは全くできない。むしろ、ありがとう、論を構成する無駄を削ぎ落とした素材オブ素材をくれて。
 つまりはです、仮に私がTMの音楽が好きからの木根メンバーの演奏が好き、すごいと思ってたとします場合、実際には裏で弾いてたひとの演奏を愛でていたことになり、私が真に楽しんでいたのは「誰が奏でているかに限らずピュアに楽曲そのもの、そしてそれを好きな誰かが演じているから」だったということでござる。
 これは大変な気付きであり、それは音楽の楽しみ方にはいろんなレイヤーがあるという点ではなく、「いろんなレイヤーのどれを本質的に楽しんでいるのかは究極的には自分にもわからない、そしてそれに無自覚的になりがちがち。」というやつである。(必要ないとは思いつつ念のため、「本人」 の「本当の演奏」を楽しむというのが音楽の大きな部分を占めていることを全く否定もせず、むしろこれには全面的に賛成します。念のため。言えば、音楽とは祝詞、呪詛からの祭りあたりの非日常の主人公であり、そもそもそこでは「本当」であることが非日常さんの(十分条件ではないが)必要条件だったはずだと思っております。ペコリーノ。)
 無自覚な私にとって、リアルと思っていたものの現実が何なのか、見極めることは構造上相当に難易度が高い(クラウゼヴィッツに言わせれば(言わないでしょうが)戦場の霧がかかっている状態)のでありますが、ここに来てゴールデンボンバーにおかれましては東証も絶賛の開示基準でその構造をのっけからというかそれ自体を舞台装置として詳らかにしていただけているのであります。

シンニーサの甘い誘惑

 余談だが、シンニーサスムースオトリヒキキャロリーの高さはひとえに彼ら(真に誰かは分からないのですが)の才能に依るところであることは論を俟たない。(この瞬間まで「待たない」かと思ってた。待ってもいいのにナ、くらいに思ってました。)音楽的才能、長い経験から培われたそして研鑽された技術、そしてそこに最後のピースを埋める天啓のように訪れる奇跡の響き、「シンニーサ」。
 悔しいけれど()、私は何度シンニーサ、シンニーサ聞いてもついぞ頭にメロディーが流れる、自分がそれを高らかに歌い上げる姿を思い浮かべることができなかった。
 でも、彼らのような能力者がその啓示を丁寧かつ的確にcatchした機序は微かに理解することができる。彼らは、日常の喧騒のなかで、ケンタッキー、トーカイドー、ランバクシー、クーシンサイ、ランネーチャン、ありとあらゆる誘惑に安易に身を委ねること無く、それこそ聖職者のようにその意味で蒙昧な民衆に崇高な教えを与えられると気づくその時までじっと耐え続けているのだ。私だったら堪えることができず思わず領域展開してしまいそうだ、それは例えば以下のように。(メロディは本家のシンニーサの唄を各自脳内再生お願いします。たむらかえ2スタイルだね。)

♪(男)素敵ィー(ヒロイーンー)
♪(女)鋭利ィー(なツノォー)
♪(男・女)頼りたーーいィーーー
♪(男・女)ラン(↓)ネーー(↑)チャーーーーン(→)
・・・

ね。上とか下とかに長々とああだこうだと書いてはいるのですが、実は今回はこれがやりたかっただけなの。ほんとにごめんね。そんじゃーねー。(完・三回目。)

金爆とマクローリン展開のマンデルブロ集合

 ゴールデンボンバーが提示する装置とは、マクローリン展開のようなものだ。つまり、連続している関数・概念(音楽)と思っていたものが、多項式(音楽をなす要素)の足し合わせ(掛け合わせじゃないのが推しポイントだよね。安易に掛け算で分解できたような気になることを許さないという数学的に偏った強い意思。)に分解できるという種明かしだ。(さらに余計なことを加えれば、マクローリン展開はゼロ地点での各次の傾きが関数全体の形を教えるという、音楽においても初手どのような嗜好で音楽に向き合い始めているかが、その後の要素と絡み合いながら音楽消費の全体像を規定していると見れれば感慨深いね、テッチャン。)
 展開される(分解、独立化される)要素としてはあまり細かく考えていないのがばれるので急に適当にはなりますが、概ね以下のようになりますのでご査収ください。

  1. 演奏

    • 表面上誰が演奏しているか

      • 楽曲は演者が演奏しているとは限らないという。なおこの音楽の演奏に対する解像度の強制精緻化が金爆の舞台装置の芸術性の極北。

      • 金爆においての意味合い:哲学者としての金爆が最も注力している領域。誰が演奏しているかは特定のジャンルにおいてはさほど重要ではないことを明示的に表現することでこの要素に対する愛着を(倒錯的なもの、つまり無いものを愛する、を除いては)原理的に否定。もってして、別の要素(上や下に書いてあるやつ)を自覚的に愛することを促す。愛の戦士。もうしらんがな。

    • 演者のビジュアルを中心としたプレゼンテーション(ジャンルの押し出し方)

      • 単純な見た目要素ではあるも、双方向的に音楽のジャンル分けから主な消費者層のグルーピングまで関連する便利なやつ。ただこの関連を逆手に取ることで、Babymetalのようなユニークポジションをプレゼンすることもできよう。

      • 金爆においての意味合い:ベタなビジュアル系の見た目をベースに、その(ビジュアル系としての)アイデンティティの要素の内、神秘性・孤高感・偶像性などの要素を徹底的に狂詩(パロディ)化。神秘の後ろにある欺瞞、孤高と相容れない平凡な悲哀、偶像を破壊せんとす愚行(的演出)をしつこいほどに重ね塗りすることで、悠々とステップ3へ到達。これにより、本来一定ボリュームの反感を買うことが容易に想定できる押し出し方にも関わらず、「フィールドが違う」認定されることに成功し(正確にはより高次に揚がられたわけだが)、独自のポジショニングを確立。

    • プレーアクション(ギターアクション、ドラムアクション etc.)の巧拙

      • 演奏の巧拙とは何ら関係ないし、ひいては楽曲全体のクオリティの指標にはなり得ず、完全な独立変数。怒らないで、まじで、だから、それが、金爆。

      • 金爆においての意味合い:まあこれもパロディ要素が強いがやはり偉いのがステップ2などには初めから留まることを知らない時の中で早々にステップ3で独自の戦い(火気使用禁止等)をなさっているので、みんな難しいこと考えずにこの辺を新たな芸能としてただシンプルに楽しむというのが一つのわかりやすい鑑賞法なのではないでしょうか。もしくは、下で少しお話するようにそれぞれの曲にはモティーフが用意されており、場合によってステップ2ぽかったり3ぽかったりするので、ヒヤヒヤしながらも最後はやられずにすんだ、みたいなお化け屋敷的な楽しみ方も、上級者には用意されているのです。

  2. 曲(曲名、歌詞を含む)

    • 曲は何でもいい場合もあるが演者が誰でもいい場合はほとんどない、というくらい「演奏」に対しての立ち位置は低いが(芸術・表現としての本質的なものと言う意味ではなく、あくまで受け手に対するインパクトの総量の戦いの中で。好きな歌を自分で歌うほどに曲は好きになれるが、その曲を知らない人が歌っているものほど興味をそそられないものはない。イケメンが歌って成立している歌をそうでない自分が歌っているときのほど無力感に駆られる刹那はないでしょう。略して刹那い。)、それでもそれぞれのアーティストが繰り返し「こすってくる」、メロディのパーツ、転調の様子、心象風景などなどは、明らかにそれ単体でも私達に傷跡を残す強い力をもっている。(がやはりその多くが、演奏・演者とセットになって真価を持つケースが殆んどだらう。)

    • 金爆においての意味合い:曲(タイトル含む)は金爆においては便利な道具的位置づけである。「女々しくて」こそ、それ自体ではどの方向(ジャンル)に転ぶかわからないギリギリな印象を(不穏感含みで)浸出させていて、それが実際のビジュアル、その他プレゼンテーションと相まって答え合わせとなる、やや手の掛かる(といっても1ステップ挟むだけだが)構造であったが、それができるのは初手だけでそれ以降はみんな金爆が何者なのかしっているので、曲は何に気兼ねすることなくただ彼らの芸術性を試すためのシンプルなデヴァイスに落ち着いている。シンニーサもまさにど真ん中で、曲名の時点で(通常の文脈で)まともな曲である可能性はゼロ%ナッティングであり、その中身といえばまさに私にこんなどうでもいいことをつらつらと書かせるに足りるほどのキャロリーと芸術性を備えた作品に仕上がっているわけである。同じような感じで、死 ん だ 妻 に 似 て い る とか、まあなんどもストレートフォワードに自分たちがステップ3で独自の舞踊を行っていることを誇示しているわけです。此処まで色々書いてきて、私は全部で3,4曲しか「見て」いないのですが、おそらくそれぞれの曲にパロディ(金爆が無知なる私の眼を少しでも見開かせてやろうという哲学者としての真摯な気持ち)の対象が用意されているようで、その意味でも曲はその一つひとつが舞台装置の道具として機能しているわけではある。

  3. あとまあ、色々あると思うんですが、本旨から少し遠いのと言いたいことは上記の要素で概ね言えたのでね、あとは皆さんの創造にお任せいたします。

ということでね、尻窄み的まとめ

 このような形で、要素分解された金爆の音楽・演奏は、金爆がある程度用意した各楽曲のフィールド設定はありつつも、その中で受け取り手の主題設定やその嗜好性の形而下化(ケイジカカ)を促す。そこで人人は、真の意味で「何を見せられているの」かを自分で選択することを迫られるのだっつ。
 
 曖昧に日常を航海する小さなそれでいて大事な存在である私達一人ひとりは迷いやすくそれでいて信じるものを探しがちではあります。そんなところ、金爆は静かに、優しく投網を広げ、ピチピチ、ピチピチ、する私をこれ以上無い柔らかな眼差しで包み込みながらも「自分で決めるんだぞ」という厳しくも正直なメッセージを振りまいてまわっているのであります。そして、それが、そう、金爆派への誘いであります。

結言に代えまして蛇足

 結言を何か別のものに代える必要も意図も本来はないのですがみんなそういう風に言うみたいなんで自分もやってみました。
 上にも書いたように、ゴールデンボンバーのパロディは(実際にはステップ3がメインフィールドではあるが)表面上はステップ2とステップ3を行ったり来たりしております。
 通常ステップ2にとどまるとジリ貧になる。なぜならオリジナルを超える事はできずに、全てがオリジナルに律速するからであり、オリジナルが知覚できるレベルで進化・変化し続けている場合は大丈夫だがそのような例は多くない。ですんで、多くのステップ2は、対象を模索し続けることで自らも生き続けることを目指すが、いわゆるモノマネ芸能は自らのフィジカル(対象との類似性の意味合いにおいて)が大きな枷となりそして限界を迎える。
 他方、音楽パロディ、さらに言えばゴールデンボンバーが打ち立てました弾く必要がない音楽は言ってしまえば不射之射の境地でございまして、まさに上辺の音楽活動を超えた哲学的作為(そしてそれぞれの曲が一つ一つの哲学的領域に対応しているとも言える)に邁進することができる、そのような構造となっております。そして、それが表からはステップ2くらいに見えたりするところが噛み締め甲斐のあるところでございます。
 ここでようやくだいぶ上の方で語りましたフェティッシュ云々について語る時がやって参ったようですよ。よかった。ここまで気持ちが続いて。
 私にはシンニーサにおけるダルビッシュもとい樽美酒さんがフェティッシュに見えるわけであります。これは私にとっては何かのオリジナルの影(特徴量)をそこに見て、再構築した結果であります。それはオリジナルは超えておらず、その意味ではステップ2なのであります。ただ、ゴールデンボンバーの新機軸は、そのオリジナルが何かを巧みに隠している(隠してないと思う)ところで、心の写し鏡のように、私達の哲学的探究を優しく見守ってくれる、という点です。
 つまりは、私達の心の綺麗さに応じて如何様にもオリジナルは変幻自在に設定され、その意味においては、自分たちの心のなかで像を結んだ先に見ているものは、「真の(ゴールデンボンバーが仮にオリジナルとした)」オリジナルを超越した、個別のアイデンティティを持ったものなのである。よっテッチャン!!
 別の言い方をすれば、オリジナルが明示され、それがステップ2に留まると、いわゆる「傷つきやすい」私達が大挙して押し寄せ、金爆のその哲学的所為などはそれこそ地平の彼方まで砂粒のごとく吹き飛ばされてしまうのでありまして、そうなっていないということはまさに金爆の哲学性がカレイドスコープ的な(観察者の状況・心象風景に大きく依存している)性格を帯びていることを如実に示しているのである。
 そういう意味だと昔の歌ってないアイドルとかは、(みんなアイドルカワイイ、好きとかで煙に巻かれていたけど)実はピュアにこの構造を示していてくれて、「お前は歌に惹かれているのではなく見た目の良い女子が陰に陽に、大きく小さく、結局には性的興奮を含めた情動を喚起する情報を断続的に放出するその有り様にはじめは本能的な快感を、次第に(後付で)それを継続的に愛玩することを正当化するための自分なりのロジックを構築し、最終的には彼我ひとつづきの有り様(ワンピース)を完成させる」という美しい世界を無数に構築するための見事なまでに見事な装置なのであります。そこでは、歌っているかどうかは関係ないことはここまでいらしていただいた皆さまにおかれましてはもはや同意していただけることを期待しつつ、またの再会を心より願っております。ちゃおー。


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