「私」以外の主語は使わないという前提で
最近、他人の正義に傷ついたことがあった。
その人は、その人自身が正しいと思うことを、私より長く生きてる大人として、私に諭してくれたんだと思う。
だから、愛はあったかどうかで言うと、たしかに愛はあったんだと思う。だけど、それでも私は傷ついた。
その人は、(完全に私の憶測だけれど、)きっと、小学生のころ、チャイムがなったら「やばい!」と思って席についただろうし、心のノートにもたくさんはなまるがついていたんだろうと思う。そうやって、大人になるまでに「正しい」を自分のものにすることができたんだと思う。
目が見えない人がいたら、手を差し伸べてあげようとか、肌の色が違う人も同じ人間、だから優しくしてあげようねとかって、まるで1+1の答えが2であるように、先生は「正しい」を教えてくれた。
そんな先生にはなまるをもらった「正しい」は、まるで1+1の答えが2であるように、疑われることはなく、確固たる自信を携えて、大人になっても変わらずに息をし続けている。
一方、はなまるをもらえなかった私の「考え」は「正しい」になることはできずに、これまでも何度も色と形を変えてきた。そんな私の「考え」を、私は自信があるかどうかということよりも、ただ、大切にしたいと思っている。
そうしていても、私の「考え」は、よく「正しい」とぶつかるし、跳ね除けられるし、潰されることもある。「正しい」の皮をむいて、「考え」を聞いてみようとすると、実がないことだってたくさんある。それは、どうして1+1が2になるのかを尋ねるようなことなんだと思う。
どうしてそんなことを聞くの?と不思議そうな目で見つめられている時点でフェアじゃない。はなまるをもらえなかった「考え」は、いつだって劣勢だった。
「だった」。
そう「だった」と言えるのは、そんな私の「考え」もはなまるをもらえる時代が来たからだ。
ツイッター先生たちの登場だ。
「考え」を躊躇なく書き連ねているツイッターのなかでのいいねは、紛れも無くツイッター先生たちからのはなまるだと思っている。
それから、「正しい」の雲にとらわれずに「考え」を書く文化も、ここ、ツイッターにはあって。
主語を「私」にして、ちょうど良い生き方を探す彼女たちは、誰もが自由に「私」の考えを語るフェアなタイムラインを作り出す。気がつくと、私も躊躇いなく、考えを語ってみてしまう。
「正しい」のないこの世界で、考えを語り、愛を届け合う。時には傷つけてしまうことも、傷つけられてしまうこともあるけれど、それでも私はこのフェアな世界が居心地よくて好き。
「正しい」のないこの世界は、新しく、しかし、本質的なような気がしている。
フェアな世界が、ツイッターからこぼれ出でて、オフラインでの生活にも広がっていけばいいなと思うし、そういう歩き方をしようと思う。
「私」以外の主語は使わないという前提で、誰もが「私」という主語で語り合える世界をつくりたい。