はじめまして、――向田邦子を訪ねて

はじめまして、十夏(つなしなつ)という者です。勝手に物書きを名乗って、好きに文章をこねくり回したりしています。

エッセイでも書こうかと思い至り、以前から気になっていたnoteに手を出した次第です。と言ってもエッセイが具体的にどんなものなのかわかっていないため、”エッセイのようなもの”ばかり書く予感がしています。

とはいえ具体的なきっかけ自体はあるのです。本日はそんな話をしたいと思います。

エッセイを読んで

記事タイトルに続き、見出しでもネタばらしをしてゆきます。

書影

そのままの意味です。現在、絶賛『向田邦子ベスト・エッセイ(向田和子 編・ちくま文庫)』を通読中なのです。非常に安直ですが、これを読んで、昨晩の宵に耽る最中、「やってみるかあ」と思い至りました。

向田邦子は日本で最も有名なエッセイストのひとりです。名前を耳にしたことがないということは少ないのではないかと、勝手に思い込んでいます。

そもそも記事タイトルがタイトルなんだから、ここをクリックした人間はもれなく知っているだろうという邪推。

読むきっかけもまたわかりやすく、書店で平積みされたこの文庫と目が合ったからです。そういえば、そんな方もいたなあという失礼極まる心持で手に取り、その場ですぐに買いました。

買ったのは5月で、数々の積読を越えてようやくたどり着きました。

さて、読み始めてまだ間もないですが、本記事を書くに至る決定的な一文を見ることとなります。

鰻に対する価値観

奇しくもというか、意識したつもりはないのですが、本日は土用の丑の日です。鰻は高級品ですから、私には手の出せない代物です。牛丼チェーンで打ち出される広告は見なかったことにしています。

そんな鰻の話が通読中のエッセイにも登場しています。タイトルは『ごはん』というシンプルなものです。向田邦子が生きてきた中で、印象的だった二つの食事を紹介しています。

ひとつは東京大空襲の翌日に食べたさつまいもの精進揚げです。こちらのエピソードは、これからエッセイを読む方のために詳しく触れません。

そしてもう一つが「鰻」なのです。

ざっくりと要約すると、氏がまだ小学生だったころ、病気で入院していた時に食べた鰻を、心に残るとしているのです。

鰻という食べ物だけを抜き出すと、わからない気もしないというのが正直なところです。氏が通っていたのはチェーン店などではなく、明記はされていませんが個人の鰻屋ではないかと思われます。その味や、店の雰囲気、当時の氏の状態を考えれば、印象づきやすいのも頷けます。

実際、氏の家庭は、時代背景も含めて、裕福とは言い難いようでした。母親はいつもなにかと理由をつけては食べないようにしていたらしく、家族にも内緒で食べることには後ろめたさもあったようです。そんな中で食べたのだから、確かに強く心に残ったことでしょう。エッセイの中でも、

「食べものの味と人生の味とふたつの味わいがあるということを初めて知ったということだろうか。」

『向田邦子ベスト・エッセイ』より

と記されています。

ここまで読んだ私はなるほど確かにそうだろうと手放しで頷いていました。特に目の前に座る母親が食べないというのは、子どもながらに思うところがあったのでしょう。しかし、その少し先に違和感は待っていました。

氏はエッセイの中で「まあ人並みにおいしいものを頂いているつもりだが」と前置きをしたうえでこう語っています。

「さて心に残る”ごはん”をと指を折ってみると、(中略)第二が、気がねしいしい食べた鰻丼なのだから、我ながら何たる貧乏性かとおかしくなる。」

『向田邦子ベスト・エッセイ』より

私が引っ掛かりを覚えたのは「貧乏性」という言葉でした。え、鰻を上げることが貧乏性なのか、と疑問に思ったわけです。

試しに貧乏性という言葉を適当に検索してみるとこんな語釈が出てきます。

〘名〙 貧乏が身についたような性質。また、いつもけちけちしてゆとりのない性質。時間や金銭などをゆったり使うことのできない性質。

コトバンク

やはり、私の中での「貧乏性」という言葉は間違っていないと再確認をします。

この段の冒頭で私は鰻を高級品と言いました。人によってはそうではないかもしれませんが、実際のところスーパーなどで土用の丑の日に売られている鰻に私は手が出ません。1000円程度を払えばチェーン店で食べることもできますが、氏が赴いたような鰻屋で食べるとなるとそうはいかないでしょう。かなりの出費を覚悟し、私の場合は一世一代の大勝負に出るかの如く向かわねばなりません。

そもそも土用の丑の日でもないのに鰻を食べることなど考えられないのです。なるべく食べものにはお金を惜しまないようにしていますが、鰻ともなればそうはいかないのです。

私のこんな考え方を、吝嗇家だとなじることもできるでしょう。というか、他人からすれば私の別のものに対する金払いのやり方を見れば、「じゃあその金を鰻に使えよ」と突っ込まれるかもしれません。

ですが、少なくともどちらにも使うではなく、どちらかしか選べないという状況が存在していることが、今の私の現状とは違うのだなと実感するのです。

もちろん氏は先に述べた通り、一流も一流のエッセイストです。下世話な話、私みたいな小人よりは金回りもよく、鰻などに払うことも容易かったのかもしれません。また、当時は鰻自体が現在よりも安かったのではないかと思います。だから一言で、今と昔の経済状況を比べて嘆こうとは思いません。

ただ、鰻を食べることが、そこそこ普通の贅沢程度になればいいなあと個人的には願ってやまないのです。

最後に

結論として、「私は鰻が食べたい!」ということに尽きます。

だって美味しいことは知っていますから。

いつか食べた、高級な鰻屋のことを、氏のエッセイを読んで思い出したのです。また行く機会があれば、その時は鰻の美味しさだけを考えていたいです。

でも、やっぱり土用の丑の日だし、チェーン店でもいいから行こうかしら。

十夏

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