先日、珍しく早起きをして上野に向かった。

山手線に乗って行ったのだが、時間帯的に通勤通学中の人々が目立つ。スーツを着た人々が各駅で乗降をし、学生服を着た人々が友人の顔を見つけては話しかけている様子を目にする。どうということではないだろうと思う。

しかし、朝を忘れかけていた私にはなぜか非常に新鮮な光景に見えた。

私は昼夜が完全に逆転した生活を行っていた。もう空が紅くなるころに起き、空が白んでくる頃に布団に入る。吸血鬼みたいな生活である。けど、体はそれに慣れていたし、何より夜の静かな雰囲気が好きであったから、納得して生活を続けていた。

そんな私が早起きすることになったのは、久しぶりに美術館にでも行こうかと思い至ったからである。なんてことはない、出不精ながらに、唐突に年に何回か考える突発的な衝動だ。大抵こういう衝動を抱いたときはやらずに済ませることはできない。というか、行きたく行きたくて仕方がなくなり、それ以外に考えることができなくなるから、早めにしてしまうことに決めている。そういうわけで衝動から一週間もたたずに決行となった。

で、である。昼夜逆転をしている私には早起きという行為は大変苦痛なことは想像に難くないだろう。なるべく早く寝ようと考えながら、なかなかに寝付けず、結局一時間程度の仮眠のみで出かけることなった。

私は出かける際は必ず本を持っていくことにしている。移動中の電車で読むことがこの上ない楽しみの一つであった。選んだのは村上春樹の『雨天炎天』。中身は知らない。多少の読書好きではあったが、そもそも村上春樹を読んだことがなかった。そんなわけで初村上にちょっとワクワクしながら電車に乗り込み本を開いた。

内容を知っている方もいらっしゃるだろうが、簡潔に中身を言うならば、トルコ・ギリシャ旅行記であった。なるほど、小旅行の供にはいいものを引き当てたな、と思いながらに読み進める。

そんな折に私は気が付いた。周囲が普段の私の生活ではまず会うことのない、健全な社会生活を行っている人々であるということに。そして、社内に差し込む陽光が、どんな時間帯の光よりもまぶしいことに。そこで私は周囲の光景が得難いものに思えてくるようになった。

少なくとも私にとっては朝は忘れかけていた時間である。寝る前の、目をこすり、カーテンの閉め切られた部屋では気づくことのない光景だった。

そこで私は思い至ることがあった。朝の光とは健全な人間のために最も必要なものではないかと。

一時間しか寝ていないというのに、私は一切の眠気もなかった。ただ、陽光に照らされた健全な社会に組み込まれようとしている私を実感し、噛みしめるように本を読んだ。いつもの読書の何倍も価値がある体験に思えた。

上野で降り、何となく駅前をぶらぶらと歩く時の、空のあけすけに青い色と、鳥の声、雑踏のざわめき、電車の音。すべては知っているはずなのに、肺にそれらをため込むように吸い込んでいた。

なるほど、これからは自分の生活も見直してみるべきだなと思いながら、夕方間際になって起きてきたころに、これを書いている。

十夏

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