イパチェフ館での「窓の開閉」についてのやりとりと「とある一将校」との手紙のやり取り

手紙を受け取る前

“監獄体制”の適用は続き、それは歳をとった左官がやってきて我々のすべての部屋の窓を塗り潰すという形であらわれた。窓から濃霧を見ているような感じになった。
ニコライ二世の5月15日の日記
今朝、彼らは家を出ないように命じられました。何人かの老人が外のすべての窓に白いペンキを塗ったので、空の一部だけが上に見え、濃い霧が落ちたように見え、非常に不快です。
アレクサンドラ同日の皇后の日記

手紙

※手紙のやりとりは全てフランス語
友人たちはもう眠っていない。待望の時は来たようだ。チェコスロヴァキア軍の反乱は、かつてなかったほど深刻にボリシェビキを脅かしており、東西シベリア全域は臨時国民政府の手中にある。スラヴの友人たちの軍隊はエカテリンブルクから八〇キロの地点にある。赤軍兵士は有効な抵抗をしていない。外部のあらゆる動きに注意し、待ち、希望をつなぎ給え。その一方で慎重な行動を望む。制圧されない限りボリシェビキはあなたがたにとって現実の重大な危険となっているからである。昼夜を問わず、いかなるときにも準備を整えていていただきたい。そちらの二(三に訂正)部屋の見取り図、家具とベットの位置を描いていただきたい。全員の就寝時刻(一一時半にを書き加えられている)を書いていただきたい。今後毎晩、あなたがたの一人は二時から三時までの間起きていなければならない。ごく簡潔に回答し、外部の友人たちに有益なあらゆる情報を与えていただきたい。返事はこのメモを渡したその兵士に書面で渡し、一言もしゃべらないように。
ロシア軍の一将校より 1918年6月19日〜20日
建物の角からバルコニーまでの間に窓が街路側に五、広場に二。窓は全部接着幽閉され白く塗ってある。小さい子はまだ病臥中で一歩も歩けず、ちょっと動かすだけでも痛がる。一週間前アナーキストのせいで夜中にわれわれはモスクワに連れ出されようとした。成功の絶対的確信なしには、いかなる危険も冒されるべきではない。われわれはほとんど常時厳重な監視下にある。
一将校の手紙への回答 1918年6月21日〜23日 オリガが代表して書いたと言われている。

今日はお茶の時間に、恐らく州ソヴェートから来たと思われる六人がどの窓を開けるのか見に入ってきた。この問題の解決までには、約二週間を要した。いろんな人物がしょっちゅうやって来ては、我々のいる前で窓を眺めていた。市内のあらゆる庭園から驚くほどの芳香が漂ってくる。
ニコライ二世の6月22日の日記
何人かの人々 (委員会)が 再び窓をチェックしに来ました。
アレクサンドラ同日の皇后の日記

朝、われわれの窓が一箇所開かれた。〜昨日の来訪者はペトログラードからのコミサールたちだったをわかる。部屋の空気がきれいになり、夕刻にはやや涼しいほどになった。
ニコライ二世の日記 1918年6月23日
二人の兵士が来て、私たちの部屋の窓の枠を片方の窓から外してくれた、そのような喜び、楽しい空気がやっとでき、窓ガラス一枚はもう白い漆喰で塗りつぶされてはいない。
ボトキン(医者)は風通しがよくて静かなので再び大部屋に移り、デミドヴァ(女官)は再び食堂にいることになった。8時皆と夕食、ベイビーもその後、他の人に車椅子で部屋の中を移動してもらう。タチアナはアレクセイの部屋で寝ている。ニコライとベジークをし、ボトキンはベッドに横たわりながら、女の子たちとブリッジをしていた。
アレクサンドラ皇后の日記 同日

一晩中窓を開けていたので、風通しは良かったのですが、部屋の中は19度半ととても暑かったです。
3時マリアは彼(ボトキン)の枕元でトランプをしている間、私は窓際に横たわって本を読んでいた。
アレクサンドラ皇后の日記 1918年6月24日

昨日はうなだれるような暑さ。部屋の中も同様。窓がひとつずっと開けっ放してあるのに!
ニコライ二世の日記 1918年6月25日

神の助けとあなたがたの沈着冷静な行動により、いかなるリスクも冒すこととなく成功すると期待している。窓のひとつの接着を剥がして、必要なときに開けるようにしておくよう。それはどこの窓かお知らせいただきたい。小さな皇太子が歩行できないため事はやりにくくなるが、大いなる不都合はないと思う。彼を手でかかえて運ぶために二人が必要か、あなたがたの一人がそれを引き受けることが可能か、知らせていただきたい。正確な時刻があらかじめわかっていたら、小さい子を脱出前に一時間か二時間確実に眠らせておくことが可能だろうか?ドクターの意見を聞かなけねばならないが、必要ならそのためのなんらかの手を打つこともできる。成功が絶対確実でないかぎり、いかなる試みもおこなわなければならないのでご心配なく。神にかけて、歴史とわれらの良心にかけて、これをおごそかにお約束する。
一将校からの手紙 1918年6月25日

 角から2つめの広場に面した窓は二日間、昼も夜もあいたままになっていた。広場に面した正面玄関の次の7つめと八つめの窓は常時開かれている。この部屋には警備司令と助手たちがおり、彼ら少なくとも一三名は小銃、拳銃、手榴弾で武装して館内警備にもあたっている。どのドアにも(われわれの部屋以外は)キーがなく、司令あるいは助手たちはそうしたいと思えばいつでもわれわれの部屋に入ってくることができる。勤務中の衛兵は夜間一時間に二回館外を巡回し、窓の下の衛兵としゃべるのが聞こえる。非常の場合に備えて機関銃がバルコニーに一丁、階下にもう一丁ある。それ以外にあるかどうかは不明。ここにドクター、メード一人、使用人二人、コックを勤めている少年がいることをお忘れなく。彼らは自発的に流刑地までついてきてくれたのだから、(彼らはわれわれの足手まといになりたくないとは言っているが)このまま置き去りにするのは心苦しい。ドクターは腎臓のトラブルで三日間病臥していたが、回復に向かっている。若くて頑健な二人の使用人(イヴァン・セドネフとクレメンチイ・ナゴルヌイ)の帰館をわれわれはたえず待ち続けている。が、彼らは一ヶ月も市内に拘束されており、その場所も理由も不明である。彼らの不在中、小さな子は父親に運ばれて室内を移動したり庭に出たりしていた。ほとんど毎日五時に診察にくる外科医D(デレヴェンコ)は市内に移住しているので、彼のこともお忘れなきよう。彼と単独で会うことは決してできない。警備隊はわれわれの五つの窓の側の街路の反対側の小さな家(ポポフ館)に五〇名で宿泊している。かろうじて残った品物は、納屋(内庭)の箱に入っている。とくに気がかりなのは、A・F(アレクサンドラ・フョードロヴナ)のナンバー9の黒い小箱と、古い手紙や日記を収めたN・A(ニコライ・アレクサンドロヴィッチ)のナンバー13の黒い大きな箱である。当然ながら各寝室は行李、ベットのその他の品物でいっぱいであり、すべてわれわれをとりまく泥棒どものなすがままになっている。すべてのキー、とくにナンバー9のキーは隊長のもとにある。彼はわれわれにたいして好意的にふるまってくれた。いずれにせよ、できるならわれわれにあらかじめ通報し、使用人たちも連れていけるかどうか答えていただきたい。玄関前には常時自転車が一台置かれている。各衛兵詰所と警備司令室にはベルがあり、何本かの電線が警備隊宿舎その他どこへ通じている。われわれ以外の人たちが残る場合、彼らの身に何事も起こらないと確信してよいのだろうか???ドクターB(ボトキン)は、あなたがたの仕事をさらにやりにくくしないため、自分やほかの人々のことは考えないように言っている。われわれは七人と女性一人の協力を期待してもよい。神があなたがたをお助け下さるように。われわれは沈着に事にあたるつもりでいる。
一将校への回答 1918年6月25日

赤ちゃんは今夜、私たちの部屋で寝ます。風通しがよく、私たちの近くにいることができます。
ものすごい暑さで、午後には少し雨も降りました。私は早く寝たのですが、外の音がうるさくて3時間しか寝られませんでした。
アレクサンドラ皇后の日記 1918年6月26日

相変わらず熱帯のような天気。日陰で二六度、室内で二四度。我慢できぬくらい!不安な一夜を過ごし、服を着たまま一睡もしなかった。すべては此の数日間に続いて二通の手紙を受け取ったことから始まった。誰やら忠実な人たちに誘拐される準備をしてをくようにとの内容だった。だが何日たっても何事も起こらず、期待と不安にひどくさいなまれた。
※下記の手紙はまだ受け取っていない。
ニコライ二世の日記 1918年6月27日
デレヴェンコは来なかったが、再び軍事委員と委員長が来て、部屋をチェックし、2番目の窓を開けることを許されなかったので、ハリトーノフと若いセドネフは、台所の隣の彼らの部屋ほど暑くないので、ベビーの部屋で寝ることになった。暑さが増してきた。
ほとんど眠れなかった。
アレクサンドラ皇后の日記 1918年6月27日の日記

窓の向こう側の小家屋にいる五〇名程度の兵士について心配はご無用。行動の時が到来するとき、彼らは危険な存在にはならない。われわれの行動開始をより容易にするため、警備司令についてもっと正確な情報がほしい。全員を連れ出せるかどうか、いま申し上げることはできない。そうしたいと思うが、いずれにせよ、あなたがたが家を離れたのちは、ドクターを除けば、彼らはあなたがたと一緒にはいないことになろう。ドクターD(デレヴェンコ)については措置を講じつつある。日曜までに詳細な作戦計画を提示できると思うが、現在のところほぼ次のように考えている。合図とともに、あなたがたは警備隊からあなたがたを隔てるをドアを閉め、家具でバリケードを築く。警備隊は館内で封鎖されてパニックに陥るだろう。特製のロープであなたがたは窓から脱出する。われわれは下で待っている。それから先は困難ではない。輸送手段はたくさんあるし、絶好の隠れ家もある。最大の問題は小さな子を下に降ろすことだが、可能だろうか?熟慮の上ご返事を乞う。いかなる場合にも父君、母君、子息がまず下に降り、娘たち、それからドクターが後に続くことになる。これが可能だとお考えか、適当なロープの製作が可能か、お答え願いたい。現在のところロープを届けるのはきわめて困難だからである。
1918年6月26日 一将校からの手紙
われわれは脱出を望まないし、脱出することもできない。トボリスクから力ずくで連れてこられたのと同様、力ずくで連れ出されることができるだけである。したがってわれわれからいかなる積極的助力も期待しないでいただきたい。警備司令には多くの副官がついている。彼らはしばしば交替し、此のところ神経質になっている。彼らはわれわれの監禁場所と生命を良心的に守っており、われわれは望まない。神の御題において、なによりも流血を避けていただきたい。彼らのことをよく考えてもらいたい。梯子なしに窓から降りることはまったく不可能である。かりに下に降りたとしても、警備司令の寝室の窓はあいているし、階下に機関銃があって内庭からそこに入ることができるので、われわれはまだまだ大きな危険にさらされる。だからわれわれを連れ出すという構想は断念してもらいたい。われわれを観察していれば、われわれに真に差しせまった危険が生じた場合、あなたはいつでも救出にきて下さることができる。われわれは外部の情勢をまったく知らない。新聞も手紙も受け取っていないからである。われわれが窓を開くことが許可されて以来、監視が強化され、窓から顔を出すことさえ禁止されており、それをおかせば射撃される危険がある。
1918年6月27日 一将校の回答
※”同志の中には秩序が保たれているわけではなくポストに手紙を送ったり、降りてきて仲間と会話したり、逮捕者との会話は一切禁じられているにも関わらず逮捕者と話すこともあり、発砲までしたケースもありました。紅衛兵の一人イヴァン・タラポフが、上部テラスの機関銃のポストで駐在してました。どうやら何もすることがなく、手榴弾を扱う際に「練習」を開始し始めました。それを鳴らし、シューッという音を立て、それを投げ込み爆発した。路地で音が聞こえ、同志だけでなく街でも警報が発せられました。ちょうど6月12日のヴェルク・イセツキー工場での反乱が起きた日でした。
このようなことがきっかけでツァーリは警告に気にすることなく、窓際に近づいて街を注意深く覗き込むようになった。紅衛兵ベンヤミン・サフォノフはツァーリを窓から引き離そうとしました。窓際に立っていたツァーリに警告するとサフォノフは彼が背を向けた所を狙い上向きに撃った。その後ツァーリは窓に近づきませんでした。”


3枚目の手紙の返事を送った後(マリアの誕生日の後 27日〜)

極度の疲労と暑さのせいで、みんな早く寝ました。
部屋で24½°。朝の太陽は39度でした。夜の間(27日?)、私たちの部屋の下にいる警備員が、特に私たちの窓の動きを監視するように命じられているのを聞いた。彼らは窓を開けて以来、非常に疑わしくなり、今でも私たちが窓の敷居に座ることを許されない。※
アレクサンドラ皇后の日記 1918年6月28日

軍事委員が家族全員部屋にいるかどうか確認するために立ち寄った。※
暑さと心臓のため、家から出なかった。※
アレクサンドラ皇后の日記 1918年6月29日

かろうじて4時間眠れたが、警備員がうるさくてたまらない。(冒頭)
アレクサンドラ皇后の日記 1918年6月30日

今、アヴデーフは朝と夕方に来て、私たちが全員揃っているかどうかをチェックしなければない。今日の午後、彼は私が病気のために外出しないのかと聞きに来た。※
アレクサンドラ皇后の日記 1918年7月2日
※就寝の後に書かれていた。

その家の前の通りを歩いていると、ツァーリの末娘であるアナスタシアが窓から顔を出しているのが見えたのです。
その時、ポドコリトフが立っていて、彼が、ライフルで彼女を撃ったのだ。
ただ、弾丸は彼女に当たらず、もっと高い位置から柵に突き刺さった。
ユロフスキーは、これらの暴挙をすべて知っていたのだ。
メドベージェフは、ポドコリトフがやったことを彼に報告したが、ユロフスキーは言った。"外を見せない "ようにと。

プロスクリャコフの証言

※6月23日 午前2時30分、見張り番のポトコリトフが3番ポストでライフルへの装填中に発砲した。
1918 年 5 月 13 日 - 7 月 11 日、
ニコライ 2 世の保護のための特別目的分遣隊のメンバーの職務簿より

衛兵との警備隊の交替によりそちらへの連絡が妨害された。交代の理由をご存知だろうか?質問にお答えする。われわれはツァーリと祖国への義務の自覚を失っていないロシア軍将校の一団である。われわれが素性を明らかにしない理由は、おわかりいただけるだろう。あなたがたの友DとT(ドルゴーフとタチーシチェフ 7月10日処刑)が、われわれを知っている。ちなみに彼らはすでに安全な場所にいる。熟慮の時は近づき、王権簒奪者の命運は旦夕に迫っている。なにはともあれ、スラヴの軍勢はエカテリンブルグへの進撃中で、市から数ヴェルスター(1ヴェルスター=1066.8メートル)の地点にある。機は熟しつつあり、いまや流血を恐れてはならない。ボリシェヴィキは終局的にはいかなる犯罪もあえて辞せぬであろうことをお忘れなく。時機は到来した。われらは行動に映らねばならぬ。階下の機関銃は危険ではないので、ご安心あれ。警備司令についてはわれわれは彼を連れ去る方法を心得ている。真夜中の前後の口笛を待たれよ。それが合図である。
一将校からの手紙 1918年7月4日以後
一将校への回答 同時期

”アレクサンドラ皇后とアレクセイが宿泊していた部屋には、庭に出る窓があり、通りからは木の柵で仕切られていた。彼女は頻繁に窓の外を見たり、窓の近くに寄ったりすることを許されていた。しかし、一度だけ、アレクサンドラ皇后が窓に近づくのを許したことがある。すると、見張り番から「銃剣で突くぞ」と脅された。 彼女は私に文句を言った。私は、窓から外を見るのは禁止されていることを告げました。”
”処刑の3、4日前(11日)になると、アレクサンドラ皇后の窓には鉄格子が取り付けられました。これに関して、ボトキン医師は、他の窓にも同じような網戸をつけるとよいと言った。”

朝一〇時半ごろ開いている窓のところに三人の労働者がやってきて、重い格子を持ち上げ、それを外側の窓枠に固定した。ユロフスキーからは予告もなかったのに。この手合いの人物がますますきらいになる!
ニコライ二世の日記 1918年7月11日

一〇時半人夫たちが外にあらわれて、たったひとつ開いている窓の外側に鉄格子をとりつける工事を始めた。われわれが窓を乗り越えて外に逃げたり、衛兵と連絡をとったりするのではないかと、いつも恐れているに違いない。
アレクサンドラ皇后の日記 

手紙の真相

”そういう手紙を出すべきだということになった。すぐに文章を作成し、回答を求めるために文章を作成しました。ヴォイコフがフランス語で口述し、私が書いて書き留めたので、これらの文書には私の筆跡が残っています。そして、2回目は、たしか、2通の手紙も内部の警備員の一人を通して送られました。看守の列は2つありました。それで、この人は内勤の警備員で、二つのフェンスがありましたから、内勤の警備員で、ある同志を通して、特別に指示を受けて、それを手渡したんですね。
ええ、彼はそれを皇后に渡しました、あるいは......。

彼女だったと思います、受け取り人が皇后だったと思います。

そこから手紙が来たとか来なかったとか?

今は覚えていませんが、いずれにしても、そこからの手紙はありませんでした。

その手紙はだいたい何日前くらいに届いたのですか?

一週間前かな、一週間半前かな...。”
ロジンスキーの証言 1964年

”エカテリンブルクに密かにやってきた君主主義者たちは、時には捕らえられたツァーリを解放することを期待していただけでなく、家族自身もいつでも誘拐されることを覚悟して、遺書に接触する機会を一度も見逃さなかった。エカテリンブルクのチェカ(秘密警察)は、この心理を、実に簡単な方法で見出した。ベロボロドフ、ヴォイコフ、チェキストのロジンスキーは、ロシア将校組織を代表して、エカテリンブルクの陥落が近いことを知らせ、ある日の夜に脱出の準備をするようにという手紙を起草した。ヴォイコフがフランス語に翻訳し、イザヤ・ロジンスキーの美しい筆跡で朱書きされたこの手紙は、衛兵の一人を介して皇后に手渡された。(19〜20日)その返事はすぐに来た。2通目(25日)の手紙を作成し、送付した。部屋を観察すると、ロマノフ一家は2晩も3晩(25〜27日?)も外出着のまま過ごしていた。脱出の準備は完璧だったのだ。ユロフスキー氏は、このことをウラル地方評議会に報告した。

ユロフスキーの1922年の証言
”ニコライと外部との手紙のやりとりの痕跡が見つかっていることから、捜索の必要性がないと判断されたのだと理解する必要がある。”


メドベージェフ(クドリン)の証言 1963年

ニコライ二世の日記、とある将校の手紙
革命期の政治の夢と個人の苦悩 ロマノフ王朝滅亡

アレクサンドラ皇后の日記

ユロフスキーの証言


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