TRPGは誰とでも遊べない

2014年07月05日13:11


 僕はTRPGを誰とでも遊べません。
 世の中には誰とでも遊べる人もいらっしゃるかもしれません。
 「誰とでも遊べる」ということが、理想であり至上の価値観だと思う人もいるような気もします。
 その考えを論破して、無下にしてしまおうという考えは毛頭ありません。

 自分の考えの表明を行い、今後の住み分けのために、関係構築(改善)の一助にしようと記録を残します。

目次

 1.誰となら遊べるのか誰となら遊べないのかなんてわからない
 2.人間関係は変化する。人間も変化する
 3.変化を強要した場合、人間関係は硬直する
 4.人間関係にはそれぞれの歴史があり取り巻く環境がある
 5.相手を許容しようという気構えは尊い
 6.「ドキッ☆実録レポート!サークルの先輩と後輩の関係に迫る!」
 7.それでもTRPGは誰とでも遊べない


1.誰となら遊べるのか誰となら遊べないのかなんてわからない

 その人とセッションができるか否かというのは、相手の人柄をみて判断しますが、僕はぬいぐるみにしか話しかけられない人とでも喜んでセッションをします。自分でも何が琴線に触れて、この人とはセッションできねー!って思うかは何とも言えません。
 それでも、大前提として、TRPGは誰とでも遊べないと思っています。
 実際に、「こいつとは遊びたくない」という思考が、その人との関係改善の機会なく根付いているのが論旨の根幹を築いています。

 ・関係改善

 という言葉の通り、関係は改善されます。
 学ばない人間はいません。
 それがいつ学ばれるものなのかは見当もつきませんが、喧嘩してる最中に考え直す場合や(数秒から数分)、翌日にはコロッと手の平を返している場合など、様々な模様と期間があり、中には死ぬ間際になって思い直すというそんな人生を掛けた壮大な人間模様もフィクションではよく聞きます。

 以下、余談になります。
 この関係改善も都合のいい言葉です。
 「自分は変わったからもう大丈夫」と、いつまでも根に持っている相手が悪いと、そういう主張をする方が時折いらっしゃいます。
 「関係」という言葉が指す通り、ひとりの人間が考えを改めただけでは関係など改善されるものではなく、大なり小なり共有した時間を過ごす必要性があり、また積極的な行動(あるいは関係を促すイベント)によってこそ関係は劇的に変わるように思えます。
 関係とはひとりだけでは成しえないものとまでは強く断言しませんが(どうせ世界は繋がってますからね)、よりよい関係作りというものは迂遠な環境では構築しにくいものでしょう。

 話題を戻します。

2.人間関係は変化する。人間も変化する

 人間関係は変化します。
 人間そのものも変化します(ここで成長という言葉は使いません)。
 「誰とでも遊べない」の「誰」とは、個人を指す言葉ですが、性質を指す言葉でもあります。
 変化を遂げた個人に執着するにはよほど割り切れない怨恨があってのことでしょう。
 袂を分かった人間の変化を知る機会を得られない場合なんて常々あります。
 性質を変えたと分かれば、あとはそれを知る機会さえあればきっと「その人とセッションができるか否か」という検討・判断をし直すことも出来る気がします。
 もちろん、世の中はそんなに都合よくいかず、別にその人と遊ばなくても世の中には他に遊べる人もいるわけで、あえてその人を視野に入れる必要もなければ変化を知る機会というものもなかなか得にくいものです。
 一期一会とはよく言ったものですね。

3.変化を強要した場合、人間関係は硬直する

 この場合の変化とは、前述した「人間関係」および「人間の性質」の両方を指します。
 強要とは「権利の行使を妨害し、義務なきことを強制しようと意思をぶつける」こととしましょう。

 「気に入らないから直した方がいい」
 「あなたのためだから」

 などを求められた場合、自身によほどの正当性を感じているか、もしくは空気に酔ってんじゃあねえのかなぁと、僕は思えてなりません。
 もちろんそういった言葉を好意的に解釈する場合もありますから(デレる可能性のある美少女とか)人間は都合のよい生き物ですね。
 明日には考え方が変わってるかもしれない辺り、ろくでもないとも思いますが、それでいいとも思ってます。

 そんな都合のいい人間フィルタリングを通した上で、「権利の行使を妨害し、義務なきことを強制しようと意思をぶつける」行為であると判断してしまった場合、その求めを「強要」とします。
 「絶対に違う」とおっしゃる方もいるでしょう。別段異論はありません。何せ、発信者と受信者では空気を通す分、解釈が違ってきて当然です。
 その解釈に気分を悪くした人がいれば、出来る限り誤解を解こうと思いますが、そもそも気分を損なわないように言葉を選んで返答しますし、面倒くさいと思えばまた別の対応と取ることになります。

 ともあれ、いわゆる「When you gaze into the abyss, the abyss gazes into you(深淵&深淵)」ですから、強要したと判断された場合、人間関係の構築は硬直します。
 その結果、何が起こるかは何とも言えません。
 「セッションしたくない」と思っても仕方がないでしょう。
 「おっしゃる通りだ!心を入れ替えます!」となる可能性もあります。
 「そうでもしないと相手には伝わらない」という主張もあるようですね。

 強要によって得られるのは、自己主張(自己紹介)の機会であり、住み分けの判断機会とでもいえばいいのでしょうか。

4.人間関係には歴史があり環境がある


 飽きた。
 お昼休憩が終わりました。

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