人間関係の有効数

2014年08月09日18:51

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 書き殴り。

 どこぞのルールブックでは、交友関係は7つくらいが限界だよ!みたいな記述がありますが、インターネッツ時代過渡期の消費者発信型メディアが普及する昨今(2年前の段階)では、「5-15-50-150-500」という人間関係のパターンが意識されているようです。
 http://techwave.jp/archives/51739226.html

 ダンバー数という言葉をさらっと用いているあたり、かなりカジュアルな雰囲気で書かれている気がしますが、ここら辺は僕個人の感傷ですから、「そういうもんなんだ」程度のお話しでよいのでしょう。
 そのロビン・イアン・マクドナルド・ダンバー(イギリスの人類学者)先生は、論文にて「5-12-35-150-500-2000」というクラスタ分けをしていますから、こういったクラスタ分けはダンバーの系譜と言えます。
 http://www4.ocn.ne.jp/~murakou/socialbrain.htm

 余談になりますが、「感傷」と書いたのは、ダンバー数の調査法に関して思うところがあり、かといってロビン・ダンバー先生が人類学者として信用のおける人だと過去の著書から感じていますし、そもそもこういう「定数」というのは何かを構築する際の基準(参考点)にするためのものなのだろうなぁという認識がありますので、みよがしにダンバー数150と言われると、いいようにあてはめたんじゃねえのかなぁとか思ってしまうわけですよ。
 基準として認識されていればさほど何も思いませんが、そうでもないと身構えてしまうわけですね。まさに心構え(感傷)のお話しで、他者の思考(認識)を配慮した辺り「大きなお世話じゃ!」と思われるのも至極当然な心構えでしょう。
 (余談、以下省略)

 閑話休題。
 先日、Twitterにて、井上(仮)さんの呟きがリツイートされてきました。

 内容の是非はともかく、これを読んで、一番最初にURLを貼った「Groupedの書評」(http://techwave.jp/archives/51739226.html)にある、「・一緒に笑った相手には、より寛容になれる。(「Social laughter is correlated with an elevated pain threshold」 by Robin Dunbar)」これを連想したものです。

 連想しただけでそれ以上思うこともなく、ごく自然に飲み込んでさらっと次の瞬間には別のことを考えていましたが、ついさきほど(これを書き始めて15分が経過しています)に、「交流の難しさ」というような文章を目にしました。

 それに対して、この日記の文頭にある「どこぞのルールブックでは~」と、人間関係を数量化した話題を持ち出そうとして、面倒くさくなって自分の日記で書くことに相成ったわけですが、ここまでが導入部分です。

 自分の日記では公序良俗に反しなければ思う存分好きなことを好きな分量で書けます。飽きたら書くのをやめてもいいのです。
 宗教的な話題もきっとTRPGSNSでは「面白い解釈だ!」と情報扱いしてくださるかもしれません。
 政治的な話題は、さほどそういった好意的な解釈には繋がらない気がしますので、よほどのことがなければさして書くこともないでしょう。

 では本題です。

 「既定の能力値の項目に対して数字をあてはめる」という行為をわざわざ書き殴って説明すると誤解を招きそうなくらいに、「筋力=数字」という表現は浸透していてその表記法が完成されてます。
 一方、「能力の項目自体を自分で考える」という手法も、Aの魔方陣や番長学園などでアプローチがあります。

 「数値化」「定量化」という行為は、先の余談で述べてしまっていますが、何かを図るための「基準」を作っているとも言えます。
 とはいえ、「高ければ高いほどいい」という認識もありますが、この二者においての違いはとても重要な要素です。
 数値の偏りによって「個性を表現できる」という発想ではなく(その発想には、「すべての能力値が最大値の超人という個性」がすでに含まれますし、ゲームとしての数値的上限という限界を「有意数」として目の当たりにするかもしれません)。


 「数値化」「定量化」という行為は、先の余談で述べてしまっていますが、何かを図るための「基準」を作っているとも言えます。
 とはいえ、「高ければ高いほどいい」という認識もありますが、この二者においての違いはとても重要な要素です。
 そういった解釈の違いはひとりの人間に複数内包されてもかまわない物で、唯一の結論を固持する必要もありません。
 複数の検討案件を内包してこそ有意義な思考ではないかと小賢しく思う気持ちもありますけど、そうでもないケースもあって、ここではこれ以上特にああだこうだとは言わないでおきましょう。

 本題というのは、タイトルの通りに「人間関係の有効数」です。

 インターネッツという舞台において、複数の人間になりすませてしまうということに、「5」という数値は少なすぎるのではないか。と、常々思っています。
 すでにこれにも僕には結論が出ていて、「親密ではない」と断じてしまうのが都合が良く、親密なのだと主張をしたところでそれは感傷的なものではなく、定義として分類されてしまっているのだと割り切ってしまうのが健全です。

 こちら(http://illcomm.exblog.jp/10648402/)で、「Web上の自殺を図って、“全然真剣なつきあいではない人たち”から切断することのメリットを説明している。」という一文にあるように、Web上での付き合いはその枠組み(関わり方)を、高次(二次→三次)に変換しなくては、「真剣」にはならないような気がしています。

 とはいえ、「5」という数値を常々少ないと思っているのは間違いがなく、割り切れていないというよりも、きっとインターネッツ過渡期において、人間模様も何か進化しているに違いないと、そう希望を抱いているわけです。
 あるいは、早々に「親密ではない」と断じてしまいたいのかもしれません。
 相反するようですが、どちらかが起因であって、反証によって疑問を潰すという行為なのかもしれません。

 こういった一連の情動(論理的な思考ではなく情動)は、結局のところ「より正確な基準が欲しい」という欲求から発生しているもので、「普通」というものを追い求める行動なのだろうと自覚しています。

 普通を知りたい。
 という至極全うな思考は、法律を学べば解決するという精緻なものではなく、それを根幹文化として他人を観察することや他者の言い分、書き綴ったものからしか推測ができない事情が背景にあります。

 自分でも何を書きたいかわかりませんし、わからないから書き殴っているのか、すでに書きたいことを吐き出し終えたのか、ともかく綺麗に終われるめどがたちませんので、これくらいにしておきます。 

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