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友人や替えの利く誰かだとしても

 友人だから甘えてしまうことはある。

 年齢を重ねるごとに、自分の価値観を変えることはできず(増やすことはできるそうですが)、周囲の人間に対してこれまで培ってきた自分のスタイルで接してしまい、叱責を買うことがあります。

 年齢を重ねるごとに、友人は得難く(そうでもないと個人的には思っていますが)、その友人を「替えの利く誰か」としてしまう人もいらっしゃるようで、これもきっと変えられない価値観からなる処世術になってしまっているのでしょう。

 そうなってしまっては、コミュニケーション下手と断じてしまってもいいような気もしています。
 苦しいことを考えるだけのキャパシティが足りていないのかもしれません。そんなことは、すれ違い、不快な思いをした人間にとっては何ぞやと吐き捨ててしまうことでしょうけども。
 相手に、自分に付き合う寛容さを要求しているとも言えますし、逆に付き合えないならそれでいいやと割り切ってしまう自分本位さも先述の通りでしょう。

 「親しき仲にも礼儀あり」

 まさに、この言葉の通りで、年齢相応に社会常識・社会通念・社交性を身に着けていれば、やれるんじゃあねえのかなぁ…と、そういった不和のお話を聞くと愕然とするわけです。
 ただ礼儀がないだけの人ならば、そもそも付き合いが始まりにくく、礼儀以外に目を見張る何かがあったり、その時その瞬間にお互いを必要としていた時期もあったりしたのでしょうし、最初は礼儀のようなものがあったのかもしれません。

 お互いに求めるものが違ったがための断絶というのも自然な流れですが、そうなる誰かの何かが悪いということもなく、社会常識・社会通念・社交性…というのも、けっきょくスタイルの違いで、すれ違っただけとも言えます。

 「親しき仲にも礼儀あり」という言葉は、礼儀がさも当然であると決め打った言葉です。
 そして、何事にも言えることですが、程度の問題もあります。

 すれ違ってしまったなら、ただ割り切って付き合いを疎遠にするのではなく、すり合わせて謝罪するなり、次回に生かすなり、そうありたいものです。
 それができないなら、コミュニケーションが下手なんじゃあねえのかなぁと、他の理由も考えつつ眺めてしまいます。
 実際、集団に属するのは面倒くさいですし。
 距離を取りたいなぁとか、関わりたくねえなあと思うことはよくよくあります。


 願わくば、世界が雑音で満たされぬように、平穏で静かでありますように。

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