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金具屋の歴史その9(昭和末期1980-90頃)

私事ですが80年代の直前、1979年3月にワタクシ九代目が生まれました。その1か月後に機動戦士ガンダムが放送される、とそんな時代でありました。

昭和54年改装後ロビー

ちょうど私が生まれた年に完成した新本館「神明の館」。前号で当時の社長はこれを『日本建築の伝統美に統一した』と発表していましたが、60年代のモダンに比べたら和に近いものですが、シャンデリアや大理石調のタイルなど、和洋混在した様子がわかります。ただこれは全国の旅館の流行りだったようで、これも時代というわけです。

そしてこの改築をもって、金具屋の建物はほぼ現在の状態になります(玄関回りと廊下、6階がのちに改装されるのみ)。

ちなみにこのロビーが私が幼少のころさんざん遊びまわっていた場所でして、非常に懐かしいんです。ソファーで妹とオセロをやったりバーでジュースをもらったり、4階のゲームセンターでブロック崩しやディグダグ、エアホッケーなんかをやって遊んでいました。ハスキー2匹を連れ込んだり。……完全に公私混同ですね笑。そんなのが許されてた時代だった気がします。

1988年 フロントにて

フロントまわりの写真がないかなーと見つけたのがこれ。9歳のころですね。この写真で注目していただきたいのが私の左のマーク。実はこれは長野オリンピック招致のシンボルマークです。その横に「国内候補地に決定」とあります。85年に長野県議会でオリンピック招致が議決し、88年6月に国内候補地に選ばれました。ちょうどそのころの写真です。

さらに第2次スキーブームの来ていた志賀高原。87年には「私をスキーに連れてって」が大ヒットし、スキーブーム、志賀高原ブームは全盛になります。

なにしろ世の中はバブル景気で右肩上がり。
なにをしたって売上はあがるし放っておいてもお客さんはわんさか来る。
さらにオリンピックを呼ぶぞ!というイケイケドンドンな感じは子供ながらに感じていました。しょっちゅうたくさんの芸者さんが団体に呼ばれてきていたのも覚えています。

ちなみに、これを書いている2024年にヒットした「不適切にもほどがある」というドラマは、2024年と1986年頃を行き来する話でしたが、金具屋ではそこでも話で出てくる11PMの生中継(金具屋から放送した)なんてこともあったそうです。

あ、でもずっとびっくり混浴だった露天風呂はこの時代には男女を分ける塀ができています。

露天風呂 1985頃

さすがに混浴はこの時代でも「不適切」になってきたんですね。


さて、このように、時代はまさに絶好調だったのです。
しかし、七代目は自らが掲げた長野オリンピック招致の責任者として宿を離れ、八代目は志賀高原のホテルの社長として宿を離れ、金具屋は残った従業員による放漫経営により、危機に陥ります。売上はあがっても利益がまったくでていなかった。

したがってこの時代にどの旅館もやっていた設備投資も行えず、設備は老朽化、サービスも低下し、評価は下がる一方。

子供ながらに華やかに見えていた時代は、決して良い状態ではなかったのです。


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