【90年代小説】 シトラスの暗号 #6
Ⅲ.トラブルメイカー
渋谷はちょっと苦手。アイドルソングの歌詞にそんなのがあったっけ。
新宿は下品だから嫌い。池袋はもう飽きちゃったし、横浜や自由が丘は遠すぎる。かと言って、六本木なんて行けるような年じゃない。
じゃあ渋谷はどうかって言うと、好きなんだけど、どこかついていけない感じで気後れしてしまう。
だから「ちょっと苦手」っていうのがピッタリな表現だと思う。
渋谷っていうと、イコール若者の街ってイメージが定着していて、あまりいいようには思われてないみたい。
新聞には駅前の路上に吐き捨てられたガムの写真が、これみよがしに載せられている。
でも、あれって差別よ。わたし知ってる。ドブネズミ色スーツの街、新橋だって相当なものだ。
チャパツやボディピアスなんてひとりも居ないのに、霞が関に向かう外堀通りには、大量のガムが貼り付いている。
大人の皆さんは、わたしたち若者の若さ(それは仕方のないことなのよ。わたしたちが若いのは誰のせいでもないでしょう?)を妬んで無闇に批判するよりも、まず自分がしていることを考えてほしいものだわ。
もうそろそろ水着がバーゲンに出される時期だ。
可愛い水着を見つけると、買うわけでもないのについ手に取って見てしまう。
S高にはプールがないから、中学卒業以来、水着は着たことがない。海やプールに行く相手が居ないんだから仕方ないかな。
占いには『夏に新しい出会い。プールサイドで待つこと』なんて書いてあったけど、わざわざそのために出掛けるなんてあさましいんじゃないかしら。
ああいう所って、女の子同士で行くって感じじゃない。男女グループか、彼とふたりでってイメージだ。
そして、とりあえず彼ってものが、わたしには居ないのだった。
水着を買う前に男か。でもその前に、もう少しスタイル良くしたいな。
ウエストは人並みにくびれてるけど、胸の谷間は、寄せても上げても乾季の用水路みたいに浅いし。その分なのか、お尻が大きい。
あまりカッコイイ体型じゃないと思う。
7月の第1週。
5限で終わる水曜日の放課後。期末テストが近いというのに、わたしはひとりで渋谷に来ていた。
他の女の子と違って、わたしはひとりで行動することが多い。独立心が強いと言うより、単に協調性がないだけかもね。
テスト前だからと言って、寸暇も惜しんで問題集に向かうなんてことはしないタチだし、必要もない。ただ目下最大の問題点は、物理をどうするか、だった。
織田修司とは、例の3度の逃亡以来、特に何事もなく過ぎていた。
バカにされっぱなしなのはシャクだけど、実際どう攻撃したらいいのかわからないのだ。攻略本でもあったらソッコーゲットしてるところよ。
もちろん、あんなセクハラされたままで黙ってる手はないって思う。何かいい方法はないものか。
ところでわたしが心配してるのは、物理の成績そのものじゃなく、それによって変化してくる評定平均値の方だった。
また説明しなくちゃ。
評定平均値って言うのは、通知表の成績を5段階評価に換算して、全教科通しての平均を出した数値のことだ。
S高では、卒業時に3年間の評定平均値によって、上から8名が表彰される決まりになっていた。
1位から3位までが、学校創設者の名前を冠した川中島賞。その下の5名が理事長賞を受賞する。
今までの成績でいけば、体育が万年3のわたしでも、理事長賞はもらえるはずだった。
トップ20の表同様、嫌味なしきたりだとは思うけど、くれるってものはもらわなきゃ損だ。
けれど、このまま物理を落とし続けたらアウト。過去2年間の努力が水の泡ってわけ。これはマジにならざるを得ない。
109-②を出て、スクランブル交差点を渡った。もうすぐ5時だというのにすごい暑さだ。
きっと、砂糖に群がるありんこのようにわさわさ集まってくる、ハチ公前待ち合わせ教信者たちのせいだと思う。彼らの体から暑苦しいオーラが出ているに違いない。恋愛パワー恐るべしだ。
ハチ公前と言ったら、夕方6時からは激戦区。おそらく、渋谷で最もPHSが繋がらない空白地帯。
本当に会えるのかどうかも疑わしい、こんな所で殉教するよりも、もっと気の利いた場所をセッティングできないものかしら。他人事ながら心配になる。
なのに、いつ来ても信者は一向に減る気配がない。ほんとご苦労さまって感じだ。
渋谷に来ると、まず初めにチェックするのはソニープラザ。
女の子たちは、人生に必要なものは全てソニプラに売っていると信じている。ルーズソックスを履いた脳みそまふまふちゃんたちで、売り場はいつも一杯だ。
そんな中に混ざっていると、やっぱりわたしも女子高生なんだなって思う。いやだいやだと言っていても、結局そうなのだ。スケジュール帳に貼るシールなんか、買ってしまったりして。
ちっちゃなスタンプ集めも凝っていた。ウサギとかクマとかカエルとか、用もないのに買い込んでは、ノートや手紙にペタペタ押す。
そんな用のないものたちが、わたしたちにとっては必要なものなのかもしれない。わたしの脳も、綿あめ化が進んでいるようだ。
後はどこに寄ろうか。ハンズで文具を見て、時間があったらHMVにも寄ってみようかなんて考えながら文化村通りを歩いていたら、呼び止められた。
「こんちは。カノジョひとりかな? 何してんの?」
なんだ、オジサンじゃない。つまんないの。
何か期待して歩いていたわけでもないのに、ついそう思ってしまった。それはつまり、期待していたってことだ。
わたし、物欲しそうな顔していたのかな。情けない。
「別にぃー。買い物とか」
答えてしまうからいけないのよね。
だけど、サングラスを外したその人は、まあまあイイ男だった。それでちょっと気が緩んだかも。
年の頃は30代前半。サロン焼けだかなんだか知らないけどよく焼けていて、ヒゲを生やしている。ヨレッとした白いパンツにレトロな柄のアロハシャツ。シャツはビンテージものかもしれない。でも、金のチェーンはいただけないな。
とにかく、カタギのサラリーマンじゃないってことは確かだ。
「制服カワイイね。どこのガッコ?」
「えー、ちょっと。あんまり有名じゃないから」
うちの制服は、モスグリーンとグレーのタータンチェックだ。そんなに可愛いとは思わない。
ベストとプリーツスカートを組み合わせて、襟には学年カラーのリボンタイを結ぶ。冬服はこの上にネイビーブレザー。胸ポケットにはあまり格好良くないエンブレムが付いている。
校内ではベスト着用がマストだけど、暑いからみんな学校を出ると脱いでしまう。
セーラー服よりはマシだけど、せめて夏服くらい、もう少し明るい色調だったら良かったのに。デザイナーものの制服を着ている子たちがうらやましい。
「時間あったらちょっとお茶しない? 制服でも大丈夫でしょ?」
かなり背が高い。その長身を折り曲げて目を覗き込まれると、ドキッとする。
「えー、でもぉ」
お茶くらいならいいかなと思ったけど、とりあえず否定的な相槌を打っておく。いくらイイ男だからって、尻尾を振ってついて行ったんじゃ安く見られてしまう。
「そんならごはんは? この辺のうまい店、いろいろ知ってるよ」
どうしよう。ちょこっとだけ付き合って、もししつこかったらベル番でも教えてお茶を濁せばいいか、と思った矢先。もっとイイ男がわたしをガン見しているのに気が付いた。
何? 今日はモテモテ記念日?