具のないラーメン

最近、ブラック校則が話題なので、気になったことをまとめてみた。

①制服を着用させ、同質化させることで貧富の差を無くす→文房具すらまともに買えない家庭に制服は負担ではないのか?(健康的に生活させるためならジャージでいいし、制服にするなら支給するべきである)

②秩序を保つため、風紀を乱さないために髪型を指定する→そもそも髪型と学力の相関性とは?(派手な色に染めない、前髪は目にかからない程度、体育の時は肩下の長さの髪を結ばせる程度でよいのでは?)

公立の小学校と異なり、中学高校は地区内や偏差値のレベルに合ったところに行くため
貧富の差はあまりないと思うし、
給食費より遥かに高い制服を買わせたり、同調圧力的な同質化をさせることで
合理的とはかけ離れた、ただ徹底的に異質なものを排除している。
偏差値の低い学校では、治安の悪い生徒が集まり風紀が乱れ、規則を厳しくしないと悪い方向に走るのは分かるが
ほとんどの学校が自称進学校で、制服会社と提携を組み、ネームブランドのために指導しているのではないか。
 たったの3年間、将来の志望校にかける思いより、理不尽な規則に物議を醸して権力に立ち向かう人が何人いると言うのだろう。
 今日(こんにち)、成績評価は教師に委ねられ、教師も評価のために言動の一つ一つを気にする時代、誰も権力の前で正当な発言をできないのだ。
社会に出ても、そうした人々は理不尽な決まりに耐え、不平不満を口にして、変えようとはせず、また下の世代にこれが社会のルールだと言う。

「理不尽なら、合理的なルールの場所に行けばいい」

「学校は合理的な場所ではない、勉強だけを教えるのは塾の役割だ。」
こうした発言をする人は、塾に行くお金や時間の余裕があったのだろう。
現状、公立に通う学生の多くは、自分のレベルに合わない筆記(英単語の書き取り、漢字の書き取り、感想文)をさせられているし、部活の参加は強制だ。
 与えられた時間や猶予が違うと言えば、小学生じゃないんだし学校くらい自分で選んだら?
という意見が聞こえてくるが
地区外の学校を受験する倍率を知っているのだろうか?地区内の学校ですら、都心では学校数が少なく私立に通えない子どもたちが、地区外からもわらわらと集まってくる。
 その上、理不尽ではない校則や清潔な学校設備などを期待すると行ける場所はかなり限られてくる。
また、入学後初めて校則を知るということも珍しくない(暗黙の了解で、ホームページやパンフレットに明記されていない場合もある)

校則をラーメンと例えるなら
学校はラーメン店だが

もし、ラーメン屋さんで具材が一切乗っていない麺を出されたらどう思うだろうか。
メニューに記載されている文章を見落とした自分が悪いのだろうか?はたまた、期待した自分が悪かったのだろうか?


我々は、幸福の追求や個性の確立といった、秩序を乱さない程度なら当たり前に保証されている権利を守られていないのが現実で、いつしかそれがおかしいとすら気づけないよう麻痺しているのではないだろうか。

上の例は、ラーメンという何も無理を言っている訳ではない注文をしたのだが、ラーメンと呼べるものとはかけ離れたものを提供された。
この場合、私たちは、あー、この店ではこれがラーメンなんだなあと受け入れるのだろうか?
 もしここで、店主が、「私の店ではスープと麺が絶品なんです。だからシンプルに味わって欲しくてこういうメニューを出しているんです」と合理性を主張してくれれば、納得がいくだろう。
 しかし、「嫌なら出て行け、私の店は具がないのがラーメンだ。客ならこれを食って当然だ」と言われたら納得いくまい。
 
学校は、秩序とともにおかしな点に気が付いたら自分の立場を考えずに、おかしいと声をあげ、どうしたら改善するか建設的な意見を仲間と交わして、考えていく力を養う場ではないだろうか。
「大人しく従う方が、都合が良い」
「みんなが声を上げたら、どう収拾つけるんだ」
議論の場で様々な意見を汲み取り、まとめていくことが出来ない大人がマニュアル通りに指導していると考えるとゾッとする。

全ての物事に理由をつけ、合理的なものだけを行うということではない。
至って簡単なことを言っているのだ。

「人権を侵害し、尊重しないこと、排除する行為を正当化すること」
こうしたことをやめていかないか?ということである。
先ほどのラーメンの例で、私たちが違和感を持つこと自体がわがままなのだろうか?
当たり前を保証されないこと、それに対して声を上げること
それこそが正当なことではないだろうか。

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