ハナ、ツル、セツ (a)

(1)

海棠の花の下、尼寺の境内から、ハナとツルとを含め8人の女学生たちが、日傘と風呂敷包みを携え、教師に引率されて出発した。大船駅から横浜駅まで蒸気機関車に乗り、横浜駅から桜木町駅まで電車に乗り、桜木町駅から路面電車に乗った。横浜電気鉄道の路線を引き継いで4月1日から運行している、横浜市営電車である。駅前広場には、路面電車・自動車・人力車の停車場があるほか、自転車や馬車や大八車や乳母車が行き交っていた。路面電車は桜木町駅前広場を出て橋を渡り始めた。右手に、何本もの鉄の柱を両側と天井とでつないで籠を伏せたような「トラス橋」の大江橋がある。自動車・人力車・自転車・馬車・大八車・乳母車はそちらを通る。二つの橋の下を小舟が行き交う。橋の上と下とが、2階建ての上と下とのような近さである。このあたりは大岡川の河口から400メートル上流である。橋を渡り切ると「関内」である。電車はすぐに右に曲がってちょっと進んですぐまた左に曲がって、大江橋から続く道に入った。ここからは、尾上町である。

大岡川は、横浜の南南西約12キロメートルの円海山南麓、三浦半島の付け根あたりから流れてくる。鎌倉から横浜に行く鉄道の東側を、間に山々峰々を隔てて、ほぼ同じ向きに流れている。鉄道は横浜で北北東と南東とに分岐し、北北東に延びた線路は東京に至り、南東に延びた線路は、もとは海だったところの埋立地、桜木町に至る。大岡川は、桜木町駅の西南西約4キロメートルの弘明寺まで流れてきて東に曲がる。ここに一つ、市電の終点がある。弘明寺の下流約1500メートルで北東と南東とに分岐して、南東への流れは中村川と呼ばれ、約700メートル下流で東へ向きを変える。その中村川が南東から東へ向きを変えるあたりにもまた分水路が造られて、堀割川と呼ばれて南へ流れている。堀割川の河口の磯子にも市電の終点がある。大岡川と中村川とを結ぶ堀割が大江橋上流約80メートル地点から海岸線に平行するように造られて「派大岡川」と呼ばれている。中村川では派大岡川との合流地点から下流を堀川とも呼んでいる。「関内」は、大岡川と派大岡川と堀川と海に囲まれた地域である。すなわち、関内は、派大岡川の北東岸から海に向かって台形に広がり、派大岡川の南西側は「関外」と呼ばれている。また、堀川の南は元町である。元町は堀川に沿った細長い地域で、南からすぐそばまで迫る丘陵地帯が「山手」である。山手の西を堀割川が流れていて、東岸が根岸で西岸が磯子である。大岡川も派大岡川も堀川も堀割川も多くの小舟が行き交い、関内と関外と元町と根岸と磯子の人々の暮らしを支えている。派大岡川の桜木町側に大江橋と電車専用橋とが架けられているように、元町側にも西ノ橋と電車専用橋とが架けられている。

女学生たちは、市電の座席に座ると、さっそく風呂敷をほどいていた。取り出したのは、スケッチブックや筆箱や手帳やノートである。鎌倉の彼女たちの学校では、各教科の教師が校外学習のプログラムを作り、高学年の生徒全員が卒業するまでの間に、年に何回かあるうちのどれかのプログラムを1回以上選んで参加する。校外学習の最後にはディスカッションをおこない、生徒は後日、レポートを提出しなければならず、教師はその評価をしなければならない。もっとも、美術のプログラムなら絵画や彫刻で、音楽なら作曲で、国語なら詩や戯曲で、地理なら地図で生物なら標本でも良かったし、また、グループ製作でもよかった。ハナとツルを含む8人の女学生たちを引率しているのは美術の教師だった。

前に来たことがある場所でも、前に見たことがある物でも、絵や言葉にしようとするときに、改めて気づくことがある。同じ場所でも物でも、見る角度や季節によって、見え方が変わる。見る人間の背の高さや経験や知識によっても、見え方が変わる。月日が経てば、前にあったものがなくなったり、前にはなかったものができていたりする。ある瞬間を描きとどめたもの、書き留めたものが、過ぎた年月、見る人ごとに、違う意味を持つようになる。横浜はできて60年の新しい町である。しかしまた、人間ならば還暦で、一つの完成を遂げたともいえる。云々と、美術の教師は、校外学習プログラムのテーマを解説していた。

桜木町から関内に入った横浜市電は、途中までは1本の軌道だが、途中から、元町まで行くものと、派大岡川を渡って関外へ行くものとに分かれる。美術教師と女学生たちが乗った市電は元町へ向かう方、即ち、関内という台形の北西の隅からはさみを入れて半分まで切り、次に直角に向きを変えて二等分するような進路を取った。通りの両側は、ほとんどが木造瓦葺き2階建ての日本家屋の商店で、ところどころに、木造や煉瓦・石造りの洋館があった。

尾上町に入った途端に右手前方に見え始めた、周りの木造瓦葺き2階建ての日本家屋より一段飛び抜けて高い三角屋根の、大きな尖塔の真ん前が、最初の停留所であった。大きな赤煉瓦造りの塔は、教会の鐘楼であった。鐘楼は4階建てで、その隣、大岡川に近い方に、高い切褄屋根のてっぺんに十字架を立てた、赤煉瓦造りの教会の正面玄関がある。破風の妻壁に丸い薔薇窓がある。教会の名は旧約聖書に出てくる地名の「シロ」で、漢字で「指路」と宛てていた。電車の窓から、来た方向を振り返ると、まっすぐな道の向こうに大江橋が見えている。ここまでが尾上町6丁目である。電車が出発しても後ろを見続けていた。指路教会の塔の全体が良く見える。鐘楼は4階建てで、1階、2階、3階、それぞれの窓の形が違う。3階までは四角柱で、4階は四角錐で、四辺のそれぞれに突き出し窓がある。教会の建物は、市電の通り道に対して垂直の方向に、派大岡川の岸の近くまで延びている。2階建てだが3階建ての高さがある。派大岡川からの方がよく見えるはずだ。尾上町と派大岡川との間には港町がある。指路教会は尾上町と港町とにまたがっているのである。

指路教会が遠ざかって鐘楼の2階以下が見えなくなった頃、電車は、派大岡川から遠い方、海に近い方へ、曲がり始めた。右手に白い2階建ての洋館が見える。洋館の隅が三差路の角になっていて3階建ての白い円柱形の塔が建っている。くすんだ銅色の釣鐘そっくりの丸屋根が載っている。この建物は東陽銀行である。三差路の小路の隣に大きな木造瓦葺き2階建ての日本家屋がある。その前が2番目の停留所であった。向かって右から左に「毎便社」と大きく書いた横長の看板が目につく。毎便社は宅配便請負業である。改めて周りを見回すと、ここは、広場になっている。「毎便社」の「毎」の右にある道路が、「馬車道」である。そこを横断すると、建物があって直進できない。馬車道に出て行く軌道は二つに分かれて左右両方向に延びている。元町まで行く路線と、派大岡川を渡って関外へ行く路線とである。

元町を経て山手まで行く路線の乗り場は毎便社の前である。毎便社と東陽銀行との間の小路の向かい側にも停留所がある。その停留所を後ろから見下ろすような、3階建ての白い八角形の塔のある、白い2階建ての洋館が建っている。こちらの塔の3階は、灰色の8本柱の展望塔で、チューリップを伏せたような、青い八角丸屋根が載っている。この建物は渡辺銀行である。毎便社前と渡辺銀行前とで、上下線の乗り場を分け持っている。

渡辺銀行と馬車道との間も広場になっていて、毎便社の前から、派大岡川に架かっている橋を見通せる。吉田橋である。軌道も通っている。鉄筋コンクリート製で、両側に歩道とバルコニーと各々10本の電燈があった。毎便社から吉田橋までの間の馬車道の、渡辺銀行のある側は尾上町5丁目・港町5丁目、その向かいの、元町に近い側は尾上町4丁目・真砂町4丁目・港町4丁目となっている。吉田橋を渡って光明寺や磯子まで行く路線の上下線の乗り場を、渡辺銀行のある側の尾上町5丁目と、その向かいの真砂町4丁目とが、分け持っている。吉田橋の向こうは伊勢佐木町である。元町に近い側に伊勢佐木署がある。伊勢佐木署は赤煉瓦造り2階建ての洋館である。寄棟屋根で、てっぺんに四角柱の展望塔があるので、建物の中央部分だけが3階建てである。展望塔の屋根は、蕾を伏せたような四角丸屋根である。

美術教師とハナとツル含め8人の女学生たちの乗っている市電が尾上町5丁目の停留所を出発した。左に曲がって馬車道に入る。進行方向を見ていると、ずっと前方の左手に、横浜正金銀行の丸屋根が見える。反対に後ろの方を見ると、派大岡川の対岸に伊勢佐木署が見える。市電は、馬車道を海の方へ向かってちょっと進んで、すぐ次の角で右に曲がって、真砂町4丁目と尾上町4丁目との間の通りを直進した。次の停留所は尾上町2丁目である。

ツルは、スケッチブックとは別の帳面に漫画を描き始めた。東陽銀行の釣鐘屋根の円塔と渡辺銀行の伏せチューリップ屋根の八角塔とが、おしゃべりしているように見える。ハナが覗き込んで、マザーグースを書き加えた。

“Oranges and Lemons”は、ロンドンの教会の鐘たちがおしゃべりしている歌である。ツルが、派大岡川と吉田橋を描き加えた。ハナも、“London Bridge Is Broken Down”を書き加えた。

ツルが、伊勢佐木署も描いた。ハナも、“London Bridge Is Broken Down”の続きを書いた。

遊んでいるうちに、尾上町2丁目を過ぎて尾上町1丁目にある、「市役所前」の停留所に着いた。といっても、市役所の建物の前ではなく、市役所の向かいの横浜公園の西側の入り口の前である。市役所の建物は150メートルほど離れており、そちらにも、停留所はある。

台形の関内の「短い底辺」の中央、港町1丁目1番地に横浜市役所がある。すぐ前の道から派大岡川に橋が架かっている。港橋で、トラス橋で市電の軌道も通っている。港橋に通じる道をはさんで、市役所の南東側正面は、横浜公園の南西隅と向かい合っている。横浜公園は南西隅から北西隅までの長さが約300メートルある。港町1丁目、尾上町1丁目、常磐町1丁目、住吉町1丁目、相生町1丁目と向かい合っている。北西隅から北東隅までの長さは約200メートルである。つまり南北方向の辺が東西方向の辺よりも長い長方形である。

ハナとツルとが漫画を描いている間も、他の女学生たちは、電車の窓の外をスケッチしたりメモをとったりしていた。観察と記録の大切さもわかっているが、つい、空想にふけって、想像と表現に熱中する傾向がある、というのが、先の二人に対する、教師の評価である。

尾上町4丁目から1丁目へと進んできた電車は、横浜公園に突き当たって、丁字路を左へ曲がり、今度は、海へ向かって、まっしぐらに進んだ。住吉町1丁目にも停留所がある。それからまた、太田町1丁目、弁天通り1丁目、南仲通り1丁目、と通りすぎながら、海に近づいていく。本町通り1丁目の角に赤煉瓦造りの洋館、そして、ほっそりした美しい塔。北仲通り1丁目、元浜町1丁目。

海の近くで市電を降りた。「神奈川県庁裏」の停留所である。右手の角が神奈川県庁である。正面に海があるのだが、横浜税関の建物のせいで見えない。税関というのは、目の前の道路を渡ったところから一帯の埋立地や桟橋の施設をほとんど全部含んでいるのである。道路から向こう側は、「海岸通り」である。女学生たちは、ここから、もと来た道を戻るようにして、見学していくのである。それがなぜそこにあるのか、それがどこへ行こうとしているのか、想像しなければ観察できない、知ろうとしなければ記録できない、と教師が指導した。女学生たちは、横浜税関・神奈川県庁・横浜港を、低い所からも高い所からも、東側も西側も、スケッチをしたり、メモを取ったりした。

電車は神奈川県庁裏から右に曲がって海岸通りに入り、横浜税関の顔ともいうべき本庁舎の前を通り過ぎた。税関本庁舎の正面から横浜公園の北側の入口まで日本大通りがまっすぐ伸びている。すなわち、本庁舎の前は、海岸通りと日本大通りとの丁字路である。日本大通りには市電は入らない。市電は、横浜公園の西側から神奈川県庁の西側に来て右に曲がり、税関本庁舎の前を通り抜けて再び右に曲がり、横浜公園の東側に行くのである。あるいはその逆回りをする。日本大通りは1866年の大火を教訓として防火帯として造られたので、道幅が36メートルある。税関本庁舎の正面も同じぐらいの長さである。通りに向かってカタカナのコの字型をしていて、コの横棒の先端の幅が、植樹帯の幅とほぼ等しい。歩道が左右各々1メートル半、植樹帯が左右各々4メートル半、車道が12メートルである。人力車・馬車・自動車・自転車は車道を通る。徒歩の人と乳母車は車道と歩道を通る。何かの行事でパレードなどがあるときは、車道はパレードの花道、歩道は立ち見の見物席である。

海に背を向けて建つ、横浜税関本庁舎、赤煉瓦造り2階建て、切褄屋根の棟は、南西側、日本大通りから見るとカタカナのコの字型、コの字の2本の横棒の先端と縦棒中央に破風があり、破風の下に白い2本の柱がある。正面中央の屋上に六角形の塔があり、お椀のような丸屋根が載っている。塔の周りにバルコニーがあって周囲を展望できる。これはフランス人建築家サルダの意見を参考に税関職員が設計し、清水組の施工で、1885年に竣工した。横浜商業遊覧案内によれば、次の通りである。

是れ本市と重大なる關係を有し。又帝國と所外國との平和の戰爭なる商戦の勝敗は此役所の繁緩に依て決せらるゝなり。煉瓦造二階建三百三十餘坪。高さ六十餘尺。外に荷物置場六千餘坪吏員の数二百餘人。最近一ヶ年の關税収入は二千餘萬圓にして。輸出入額は四億萬圓に餘る。
(横浜手彩色写真絵葉書図鑑、税-税関,町-内-海岸通,通-日本大通、横浜税関庁舎、海岸通1丁目4番地、明治の横浜手彩色写真絵葉書)
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税関本庁舎の方を向いて日本大通りに立つと左手にある神奈川県庁は、振り返って正面を見ると逆コの字型、白い石と赤い煉瓦とを組み合わせた3階建て、コの2本の横棒の部分は寄棟屋根で、縦棒の部分は切褄屋根である。切褄屋根の中央棟の正面玄関の屋上はさらに一段高い屋根が組まれていて、正面の破風の中央に櫓が組まれ、円形の時計がはめこまれている。そしてその一段高い屋根から、にょっきりと六角形の塔が生えている。6本の柱で囲まれて手摺りが付いた展望塔である。塔の屋根は釣鐘のような形でそのてっぺんにまた同じ形の小さな飾りの塔がある。これは片山東熊の設計で、1913年に竣工した。横浜商業遊覧案内によれば、次の通りである。

本廰舎の舊舎は日本に於ける石造建築の嚆矢とも稱すべきものなりしが。改築の必要を生じ明治四十一年より四箇年繼續事業として。大正二年五月竣工し。更に新式の建築法に依り一層の美觀を呈せり建坪七百二十六坪三層高さ五十尺。縣下二市十一郡の行政を掌り。國權の伸長に寄與する本廰舎には。縣知事以下吏員二百餘名縣参事八名縣會議員三十八名を以て組織せられ。二部四課に分かつ。
(横浜手彩色写真絵葉書図鑑、公-県庁三,町-内-本町,通日本大通、三代目神奈川県庁、本町1丁目3番地、大正の横浜手彩色写真絵葉書)
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神奈川県庁の塔は、横浜税関本庁舎の六角塔から眺めるのが、最もよくその形がわかるのだ。見学の女学生たちは税関本庁舎の塔に昇った。

税関本庁舎の塔から日本大通りの方を眺めたら、右の手前の神奈川県庁の3階の、低い方の屋根の高さに、横浜郵便局の塔の丸屋根が見えていた。郵便局は赤煉瓦造りの2階建て、寄棟屋根で本町通り側の屋上に四角な塔があってその上に丸屋根が被さっていた。郵便局の向こうは本町通りで日本大通りに交差している。

税関本庁舎の塔から海の方を眺めてみる。大型汽船に中型汽船に小型汽船、旅客船に貨物船に漁船、ヨットにボート、帆掛け舟に手漕ぎ舟、煙突、白い帆、赤い帆、一枚帆、二枚帆、三枚帆、三角帆、四角帆、旗、旗、旗。海のそばまで来て、高い塔に昇って、やっと、見えたのである。

横浜港から、東洋汽船がこれや丸、大阪商船がせれべす丸、日本郵船が信濃丸・安芸丸・春日丸、カナディアンパシフィックラインがエンプレスオブジャパン・エンプレスオブロシアなどの、外国航路の大型旅客船を就航させている。港内では、横浜巡航汽船が乗合汽船を巡行させていた。

横浜港は、東からと西からと、2本の弧を描く防波堤に囲まれていた。東の堀川の河口からの馴導堤約50キロメートルと、西の帷子川の河口からの馴導堤約60キロメートルである。帷子川は大江川よりも西を流れ、桜木町よりも西の横浜駅の少し西に河口がある。東の馴導堤の先端に、白い東水堤燈台、西の馴導堤の先端に、赤い北水堤燈台がある。西の馴導堤の先端が、東の馴導堤の先端よりも、少し、北にある。

本庁舎という顔を南西側に向けた横浜税関は、北東の海に背を向けて両手を後ろに伸ばし、左手は肩のところからまっすぐ伸ばして指先を揃えた大桟橋、右手は上腕二頭筋のところに数字の4のような形をした埋立地、肘のところから「新港橋」でつながった「新港埠頭」が特別太い腕をまくっている。4のとんがったてっぺんが新港埠頭の方を向いている。新港埠頭は北東に向かって突堤を二つ突き出した凹字型で、アサリが2本の水管と舌を出して砂に潜ろうとしているような形に見えなくもない。

桜木町から、大岡川の河口の外側を周って4分の1円ほどの弧を描く、長大な鉄道専用橋が、新港埠頭に架けられている。鉄道橋の下には細長い埋立地が2箇所ある。線路は、凹字の左下隅から新港埠頭に入って3本に分かれ、2本が突堤の先端まで達している。突堤には、2階建ての上屋(うわや)があって、2階が旅客用、1階が貨物用である。2階と旅客船の甲板とに渡り板をかけるのである。突堤に並んだ上屋の前に、荷揚げ・荷下ろしのための起重機も並んでいる。突堤の両岸に外国航路の大型旅客船が停泊すると、旅客・見送り人・出迎え人で、一杯になる。他にも多くの上屋と、赤煉瓦造り3階建ての建物が4棟ある。保税倉庫が2棟ある。新税関と呼ばれる赤煉瓦造り3階建ての事務所も2棟あり、保税倉庫よりも左手、新港埠頭の、陸地に近い側、南西の端に建っている。鉄道専用橋から新港埠頭に来て突堤に行く2本と分かれた残る1本の線路は、新税関事務所と保税倉庫の間に達している。倉庫の中もプラットホーム状であり、貨物の移動が容易にできる。新税関の二つの棟の間から、海岸通りに橋が架かっている。鉄道専用橋・新港橋とは別の第3の橋は「万国橋」である。新港埠頭は、1917年11月に完成し、12月2日に盛大な祝賀式をした。万国橋は、大江橋や港橋と同じくトラス橋だが、両側が半月形になっていて、上をつなぐ部分はない。その代わり、両側の半月の上に4本の足を置いて、1889年のパリ万国博覧会に雄姿を現わしたエッフェル塔を100分の1に縮めたような塔が立っている。エッフェル塔は電波塔になっているが、万国橋の塔も、頭の小さい屋根の下に釣りランプのような電灯がある。新港埠頭から万国橋を渡ったところの右側、つまり西側に、東洋汽船の建物がある。木造2階建ての洋館で、寄棟屋根に突き出し窓があって屋根裏が3階になり、橋に一番近い隅が8本柱の展望塔になっていて、帽子のような丸屋根が載っている。大阪商船や日本郵船の建物が、万国橋の東側の海側にある。税関本庁舎の西側は、海岸通りの海側は町の名も海岸通り、海岸通りの山側は元浜町である。

税関本庁舎の東側から北東の海へ、大桟橋が伸びている。約700メートルあろうか。先端まで本庁舎の裏側から線路が敷かれている。外国航路の大型旅客船などが停泊するのは、先端から桟橋の半ばまでの、両岸である。2階建ての上屋(うわや)がある。上屋より手前に、人力車・馬車・自動車が並んで客待ちをする。大桟橋の半ばよりこちら側では、西へ突き出した波止場があって、内側が少し埋め立てられて湾曲している。その形状から、「象の鼻」と呼ばれている。象の鼻の根元に、赤煉瓦造り2階建ての税関監視部と、木造2階建ての税関旅具検査所とが並んで建っている。ここで、外国航路の旅客船から下りてきた人々の荷物を検査するのである。象の鼻の反対側、桟橋の東側にもまた船着き場がある。電話ボックスもある。ここにも客待ちの人力車が並ぶ。象の鼻の内側には多数の小船が係留する。大桟橋の根元までも船着き場がある。さらに、税関本庁舎の裏側から西側の埋立地まで、上屋が建ち並び、小船がぎっしりと係留する。さながら、混みあった銭湯のようになる。

大桟橋の根元の東側から海岸通りの海側にかけて鉤型に、水上警察署と横浜築港事務所と神奈川県測候所とが並んでいる。横浜築港事務所と神奈川県測候所とは海岸通り側である。神奈川県測候所は白い木造2階建て、屋上に台形の2階建ての塔があってさらにその屋上に手摺りが付いている。この手摺りの内側にロビンソン風速計やらジョルダン日照計やらがあって、日本中、いや、世界中の測候所と同じように、つまり、神戸海洋気象台でも、東京の中央気象台でも、ヨーロッパのアルプスのモンブランでも、北太平洋のアリューシャン列島のアムチトカ島でも、同じ機器を使った観測が、雪が降っても火が降っても、24時間365日、休まずに続けられている。横浜商業遊覧案内によれば、次の通りである。

桟橋の入口右に在り。明治二十九年の創設にして出入の船の船舶其信號に生命を託する所なり。赤玉黑玉色旗等を以て晴雨風向等を示す。
(横浜手彩色写真絵葉書図鑑、県-内-海岸通、神奈川県測候所、海岸通1丁目4番地、明治の横浜手彩色写真絵葉書)
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神奈川県測候所から300メートルほど東に「報時檣」がある。読んで字の如く、時を報せる檣である。毎日、午前11時55分に「報時球」を檣のてっぺんに電気仕掛けで引き上げ、正午に東京天文台からの電流が絶たれて、球が落下、港の船舶に時刻を報せる。球は赤・白・赤と3色に塗り分け、檣は白と決まっている。「報時檣」の東隣に波止場がある。ここにはボートハウスがある。ボートクラブやヨットクラブが利用する。他には、堀川の河口までさえぎる建物がないので、海岸通りの東側は、ヨットレースやボートレースの格好の見物場所になっていた。赤い帆や白い帆に番号を付けたヨットがレースをするのを眺めるのはどんなに爽快であろう。いや、ヨットに乗れたら、もっと、どんなに爽快であろう。

横浜築港事務所と神奈川県測候所との向かい側は、堀川の河口まで、洋館が並んでいる。海岸通りの山側にある町の名は山下町である。「バンド」とも呼ばれていた。英一番商会、香港上海銀行、ニューヨークスタンダード石油横浜支店、クラブホテル、オリエンタルパレスホテル、グランドホテルなどがある。見学の女学生たちは、税関本庁舎の塔を降りると、一通り、大桟橋や象の鼻を歩き回った。引率の美術教師が、そろそろ、次に行く合図をした。

日本大通りを歩いて神奈川県庁の前を通りすぎて横浜郵便局の角を右に曲がったらもう、ほっそりしてすらりと高い、赤煉瓦造りの時計塔が見えている。本町通りを市電の通り道まで戻って十字路の左斜め向かいの角、そこに、開港記念横浜会館がある。赤煉瓦造りの壁に白い花崗岩が横縞模様を付けた2階建てである。隅の時計塔は4階建てで、4階の4面の壁それぞれの天井近くに円形の時計がはまり、その屋上には手摺りが付いて、内側に八角形の展望室があり、さらにその上にもまた小さな飾りの手摺りと六角形の塔があってその上に丸高帽子のような丸屋根が載っている。時計塔の角で交差する二つの辺のうち、市電の通りに面した方の隅の棟は八角形で、丸屋根も八角形、8面のそれぞれに突き出し窓がある。八角丸屋根はチューリップを伏せたような形である。八角丸屋根のてっぺんにも、小さな八角形の8本柱の飾りの塔がある。飾りの塔の屋根は円錐形である。本町通りに面している方の、郵便局と反対側の隅の棟の屋根は、4辺が台形になっていてそれぞれに突き出し窓が付いている。この台形4枚を合わせた丸屋根のてっぺんは平たくて、まんなかから細い棒が天に伸びている。これは福田重義と山田七五郎の設計で清水組の施工、新港埠頭よりも5箇月早く、1917年6月30日に竣工し、7月1日に開館した。女学生たちは、開港記念横浜会館の時計塔をよく見るために、八角丸屋根の棟に登ってみたり、開港記念横浜会館全体の屋根をよく見るために、郵便局まで戻って塔に登ってみたりした。女学生たちがスケッチを終えたころ、ちょうど逆回りの市電が来たので乗り込む。もと来た道を戻って、尾上町5丁目の交差点で降りた。吉田橋を渡る。橋のバルコニーから桜木町の方角を見ると、港町岸の指路教会が見えた。渡り切って関外へ、伊勢佐木町に入った。横浜案内には次のように言う。

横浜を見物するものは是非とも伊勢佐木町の賑ひを探らねばならぬ、東京の浅草公園、大阪の道頓堀と並び稱せられて我邦繁盛地として有名なることは少しく世間に明るきものの知らぬことはない、此通りは伊勢佐木町、松ヶ枝町、賑町通りの一体を總稱するものにて、先づ軒並みは劇場、寄席、大弓場、魚釣り場、射的場、玉突き場などの遊戯場、日本西洋は申すもさらなり、支那料理の料理飲食店、其外書肆、小間物、寫眞師、雑貨店、日用品、贅澤品等を商ふ店があって、一度び此町に足を入れれば一つとして不自由を感ずることなく、殊に夜間は群衆往来して雑踏を極むるので知らず識らず夜の更くるのも覚へぬのである。
(横浜手彩色写真絵葉書図鑑、亭-新富亭,町-外-伊勢佐木町,通-伊勢佐木町通)
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(2)

伊勢佐木町の1丁目から2丁目へと歩きながら、ハナとツルとを含む8人の女学生たちは、交互に前になり後になりして、後ろ姿をスケッチした。スケッチするのは2人ずつ、あとの2人と美術教師とが、4人分の風呂敷包みと日傘、それにランチの入ったバスケットを2個、持っていた。バスケットはずっと交替で持ってきたのである。2丁目16番地まで来ると、右手に、勉強堂書店、赤いポストの看板のある絵葉書問屋の「トンボヤ」、「諸國名産食料品」店の「マルマン」が並んでいる。左手に、3階建ての白い洋館「越前屋」呉服店がある。

美術教師と8人の女学生たち、越前屋に入り、屋上庭園へ。皆が交替で婦人用化粧室を借りて、いよいよ、ランチである。大船駅で買って来た、サンドイッチと押し寿司、魔法瓶に詰めてきたミルクティーと緑茶である。たいへんな食欲である。合間に、さっき歩きながら描いた互いの後ろ姿の絵を見せ合って、なぜもっと美人に描かない、どうせ顔は見えない、顔が見たくなるような楚々とした雰囲気にせよ、誰が楚々としている、と侃々諤々、喧々囂々。ランチが終わると、交替で屋上から景色を眺めながら、もう一度、婦人用化粧室を借りた。伊勢佐木町2丁目の南西に梅ヶ枝・竹ヶ枝・松ヶ枝町があってその先の長者町・賑町に、角力館や、電氣館・オデヲン館・又楽館・敷島館などの活動写真館、喜楽座・朝日座などの劇場、寿亭などの寄席が集まっている。見学団は越前屋を出て、長者町へ向かった。勉強堂書店が1909年に出版した『横浜名所写真帖』に、喜楽座の写真が載っている。

*横浜手彩色写真絵葉書図鑑、町-外-伊勢佐木町
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*『横浜名所写真帖』(斎藤国造編、勉強堂、横浜、明治42年6月、1909年、国立国会図書館デジタルライブラリー)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/764454

喜楽座は横長の木造3階建て切褄屋根、2階は芝居の看板で壁が覆われて窓が無く、3階は窓が小さな屋根裏で、屋上中央が半月形に盛り上がり、その上に六角形の塔があり、塔の周りに手すりの付いた見晴らし台があり、塔の屋根が円錐形のドームになっていた。しかし、喜楽座は1915年に建て直されて洋館になった。正面に4階建てに見えるような装飾壁があって脇にも半分ぐらいの高さで続き、塔をほぼ隠してしまった。正面の装飾壁には窓があり、3階にも装飾的な窓がある。2階は芝居の看板で壁が隠されている。喜楽座は外側が洋館になっただけでなく、中身も、横浜で初めての、椅子に座って観る劇場になった。

日本最初の椅子席の劇場は、1908年12月1日に開場した、東京の有楽座であった。額縁付きの舞台とオーケストラボックスと観客席とが一つの大きな箱の中に収まり、扉を開けて廊下に出て、休憩所や食堂に行くのであった。東京には、その後、1911年3月1日に帝国劇場もできたが、それらは例外で、劇場と呼ぼうが芝居小屋と呼ぼうが、客は下足番に履物を預けて下足札を受け取り、平土間の升席や桟敷にすわり、幕間に弁当を食べていた。

活動写真も同じだった。日本で最初の常設の活動写真館は、1903年10月に東京の浅草で開場した「電氣館」だった。それまで、活動写真は、各地を移動して小屋掛けで興行し、旅芝居や曲芸などと併演併映していた。たとえば、田舎の港町の神社の境内で、テントの中に子供が潜り込んで只見をすることもあったのである。浅草の電氣館は、はじめ、洋画、すなわち、アメリカ合衆国(United States of America, USA)やヨーロッパから輸入した映画だけを見せた。のちには国産の活動写真も上映するようになった。「電氣館」は、やがて、全国各地にできたが、どこも同じで、客は履物を下足番に預けて下足札を受け取り、座布団に座って観る。上映には、あたかも人形浄瑠璃に義太夫が付くように、弁士と楽団が付く。フィルムが一巻終わるごとに、弁士が、「ただいま、第何巻の終わり、引き続き、第何巻を御覧に入れます」などと言い、部屋の明かりが点き、映写技師がフィルムを架け替えている間に、蜜柑や煎餅やラムネを売りにくるのであった。一つの活動写真に何人もの弁士が付いて、登場人物一人一人のせりふを言った。鳴り物も入れた。娘義太夫や浪花節や琵琶の出語りもあった。弁士は説明者あるいは解説者とも呼ばれ、洋画を上映するときには、日本との文化の違いなども説明した。常設の活動写真館は専属の弁士と楽団を雇っていた。

ロシア帝国と大日本帝國との間で1904年2月8日から1905年9月5日まで続いた戦争が終わる頃から、ヨーロッパのほとんどの国とUSA・中華民國・大日本帝國などが参加して1914年7月28日から1918年11月11日まで続いた大戦が終わる頃まで、USAでは、「ニッケル」と呼ばれる5セント硬貨1枚で入場できる劇場「オデオン」が流行した。「ニッケルオデオン」は、小規模で、換気が悪く、冷暖房がなかった。短篇映画と、ヴォードヴィルやイラストレイテッドソングなどとを併映併演した。ヴォードヴィルは歌・踊り・手品・一人か二人で演じる短い喜劇などを含み、イラストレイテッドソングとはスライドを上映しながら歌と演奏を聞かせるショーである。上映にあたっては、オルガンかピアノを画面に合わせて演奏し、観客が合唱した。そして、観客の出身地に合わせて、チェコ語、ドイツ語、イディッシュ語、イタリア語などで司会や案内をした。また、ニュース映画も上映し、外国の風景とともに、その国の音楽を演奏した。たとえば、イタリアからの移民は、イタリアの風景映像とともにイタリアの音楽を聴くことができた。ニッケルオデオンは、大戦後、衰退した。ヴォードヴィルやイラストレイテッドソングを併演せずに映画だけを見せる映画館が増えた。映画館は楽団を雇っていた。しかし、弁士は日本独特だった。

横浜で最初の常設の活動写真館は、1908年、伊勢佐木町にできた「喜音満館」である。喜びの音が満ちると書いて「キネマ」である。同1908年に横浜にも「電氣館」ができた。「オデヲン館」は1911年12月25日に開業した。「又楽館」の開業は1912年である。美術教師に引率された、ハナとツルを含む8人の女学生たちが伊勢佐木町に来たのは、喜楽座を見学するためではなかった。喜楽座の正面の4階建ての洋館でその上に塔まである又楽館でもなかった。又楽館の隣にある、3階建てで中央が切褄屋根の洋館で、洋画を専門に上映し、西洋音楽を演奏できる楽団のいる、オデヲン館である。建物ではなく、映画を観にきたのであった。

映画は、映像で物語が進行する画面と文字だけでせりふを映す画面とが交互に現われた。その文字画面は、黒地に、石英か水晶の叩かれて割れたような形が描かれていて、飛び散った火花のように、あるいは、雫のように、文字が並んでいた。「第一幕」は、画面の左側が塀でぴったりと塞がれている。右側には樹木がある。どこかの庭である。画面の手前、塀に作りつけた腰掛けに、フロックコートを着た二人の男がすわっている。一方は若く、一方は年寄りである。年寄りの男は、我々の周りには幽霊がいて、そいつらがわたしを家庭から追いやった、妻子から追いやったと言う。なんだか、目を見張ったような顔つきをしているのは、幽霊が見えるのであろうか。そこへ、裾も袖も地面に届く程長い、白い服を着た、若い女が、画面の奥から手前に歩いてきて、若い男が賞賛と憧憬のまなざしを向けている前を通りすぎる。若い男は彼女を婚約者だと言い、それから若い男の回想が始まる。

「第二幕」からの、回想の物語は、まるで絵の中に入ったような世界で進行する。その絵というのは、子供の絵のような、あるいはわざと、記号的に、象徴的に描いたような絵である。舞台の書き割りがあって、遠くに山とその麓の町並みと道、その手前にテント、その手前に斜めになった柵。柵の向こうに、シルクハットが現われ、徐々に、左から右へと進みながら、男の上半身が現われてきて、その柵は階段の手摺りだったとわかる。シルクハットを被り、マントを纏い、片手にステッキを、もう一方の手に分厚い本を携えて、丸眼鏡をかけた、年配の男が、舞台の中央に姿を現わした。男は立ち止まって得意そうに客席を見回すような仕草をしてから、ステッキをささえにぎくしゃく、よろよろと、画面の手前に歩いてきて、画面の外に去る。

画面が変わる。屋根裏部屋だから天井が斜めなのは当然としても、それ以上に、いびつである。窓枠は、窓枠の影のようで、家具も、影に色を塗ったようである。たとえば、椅子は、背もたれが異様に長い。つまり、椅子に斜めに光を当てれば、影が長く伸びるであろう。その影を垂直に立てて色を塗ったようである。椅子の背に手をかけて本を読んでいた若い男アランが、退屈したらしく、窓辺に行って外を見て、途端に顔色を良くし、出かけて行って友人フランシスを誘い、カーニヴァルに行く。フランシスが、回想をしている若い男である。

画面が変わって、人々が歩いている道の両側は、やはり、書き割りのようである。やけにせまくるしく、いびつになっていたり、建物の壁に落書きのような絵が描かれていたりする。その絵というのは、鉄筋コンクリートの鉄筋のようなものだったり、ペンキをそこらにぶちまけたようだったりする。街路樹も落書きのように見える。建物の窓は、不揃いな四角形である。長方形とか正方形ではなく、台形とか、どれか一つの角が丸くなっていたりする。街灯も、花のつぼみか何かのようにゆがんだ形である。建物の壁も斜めになっている。

役所の部屋では、人の頭の高さの机と椅子で、フロックコートを着た男が、机にかぶさるような姿勢で事務をとっている。机の周りに立っている、フロックコートの男たちが、事務をとっている男を見上げて口々に何か訴えている。この部屋も異様にせまい。シルクハットにマント、ステッキ、フロックコートに丸眼鏡の年配の男が、名刺を出してカリガリ博士と自己紹介し、カーニヴァルで見世物をする許可を貰う。その見世物とは「夢遊病者」である。

最初に現われた舞台の書き割りの場所が、打って変わって、様々な見世物や大道芸が行われ、人々が楽しむ、カーニヴァルの場所になっている。大道芸人カリガリ博士が、テントの中に客を呼び込み、壁に立てかけた大きな箱の観音扉を開けると、眠っている男チェザーレがいる。黒い、からだにぴったりした丸首の上着に、やはりぴったりと脚にはりついた、舞踊家のタイツのような黒いズボンを穿いている。顔は白塗りで、目の下に黒い隈がある。カリガリ博士に命じられると、目を開けて、両手の指を広げて何かをとらえでもするかのように前に突き出して、ゆっくりと歩きだす。人形が操り糸で引っ張り出されでもするかのように。

だいたい、この映画の登場人物は、たとえば殺人の現場検証をする男が3人揃って向きを変えるときなど、まるで3体の人形が同時に操られているような動きをする。チェザーレは、人知れず、恐ろしい罪を重ねていた。彼が横や斜めを向くと、その姿は、細長い影のようになる。そしてその顔が、日本の般若の面のようになる瞬間がある。

アランとフランシスはふたりともジェーンを愛し、ふたりのうちどちらを彼女が選んでも、親友でいつづけようと語り合っていた。しかし、アランは恐怖のうちに殺されてしまった。

チェザーレはジェーンの部屋に侵入する。部屋はやたらと縦に細長く、窓枠は斜めで、大きな窓と窓の間の壁の模様は、うずまきが縦に並んでいる。チェザーレはジェーンも手にかけようとしてためらい、騒ぎ出した彼女を抱きかかえて逃げ出す。煙突が突き出た屋根の上を歩き、急峻な隘路を駆け下りる。彼を追いかける人がどんどんふえて、一列になって狭い道を駆け下りていく。チェザーレはジェーンを置いて逃げる。枯れ木のはえた坂道の途中で糸が切れたように立ち止まり、両腕を伸ばしてよろめく細い黒い姿が枯れ木そっくりである。

この世界で比較的広々としているのは精神病院の中庭だけである。中庭の正面の建物に幾つもの入口があり、そこから見える階段は、上の方が暗くなっている。病棟の廊下も部屋もいびつで狭い。司直に追われて逃げ込んだ大道芸人カリガリ博士が、ほかならぬ院長として部屋におさまっている。友人アランを殺されたフランシスは遂にその秘密を暴く。

「第六幕」で、回想が終わり、元の庭で、二人の男は腰掛けから立ち上がって、画面の奥へ歩き去る。画面が変わるとまた、精神病院の中庭である。いろいろな人が思い思いのことをしている。学者のような老人が、激高し続けている。椅子に座って、ピアノを弾いているように手を動かし続ける女性がいる。年寄りの男と一緒に庭から戻ってきたフランシスが、ジェーンを見つけて話しかける。ジェーンは「玉座」の「女王」になっている。フランシスが、チェザーレがいると言って騒ぎ出し、恐れをなした年寄りの男が立ち去る。そしてすべてが反転する。第二幕から第五幕までで完結したと思われた世界が、実は、第一幕から第六幕までを、包含していたのであった。まるで、ねじれた帯のようになって。

映画を見終わったあと、美術教師と女学生たちは、オデヲン館を出て、ちょっと、もと来た道を戻ってから、越前屋と反対の方角に向きを変え、長者町郵便局のそばの、市電の乗り場まで行った。さして待つことなく乗りこめた電車は、伊勢佐木町とひとくくりに呼ばれる一大歓楽街の南西の端まで行き、右折して北西に向きを変えて進み、大岡川を渡った。このあたりは、大江橋上流約1300メートル、大岡川と中村川との分岐点から約1キロメートル下流である。右手の海に近い方に野毛山、左手に久保山が見えている。市電は野毛山の周りを大回りして横浜駅、次いで桜木町駅まで行くのだけれど、美術教師と女学生たちは、谷に入って最初の停留所で降りた。少し、野毛山に登る。

瀟洒な西洋風の邸宅に、鎌倉の女学校の卒業生のひとりが住んでいた。美術教師が、きょう、ずっと、大事そうに抱えてきた風呂敷包みからお土産を出して渡した。ガラス扉の向こうに花壇の見える部屋で、コーヒーとケーキが供された。女学生たちもくつろいでおしゃべりに花を咲かせた。いや、校外学習の最後の課程、ディスカッションをした。ディスカッションを経なければ、レポートを書くこともできないのである。午後に鑑賞した映画について、白熱した議論が展開した。邸宅の主人もその映画を観ていたので、興味を持って参加した。

ハナは、あの若い男と年寄りの男は、ほんとうは同一人物なのではないか、若い男は何度も何度も、何年も何年も、あの回想を繰り返しているのではないか、と言い、ツルは、ほんとうは彼が親友を手にかけて恋人を奪ったのではないか、と言った。そんなはずはない、あの年寄りは、幽霊が家庭を奪ったと言っていた、若い男は婚約中に気が狂ったのだから別人だ、と反論する生徒もいた。美術教師はおもしろがって、どれが正しいとも言わなかった。

映画は、1920年2月にドイツで公開された、”Das Cabinet des Dr. Caligari”であった。横浜のオデヲン座では『眠り男』の題で、1921年4月23日に封切られた。美術教師は封切りを見てから、当初は校外学習のプログラムに含めていた、横浜市役所と横浜正金銀行の見学を、映画鑑賞に差し替えたのであった。

”Das Cabinet”とは、大道芸人カリガリ博士の見世物の入っている大きな箱のことである。監督はロベルト=ヴィーネ、脚本はハンス=ヤノヴィッツとカール=マイヤー、カリガリ博士役はヴェルナー=クラウスである。屋外での撮影はなく、すべてがスタジオでの、人工照明による撮影であった。それ以前の映画は、屋外撮影が普通で、スタジオであっても天井を硝子張りにして、太陽光を使用していた。スタジオのセットを製作したのは、美術雑誌”DER STURM”に集う人々だった。

美術教師は、1914年3月に東京の日比谷美術館で開かれた「DER STURM 木版画展覧会」を観たのだった。その展覧会には、アレクセイ=フォン=ヤウレンスキー、ワシリー=カンディンスキー、エルンスト=ルートヴィヒ=キルヒナー、マックス=ペヒシュタインなどの、「表現主義」の作品が並んでいた。ワシリー=カンディンスキーはドイツで画家としてまた美術理論家として活躍していたが、1918年からソヴィエト社会主義共和国連邦(Union of Soviet Socialist Republics, USSR)で活動していた。USSRでは、ロシア=アヴァンギャルドと呼ばれる前衛芸術運動が、社会主義革命前から続いており、共和国成立後、政府に奨励されていた。一方、USSRと大日本帝國とは1918年からシベリアで戦争をしていた。USSRの軍隊は赤軍と呼ばれている。樺太北端の対岸の、アムール川河口のニコライエフスクには革命前から日本領事館があったが、1920年、赤軍に協力するパルチザンによって、革命に非協力的とみなされたロシア人とともに、多数の日本人が虐殺された。

美術教師は生徒たちに展覧会の図録や美術雑誌を見せながら、表現主義(Expressionism)の解説をした。20世紀の初めにドイツにあらわれて、映画や音楽にも影響を与え、ことに、1914年7月28日から1918年11月11日まで続いた大戦によって、ヨーロッパの人々が空前絶後の暴力と破壊、喪失と苦痛を経験した後、さらなる抽象主義や卽物主義や超現実主義などに発展している。建築の分野でも、今日、見学した、六角形や八角形の塔や丸屋根を備えた建物とはまったく異質の装飾や形式の建物が、新しい潮流となっている。建築だけでなく、家具調度でも新しい波が起きている。大戦が終わったとき、東京や横浜でも祝賀会がおこなわれ、日本在住の戦勝国の人々が伊勢佐木町で仮名手本忠臣蔵の仮装行列をした。日本は大戦に参加したものの、ヨーロッパのような総力戦を経験せずに済んだ。むしろ、輸入が途絶えたので国産の鉛筆の製造が増え、樺太に製紙工場ができた。ヨーロッパとは異なる新しい表現が、私達の手元から生まれるだろう、と美術教師は締めくくった。

卒業生の家を辞した女学生たちと美術教師は、野毛山公園に行って横浜市街と港を眺望し、山を降りて桜木町駅まで歩き、電車で横浜駅に戻った。夕陽に照らされて、帰りの汽車に乗りこんだのであった。座席に並んですわったハナとツルとは、ランチをとったときに越前屋の斜め向かいの絵葉書屋「トンボヤ」で買っておいたお土産を、取り出して眺めた。楽譜絵葉書というもので、4枚1組になっている。少女雑誌のような、ロマンチックな絵であった。

ハナが買ったのは『船頭の唄』で、絵は山田まがね、詩が野口雨情、作曲が中山晋平である。利根川の船頭の唄だが、絵は、まるで、地中海かどこかの若いカップルのようである。娘は膝より少し下ぐらいまでの長さのスカートをはいている。

ツルが買ったのは『水郷の唄』で、絵は「みやざき」で、作詞作曲者は書いていなかった。琵琶湖の水郷の唄で、絵は、室町時代のような髪型と着物の男女である。

沖のかもめとは、娘の恋人であろうか、と、ハナとツルとは、語り合った。

”Das Cabinet des Dr. Caligari”は、翌月、1921年5月に、東京の浅草のキネマ倶楽部で、『カリガリ博士』の題で公開された。谷崎潤一郎が、その批評を時事新報に載せている。

「『カリガリ博士』を見る」(「時事新報」大10.5.25, 27)
「浅草のキネマ倶楽部でやつて居る「ドクトル・カリガリのキヤビネツト」を見た。評判が余りえらかつたので多少期待に外れた感もしないではないが、確かに此の数年来見たもののうちでは傑出した写真であつた、純芸術的とか高級映画とか云ふ近頃流行の言葉が、何等の割引なく当て嵌まるのは恐らくあの映画位なものであらう。」
「映画のテクニツク」(前掲)
「先達アメリカのキネマ界を風靡し、日本に於いても評判になつた独逸表現派の映画"The Cabinet of Carigari"に使はれてゐるアイリスは、わざといびつな円を用ゐて、まるで紙屑が丸められて行くやうに、皺くちゃに窄まつて行きましたが、さう云ふ風な新しい奇抜な技巧が、今後も追ひ追ひ工夫されることでせう。」
(「谷崎潤一郎の映画受容(三) : 大正八年~十年」“The influence of cinema on the works of Junichiro Tanizaki : 1919-1921”, 佐藤未央子、同志社国文学、84, pp.129-143, 2016-03-20)
http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000015439

谷崎潤一郎は、中央公論や婦人公論などに小説を発表する一方、「大正活映」の文芸顧問を務め、脚本を書いていた。大正活映とは、東洋汽船の社長が1920年に設立した映画製作配給会社「大正活動写真株式会社」である。そもそものはじめ、USAから来たベンジャミン=ブロツキーが、1916年に「東洋フィルム」社を設立し、山下町に建てた撮影所を、継承したものである。「東洋フィルム」社は、ドキュメンタリー映画”Beautiful Japan”を製作した。装置係のジョージ=チャップマンは、喜楽座の道具方の尾崎庄太郎に技術指導をした。喜楽座は、1915年に横浜で初めての椅子席の劇場に改装しただけでなく、「連鎖劇」も製作した。連鎖劇とは、同じ舞台で芝居と活動写真とを交互に上演上映するものである。役者が屋外で演技するところを撮影し、上映するときには舞台の袖で役者がせりふを言う。ただ単に屋外の風景だけを書き割り代わりに使うこともあった。活動写真の良い所は、文字通りの活動で、人力車が疾走する場面とか、追いかけっこ・戦場などの場面に適していた。連鎖劇は全国的に大流行していた。

1916年、オデヲン館は、4月29日、イタリア映画『カビリア(Cabiria)』前篇を封切り、続いて、5月10日、後編を封切りした。上映にあたって、その映画専用の楽譜に従って演奏した。前後篇合わせて4時間の長尺で、しかも、専用の曲があることが、画期的だった。マンリオ=マッツァとイルデブランド=ピッツェッティとが、オペラなどからの引用と、独自に作った曲とを合わせて、音楽を付けていた。

”Cabiria”は、イタリアでは、大戦が始まる前の、1914年4月に公開されていた。紀元前3世紀の地中海西部、シチリア・カルタゴ・ヌミディア・ローマの覇権争いを時代背景としている。カルタゴとヌミディアとは、現代のチュニスとアルジェとであり、幾多の王朝の興亡を経て、フランスの植民地になっている。カビリアとはシチリアの裕福な貴族の娘の名である。エトナ山の噴火で、幼いカビリアは乳母に抱かれて避難、放浪流転の末にカルタゴに着く。幼い子供たちが大勢集められている施設に、カビリアは保護された。お祭りの日、巨大な神殿に人々が集まり、祭司の指示で、椅子にすわったモロク神像の腹が、オーブンの蓋のように開き、中で燃え盛る火に、生贄の子供が放り込まれる。この日のために集められていた子供たち、一人ずつ。乳母は、偶然に出会った、ローマの青年フルヴィアスとその奴隷マチステとに懇願し、寸前でカビリアを助け出してもらう。乳母は自ら犠牲となってカビリアたちを逃がす。マチステはカビリアを膝に載せて、なでてまるめてかわいがる。ヌミディアの王子とカルタゴの将軍の娘との悲恋にからんだ騒動で、マチステは捕えられて粉ひきをさせられ、カビリアは将軍の娘に保護され、フルヴィアスだけが逃げ延びる。歳月が流れ、カビリアは優しい娘に成長し、フルヴィアスの誠実さと、マチステの堅忍不抜さによって、数多の危険を乗り越え、希望を抱いて、ローマへの船路に着く。

ジョバンニ=パストローネ監督は、古代の城郭都市や巨大な神殿神像の、本格的な構造物のセットやミニチュアの模型を作り、移動撮影と人工照明を駆使し、火山の噴火による貴族の館の崩壊・宗教儀式・戦争・群衆をダイナミックに演出した。巨大な立体をよじ登ったり伝い下りたり歩き回ったりする人々は実に小さかった。神殿の祭司が片手を挙げ、指を一本一本折り曲げて拳を作る場面を大写しにし、異様で不気味な雰囲気をきわだたせた。カルタゴのハンニバル将軍がローマに進軍する場面では、実際にアルプスを撮影した。もっとも、雪原の画面に兵隊が歩く映像を重ねたようで、やや不自然であった。また人々の会話は、横から映す画面だけで終始した。すなわち、舞台劇をそのまま記録したような映像であった。それでも、”Cabiria”の撮影技法と上映に伴う音楽の革新は成功し、各国で称賛された。

日本では、従来の歌舞伎や浄瑠璃を「旧派」あるいは「旧劇」と呼び、それに対して、人気の出た新聞連載小説を舞台化している「新派」と、おもに西洋の翻訳劇を上演している「新劇」とがあった。旧派あるいは旧劇の芝居を屋外で演じさせて活動写真にしたものも「旧劇」と呼んだ。新派には女形と女優と両方がおり、多くの連鎖劇を上演上映した。1916年、菊池幽芳の小説『毒草』が『大阪毎日新聞』『東京日日新聞』に連載された。1917年、『毒草』を東京の映画会社3社が競作、揃って3月11日に浅草で公開した。小林商会では、新派の俳優の井上正夫が監督・主演し、クローズアップ・カットバック・移動撮影・説明字幕などの革新的な撮影技法を導入、3人の女主人公のうちの一人を女優に演じさせた。他の2社は、3人の女主人公を女形が演じていた。同1917年、連鎖劇は、火事を防ぐために、法律で上演上映を禁止された。

1918年、東洋汽船の社長が東洋フィルムを支援し、USAで俳優をしていたトーマス=栗原を撮影所長兼映画監督に迎えた。トーマス=栗原監督『成金』では、クローズアップや、俳優の顔が次第に薄らいで、消えていくと同時に、俳優が頭の中で思い描いた映像が現れて、それが消えていくとまた俳優の顔が現れるという、「二重写し」のような技法を駆使し、また、町なかを全力疾走する主人公を移動撮影してスピード感溢れる画面を作った。

「新国劇」は、新劇出身の澤田正二郎を中心に、新派や歌舞伎とも異なる新たな大衆演劇を目指して1917年に結成されたものである。行友李風の戯曲『月形半平太』『国定忠治』を1919年に初演して、大当たりをとった。歌舞伎の「荒事」や「立ち回り」と異なる「殺陣(たて)」で、激しい「剣戟」を実演して人気を獲得した。19世紀前半に関東平野を南北に分ける利根川の流域で縄張り争いを繰り広げた博徒達が、講談や浪花節のヒーローになっている。国定忠治はその一人である。19世紀後半には、東海道の博徒が名を挙げた。その頃には一部の武士が京都に集まり、倒幕と佐幕とに分かれて戦っていた。月形半平太は、そんな武士たちをモデルに、行友李風が創作した人物である。月形半平太は長州藩の勤皇の志士、美男子で女にもてる。「月様、雨が」「春雨じゃ、濡れて参ろう」という、粋なやりとりが受けを取った。『国定忠治』では、「赤城の山も今宵限り、縄張りを捨て国を捨て」という切ない台詞が受けを取った。月形半平太は味方に裏切られ、新撰組に囲まれて「死して護国の鬼となる」と柱に大書して斬り死にする。国定忠治は史実で刑死する。新国劇以外にも剣戟を見せる一座がふえ、「剣劇」という分野が成立した。女優たちも活躍した。

1919年3月、USAの映画『イントレランス(Intolerance)』が日本でも公開された。“Intolerance”は、USAでは1916年9月に公開されていた。既にヨーロッパでは大戦が始まっていたが、USAはまだ参戦していなかった。監督・脚本はD=W=グリフィスである。3時間余りの長編で、現代のUSAと、16世紀後半のフランスと、紀元1世紀のユダヤと、紀元前6世紀のバビロニアの物語が交互に進み、切り替わりの画面で、古代ユダヤのような衣装の女性がゆりかごをゆらしている。壁際の椅子にも3人の女性がいる。

16世紀フランスの物語では、国王シャルル9世と王の母カトリーヌ=ド=メディシスの宮廷の壁に、貴婦人とユニコーンの綴れ織りが掛けられている。王の弟はペットの世話で暇を潰していると字幕が出ると、次の画面で、宮廷で貴族に囲まれた王子のポケットの2匹のかわいい子犬が大写しになる。庶民の町で、茶色の瞳の娘の魅力に兵隊がひきつけられた、という字幕の次の画面で、娘の上半身が大写しになり、さらに、その顔が大写しになる。

古代ユダヤの物語では、最初に、エルサレムのヤッフォ門が登場する。大勢の人々が行き来する門の高さは、駱駝に乗った人の2倍ぐらいである。

古代バビロニアの物語では、バビロンの巨大な門が登場する。奴隷が回す回転軸で門が開く、機械仕掛けである。対するにバビロニアを攻撃する敵軍の巨大な戦車は5階建ての建物ぐらいの大きさがある。それでやっとバビロニアの城郭に届くか届かないかである。バビロニアの「山の娘」はお転婆すぎて兄に無理矢理結婚市場に売りに出されるが、買い手がつかない。たまたまやってきた王が、「山の娘」に、結婚するもしないも自由に決める権利を与え、市場から解放する。恩義に感じた「山の娘」は、弓矢を取って王のために勇敢に闘う。バビロニアの繁栄、そして、戦闘の描写で、大勢のエキストラが画面一杯に登場する。

現代のUSAの物語では、労働争議が起こり、州兵や、会社の雇った警備員に銃撃されて、労働者は敗北し、散り散りになる。主人公の”Boy”と”Dear One”とはニューヨークのコニーアイランドでデートし、結婚するが、次々と不運なできごとが重なる。”Boy”は司直に捕われ、”Dear One”は偽善的な慈善団体に赤ちゃんを奪われる。

結末に近づいた四つの時代の物語は、もはや、ゆりかごの場面を挟まずに交差し、無実の罪で死刑にされる男を救うために、知事の乗った汽車を自動車で追いかける人々、蒸気機関車の疾走、レールから間近に映した車輪、バビロンへ危急を告げるために「山の娘」が御する2頭立ての戦車の疾走、バビロンへ向かう騎兵の大部隊、歩兵の大部隊、十字架を担って歩むキリスト、聖バルテルミーの日に始まったユグノー教徒の虐殺、それぞれの画面が、交互に登場し、三つの時代の史実に基づいた結末が、最後に、絞首刑を執行するために衝立の影で綱を切るためのナイフを構えている3人の刑務官の手に収斂する。

USAのD=W=グリフィス監督の1916年公開“Intolerance”の紀元前6世紀のバビロニアの場面と、イタリアのジョバンニ=パストローネ監督の1914年公開”Cabiria”とは、古代の城郭都市の繁栄と戦争、巨大な建築、群衆や兵隊など、よく似た場面が多い。前者は後者の撮影技法をより発展させて、さらに映画独自の表現に成功したものと言える。大群衆・大部隊・戦闘場面は、“Intolerance”のバビロニアが一層、立体的で迫力に満ちている。D=W=グリフィス監督は、1915年3月にニューヨークで公開した映画”The Birth of a Nation”と、1916年に公開した“Intolerance”とで、一つの場面を複数のカメラで撮った映像で構成する方法を確立した。それまでの映画は、ワンシーン・ワンショットと言って、一箇所に固定したカメラで一つの場面を撮っていた。さらにまた、異なる場所で同時に起きている2箇所以上の場面を交互に繋ぐクロスカッティング、異なる時間に起こった複数の出来事を意味的な連続性で交互に繋ぐパラレル編集、ここぞというところで注目すべき部分を大写しにするクローズアップ、逆に遠くから周囲を含めて全体像を撮るロングショット、カメラを左右に動かすパン、移動撮影など、多くの画期的な撮影技法を確立した。

D=W=グリフィス監督の”The Birth of a Nation”は、USAで興行的に大成功した。この映画は上映時の演奏用に、ジョセフ=カール=ブレイユ作曲の楽譜を付けていた。“Intolerance”でも、ジョセフ=カール=ブレイユとジュリアン=カリージョ作曲の楽譜を付けた。“Intolerance”は、USAでは興行的には失敗したのだが、ヨーロッパやUSSRで大成功し、絶賛された。USAでも、革新的な撮影技法や、その映画専用の作曲は普及して、換気が良くて冷暖房完備の大規模な映画館で長編映画が上映されるようになったのである。

東京の映画会社「天然色活動写真」で、帰山教正が「純映画劇運動」を提唱して、女優を起用し、『生の輝き』『深山の乙女』を製作、1919年9月13日に公開した。新劇の、「踏路社」の青山杉作・近藤伊与吉・村田実、芸術座の花柳はるみ等が出演した。また、これも純映画劇運動の一環として、字幕を入れ、弁士を付けないこととされた。

「純映画劇運動」を迎えるまでの日本映画は、映画監督が「カメラのそばで台本を読み上げる。役者はそれに従って演技する。カメラはある場所に固定されたままで、演技する俳優をフルショットで撮影する」ものであった。映画は「舞台の上で進行するおしばいを記録し、フィルムにかんづめにする」ものにすぎなかったのである(瓜生忠夫『モンタージュ考』)。
(「第4号 2005年2月 シネマのまち・横浜」横浜開港資料館・平野正裕)
http://www.tohatsu.city.yokohama.jp/hamaN/hamaN4.html

USAでもヨーロッパでも、初め、記録映画でない映画は、舞台を屋外に移した「おしばいのかんづめ」だった。しかし、今や、USAでもヨーロッパでも日本でも撮影技法の革新が起こっていた。1920年には、帰山教正は「映画藝術協會」を設立し、7月、『白菊物語』を公開した。村田実、青山杉作、近藤伊与吉、花柳はるみ、吾妻光等が出演した。純映画劇運動は女優の起用に成功したが、字幕を付けても弁士の廃止はできなかった。短篇映画は弁士一人、長編映画は二人か三人の交替制で、一番盛り上がる場面を主任弁士が担当した。

東洋フィルムの撮影所を受け継いだ大正活映は、1920年11月19日、谷崎潤一郎脚本、トーマス=栗原監督の映画『アマチュア倶楽部』を公開した。鎌倉の由比ガ浜の海水浴場で遊ぶ若者達が主人公である。ほとんどの出演者に舞台経験はなかった。若者達憧れの水着美人を演じたのは、谷崎潤一郎の妻の妹で、芸名「葉山三千子」。谷崎潤一郎の妻と娘も端役で出演した。家宝の鎧を来た水着美人が泥棒を発見し、歌舞伎の素人芝居をしていた若者達が父親に見つかり、警察も加わり、浜辺で四つ巴、五つ巴の追っかけ大騒動になる。これは、旧劇のパロディである。水着美人を女形が演じることはできないが、水着美人が鎧武者になることはできるのである。葉山三千子も相手役の高橋英一も、風景や人間をあるがままに記録する映像と、視角や視点の移動で効果を出す撮影技法とがあってこその、ヒロイン・ヒーローであった。その後、大正活映は、同じメンバーで多くの劇映画を製作した。

隅田川東岸の向島に撮影所のある「日本活動写真」で、藤野秀夫と女形の衣笠貞之助とは、1918年公開の尾崎紅葉原作『金色夜叉』の貫一とお宮、1919年公開の徳富蘆花原作『不如帰』の武男と浪子、菊池幽芳原作『己が罪』の箕輪環と塚口虔三を共演した。いずれも1897年から1902年までの間に新聞に連載されて好評を博し、新派で上演されたものである。1920年8月には『尼港最後の日』で共演した。ニコライエフスク事件の映画である。1920年12月公開『妹の死』で、衣笠貞之助は、原作・脚本・監督・「妹」役を担当した。藤野秀夫が、誤って妹を機関車で轢き殺す機関士の役であった。東海道本線国府津駅で現場撮影をした。東海道本線は大船駅から西では徐々に海岸に近づき、大磯から国府津駅まで海岸に沿っているが、国府津駅から内陸に向かって箱根山の北を周って御殿場駅に至る。しかし、1920年、国府津駅から海岸沿いに小田原駅まで路線が延びた。

1920年2月に東京で設立された映画製作配給会社「松竹キネマ合名社」は、俳優学校を作り、新劇の劇作家の小山内薫を校長に迎えて女優を養成し、USAでセシル=B=デミル監督の撮影助手を務めていたヘンリー=小谷を撮影所の技師長に迎えた。そして、1921年4月8日、小山内薫総指揮、村田実監督、牛原虚彦脚本の映画『路上の霊魂』を公開した。原作は、森鴎外訳・ヴィルヘルム=シュミットボン著『街の子』と小山内薫訳・マクシム=ゴーリキー著『夜の宿』である。冒頭に字幕が出る。

「キリストは人類全体を憐れみ給うた そして吾々にもさうせよと仰せられた 人を憐れむには時がある その時をはづさないやうにするが好い マクシム・ゴオリキイ」

その時をはずしたがために、哀れな親子が凍死する。登場人物が、誰かのことを思い描いているときに、その人物が目の前に現れてまた消えるのが、まるで幽霊のようである。しかし、もちろん、そういう意味で「路上の霊魂」と題したわけではない。谷崎潤一郎が、『カリガリ博士』を評して、「アイリスは、わざといびつな円を用ゐて、まるで紙屑が丸められて行くやうに、皺くちゃに窄まつて行きました」と述べたが、それとは反対の、きれいな円形のアイリスが徐々に縮まって、画面が転換する。俳優学校の女優たちが出演しているが、裕福な材木業者の令嬢を実に生き生きと演じた英百合子は、他の映画会社の女優であった。

松竹キネマ合名社は1921年4月28日に「帝国活動写真株式会社」に吸収合併されて「松竹キネマ株式会社」になった。ヘンリー=小谷監督・脚本・撮影の映画『虞美人草』が、その翌日、1921年4月29日に公開された。中学生も女学生も漢文の授業で習う、四面楚歌の中で項羽が詠んだ、「時に利あらず、騅逝かず、騅の逝かざる、如何すべき、虞や虞や、汝を如何せん」の詩で知られる、虞美人の物語である。虞美人を演じた栗島すみ子は日本舞踊の名取で、子役の経験もあったが、おとなの女優としての舞台経験はなかった。

(3)

春の美術の校外学習以来、ハナとツルとは、学校の図書館で『キネマ旬報』を借りて読むようになった。『キネマ旬報』は1919年7月11日に創刊された洋画専門誌である。図書館では、映画や小説の好きな教師たちが創刊号を寄付したり、定期購入の希望を出したりした御蔭で、『キネマ旬報』と『新青年』とを揃えていた。『新青年』は1920年1月創刊で、外国の探偵小説の翻訳が載っており、こちらは以前から、ハナとツルとは読んでいた。

1921年7月に、白水社の『近代世界快著叢書』で、ウィリアム=ウィルキイ=コリンス著、田中早苗訳『白衣の女』上下2巻が出版された。登場人物は日本人名だが、これが図書館に入ると、ハナとツルとは、夢中になって読んだ。

1921年8月、『新青年』夏季増刊号に、フランスのモーリス=ルブラン著『水晶の栓』抄訳が載った。登場人物はフランス人名である。原作”Le Bouchon de Cristal”は、1912年に出版されていた。これこそ、白水社の『近代世界快著叢書』の第1冊として、1918年7月に福岡雄川訳『二重眼鏡の秘密』が出版されており、そのときの登場人物は日本人名だった。モーリス=ルブランは、同じ主人公で、1907年に“Arsène Lupin, gentleman-cambrioleur”, 1910年に“813 ”も出版している。両方とも、保篠竜緒訳で、1918年に『怪紳士:怪奇探偵』、1919年に『813:怪奇探偵』が、金剛社から出版されている。図書館にはそれら翻訳本3冊共、揃っていた。主人公は、日本人名星晃、フランス人名アルセーヌ=ルパンである。ハナとツルとは、星晃とアルセーヌ=ルパンの大ファンだった。星晃とアルセーヌ=ルパンの大ファンは多く、クラブを作っている。会員はお気に入りの絵の表紙のノートブックで、自作の冒険譚・探偵譚・恋愛譚・挿画・漫画を回覧している。

1921年秋、ドイツの映画『カラマゾフの兄弟(Die Brüder Karamasoff)』が、日本でも公開された。”Die Brüder Karamasoff”は、スウェーデンで1920年9月20日、フィンランドで1921年1月10日、デンマークで1921年2月9日、ドイツで1921年7月20日に公開されていた。監督はカール=フレーリッヒと、ロシアからポーランドに亡命したのちにドイツに移住したディミトリー=ブコエツキーである。原作の小説は、1918年、米川正夫訳・ドストヱーフスキイ著『カラマーゾフの兄弟』上・中・下3巻と、中村白葉訳・ダスタエーフスキー著『罪と罰』上・下2巻とが、新潮社から出版されていた。その翌1919年には、米川正夫訳・ドストエーフスキイ著、『白痴』前編・後編2巻も、同じく新潮社から出版されていた。全部、図書館に揃っていて、ハナとツルとも読んでいたので、にわかにロシア文学愛好会を作って学校に届を出し、同級生や下級生を率いて、横浜まで、映画『カラマゾフの兄弟(Die Brüder Karamasoff)』を見に行った。

スメルジャコフ役が、なんとあのカリガリ博士、ヴェルナー=クラウスである。カリガリ博士は老人に見えたが、ヴェルナー=クラウスは1884年生まれで、実際はまだ30歳代であった。次男ディミトリーが、台所の女中達の会話から、恋人のグルーシェンカを父に奪われたと思って嫉妬にかられ、たまたま目の前にあった擂鉢の擂粉木に、目が据わり、目の玉が鼻の方に寄って行って、擂粉木をつかんで走り出す演技がすばらしかった。ディミトリー役は、エミール=ヤニングスであった。ハナとツルとは、始めのうち、小説を読んで思い描いていた「ドミートリイ」と、エミール=ヤニングスとは、まったく違う、と思ったのだが、観ているうちに、これはこれでりっぱな「ディミトリー」だと思うようになった。

1921年冬には、ドイツの映画『白黒姉妹(Kohlhiesels Töchter)』が日本でも公開された。“Kohlhiesels Töchter”は、ドイツで1920年3月9日、スウェーデンで1920年7月5日、デンマークで1920年9月1日に公開されていた。監督はエルンスト=ルビッチュである。今度は、ハナとツルとは、学校に届を出さずに、自分達だけで観に行った。

雪の積もった田舎の風景がすばらしい。あの『カビリア(Cabiria)』(1914年イタリア、ジョバンニ=パストローネ監督、1916年日本公開)のアルプス越えと違って、ほんとうに雪の上を、歩き、走り、転び、滑り、橇や馬車を駆る人々を撮影していて、実に美しく、情趣に満ちている。おしゃれ好きで愛想が良くてかわいいグレーテル、村の居酒屋の娘で人気者。その姉のリーゼルは、おしゃれと無縁で、牛の乳搾りをし、橇で木を運び、力仕事は何でもこなす。食い意地が張っており、居酒屋の客に対して全然愛想がない。何かと腕に物を言わせてぶっとばす。クサヴェルとゼップルが、二人同時に、グレーテルに、ぞっこん、参る。日曜日、村の若い男女が居酒屋に集まってダンスをする。たくましいクサヴェルがグレーテルと踊り、他のカップルを蹴散らす。ふたりは外に出て、柵に並んで腰掛ける。クサヴェルがグレーテルに求婚する。グレーテルはびっくりぎょうてんしてひっくりかえって柵の向こうに背中から落ちる。クサヴェルがあわてて柵のこちら側に降りてから向き直って、見ると、グレーテルは遥か下まで雪の斜面を滑り「落ちて」いた。グレーテルは起き上がって、あんたもこっちに来なさいよ、と言う。クサヴェルは喜んで柵を越え、仰向けに寝転がって滑り「降りる」。双子の父親は、姉娘が先に結婚しなければ妹も結婚させられないと言う。2本の、人の背丈の何倍もの高さの樹木が、枝を落とし、足掛かりをつけて、梯子にされて、並んで建っている。上のほうに横木が渡してあって、ゼップルがすわっている。困り果てたクサヴェルを見て、ゼップルが、梯子のような、櫓のような、木から下りてくる。ゼップルの入れ知恵で、クサヴェルはリーゼルに求婚する。リーゼルから離婚を言い出させるためのじゃじゃ馬馴らしが、予想外の効果をもたらす。ゼップルはグレーテルと仲良くなる。クサヴェル役は、あの『カラマゾフの兄弟(Die Brüder Karamasoff)』のディミトリ役、エミール=ヤニングスである。双子役はヘニー=ポルテン。

翌1922年、昨春の美術の校外学習の成果が、今春卒業する生徒たちの記念作品として、図書館に展示された。この学校は、鎌倉時代の建物がそのまま残っていると伝わる尼寺の境内にある。そんな建物が残っているのは、伊豆韮山の代官屋敷と、ここくらいである。確かに天井の木組みなど、韮山の代官屋敷とそっくりである。一度も火事に遭わず、地震にも合戦にも、廃仏毀釈にさえ、びくともしなかった。鎌倉時代の仏堂は、博物館の屋外展示物になった。隣に建てられた博物館には、古文書や絵巻物、様々な言語の仏書仏画に混じって、どういうわけか、徳川幕府がキリスト教を禁止した時に隠された十字架と聖書、などというものまであった。尼寺の境内にあるせいか、学校は良妻賢母よりも独立自尊という教育方針で、上級学校への奨学制度を備えていた。ハナとツルとはその制度を利用して東京に進学した。横浜へ行く時と同じように、大船駅から東海道本線の汽車に乗ったものである。

大船駅から東京駅まで地図上の直線距離で北北東42キロメートル余り、マラソンと同じぐらいの距離で、オリンピックで金・銀・銅のメダルを取る選手なら2時間30分から40分までで走り切る。実際には山あり谷ありなので、東海道五十三次では、保土ヶ谷宿・神奈川宿・川崎宿を経て、多摩川を渡り、品川宿を経て、日本橋に至るまで、1泊2日である。東海道本線を1番から66番まで歌っている鉄道唱歌の6番に、大船駅が出てくる。

横須賀ゆきは乗替と呼ばれておるゝ大船のつぎは鎌倉鶴が岡源氏の古跡や尋ね見ん
(『鉄道唱歌』大和田健樹作詞)

横須賀線と東海道本線とが、大船駅の南東と南西とに扇のように広がっている。横須賀線は、古都鎌倉を通って、東京湾と相模湾とを区切る三浦半島の中央部、東京湾岸横須賀港まで続いている。鉄道唱歌は、大船駅から横須賀駅までを、6番から10番まで歌い続ける。

北は圓覺建長寺南は大佛星月夜片瀬腰越江の島もたゞ半日の道ぞかし
(『鉄道唱歌』大和田健樹作詞)

鎌倉駅は、三浦半島の付け根の相模湾側の、東・北・西を山に囲まれた、由比ガ浜にある。由比ヶ浜の中央部の北の山際、海岸から約2キロメートルに鶴岡八幡宮があり、鶴岡八幡宮より北の山の中に建長寺があり、建長寺より更に北の山の中に円覚寺がある。由比ガ浜の西の山地の、海岸から約1キロメートル北の山際に大仏がある。大仏より西で、山地が海にせり出しており、稲村ケ崎から腰越までの東西約3キロメートルを七里ヶ浜と呼んでいる。腰越の西の片瀬で山地が尽きて、境川が流れている。実際に七里あるのは、三浦半島南端の岬から境川の河口までである。河口の向かいに江ノ島がある。路面電車の江之島電気鉄道が、横須賀線鎌倉駅前から七里ヶ浜を通って境川を渡って東海道本線藤沢駅前まで通じている。

東京の女学校の遠足の行き先の一つは、江ノ島である。日傘やバスケットを持った女学生たちが、片瀬の浜からぞろぞろと桟橋を渡る。行きは東京駅から鎌倉駅まで1時間、帰りは藤沢駅から東京駅まで1時間である。

東海道本線藤沢駅は境川の河口の北3キロメートル余りにある。藤沢駅の東で、境川は北西と北東とに分かれている。北東の方が柏尾川となる。東海道本線を西から来た汽車は、藤沢駅を出て、境川を渡り、柏尾川に沿って、大船駅に入る。大船駅から柏尾川沿いを北に進み、戸塚駅の北で柏尾川を離れて東に谷を下り、北東に曲がってから約13キロメートル、程ヶ谷駅・横浜駅・神奈川駅・鶴見駅を経て、川崎駅に至る。多摩川の河口の西5キロメートル余り、対岸は東京府六郷村で、六郷川橋梁が架けられている。六郷川橋梁の東500メートル足らずに六郷橋が架かり、東海道を通している。

多摩川の上流、六郷川橋梁の北西約20キロメートルでは、北東岸が東京府北多摩郡調布町下石原、南西岸が東京府南多摩郡稲城村矢野口である。ここまで下流は東京府と神奈川県との境になっている。ここより上流は両岸とも東京府である。ここから西約25キロメートルに高尾山がある。東京府と神奈川県との境は、多摩川の岸から、高尾山の南から西に周って北西に延びている。

高尾山は秩父山地の南東の端で標高約600メートルである。相模川が、高尾山の西から南東に約20キロメートル、次いで南に22キロメートル余り、合計42キロメートル余り、神奈川県を南北に縦断し、相模湾に注ぐ。相模川の河口は、三浦半島の南端から伊豆半島の東側の付け根まで続く相模湾の中央、境川の河口の西約10キロメートルである。

高尾山の北西46キロメートル余り、標高1900メートル以上の、埼玉県と山梨県との境の笠取山、その山梨県側の一ノ瀬川が、多摩川の最上流である。南東に流れて東京府に入り、東京湾まで、北西から南東に流れていく。多摩川の全長は130キロメートル余りである。笠取山の北西9キロメートル半、標高2400メートル以上の、埼玉県と山梨県と長野県との境の甲武信ヶ岳、その埼玉県側に荒川の水源がある。荒川の全長は170キロメートル余りである。上流は埼玉県北部を西から東へ約60キロメートル横断し、中流は北から南へ約40キロメートル縦断し、下流は東京府を流れて東京湾に注ぐ。多摩川と荒川とは、共に、秩父山地を水源とし、武蔵野台地の南西側と北東側とを流れている。

東京の人々は荒川の下流を隅田川と呼ぶ。隅田川には、北から、千住大橋・白髭橋・吾妻橋・厩橋・両国橋・永代橋が架けられている。川は蛇行するので千住大橋は南北に橋詰があるが、白髭橋以下は東西に橋詰がある。橋の東側は、鐘ヶ淵・向島・本所・両国・深川である。

隅田川の厩橋から、多摩川の六郷川橋梁の北西約35キロメートル付近まで、ちょうど東西まっすぐ約38キロメートル、そのまんなかに、井の頭池がある。井の頭池は、南東に向いた象の頭を上から見たような形で、長く伸ばした鼻の先から、神田川が流れ出して、隅田川まで続いている。上が北の地図で見ると、ローマ字の大文字のLを二つ並べてLLとし、左のLを左に45度倒し、右のLを右に45度倒して、くっつけたようである。直線距離の概算で、始めに南東約7キロメートル、次いで北東約6700メートル、そして、東南東約4300メートルで南に曲がって約600メートルで江戸城の外濠の北西の隅に入り、残り東南東約4キロメートルを流れて、隅田川に出る。すぐ南に両国橋がある。

江戸城の外濠の北西の隅は、飯田濠と呼ばれ、西側の濠と北側の濠との境に飯田橋が架けられている。神田川は飯田橋の東に流れ込む。隅田川まで、小石川橋・水道橋・お茶の水橋・昌平橋・万世橋・和泉橋・美倉橋・左衛門橋・浅草橋・柳橋が架けられている。

江戸城の内濠は、上が北の地図で見ると、だるまが左に傾いて頭の左側がはずれて落ちて、底の右側にくっついたような形をしている。内濠だるまの頭のてっぺんは、元は九段の石段があったので「九段」と呼ばれている。東西約250メートル、東端から約80メートルで標高9メートル半から標高約10メートルまで上り、中央部まで更に西約40メートルで標高約20メートルまで上る。西端が「九段(坂)上」、東端が「九段下」と呼ばれている。

内濠だるまの中に、菱形の北の角を落とした五角形がすっぽりとはまっている。九段下から南東約1300メートルで東の角に達し、東の角から南南西約1300メートルで南の角の日比谷濠に達し、日比谷濠から北西約1600メートルで西の角の半蔵門に達し、半蔵門から北東約1200メートルで九段上に達する。内濠は、東の角から南南西約170メートルで大手門に至り、更に南南西約160メートル、つまり、東の角から南南西330メートルで東北東に曲がり、約180メートルで南南西に曲がり、約1キロメートルで日比谷濠に至り、西北西に曲がり、約630メートルで桜田門に至る。すなわち、北辺180メートル・東辺1キロメートル・南辺630メートルの台形が、だるまの底の右側にくっついている。桜田門から半蔵門まで直線距離で北西約1キロメートルである。

日本橋川が、飯田橋の東約500メートル、小石川橋のすぐ東で、神田川から南に分かれて、内濠の東を通り、南東4キロメートル余りで隅田川に出る。すぐ南に永代橋がある。隅田川まで、俎橋・一ツ橋・神田橋・新常盤橋・常盤橋、一石橋・西河岸橋・日本橋・江戸橋・鎧橋・湊橋・豊海橋が架けられている。小石川橋の東から南南東約800メートルで、九段下の東約200メートルに達し、俎橋が架けられている。一ツ橋から徐々に内濠との距離が開き、俎橋から南東約2キロメートルの一石橋は、九段下の南東約1300メートルの内濠の東の角の、東南東約900メートルになる。

外濠川が、一石橋のすぐ西で、日本橋川から南南西に分かれて、日比谷濠の南約800メートルに至り、東南東に曲がり、ここから汐留川となり、貨物列車停車場の北の角に達して南南東に曲がり、浜離宮の北の角に達して南西に曲がり、浜離宮と貨物列車停車場との間を流れて海に出る。外濠川は2キロメートル余り、汐留川は1300メートル余り、河口は日比谷濠の角の南約1800メートルである。

外濠川には、呉服橋・鍛冶橋・有楽橋・数寄屋橋・山下橋が架けられている。汐留川には、土橋・難波橋・新橋・蓬莱橋・汐先橋が架けられている。

数寄屋橋は日比谷濠の角の南東約400メートルにある。外濠川は、一石橋の西から数寄屋橋の少し北まで、まっすぐ南南西に約1400メートル、延びている。数寄屋橋の少し北から山下橋まで南西に曲がる。山下橋から汐留川の流れ出し口まで南南東に曲がる。日本橋川の一石橋から汐留川の土橋まで、一本の道がつながっている。その道と外濠川との間に、数寄屋橋・山下橋・土橋を頂点とする三角形の地域ができている。また、その三角形の一辺、山下橋から南の外濠川と、土橋から蓬莱橋までの汐留川とが、Lの字を作っている。上が北の地図で見ると、Lの底の角の下に新橋駅があり、Lの底の短い横棒の先から、蓬莱橋から、汐留川が弓なりに曲がり、その左に、貨物列車停車場がある。貨物列車停車場には、車両の修理工場があるので、何本もの線路が並んである。鉄道管理局と、貨物専用の汐留駅がある。

浜離宮は菱形で、一辺500メートル余り、600メートル足らず、北東側を築地川が流れている。築地川の対岸が築地で、本願寺がある。築地の北西側を築地川が流れていく。築地の南東側を隅田川が流れ、対岸が月島、月島は、築島で、築地とともに、埋立地である。月島は、永代橋の南約600メートル以南、佃島と石川島とその周囲で造成された。浜離宮の西の頂点に汐留川の河口、東の頂点に築地川の河口、そこはまた、月島も尽きたところで、隅田川の河口と合わさって海になる。多摩川の河口の北約13キロメートルになる。

浜離宮の南300メートル余りに、芝離宮がある。芝離宮は長方形で、浜離宮の方を向いた北辺が約200メートル、東辺が約250メートルである。西側に、電車専用停車駅の浜松町駅がある。電車専用停車駅として、川崎駅と品川駅との間に蒲田駅・大森駅・大井町駅、品川駅と新橋駅との間に田町駅・浜松町駅、新橋駅と東京駅との間に有楽町駅がある。浜松町駅から赤煉瓦造りの高架になる。

東海道本線川崎駅を出た汽車は、多摩川を渡り、品川駅から海岸を通り、浜松町駅から、赤煉瓦造りの高架に登り、汐留駅の横を通り、新橋駅に着く。

新橋駅は、赤煉瓦造り2階建て、屋根に装飾が多く、中央の棟が前にせり出して両翼が2段階引っ込んでいる。中央の棟の上に小さな櫓がある。1段引っ込んだ両翼の、一方は四角柱の搭、もう一方は円柱の搭で、両搭とも屋上に小さな尖塔がある。赤煉瓦の壁に白煉瓦が横縞模様を付けている。玄関と両翼の搭の1階とは、白煉瓦でてきている。駅全体が、赤と白との対比で美しい。駅舎の前には客待ちの人力車がずらりと並んでいる。駅前を乗合自動車も行き交っている。

屋上から北を見ると、1キロメートル先に日比谷濠があり、目の前の右手に外濠川と汐留川とのL字がある。汐留川の流れに従って体を右に向けていくと、貨物列車停車場が見える。その向こうに浜離宮がある。鉄道管理局よりも手前の、新橋停車場に、赤煉瓦造りの高架を潜ってきた路面電車が着く。別の路面電車が、新橋停車場を出て行く。路面電車を目で追いながら、からだの向きを戻していく。路面電車は汐留川に架かる新橋を渡る。橋の向こうの左側に、4階建ての博品館百貨店がある。北に向き直ると、赤煉瓦造りの高架の左側に、白煉瓦造り3階建ての帝国ホテルがある。新橋駅から東京駅に向かう汽車の窓から、帝国ホテルの2階のバルコニーが見える。3階の部屋の窓から汽車の煙が見える。

赤煉瓦造りの高架は、山下橋まで、外濠川の左岸に沿っている。山下橋を東から渡って高架を潜ると、左手に帝国ホテル、正面に日比谷公園の入り口がある。日比谷公園は、新橋駅の北西500メートル余りから、日比谷濠の角まで、続いている。幅は、日比谷濠の角から西の桜田門までの距離のまんなかより桜田門寄りに、300メートル余りある。赤煉瓦造りの高架は、日比谷濠の東で、少し、外に寄るが、外濠川が山下橋から数寄屋橋の少し北まで北東に曲がっているので、間に、三角形に近い広がりができている。日比谷濠は、角から北に向かって馬場先門、和田倉門がある。馬場先門から東南東に延びた道が高架を潜り抜けて鍛冶橋に至り、和田倉門から東南東に延びた道が東京駅中央の皇室用乗降口に至る。

東京駅は、赤煉瓦造り3階建て、北北東・南南西方向に長く、南端は東に曲がっている。直線部分は約270メートル、曲がった部分を足すと約330メートルである。赤煉瓦の壁に白煉瓦が横縞模様を付けている。直線部分の南北両端は八角形で4階建てである。中は吹き抜けで、4階の回廊は8面24枚のガラス窓から外を展望できる。8枚の花弁の花を伏せたような丸屋根が載り、花弁の1枚ずつに小さな丸い突き出し窓が付いている。八角塔より更に端の棟の隅にも細い八角搭があり、三角帽子のような屋根を載せている。東京駅を真上から見たら、両端に八角形のねじがあるように見えるだろう。柱と梁は鉄骨で、床は鉄筋コンクリートである。直線部分の中央と南北の八角搭と3箇所、城に向かって口が開いている。八角搭の半月形の破風には、大きな丸時計がはめこまれている。北が降車口、南が乗車口である。中央は破風の下の奥深く、皇室専用である。その北隣に、電車専用の降車口がある。

東海道本線の東で多摩川を渡った東海道が、品川駅の南で、鉄道線路に架けられた八ツ山橋を渡って西側に移り、新橋駅の南で高架を潜って東側に移り、新橋を渡り、日本橋に着く。日本橋から中山道が北に向かって出て、荒川を渡る。

中央本線が、赤煉瓦造りの高架で、東京駅から北北東に出て、新常盤橋のすぐ北西で、日本橋川を南西から北東に渡り、神田駅に至る。駅舎は高架下、屋上にホームがある。中山道が、神田駅の北で、高架を潜り、北西に延びて、九段下から延びてきた街道と交差し、昌平橋で神田川を南から北に渡る。2本の街道の交差点まで神田駅から「やっちゃ場」が続いている。野菜・果物の問屋の町である。九段下から延びてきた街道は、万世橋で神田川を南から北に渡る。昌平橋と万世橋との距離は200メートル余りである。中央本線は、神田駅の北、中山道の東側で弓なりに曲がり、万世橋南詰で、九段下から延びてきた街道を渡り、万世橋駅に至る。万世橋駅は、神田駅から直線距離で北北西約600メートル、東京駅から直線距離で北北東約1800メートル、九段下から直線距離で東北東約1800メートルである。

万世橋駅は赤煉瓦造り2階建て、南面して東西に横長の屋根に突き出し窓が並び、中央にひときわ高く造られた屋根の張り出し窓は小さな櫓になっている。中央の屋根のてっぺんの両端には小さな塔も付いている。赤煉瓦の壁に白煉瓦が横縞模様を付けている。東の隅の四角柱の搭は中央棟に対して斜め向きで、三角帽子のような屋根を載せている。中央の玄関も搭も、1階が白、2階以上が赤煉瓦である。東京駅の両端の八角搭を取り除いて、中央部分だけを置いたような姿である。1912年4月1日開業の万世橋駅・1914年3月30日開業の新橋駅・1914年12月20日開業の東京駅は、兄弟姉妹のようによく似た赤煉瓦造りで、次々とつながった赤煉瓦造りの高架の手を引っ張り合って、両端から先に、まんなかが最後に生まれた。

2本の街道が交差する、万世橋駅前広場は、路面電車の軌道も交差し、木造瓦葺き2階建ての日本家屋の商店がひしめき合い、3階建てのビルディングもあって屋上を大きな広告でぐるりと囲み、乗合自動車・人力車・自転車・馬車・大八車がひしめきあっている。中山道を間にして、万世橋南詰西の万世橋駅と、昌平橋南詰東の神田郵便局とが向かい合っている。白い石造2階建て、中央に黒い大きな丸屋根、隣り合った2辺に入口があってそれぞれの両側にあたる3方に六角形の搭があってそれぞれの上に小さい丸屋根がある。中央の黒い大きな丸屋根の上に小さい尖塔があって更にその屋根のてっぺんから針のように細い棒を伸ばしている。

中央本線の高架は中山道を跨いで続き、神田郵便局の2階の窓から電車の先頭車両が見えたとき、万世橋駅の2階の窓ではまだ最後尾の車両に手を振っている。

外濠・神田川は、飯田橋から東約500メートルに小石川橋、小石川橋から東南東約450メートルに水道橋、水道橋から南東約800メートルにお茶の水橋、お茶の水橋から南東約550メートルに昌平橋が架けられている。水道橋から東南東に約200メートル流れた後、東に約350メートルに流れてから、南東にぐっと曲がって、お茶の水橋に至る。お茶の水橋から1キロメートル足らずで万世橋に至り、東に曲がり、1キロメートル余りで左衛門橋に至り、東南東に曲がり、約500メートルで隅田川に至る。

水道橋南詰東約200メートルから、昌平橋南詰西約200メートルまでの、神田川南岸が、駿河台と呼ばれている。駿河台は、神田川を挟んで北西10キロメートル余りの荒川の近くまで続く台地の、南の端である。神田川の北岸は、水道橋の東側からお茶の水橋までが本郷台、お茶の水橋から昌平橋までが湯島台と呼ばれている。

昌平橋北詰から神田川の岸に沿って、北西500メートル余りで標高約4メートルから標高約12メートルまで上り、昌平坂と呼ばれていた。昌平橋に近い方に湯島聖堂があり、その北東に神田明神がある。中山道は、昌平橋北詰から、北西に曲がり、湯島聖堂と神田明神との間を通る。昌平橋から遠い方に昌平坂学問所があった。湯島聖堂は標高約15メートル、神田明神は標高約18メートル、昌平坂学問所は標高約20メートルである。

昌平坂学問所が閉鎖されて、1873年、東京師範学校、1875年、東京女子師範学校が建てられた。1886年、東京師範学校は東京高等師範学校に、1890年、東京女子師範学校は東京女子高等師範学校になった。そして、1891年、お茶の水橋が架けられた。南北両岸とも通称「お茶の水」である。両岸とも崖である。1903年、東京高等師範学校は、お茶の水から北西3キロメートル余りの、大塚窪町に移転した。東京女子高等師範学校は、お茶の水に残った。お茶の水橋北詰の台地に、東京女子高等師範学校・附属高等女学校・寄宿舎・附属幼稚園・附属小学校がある。低い石垣の上に木の柵を並べた塀の中に、植木と、木造2階建てや平屋がある。本郷区湯島三丁目である。

1904年、御茶ノ水駅が、お茶の水橋南詰の西の崖を切り開いて造られた。高架は、お茶の水橋の東で一旦終わり、電車は、お茶の水橋の下に潜る。

湯島三丁目の西側の道一つ隔てた隣は湯島五丁目である。順天堂病院がある。本郷台の南東端で、神田川が、東から南東に曲がる所である。神田川北岸は、順天堂病院の西では、東から西にかけて、約300メートルで標高約15メートルから標高約21メートルまで上る。神田川が東に流れている所である。次に、約200メートルで標高6メートル半まで下る。神田川が東南東に流れている所である。本郷台の南西端である。その西を白山通りが通る。

白山通りは、日本橋川の一ツ橋から北に出て、水道橋で神田川を南から北に渡り、水道橋の北北西2キロメートル余りの、白山神社に至る。中山道は、湯島聖堂・東京女子高等師範学校の北側を通って湯島台を横断し、順天堂病院の北西で北に曲がり、本郷台に進み、西に曲がって、白山神社付近から白山通りに合わさり、板橋に至る。白山通りの西に東京砲兵工廠と後楽園とがある。東京砲兵工廠も後楽園も、元は水戸徳川家の屋敷地だった。その西側に少し離れて、神田川が北から南に流れて、飯田濠に注いでいる。

中央本線は、水道橋の東から、再び高架になり、水道橋南詰を通り、小石川橋のすぐ東で、南に流れ出す日本橋川を、東から西に渡り、小石川橋南詰西側の飯田町駅に至る。高架はここまでである。飯田町駅は、長野県の塩尻駅までの長距離列車の始発・終着駅である。塩尻駅は、名古屋駅までの長距離列車の始発・終着駅であり、また、篠ノ井線の始発・終着駅でもある。篠ノ井線の松本駅から東京に向かう蒸気機関車の終着駅は、飯田町駅である。飯田町駅から東京駅までは電車に乗り換える。東京駅から塩尻駅まで直線距離で北西130キロメートル余り、塩尻駅から名古屋駅まで直線距離で南西140キロメートル余り、東京・塩尻・名古屋の総路線距離約400キロメートルの、中央本線である。

外濠は、飯田橋から南西に2キロメートル余り延びてから南に、次いで東に曲がる。その間、北から南に、牛込見附・市ヶ谷見附・四谷見附・赤坂見附がある。元は、赤坂見附から更に南に、外濠川と汐留川の角まで、濠が続いていたが、埋め立てられた。外濠と内濠との間は、飯田橋から九段下まで、牛込見附から九段まで、市ヶ谷見附から九段上まで、四谷見附から半蔵門まで、赤坂見附から三宅坂まで、街道が通じている。三宅坂は半蔵門と桜田門との間の曲がり角である。半蔵門から南南東約460メートルで三宅坂に至る。三宅坂から南東約150メートル、次いで南南東約340メートル、次いで東北東約350メートルで、桜田門に至る。そして、今はもう濠はないが、飯田橋より南南東約3500メートル、赤坂見附の南東約1400メートルに、虎ノ門があり、桜田門まで街道が通じている。

外濠の外では、飯田橋から、築土八幡神社まで、北西約340メートルで標高約5メートルから標高約9メートルまで上る坂がある。牛込見附から、北西約450メートルで標高約9メートルから標高約15メートルまで上る神楽坂がある。神楽坂を3分の2程上ったところの南側に、毘沙門天善国寺がある。神楽坂付近から南に市ヶ谷台が広がり、市ヶ谷見附付近で標高約30メートルになる。外濠の外側に沿った道は、飯田橋から牛込見附まで、南南西約300メートルで標高約5メートルから標高約9メートルまで上る。牛込見附または神楽坂下から市ヶ谷見附まで、南南西約1100メートルで標高約9メートルから標高約17メートルまで上る。市ヶ谷見附から西約400メートルの台地上に陸軍士官学校がある。陸軍士官学校は、元は尾張徳川家の屋敷地だった。

外濠は、市ヶ谷台の南に少し突き出すように、南南西から南西に曲がって約450メートル延びて、また南南西に曲がり、約350メートルで四谷見附に至る。すなわち、市ヶ谷見附から四谷見附まで、合計約800メートルである。

四谷見附は甲州街道が通る。甲州街道は、日本橋の南で東海道から西に分かれ、外濠川の呉服橋を渡り、大手門・和田倉門・馬場先門・日比谷濠・桜田門・三宅坂・半蔵門と、内濠の南半分を周り、半蔵門から四谷見附に向かう。半蔵門は大手門の西南西約1360メートル、標高約22メートル以上、大手門は標高約10メートル以上である。四谷見附は、半蔵門の西北西約1300メートル、大手門の西約2700メートル、標高18メートル以上である。

半蔵門の前の内濠に架かる橋を渡って外側に出た所は、標高約26メートルである。内濠に沿って北に進むと、約500メートルで標高約22メートルまで下り、更に内濠に沿って曲がりながら九段まで同じ高さが続く。半蔵門から北200メートル余りの所に、グレートブリテン及びアイルランド連合王国(United Kingdom of Great Britain and Ireland, UK)大使館がある。煉瓦造りで、2階建ての大使官邸や平屋の事務所がある。

甲州街道は、半蔵門の前から西約70メートルで標高約30メートルに上る。更に西北西約250メートル、次に西南西約300メートル、同じ高さが続く。次に西北西約270メートルで標高24メートル以下になり、北西に曲がり、約140メートルで標高17メートル近くまで下る。更に北西200メートル余りで標高18メートルに上る。

半蔵門の前から西北西約150メートルで、北側の角を曲がると、下り坂で、東側に麹町警察署があり、西側、角から北200メートル余り、標高約27メートル、ちょうどUK大使館の裏手に、女子英学塾がある。木造2階建ての校舎である。麹町区五番町である。

一方、四谷見附の南東側200メートル余りの街道の南側に、外濠に沿って300メートル余りまで、上智大学の敷地が広がっている。校舎は赤煉瓦造りである。

四谷見附橋の橋灯は、てっぺんとその周りの一段低い八角形の燭台に9個の丸い大きな電球が載っている。四谷見附橋からは、北は、市ヶ谷見附の方から曲がってきた濠の向こうに、市ヶ谷台の陸軍士官学校が見える。南は、すぐそこに、まるで鋼鉄を植物の蔓のように細くしてレースを編んだような美しい門が見える。門柱の上にも笠付きの電燈が載り、門の両側に広がる美しい柵の柱の上にも、四谷見附橋の橋灯と同じような、丸い大きな電球が載っている。門の奥には、白煉瓦造り2階建ての、まさしく西洋の宮殿のような、離宮がある。四谷見附橋の欄干や橋灯のデザインは、宮殿の門と合わせている。四谷見附の南で、外濠は南東に延び、外濠の外では鮫河橋坂が南西に延び、その間に、赤坂離宮がある。

鮫河橋坂は、南西約300メートルで標高約22メートルから標高約30メートルに上り、次いで南南西に曲がって約220メートルで標高18メートルまで下る。続いて、権田原坂が、南西約550メートルで標高約30メートルに上る。合計約1070メートルである。鮫河橋坂と権田原坂とで北を、四谷見附から赤坂見附までの外濠で東を、そして、赤坂見附から南西約1300メートルまで厚木街道で南を、囲まれて、離宮を含む御用地がある。赤坂御用地は、元は紀伊徳川家の屋敷地だった。

中央本線は、牛込見附橋東詰に牛込駅、市ヶ谷見附橋東詰(南詰)に市ケ谷駅がある。四ツ谷駅は、四谷見附橋の下の埋立地にある。四ツ谷駅を出るとトンネルに入り、鮫河橋坂の下を約300メートル進み、地上に出る。南西約400メートルで標高18メートル半になり、次いで西南西約200メートルで標高約27メートルに上り、信濃町駅に至る。信濃町駅の南に、憲法記念館がある。木造瓦葺き平屋の日本家屋である。中央本線と権田原坂との間は、ほとんど、憲法記念館の敷地になっている。その南と東が赤坂御用地である。

中央本線は、信濃町駅から西北西約800メートルで標高約31メートルに上り、千駄ヶ谷駅に至る。千駄ヶ谷駅から更に西北西約500メートルで標高約33メートルに上る。次いで北西に曲がり、約350メートルで標高約35メートルに上り、代々木駅に至る。代々木駅から北北西約900メートルで標高約37メートルに上り、新宿駅に至る。四ツ谷駅から新宿駅まで、直線距離で西北西約2800メートルである。

甲州街道は四谷見附から北西に出る。四谷見附橋の東西どちら側も街道沿いに木造瓦葺き2階建ての日本家屋の商店が並んでいる。ところどころ、3階建ての洋風建築もある。四谷見附橋から北西約100メートルで標高約30メートルに上る。更に北西約640メートルで西南西に曲がる。約150メートルで、北側が塩町、南側が左門町になる。次いで西南西約400メートルで、北西に曲がる。ここは、元は四谷大木戸と呼ばれていた。四谷大木戸から北西約1キロメートルで標高約35メートルに上る。新宿追分である。新宿追分から北西と南西とに道が分かれ、北西の道が青梅街道になり、南西の道が甲州街道として続く。

新宿追分は、日本橋から直線距離で西北西約6400メートルである。甲州街道は、呉服橋から外濠の中に入って、内濠の南半分を周り、四谷見附から外濠の外に出るので、日本橋から新宿追分まで約8キロメートルになる。それゆえ、かつては、宿場が設けられて、四谷大木戸から新宿追分までの南側が、内藤新宿と呼ばれていた。また、四谷大木戸のそばに、玉川上水の水番所があった。現在は、内藤新宿のほとんどが、新宿御苑になっている。新宿御苑の北の端を、今も、玉川上水が流れている。新宿御苑の南の端は、中央本線が通っている。

半蔵門から中央本線新宿駅付近まで、甲州街道と青梅街道とを通って、路面電車の東京市電の新宿線が来ている。停留所は、半蔵門・麹町三丁目・麹町六丁目・麹町九丁目・四谷見附・伝馬町二丁目・塩町・新宿一丁目・新宿二丁目・追分・新宿三丁目である。「半蔵門」から「追分」までは甲州街道、「追分」から「新宿三丁目」までは青梅街道である。「追分」は甲州街道が南西に曲がる手前にある。中央本線新宿駅の東約400メートルである。

甲州街道・青梅街道沿いに、木造瓦葺き2階建ての日本家屋の商店が並び、青梅街道の停留所「新宿三丁目」の両側では、北に炭屋の紀伊国屋、南にパン屋の中村屋がある。

また、甲州街道の停留所「塩町」から、信濃町線が出て、中央本線信濃町駅のそばを通り、厚木街道に至っている。信濃町線の停留所は、塩町・左門町・信濃町・権田原・青山一丁目である。「権田原」は、憲法記念館と赤坂御用地との境にあり、「青山一丁目」は、赤坂御用地の南西の角にある。

信濃町線「左門町」から「信濃町」までの西側、中央本線信濃町駅から千駄ケ谷駅までの北側に、慶應義塾大学医学部と附属病院とがある。その西に新宿御苑がある。

中央本線代々木駅と新宿駅とは、山手線に接続する。山手線は、品川駅から東海道本線と共に南に出る。品川駅の南で、東海道が、東海道本線の西側から東側に移る。更に南で、山手線は、西に曲がり、次いで北に曲がり、ローマ字の大文字のUとVとの中間のような形を描いて、五反田駅に至り、中原街道と交差する。

中原街道は、桜田門・虎ノ門から、南南西約6300メートルの五反田を経て、更に南南西約8キロメートルの矢口、六郷川橋梁の北北西約2300メートル、船で多摩川を渡る。

山手線は、品川駅・大崎駅・五反田駅・目黒駅・恵比寿駅・渋谷駅・原宿駅・代々木駅・新宿駅で、江戸城の南から西に周り、新宿駅・新大久保駅・高田馬場駅・目白駅・池袋駅・大塚駅・巣鴨駅・駒込駅・田端駅で、江戸城の西から北に周る。

厚木街道が渋谷駅のすぐ南で山手線を横断する。三宅坂から渋谷駅の東まで、東京市電の青山線が通っている。停留所は、三宅坂・平河町五丁目・赤坂見附・赤坂表町・青山一丁目・青山五丁目・明治神宮前・青山六丁目・青山七丁目である。

厚木街道は、三宅坂・赤坂見附から、南西約4キロメートルの渋谷を経て、更に南西約9キロメートルの二子、六郷川橋梁の北西約10800メートル、船で多摩川を渡る。

原宿駅の北西約12キロメートルに井の頭池がある。神田川が、井の頭池から南東約7キロメートルで永福寺村に至り、原宿駅の西北西約5200メートルで、北東に曲がる。

明治神宮が、南は原宿駅の南西約900メートルから、北は代々木駅の南西約800メートルまで、山手線の西側に広がっている。明治神宮は、元は彦根井伊家の屋敷地だった。

甲州街道は、日本橋・呉服橋・四谷見附から、西北西約2400メートルの新宿追分を経て、新宿駅のすぐ南で山手線・中央本線を横断し、南西約5800メートルで永福寺村に至る。神田川が、北約300メートルで、南東から北東に向きを変えている。甲州街道は、更に南西約9キロメートルで調布に至り、次いで北西約8キロメートルで府中に至り、更に北西約5キロメートルの立川、六郷川橋梁の北西約31キロメートル、船で多摩川を渡る。

路面電車の京王電気軌道が、代々木駅の南西約2500メートル・原宿駅の北西約2500メートル、明治神宮の西の端から約1600メートルの、幡ヶ谷から、甲州街道を通って、新宿追分に至る。停留所は、幡ヶ谷・代々幡・神宮裏・初台・天神橋・新町・葵橋・停車場前・新宿追分である。「停車場前」は、中央本線・山手線を横断する橋の上にある。京王電気軌道の「新宿追分」は、甲州街道が追分から南西に曲がってすぐの所にある。

神田川は、永福寺村で南東から北東に向きを変えてから、約3キロメートル、新宿駅の西南西約3300メートルに至り、西から流れてきた善福寺川と合流し、東北東に曲がる。

善福寺川は、井の頭池の北東約2キロメートルの善福寺池から流れ出している。

神田川は、新宿駅の西約1600メートルで、東北東から北北東に向きを変える。すぐ西に中野長者橋がある。中野長者橋の北北東約650メートルで、神田川に、淀橋が架けられている。中野長者橋の南東約600メートルに、中野長者が勧請した熊野神社がある。熊野神社の東から、新宿駅の西約4000メートルまで、淀橋浄水場が広がっている。浄水場には新宿駅からの引込線がある。引込線の南側に東京女子大学がある。

神田川は、中野長者橋の北北東約2900メートルの下落合で、西から流れてきた妙正寺川と合流し、北北東から東北東に向きを変える。

妙正寺川は、善福寺池の東約2600メートルにある妙正寺池から流れ出している。

中央本線と山手線とは共に新宿駅から北に出て、北西と北北東とに分かれる。

中央本線は、新宿駅から北西約2キロメートルの弓なりの弧を描き、中野長者橋から北北東1600メートル余りで、南から北に流れる神田川を、東から西に渡る。弧の端、神田川の西岸約150メートルに東中野駅があり、弧の半ば、新宿駅の北北西約1100メートルに大久保駅がある。

山手線は、新宿駅から北北東約5キロメートルの緩やかな弧を描き、その半ば、新宿駅から北北東約2600メートル、下落合の東約750メートルで、西から東に流れる神田川を、南から北に渡る。新宿駅から神田川までの間に、新大久保駅と高田馬場駅とがある。新大久保駅は新宿駅の北約1100メートル、大久保駅の東北東約300メートルである。

中央本線は、東京駅・神田駅・万世橋駅・御茶ノ水駅・水道橋駅・飯田町駅・牛込駅・市ケ谷駅・四ツ谷駅と、約6600メートルで、外濠を東・北・西と半周する。続いて、四ツ谷駅・信濃町駅・千駄ヶ谷駅・代々木駅・新宿駅・大久保駅・東中野駅と、約6200メートル、ローマ字の大文字Lの縦棒を左に曲げたような線を引き、東京駅から四ツ谷駅までの路線と合わせると、神田川の南側に、大文字のSを右に倒したような形を描いている。そして、神田川西岸の中野から多摩川東岸の立川まで、東中野駅・中野駅・荻窪駅・吉祥寺駅・武蔵境駅・国分寺駅・立川駅と、まっすぐに西約25キロメートルの線を描き、標高約25メートルから標高約85メートルまで上る。荻窪駅の西約800メートルで善福寺川を東西に横断する。荻窪駅は標高約46メートルである。吉祥寺駅の南約500メートルに井の頭池がある。吉祥寺駅は標高約55メートルである。

中央本線は立川駅の西で南に曲がり、甲州街道よりも上流で、多摩川橋梁を渡る。六郷川橋梁の北西32キロメートル余りである。更に、日野駅・豊田駅を経て、八王子駅に至る。八王子駅は、標高約110メートル、直線距離で、立川駅から南西8キロメートル余り、高尾山まで南西約8キロメートル余りである。

青梅街道は、新宿追分から北西に延びて、新宿駅のすぐ北で山手線・中央本線を横断し、新宿駅の北西約1300メートルで、淀橋を渡る。淀橋から更に北西約5700メートル・標高約46メートル、荻窪駅の東で中央本線を南から北に越え、善福寺池の東を通り、荻窪駅から北西約34キロメートル・標高約200メートルの青梅に至る。青梅から多摩川に沿って上流に向かい、西約25キロメートル・標高約525メートルの、東京府小河内村から、山梨県丹波山村に入り、笠取山の南東約7300メートル、標高約850メートルに至る。

中央本線立川駅から、青梅まで、青梅鉄道が通っている。立川駅・拝島駅・福生駅・羽村駅・青梅駅である。青梅駅は東京駅の北西47キロメートル余りである。鎌倉駅は東京駅の南南東45キロメートル足らずである。

(4)

江戸城の外濠の市ヶ谷見附から東西に延びる道が、大正通りと呼ばれている。

大正通りは、市ヶ谷見附の東では、九段に上り、標高約25メートルに達し、靖国神社の前を通り、九段を下り、日本橋川に架かる俎橋を渡り、白山通りと交差し、駿河台の南を周り、万世橋南詰に至り、中央本線を横断し、北と東とに分かれて、北の道は万世橋を渡り、東の道が大正通りの続きで、神田川南岸に沿って延び、両国橋を渡る。市ヶ谷見附から両国橋まで約5キロメートルである。直線距離では東北東約4700メートルである。

市ヶ谷見附より東の大正通りを、東京市電の市ヶ谷線と九段線とが通っている。市ヶ谷線の停留所は、市ヶ谷見附・一口坂・九段三丁目・九段上である。停留所「九段上」は、靖国神社の中にある。九段線の停留所は、九段上・九段下・神保町・駿河台下・小川町である。

停留所「神保町」は、大正通りと白山通りとの交差点にある。神保町には、1881年創業の三省堂書店、1886年創業の冨山房、1913年創業の岩波書店があり、古本屋も多い。

停留所「駿河台下」は、文字通り、駿河台の下で、少し北の、駿河台の上に明治大学がある。明治大学の北約300メートルにお茶の水橋がある。

停留所「小川町」は、駿河台の南東の端の、下である。「小川町」の北約350メートル、明治大学の東北東約350メートル、お茶の水橋の南東約300メートルに、ハリストス正教会が建っている。聖堂は十字型に棟がつながり、中央の棟に大きな八角形の丸屋根が載り、突き出し窓も八箇所ある。更に丸屋根の上に小さい飾りの塔がある。その隣に、鐘楼がある。四角柱の鐘楼の屋上に一回り小さい八角形の塔があり丸屋根が載り、更にその上に円錐形の屋根が付いていた。その円錐のてっぺんは、隣の大きな八角形の丸屋根の上の小さい塔のてっぺんよりも高い。ちょうど神田川を挟んだ北向かいに、湯島聖堂が建っている。敷地は、湯島聖堂が標高約15メートル、ハリストス正教会が標高約12メートルだが、建物は、ハリストス正教会の聖堂が3メートル半、鐘楼が4メートル近くあるので、屋根のあたりは同じぐらいの高さである。ハリストス正教会の竣工は1891年で、当時の主教の名にちなんで、ニコライ堂と呼ばれている。今の主教の名はセルギイである。1917年にロシアで起こった社会主義革命の後、日本に亡命してきた正教徒たちの集いの場でもあった。

ハリストス正教会がある駿河台の東部は、南に広がり、標高は12メートル程である。駿河台の西部は標高が20メートル以上あり、ぐっと北に寄って狭い。その分、台地の南側に低い土地が広がり、猿楽町がある。猿楽町には能楽堂があった。

市ヶ谷見附より西の大正通りは、市ヶ谷台の南、続いて、戸山ヶ原の南を通り、青梅街道の北で山手線・中央本線を横断し、新宿駅のすぐ西で、青梅街道に合わさる。新宿駅は市ヶ谷駅の真西約3200メートルである。

飯田橋から、大久保通りが、市ヶ谷台の北部、続いて、戸山ヶ原の中部を通り、山手線新大久保駅・中央本線大久保駅のすぐ北を通り、中央本線大久保駅の北西約900メートル、東中野駅の南南東約530メートル、また、淀橋、すなわち、青梅街道の北約570メートルで、南から北に流れる神田川を東から西に渡る。

大久保通りは、飯田橋から、北西の築土八幡神社への坂を上り、南西に曲がり、神楽坂と交差し、更に南西に延びて、市ヶ谷台の北部を通り、約1400メートル余りで標高28メートル余りまで上り、西に曲がって約400メートルで標高約20メートルまで下る。ここから西北西約230メートルで標高約30メートルまで上る。そのあたりまで、大久保通りの南北両側は、原町である。戸山ヶ原の原である。更に西北西約240メートルで標高約31メートルまで上る。ここで大久保通りは北西と南西とに分かれる。この三差路の周囲は若松町である。三差路から西で、北が戸山町、中が若松町、南が河田町になる。すなわち、北西の街道は、標高約37メートルに上り、始めは南北両側共若松町で、やがて、北側が戸山町に入り、南側に続く若松町との間を通る。一方、南西の街道は、標高約34メートルに上り、始めは両側とも若松町で、やがて、南側が河田町に入り、若松町と河田町との間を通る。

東京市電の角筈線が、大久保通りを通っている。停留所は、飯田橋・筑土八幡町・肴町・牛込北町・山伏町・牛込柳町・若松町・河田町・抜弁天・天神前・前田圃・新田裏・新宿三丁目である。「若松町」から南西の街道に進む。抜弁天厳島神社の前から、更に南西に分かれる道に進み、新田裏で南に曲がり、大正通りと交差し、青梅街道に突き当たる。

停留所「若松町」から「河田町」までの街道の南東側、河田町に、東京女子医学専門学校と附属病院とがある。

戸山町・若松町・河田町を通り抜けた、大久保通りとその南の道とは、大久保町に入る。戸山町から大久保町北部にかけて、陸軍の学校や研究所などがある。大久保町の西部に大久保町大字百人町がある。新宿駅の北、青梅街道より北で、中央本線と山手線とが、西と東とに扇のように広がっている。百人町は、ほとんど、扇の中に入る。陸軍の施設があるのは扇の先の方で、北通りと呼ばれている。大久保通りが扇の中程を横断し、仲通りと呼ばれている。大久保通りから分かれた南の道は扇の要に近いところを横断し、南通りと呼ばれている。

扇の中の百人町に、鎌倉の尼寺の境内の女学校が奨学制度の一環として設立した寮があり、ハナとツルとも入った。ハナは女子英学塾に、ツルは東京女子高等師範学校に通うのである。

寮は、木造2階建ての洋風建築で、明るい美しい色の壁に、スレート葺きの寄棟屋根が載っていた。南向き正面で東西に横長、2階中央に飾りの切褄屋根が付いて、破風の木組みが見えている。1階中央正面から一部屋が突き出している。ここが玄関である。その上にバルコニーがあった。

1階2階合わせて16部屋あった。1階・2階とも、南面中央にホールがある。1階のホールは玄関の奥から続き、椅子と、書棚と、アップライトピアノと、大時計が置かれていた。2階では、椅子と、戸棚と、机と、天体望遠鏡が置かれていた。音楽学校に通う寮生が試験の前になると時を選ばずわきまえずピアノを弾き続けて皆をうるさがらせ、星の好きな寮生が晴れた夜にバルコニーに望遠鏡を持ち出す。冬の凍てつく夜に一人で天体の動きを追い、夏の蒸し暑い夜には、さほど星が好きでない連中までやってきて宇宙の静寂を乱した。

1階も2階も、北・中央・南の3本の廊下が東西に貫いていた。東の端は北廊下と中央廊下との間に階段があって、階段の西側から南廊下まで、廊下が通っている。西の端は南北を貫いて二周する長いスロープになっていた。スロープの東側は北廊下から中央廊下まで廊下2本分の幅があり、中央廊下から南廊下までは南面の端の部屋とくっついていた。寮の北面では、4部屋がくっついて東西に並び、寮の南面では、まんなかにホールを開けて、東西2部屋ずつに分かれているのだった。

東西とも、寮の北側に出る扉があった。扉の向こうは渡り廊下で、東側は、同じ明るい美しい色の壁、同じスレート屋根、木造2階建て、寮の2部屋ぐらいの幅の、六角形の建物の南面に続いていた。2階も渡り廊下でつながっていた。六角部屋は、1階が洗濯場で2階が物干し場で、渡り廊下からの出入り口を除いた5面の壁をスロープが巡っていた。

西のスロープの東側から北に出た渡り廊下は、寮の建物の南北の長さと同じぐらい、北に延びている。その東側に、中庭兼温室があった。春から夏にかけて中庭、秋から冬にかけて温室になるのであった。そのまわりを廊下がめぐり、寮の建物の東西の中央部分まで続いている。更に、建物に沿って、東の渡り廊下まで、続いていた。

東の八角部屋は、1階が台所で北西面と東面に出口があり、2階は食堂で、周囲がベランダで部屋が一回り小さく、北西・北東・南東・南西面に、観音開きの鎧戸とガラス戸との二重扉があり、北東面と南西面から階段で外に降りることができた。

東の八角部屋の北にも八角形の建物があった。ここでは、寮の管理と運営を任された同窓会の人々が、ジンチョウゲや、クスノキや、ハッカや、キンモクセイや、クチナシなどから、薬を作っていた。鎌倉の尼寺で伝えられてきた製法である。クスノキは、北西の六角部屋の西側にも植えられていた。ハッカは、寮の北の畑に植えられていた。キンモクセイは、北西の六角部屋とハッカ畑の北側に、石組で囲まれた土台に東西に並んで植えられていた。クチナシは、寮の南側に、中央玄関の前を開けて、東西に並んで植えられていた。

ハッカ畑と製薬室との間に、1階の天井程の高さの、2列のツゲの生垣があり、間に道を通していた。東の生垣は製薬室と八角部屋との間で尽き、西の生垣は渡り廊下の手前で東に曲がって道を塞いでいた。ちょうどその曲がり角のあたりで、寮の東端の北扉の前の庇が尽きるのである。2列のツゲの生垣は、製薬室の北では並行し、南側の生垣は東の端で南に曲がり、北側の生垣は東の端で北に曲がる。製薬室・ハッカ畑・北西の六角部屋の北に、厩舎と牧草地とがあり、北に曲がった生垣はそれらを取り囲んでいる。南に曲がった生垣は、製薬室・東の八角部屋、更にその南の、管理人棟の東側に延びている。

管理人棟は、寮とそっくり同じで、西向き正面である。ただし、管理人一人当たりの広さは、寮生一人当たりの2倍になっていた。2階の西面は宿泊室とされていた。鎌倉の女学生が東京で入学試験を受けるときや、尼僧が出張してきたり、卒業生が上京したりしたときに、泊まるのだった。北面に八角部屋から続く渡り廊下があり、1部屋ぐらいの長さで上半分に窓があり、両側にクスノキが植えられていた。1階東面の南北両端から外に出ることができた。南端の方は、扉の前の庇の両側にジンチョウゲが植えられていた。

管理人棟の南にもまた、渡り廊下と六角部屋とがあって、渡り廊下は2部屋ぐらいの長さで1階の東側に扉が付いており、六角部屋の1階が浴場と洗濯場で南面に出口があり、2階が物干し場で周囲がベランダで南西面から階段で外に降りることができた。管理人棟の西側にクチナシが、渡り廊下と南の六角部屋の西側にキンモクセイが植えられていた。

南の六角部屋の更に南に、馬車の車庫があった。

ツゲの生垣は、製薬室から管理人棟の南の端まで平行に延びて、西に曲がり、建物の東側を囲い込んでいる。そしてまた、南六角部屋から車庫にかけて平行に延びて、東側を囲い込んでいた。管理人棟の東側の土地には、何も植えられていないが、南六角部屋と車庫の東側の土地には、チョウジが、小さな森を作るほどに植えられていた。チョウジは熱帯の植物で、放っておけば、冬になると枯れてしまう。ところが、南の六角部屋と車庫との間の東側の土地に、温泉が湧いたので、水路を作って温水を循環させ、チョウジが育つようにしていた。

鎌倉の尼寺の境内の女学校がこの百人町の土地を購入したときには、温泉は、なかった。井戸を掘ったら、温泉が湧き出したのである。これには、尼さんたちも驚いた。そして、チョウジを植えようと思いついた。チョウジもまた薬の原料になる。尼寺では、輸入もののチョウジを使っていたのであった。

管理人棟の東の空き地は、採取された製薬材料を乾燥させるのに使われた。

南の六角部屋・管理人棟・東の六角部屋・製薬室・寮・北西の六角部屋、すべて渡り廊下でつないで、温泉の湯で全館暖房をしよう、と思いついたのは、同窓会の面々であった。そのために、セントラルヒーティングを知っている技師を探して、設計を頼んだのであった。おかげで、水道も電気もガスも引いたものの、その使用量は、建物の規模や住人の数に比して、ずっと少なくなっていた。

寮生は、馬と、自転車とを、借りることができた。鎌倉の尼寺の境内の女学校では、乗馬と自転車乗りとを教えていたのである。坂道山道川岸海岸、雨降り風吹き、月夜闇夜の稽古もあった。馬の世話も自転車の修理もさせた。荷物のくくり方、馬車の御し方も教えた。卒業するときには、何はなくとも郵便配達の仕事ならできます、というほどの仕上がりであった。

鎌倉の、その尼寺が、合戦にも廃仏毀釈にもびくともしなかった理由の一つが、製薬業で、もう一つが、馬に乗って配達する郵便業だった。日本各地と鎌倉を結ぶ街道を中心に、様々な脇道も使って、宗派に関わらず、各地の尼寺と連絡を絶やさず、尼寺以外の伝言や手紙も請け負っていた。鉄道や郵便や電信電話が各地を結び、自動車も走るようになっても、確実、秘密厳守、そして、親切な、尼僧たちの配達を依頼する人々は、減りはしたが、絶えはしなかった。この尼寺では、また、昔から、神隠しに遭った人を探してくれと頼まれることがあったのだが、そちらの依頼は、世の中が便利になって、かえって、ふえていた。

尼僧たちが女学校を開いて乗馬を教え、卒業後に進学して教師となって母校に帰ってきた者たちが、自転車の乗り方、馬車の御し方を教えた。尼僧たちは馬に蹄鉄を付けたことがなかったが、馬車を使うようになってから、鍛冶屋に頼んで蹄鉄を付けるようになった。

百人町の寮では、薬屋と自転車屋と馬車屋を営んでいた。薬屋は、自家製の薬のみを売っていた。自転車屋は、業者と提携して新品と中古の自転車の売買・修理・貸し出しをした。馬車屋は、高級住宅地や別荘地から、入院や家族旅行の送迎を頼まれるのだった。農家や、運送屋や、乗合の馬車は、一頭立てである。急な上り坂では、人が後ろから押さねばならない。百人町の寮の馬車は、業者に注文して作った、二頭立ての箱馬車だった。

寮生は、学費が支給され衣食住が保障されるうえに小使いまで貰えたが、厩舎・牧草地・畑・植木・薬屋・自転車屋・馬車屋の手伝いをしなければならなかった。もっとも、近隣に住む同窓生も通って来るので、人手は足りていた。

車庫の南、敷地の南東の隅に、薬屋兼自転車屋兼馬車屋の建物があった。木造平屋で、これも明るい美しい色の壁にスレート葺きである。正面だけ角から少し引っ込んでいる。東側の壁は道に沿い、西側の壁は南の通りに向かって斜めに建ち、台形になっている。入口が、正面と左右の2面と、3箇所あった。正面玄関の前に屋根が突き出して、2本の柱に支えられているが、壁はない。屋根は丸みを帯び、その上に半分ほど引っ込んで切褄屋根も載っている。更に奥で、入母屋作りの屋根が、両側に破風を見せ、てっぺんに小さな櫓が付いていた。両側の入口は庇で上と左右とを囲まれて、前から見ると、庇は台形だった。

薬屋兼自転車屋兼馬車屋の建物は、煉瓦で土台を組んだ、薔薇の生垣で、囲まれていた。建物の西側に少し離れて、その2倍ぐらいの長さの道が、南の通りから敷地の奥へ続いていた。道の両側にも薔薇の生垣があった。自転車屋の方とは反対側の生垣の向こうは、小さな森といってもいいぐらいに、木々が植えられていた。ちょうど門柱の代わりになっているのは、エドヒガンのシダレザクラである。それから、ウメやシダレウメ、アンズ、モモやシダレモモ、スモモ、アーモンド、カラミザクラ、シダレでないエドヒガンザクラ、ソメイヨシノ、ヤエベニシダレ、カンザン、ユスラウメ、カイドウなどが、敷地の西側の端まで続いていた。樹の高さを考えてうまく場所を決めてあり、3月から5月まで、次々と花が咲いていくのが、四方から見えた。実の成るものは、製薬材料も採れた。植木の場所の縁は弧を描いていて、こちらの道で薔薇の生垣が途切れたところの反対側で、ツゲの生垣に変わった。

敷地の南端を占めるサクラ属の森と、寮との間に、地蔵堂があった。ちょうど、寮の正面玄関の真南、管理人棟の正面玄関の真西である。六角堂で、北東・南東・南西・北西にクスノキが植えられていた。毎月、鎌倉から尼さんがやってきて、この地蔵堂に皆を集め、読経をするのである。尼さんは、馬に乗ってくる。鎌倉の尼寺から百人町まで直線距離で北北東約42キロメートルである。鎌倉街道を北に向かい、戸塚を経て、尼寺の北約23キロメートルの荏田で厚木街道に入り、北東8キロメートル余り、二子に至る。ここまで、馬には途中で水を飲ませたり塩を食べさせたりしながら、時速13キロメートル余りで歩かせて、2時間半である。船で多摩川を渡ると、路面電車の玉川電気鉄道が、二子玉川から渋谷まで通じている。尼さんと馬とは軌道の横をぽくぽく進み、渋谷より西の神泉谷で北に曲がり、明治神宮の西を通って、甲州街道に入る。今度は京王電気軌道の横を通って、しばらくしてまた北に曲がり、淀橋浄水場の東を通って、百人町に着くのである。二子玉川から14キロメートル余り、1時間ちょっとである。鎌倉の尼寺から45キロメートル余、4時間弱である。

尼さんは、朝、8時頃に鎌倉の尼寺を出発して、ちょうどお昼頃に百人町に着く。それから、昼食、休憩、そして、製薬室と薬屋兼自転車屋兼馬車屋などの査察をする。夕方から、寮生も、管理人棟と近隣に住む同窓会の人々も、ほとんど全員集まって、地蔵堂に入って、皆で、読経である。そのあと、夜食、歓談をして、尼さんは一晩泊まって、翌朝、厩舎と牧草地と庭園などの査察と、同窓会の委員たちとの会議をする。もっとも、査察の順番は、そのときどきで、いろいろであった。そして、午後、百人町を出発して、鎌倉まで帰るのであった。

さて、たとえば、東京女子大学には、中央本線大久保駅から新宿駅まで電車に乗っても、山手線新大久保駅から新宿駅まで電車に乗っても、また、歩いて行ってもいいのだが、百人町の寮から約1700メートルである。慣れて道を覚えた寮生は自転車を利用した。

東京女子高等師範学校なら、中央本線大久保駅から御茶ノ水駅まで約20分、御茶ノ水駅から100メートル余りである。

女子英学塾なら、中央本線大久保駅から四ツ谷駅まで約10分、四ツ谷駅から1キロメートル余りである。あるいは、東京市電の新宿線の「半蔵門」から女子英学塾まで約350メートルである。同じく「新宿三丁目」まで、中央本線大久保駅から新宿駅まで電車に乗っても、山手線新大久保駅から新宿駅まで電車に乗っても、また、歩いて行ってもいいのだが、百人町の寮から約1700メートルである。

東京女子大学以外の寮生の通学先は、中央本線と東海道本線と山手線と東北本線とが描く、横向き「の」の中にあった。そのうち、まんなかの線より下にあるのが女子英学塾、上にあるのが、東京女子高等師範学校・東京女子医学専門学校・日本女子大学校・女子美術学校・東京音楽学校である。

二頭立ての馬車は2台、1台は、新宿より東の甲州街道から目白通りまでの地域を巡回し、1台は、電話で注文を受けて、新宿の南西から北西までも含めて、高級住宅地や別荘地に出かけて行く。巡回馬車は、大学や病院の人や物を運び、高級住宅・別荘地では、遠足や旅行や入退院の送迎などを請け負った。病院の入院患者と、家族との間の、手紙や物のやりとりを手伝うこともあった。朝一番と夕最終の巡回馬車には、寮生を無料で乗せた。それで、女子英学塾・東京女子高等師範学校・東京女子医学専門学校・日本女子大学校・女子美術学校・東京音楽学校の生徒は、電車と寮の馬車とを併用した。

山手線新大久保駅から目白駅まで約5分、東北本線鶯谷駅まで約30分である。目白駅から日本女子大学校まで1キロメートル余り、鶯谷駅から東京音楽学校まで500メートル余りである。

百人町の寮の馬車は、朝、寮生を乗せて、豊橋まで行く。3キロメートル余りである。日本女子大学校の生徒はそこで降りて歩き、女子美術学校の生徒は江戸川線・御茶ノ水線・本郷線を乗り継ぐ。寮の馬車は、豊橋から、南に行き、若松町で東京女子医学専門学校の生徒を降ろす。2キロメートル足らずである。女子英学塾・東京女子高等師範学校の生徒は中央本線、東京音楽学校の生徒は山手線を利用して、朝は馬車に乗らなかった。巡回馬車としての仕事は、若松町の東京女子医学専門学校から始まり、飯田町の東京至誠医院などに回っていく。夕方、寮の馬車は上野広小路まで迎えに来る。松坂屋の前で東京音楽学校、本郷三丁目で女子美術学校、お茶の水で東京女子高等師範学校の生徒を乗せ、市ヶ谷見附で女子英学塾の生徒を乗せ、百人町の寮に戻る。およそ9キロメートルである。日本女子大学校の生徒は山手線、東京女子医学専門学校の生徒は角筈線を利用して、帰りは馬車に乗らなかった。電車と馬車と併用の通学を続けたあと、自転車や馬に切り替える寮生が多かった。

ハナとツルとは、時々、井の頭池まで自転車で遠乗りをした。井の頭池は、1917年から井の頭恩賜公園となっていた。また、多摩川まで馬で遠乗りをした。あるいはまた、馬か自転車で、駿河台まで行くこともあった。

ハナとツルとは、しげしげと、ニコライ堂に行った。ロシア文学への憧れから。能楽堂にもよく行った。鎌倉の尼寺の境内の女学校は熱心に能を教えたので、卒業してからも能を観たり謡ったり舞ったり奏でたりする輩が多いのである。

新宿駅前の商店は、ほとんどが木造瓦葺き2階建ての日本家屋だった。そのなかにパンとお菓子の中村屋もあった。中村屋は百人町の寮まで配達もしてくれた。皆で小遣いを出し合ってまとめ買いをしたり、各々が店で買ったりと、寮生は中村屋の大のお得意様であった。中村屋の近くに洋画専門の「武蔵野館」があった。1920年6月30日開館の、3階建ての洋館で椅子席である。ハナとツルとは、新宿で、映画を観たり、パンやお菓子を買ったりした。花より団子というけれど、花も団子もあらばこそ、人はパンのみにて生くるにあらず、パンなくして生くるにしかず、と、うそぶいていた。

新宿線で四谷まで行き、溜池線に乗り換えて、遊びに行くこともあった。溜池にも洋画専門の「葵館」があった。1913年7月開館で、映画解説のパンフレット『週刊アフヒ』を発行していた。

牛込見附から北西に延びた道が、山手線を横断し、中央本線の北で、南から北に流れる神田川を東西に横断している。

早稲田通りから西に分かれて、高田馬場駅の南を通る。扇の縁の右半分、神田川が扇の縁の左半分をなしている。

甲州街道は、四谷見附から新宿追分まで北西約2400メートル、半蔵門から北西約3600メートルである。約14キロメートルで、調布に至って北西に曲がり、府中に至り、多摩川を渡る。東京府北多摩郡調布町下石原より北西9キロメートル余りである。更に南西約8キロメートルで八王子に至る。八王子から南西約8キロメートルの高尾山を越えて、相模川の岸に出る。

東中野駅から立川駅まで西に約25キロメートルの直線を描く。西約10キロメートルの吉祥寺駅の南約500メートルに井の頭池がある。立川駅の西で南西に曲がり、約2キロメートルで多摩川を渡る。府中の西で多摩川を渡る甲州街道の北西約3キロメートルである。多摩川を渡ってから南西6キロメートル余りの八王子駅に至る。八王子駅から、高尾山まで南西約9キロメートル、甲州街道の南で並行し、南西約6キロメートル過ぎから北に越えて離れ、高尾山の北側を周って、東京府から神奈川県に出る。

八王子駅から横浜線が出て、東京府から神奈川県に入り、標高差100メートル以上を下り、南東約33キロメートルの東神奈川駅に至る。東神奈川駅は東海道本線に接続し、東京・横浜間の電車が停まる。品川駅までは、鶴見駅・川崎駅・蒲田駅・大森駅・大井町駅に停まる。

山手線高田馬場駅は中央本線東中野駅から、東約1400メートル、次いで、北約600メートルである。

下落合の東約700メートル、高田馬場駅の北北東約250メートルで、神田川は山手線を西から東に潜る。そこより北北東約750メートル、目白台を上った所に、目白駅がある。

目白駅のすぐ北を目白通りが通っている。

目白通りが、飯田橋から、神田川西岸約600メートル・南岸約1キロメートルに沿い、江戸川橋で北岸に渡り、目白台に上り、目白駅の北を通って、下練馬村まで続いている。下練馬村は、井の頭池の北東約8キロメートル、善福寺池の北東約6キロメートル、妙正寺池の北東約4キロメートル、千住大橋の西約13キロメートルになる。

なお、目白通りは、飯田橋の東では、南東に約900メートルの弧を描いて九段下に至る。

目白駅の南東すぐの目白通り南側に学習院がある。目白通りを南東約1400メートル、不忍通りとの丁字路の東、北側に日本女子大学校、南側に附属図書館・附属小学校・附属幼稚園がある。北側は約120メートルで標高約22メートルから標高約24メートルまで上る。南側は約120メートルで標高約22メートルから標高約17メートルまで下る。

新宿駅は標高約38メートル、新大久保駅は標高30メートル以上、高田馬場駅は標高19メートル以上、目白駅は標高29メートル以上、池袋駅は標高31メートル以上である。

山手線は池袋駅の北北東で東に曲がり、田端駅まで、直線距離で東北東約4700メートルである。大塚駅・巣鴨駅・駒込駅は標高20メートル以上、駒込駅から東約1キロメートルで標高約9メートルまで下り、南に曲がってすぐ田端駅に至る。

田端駅は東北本線に接続する。東北本線を北から来た汽車は、荒川を渡り、南東に進み、赤羽駅・王子駅・田端駅・日暮里駅・鶯谷駅を経て、南西に曲がり、終点上野駅に着く。田端駅の東約3300メートルに千住大橋がある。日暮里駅の東約3400メートルに白髭橋がある。上野駅の東約2キロメートルに吾妻橋がある。上野駅の南南西約1800メートルに神田川の万世橋があり、その東南東約1600メートルに隅田川の両国橋がある。

中央本線中野駅始発電車が、大久保駅・新宿駅を経て、東京駅で東海道本線に入り、品川駅で山手線に入り、新宿駅・新大久保駅を経て、田端駅で東北本線に入り、終点上野駅に着く。上が北の地図で見ると、ひらがなの「の」のまんなかの線を頭の上に一本の毛のように突き出して、左に傾けたような形の運行である。横向き「の」の下半分は、東海道本線と山手線とがローマ字のUかVのような形を描いている。

横向き「の」の中を、中山道や甲州街道などの街道が、何本も、通っている。そして、それらの街道を通る、東京市電の路面電車の軌道が、横向き「の」に、網の如く蜘蛛の巣の如く被さっている。ただ、市電は、しょっちゅう、満員になり、積み残しや乗り損ねがあるのが難だった。「の」の左側では、京王電気軌道と玉川電気鉄道の路面電車が多摩川まで延びている。

四谷塩町とは、塩問屋の町で、車を引く牛に与える塩も売っていた。

新宿駅周辺は、自転車も人力車も多いが、馬か牛の一頭立ての車も多かった。農家の自家用もあれば、運送店の商売用もあり、乗合もあった。市場の行き帰りの農家の荷馬車や牛車が街道で列を成して、踏切で渋滞したり、路面電車の前を悠々と横断したりした。

東京市電の停留所「四谷見附」に新宿線・牛込線が、「飯田橋」に牛込線・角筈線・江戸川線・御茶ノ水線が、「九段下」に江戸川線・九段線が、「神保町」に九段線・水道橋線が、「水道橋」に御茶ノ水線・水道橋線が、「春日町」に水道橋線・切通線が、「本郷三丁目」に切通線・本郷線が、「上野広小路」に切通線・上野線が、停車する。

牛込線は、外濠に沿って市ヶ谷台の東の端を通り、停留所は、飯田橋・牛込見附・新見附・市ヶ谷見附・本村町・四谷見附である。飯田橋から南西約740メートルまで標高10メートル以下である。新見附は飯田橋の南西約940メートル、標高約18メートルである。元々、「見附」のなかった所に橋を架けて「新見附」と名付けられたものである。

江戸川線は、早稲田通りを通り、停留所は、九段下・飯田町一丁目・飯田橋・大曲・東五軒町・石切橋・江戸川橋・鶴巻町・関口町・早稲田車庫前・早稲田である。「飯田橋」から「大曲」を経て「早稲田」まで、神田川西岸・南岸に沿っている。「早稲田」は豊橋の南詰西側にある。豊橋の南約270メートルに早稲田大学がある。豊橋の北約420メートルに日本女子大学校がある。

御茶ノ水線は、神田川・外濠の北岸に沿い、停留所は、万世橋・松住町・御茶ノ水・本郷元町・水道橋・小石川橋・飯田橋である。「万世橋」は万世橋北詰西側、「松住町」は昌平橋北詰西約70メートル、「御茶ノ水」はお茶の水橋の北詰西約60メートル、「水道橋」は、水道橋北詰西にある。

水道橋線は、日本橋川沿いと白山通りとを通り、停留所は、新常盤橋・鎌倉河岸・神田橋・錦町河岸・一ツ橋・神保町・三崎町・水道橋・壱岐坂下・春日町である。

日本橋川は、俎橋から南東約730メートルに一ツ橋、一ツ橋から東約180メートルに錦町河岸、錦町河岸から南東約360メートルに神田橋、神田橋から東約220メートルに鎌倉河岸、鎌倉河岸から南東約320メートルに新常盤橋がある。

停留所「春日町」は、白山通りと春日通りとの交差点にある。東京砲兵工廠と後楽園の北東の隅に近い。

切通線は、春日通りを通り、停留所は、上野広小路・天神下・春木町・本郷三丁目・真砂町・春日町である。「天神下」は湯島天神の北東の角にある。

停留所「上野広小路」は、春日通りと、上野公園から万世橋まで続く道との交差点にある。上野広小路は、路面電車と乗合自動車と人力車と自転車と馬車と大八車とが行き交い、混み合っていた。南東側の角に、松坂屋がある。4階建ての洋館で、角が円柱になっていて、その屋上にさらに2階建ての円塔がある。下に6面の窓、上に6本の柱と手摺りが付いた、展望塔である。

本郷線は、本郷通りを通り、停留所は、神田明神前・湯島三丁目・本郷一丁目・本郷三丁目・東大赤門前・東大正門前・第一高等学校前・本郷追分町・本郷肴町・蓬莱町である。湯島三丁目は、東京女子高等師範学校の敷地で、停留所は、その北西の角にある。

停留所「本郷三丁目」は、本郷通りと春日通りとの交差点にある。交差点の北西側が菊坂町、北東側が本富士町、南東側が春木町、南西側が弓町である。本郷三丁目には、「本郷もかねやすまでは江戸のうち」の「かねやす」がある。歯医者が歯磨き粉を売って始めたという小間物屋である。本屋や絵葉書屋も多く、劇場「本郷座」もあった。

上野線の停留所は、上野公園・上野広小路・上野一丁目・末広町・旅籠町・万世橋である。

春日通りは、大塚窪町の東京高等師範学校の西を通り、東京砲兵工廠と後楽園の北で東に曲がり、その東で白山通りと、更にその東で本郷通りと交差し、更に東に延びて、不忍池・不忍通りの南を通り、上野広小路に至り、更に東南東約2キロメートルで、厩橋を渡る。

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