ハナ、ツル、セツ (h)

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翌1942年1月2日、大日本帝國軍は、フィリピン北部のルソン島のマニラを占領した。

同1942年1月11日、大日本帝國軍は、ネーデルラント領東インドに進駐した。12日、大日本帝國政府は、「日蘭間に戦争状態が存在するに至った」旨の声明を発した。

ネーデルラント領東インドには、ネーデルラントの会社によって1880年代にスマトラ島で開発された油田、および、UKの会社によって1890年代にボルネオ島で開発された油田があった。二つの石油会社は1907年に提携して、「ロイヤル=ダッチ=シェル」になっていた。また、ネーデルラント領東インドには、1920年よりも前から日本の民間人が進出していた。『爪哇日報』、および、『爪哇日報』改め『東印度日報』が発行されており、1939年には、東印度日報社編集の『蘭領東印度關係商社名鑑』が発行されていた。

大日本帝國は1930年代からネーデルラント領東インドと「日蘭会商」と呼ばれる経済交渉を繰り返してきた。1940年5月にネーデルラントがドイツに占領され、女王はUKに亡命政権を樹立した。ネーデルラント領東インドの石油は、中華民國との戦争を続ける大日本帝國にとって、なくてはならぬ資源である。つい、相手の弱みにつけこんで、要求を大きくしてしまい、その結果、交渉を拒否したネーデルラント領東インドを、大日本帝國軍が攻撃した。所詮、ドイツに占領されている状態では、ネーデルラントに勝ち目はなく、大日本帝國軍は、あっさりと、ネーデルラント領東インドを占領してしまった。大日本帝國軍は、ネーデルラントに弾圧されていた独立運動家を解放し、協力者にし、油田を確保した。

陸軍報道班ジャワ・ボルネオ方面に徴用された作家のひとり、安倍知二は、のちに、次のようにこのときの体験を書いている。

『火の鳥』(創元社、昭和十九・七)の序文
私は旅行者として行つたのでもなく、また貿易業者や留学生として行つたのでもなく、大東亜戦がはじまるとともに軍に属するものとして渡つた。私を運んだものは定期船でも旅客機でもない。身をつつんだものは、白いパナマ帽や麻服や白靴のかはりに、汗ばんだ戎衣であり鉄甲と剣とであつた。海上の夜々に身を横たへたのは、煽風機の下の白い寝台ではなく、真暗な船底にしつらえられた『蚕棚』の荒筵であつた。岸でむかへたのは、税関吏やタクシーや苦力の群の呼声ではなく、闇黒に炸裂する十字砲火と爆雷と魚雷のとどろきとであつた。
(「南方徴用作家」神谷忠孝、北海道大学人文科学論集, 20, 5-31, 1984-02-24,
https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/34367/1/20_PR5-31.pdf)

東インドのスマトラ島・ジャワ島・ボルネオ島は、マレー半島南部を取り囲むようにして並んでいる。マレー半島南端にあるシンガポール島と、スマトラ島東岸の最も近いところとの距離は、約100キロメートルである。

同1942年1月25日、タイ王国の政府が、UK・USAに宣戦布告をした。このとき、UKにいたタイの大使はUK政府に宣戦布告を通達したが、USAにいたタイの大使セーニー=プラーモートは、宣戦布告をUSA政府に通達せず、抗日運動組織「自由タイ」を結成した。「自由タイ」には、おもに留学生が参加した。UK・USAは、一旦、タイ王国およびタイ国民の資産を凍結したが、セーニー=プラーモートが協力を申し出たので、凍結を解除した。

同1942年2月15日、大日本帝國軍は、マレー半島南部とシンガポール島を占領した。

同1942年2月19日、大日本帝國海軍は、オーストラリア大陸北部の都市ダーウィンを爆撃した。フィリピン南部のミンダナオ島のダバオから南へ約1800キロメートル、シンガポールから南東へ約2600キロメートル、東インドのジャワ島より東の島々の最も南東の端のティモール島と、さらにその東のオーストラリア領ニューギニア島と、そして、南のオーストラリア大陸とに囲まれた、ティモール海で、航空母艦から零式艦上戦闘機を発進させた。

同1942年2月26日から3月24日まで、寶塚歌劇團月組が寶塚大劇場で、『歌劇 東へ帰る』(十五場)『歌劇 世紀の歌』(八場)『舞踊 空の初旅』(一場)を公演した。ポスターの絵は、左側にタイの仏塔ワットプーカオトーンと、右側にナレースワン王である。真ん中に一番大きな字で縦書きで『東へ帰る』とあり、その右側に少し小さく「大東亜共栄圏シリーズ第三作(泰國篇)」、左側により小さく、二行に分けて、「泰國前経済相プラ・サラサス氏原案、中西武夫作及演出、康本晋史振付」「三木一郎振付、里沢隆朝、プンソンサリスタ泰國音楽指導、岡教雄、高橋廉作曲」とある。『世紀の歌』『空の初旅』は『東へ帰る』の下に、半分ぐらいの大きさの字で横書きで右左に並んでいる。

*「ポスター 宝塚歌劇1942年2月大劇場」
http://www.hankyu-bunka.or.jp/archive/?app=shiryo&mode=detail&list_id=661&data_id=100426

同1942年4月、『少年倶楽部』昭和十七年四月号に、海軍報道班員海野十三が『熱帯を征く』を載せている。

みなさん、千島列島(ちしまれつたう)をご存じですね。北海道(ほくかいだう)の北東につらなる小さい島々のことです。
その千島列島を眞南(まみなみ)に、どんどん下つていきますと、やがて赤道にぶつつかります。その赤道を、さらに南へ下つていくと、間もなく八といふ字を横にしたやうな二つの島が横たはつてゐます。
北がはの小さい方の島を、ニュー・アイルランド島といひ、南がはの大きい方の島をニュー・ブリテン島といひます。ともに英領オーストラリヤの委任統治領(ゐにんたうちりやう)でありました。私たちの海軍特別陸戰隊と陸軍部隊とが、この島へ斬(き)りこんでいつたのは、一月二十三日のことで、翌二十四日には完全に占領(せんりやう)しました。私も、その部隊についてゐました。
(「『少年倶楽部~輝く戦果に恥ぢない鍛錬~四月號』、大日本雄弁会講談社、1942年、古書・古群洞、kogundou@jcom.zaq.ne.jp, https://kogundou.exblog.jp/238809112/)

北を上にした地図で、千島列島から真っ直ぐ南に下るというと、日本列島は弓なりに連なっているので、本州から約1000キロメートル東の海上を、約5600キロメートル南下することになる。すると確かに、漢字の「八」を横向きにしたような、「八」の上を右に、下の開いている方を左にしたような、二つの島がある。海野十三の説明の通り、北側の小さい方の島がニューアイルランド島で、南側の大きい方の島がニューブリテン島である。

ニューブリテン島の面積は約37平方キロメートルである。九州の面積と同じくらいである。ニューブリテン島の西にニューギニア島があり、その西がティモール海である。ニューギニア島の面積は約786000平方キロメートルである。ニューギニア島の東西の距離と面積を、日本列島と比較すると、南北に並んだ日本列島の北海道から九州までを、東西方向に並べ替えて全部を一つの島にしたようなものである。

日本では、この頃までに、一昨1940年8月19日に治安維持法違反容疑で特別高等警察に逮捕された、新劇の俳優・劇作家たちが釈放された。信欣三・宇野重吉は、瑞穂劇団を結成した。これは「農山漁村文化協会」専属の劇団で、農山漁村を巡回公演した。本庄克二・小沢栄は、本名で活動することを義務付けられ、東野英治郎・小沢栄太郎になった。

昨1941年10月9日に治安維持法違反容疑で特別高等警察に逮捕された、映画『上海』(1938年)・『戰ふ兵隊』(1939年)の監督、亀井文夫は、まだ、釈放されていない。

ハナ、ツル、セツの映画、成瀬節(なるせ=せつ)の小学校教師シリーズは3年目に入った。最初の年は尋常小学校3年生の組の担任、2年目はそのまま持ち上がって同じ組の4年生の担任だった。3年目は、1年生の担任になった。時代としては1882年である。

架空の町の架空の小学校の一年生たちは、兄や姉に連れられて、お化け好きのおじいさんのお話を聴きに行く。ようやく、連れていってもらえる年になったのである。

1年生の1学期というと、最初の1週間ほどは、学校の中を歩きまわって、教室の位置を覚えたり、みんなの顔と名前を覚えたり、といったところである。だいたい、学校に慣れたところで、授業が始まる。

一年生の授業では、毎日、先生が黒板にカタカナやひらがなだけで歌を書いて、先生がオルガンを弾いて、みんなで歌った。それは音楽の授業であるとともに、国語の授業でもあった。

毎日、校庭に出て、花や虫を観察した。それは理科の授業であるとともに、図画の授業でもあった。

毎日、校庭に出て、体操と競走をした。縄跳びもした。綱引きや玉入れもした。それは体育の授業であるとともに、算数の授業でもあった。

修身の時間は、成瀬節(なるせ=せつ)先生が、大きな地球儀を使いながら、『ビーグル号航海記』のおはなしをした。著者のチャールズ=ダーウィンは、1882年4月19日に亡くなったのであった。

雨の日は、教室で、遊戯をした。「せっせっせーのよいよいよい」で始まる手遊び歌いろいろ、「通りゃんせ」、椅子取り、伝言、腕相撲、指相撲、などなど。

また、雨の日は、教室で、折り紙をした。学期が進むにつれて、折り紙でいろいろな動物や植物を作るようになり、ふたり以上で組み合わせて、家を作ったり、家具を作ったりするようになった。はさみとのりを使って、切り紙でも、いろいろなものを作るようになった。折り紙と切り紙を組み合わせて、さらに複雑なものを作るようになった。教室の隅に、折り紙・切り紙の作品を置く場所をこしらえて、動物園や公園や町が広がるようになった。煉瓦の建物や、ガス灯が並ぶ道を、馬車が通った。りっぱなお城もできた。雨の日にはカーテンを引いて教室を暗くして、石油ランプの灯りで、影絵遊びをすることもあった。手を使った遊びや、切り紙や折り紙を使った影絵芝居もした。

ある日、こどものひとりが言う。
「馬車鉄道が見たい」

東京では1882年6月に、新橋から日本橋までを走る馬車鉄道ができた。日本最初の私鉄である。1882年10月には、日本橋・上野・浅草・日本橋の環状線も開通した。乗ったことのある人は少ないが、錦絵の馬車鉄道なら、誰もが見ていた。すると錦絵ではなく本物の馬車鉄道も見たい、乗ってみたい、と思うのは、人情である。もっとも、三区間制で、一区間、一等車3銭、二等車2銭、3区間乗ると、一等車9銭、二等車6銭である。二等車で一区間だけならまだしも、3区間通して乗るには、庶民の財布は軽すぎる。

成瀬節(なるせ=せつ)先生は、こどもたちを連れて、馬車鉄道に乗りに行くことにした。鉄道会社と交渉して、こどもひとり半額、引率の教師は2銭、二等車一区間、合計20銭。社会見学の名目で、こどもの運賃は学校が負担する。こどもたちには、馬車鉄道に乗ったら、あとで作文や詩や図画や工作で、見聞したことを表現する宿題を、前もって出しておく。

ハナとツルが、この企画を進めていると知ったとき、映画会社の社長は、嫌な予感がした。去年、プラネタリウムを作ったとき、出費がどんどんふえて、しまいには、会社がつぶれるのではないかと、胆が縮み、胃が痛み、膝が震え、夜も眠れず、眩暈や耳鳴りに襲われ、それでも表向きはいつも余裕綽綽とした紳士然として振る舞っていた、あの、悪夢のような日々が、再現されるのではないかと、恐れた。ハナとツルを呼びつけて、確かめた。
「まさかと思うが、まさか、ほんものの馬車鉄道を作ろうなんて、思っちゃいまいね」
「まさか!」
「まさか!」
「とんでもない!」
「とんでもない!」
「あのときは、出費がどんどんかさんで、しまいには、会社がつぶれるのではないかと心配しました」
「実を言うと、もう、胆が縮んで、胃が痛んで、膝が震えて、夜も眠れなくて、眩暈や耳鳴りがしました。脂汗も流していました」
「二度と、あんなことはごめんです!」
「あんなことは、二度とごめんです!」
「そうだろうとも!」
社長は安心した。

もちろん、日本橋・上野・浅草・日本橋の環状線のような、12キロメートルもある線路を引こうなんて、いかにハナとツルといえども、考えるわけがない。ところで、撮影所のある砧村には砧公園がある。砧公園は一周すると4キロメートルほどである。そこから東へ1キロメートルほど離れた用賀には馬事公苑がある。馬事公苑は一周すると1キロメートル半ほどである。馬事公苑の南には陸軍衛生材料廠がある。

東京馬車鉄道は1900年から電化が進み、1903年に東京電車鉄道になり、1911年に東京市電になった。その際、不要になった車両、軌条、その他付属品は佐賀馬車鉄道に売却された。佐賀馬車鉄道は1930年に路面電車の佐賀電気軌道になった。佐賀電気軌道は1937年にバスになって路面電車は廃止された。

馬車鉄道は、1890年代から1900年代にかけて、日本全国に普及した。日露戦争の時に、馬が徴用されて、一時期、利用できなくなったところが多い。その後、再開されたが、1920年代から1930年代にかけて、電化して路面電車になったり、乗合自動車になったりした。馬力から電力へ、石油燃料へと、変わっていったわけである。鉱山では、馬車鉄道が1940年頃まで使われていた。

ハナとツルは、あらゆる手をつくして、関東一円から、廃止・休止した馬車鉄道の車両、軌条、その他付属品を掻き集めた。そして、もちろん、12キロメートルは無理だし、4キロメートルでも無理だが、1キロメートルぐらいならば、線路を敷いて、馬車を走らせる工夫をこしらえた。馬車は、思い切って、とても、かわいらしく、たのもしく、きれいで、ゆかいな感じのするものに仕立て上げた。前回のプラネタリウムと同じく、今回も、撮影所の大道具方に加えて大工も頼み、さらに、今回は、玉川電車の技師に相談して、力を借りた。肝心の馬は、馬事公苑に頼み込んで、借りてきた。これまで、映画の撮影に使われてきた馬は既に戦地に徴用されていた。

こどもたちが馬車鉄道に乗って出発すると、すばらしいテノールの「フニクリフニクラ」が聞こえてきた。なぜか、運転手が、すばらしい歌手なのである。しまいには、こどもたちまで、「ヤーマ、ヤーマ、コッパヤマヤ!ヤーマ、ヤーマ、コッパヤマヤ、フニクリ、フニクラ、フニクリ、フニクラー、コッパヤマヤ、フニクリ、フニクラー!」と合唱した。

「フニクリフニクラ」は、イタリアのヴェスヴィオ山の登山鉄道の宣伝のために、1880年に作曲された。映画では、「フニクリフニクラ」全曲をオーケストラで演奏し終わるまで、馬車鉄道の場面をつないだ。景色はセットと実写を組み合わせて合成したものである。運転手を演じたのは、ほんものの歌手であった。

映画の最後の場面は、夜の学校である。ホルストの組曲『惑星』の『木星』が聞こえてくる。折り紙と切り紙の町にあかりがともる。馬車鉄道が走りだす。やがて折り紙と切り紙の町から飛び出して、教室の中を巡る。壁に貼りだされた、こどもたちの描いた馬車鉄道の絵、詩、作文、棚に飾られている、馬車鉄道の工作。どれも、ほんとうに子役たちが作ったものである。そのために、ほんとうに馬車鉄道を走らせて、子役たちを乗せたのであった。

折り紙切り紙細工の馬車鉄道は、教室の中を巡ったあと、大きな地球儀の周りを回る。七回半回っているあいだに、馬車が蒸気機関車になり、電車になり、自動車になり、飛行機になり、ロケットになる。窓から飛び出して、星空へ向かう。そうして、宇宙のかなたへと、飛び去って行くのであった。

映画の公開と同時に、例によって、馬車鉄道も公開した。もう、馬はいないが、レールは撮影所の入口からプラネタリウムまでつながっている。客車はその途中の駅に停まっていた。撮影所の中は、半分、遊園地になったようであった。

1942年4月18日、USAの航空母艦ホーネットが、日付変更線を越えて、日本列島の東方約1200キロメートルに至り、午前8時20分から午前9時20分にかけて、B25型爆撃機16機を発進させた。B25型爆撃機の航続距離は約2400キロメートル、最高速度は毎時約470キロメートルである。

16機は、12時~13時、関東地方上空に至った。散開して、新潟県・栃木県・埼玉県・千葉県・東京府・神奈川県・愛知県・兵庫県を爆撃した。また、三重県・和歌山県で機銃掃射をおこなった。また、高知県室戸岬と足摺岬と鹿児島県沖永良部島で漁船が銃撃された。

B25の爆撃と銃撃による、当日の死者87名、当日の重傷者151名、のちに重傷者1名が死亡。家屋全壊・全焼180戸。

埼玉県・千葉県・東京府・神奈川県・愛知県・三重県・兵庫県・三重県・和歌山県を攻撃したB25は、鹿児島県と沖縄県の間を抜けて西へ向けて飛び、大陸の衢州・寧波・上饒・温州・常熟に不時着、あるいは、機を捨てて乗員は空中脱出した。一部の者は大日本帝國軍の捕虜となった。栃木県・新潟県を攻撃したB25は、西の海上へ抜けて北西方向に飛び、ソヴィエト社会主義共和国連邦のウラジオストクに着陸、乗員はソヴィエト連邦軍の捕虜となった。

この爆撃は、作戦を指揮したジェームズ=ドゥーリトル中佐の名をとって「ドゥーリトル空襲」と呼ばれた。大本営は、「各地の損害はいづれもきわめて軽微なり」と発表した。

ジェームズ=ドゥーリトルの英語の綴りは、”James Doolittle”である。一方、井伏鱒二が「ドリトル先生」と訳した、ヒュー=ロフティングの作品の主人公の名は、”Doctor Dolittle”である。USAの中佐の方が、”o”の字が、一つ、多い。

『少国民新聞』昭和十七年四月二十一日付に、次の記事が載った。

「何だ空襲、恐くないぞ」「わが鐵壁の護りに」「敵機は手も足も出ず」「名古屋、神戸にも僅かな盲目弾」

大東亜戰爭が始まつてから四箇月目に、初めてわが本土を襲つた敵機は、十八日帝都のほか名古屋に二機、神戸に一機がそれぞれ焼夷弾を落としましたが、その損害は僅かでありました。また三重県四日市と、和歌山県の農村に無法にも機銃射撃をしましたが、損害はありません。四国室戸岬南東海上にも一機現われましたが、わが鐵壁の防衛により、何の手出しも出來ず、陸地に侵入せずに逃げました。
(『別冊太陽 子どもの昭和史 昭和十年――二十年』、平凡社、1986年、p.38)

1942年5月26日から6月24日まで、寶塚歌劇團月組が寶塚大劇場で、『歌劇 ふるさとの唄』(十二場)『お伽歌劇 桃太郎の凱旋』(六場)『歌劇 真如王記』(二場)を公演した。ポスターは神楽を舞う女性である。扇を持つ右手を掲げ、頭に白い布を巻いて両脇を長く垂らした、狂言の美男蔓に似たものを被り、水干と袴姿で、右向きに振り返っている。その足元には、交差する三本の千木、また、彼女が扇を掲げる手よりも左のほうに、遠く離れた景色として、鳥居と神社の屋根が見える。演題はすべて縦書きで、『ふるさとの唄』が最も大きな字で左端に書いてある。あと二つの演題は、右に二行、やや小さな字で、並んでいる。『桃太郎の凱旋』の右に小さな字で「全日本保育聯盟後援」、左に小さな字で「西村真琴原案・内海重典作演出」とある。

*「ポスター宝塚歌劇1942年5月大劇場」
http://www.hankyu-bunka.or.jp/archive/?app=shiryo&mode=detail&list_id=668&data_id=100429

同1942年5月、大日本帝國軍は、UK領のビルマを占領した。ウィリアム=スリム中将率いるUK軍と、レジナルド=ドーマン=スミス総督率いる避難民50万人が、西のインドをめざして、山岳地帯へ向かった。チンドウィン河をさかのぼって、インド山岳部マニプル州の都市インパールへ。雨季に入り、人々は、飢えと赤痢に苦しみ、多くが命を落とした。

千島列島の北東1600キロメートル、また、カムチャツカ半島から東へ750キロメートル、日付変更線を越えたあたり、ここから北アメリカ大陸のアラスカまで約1500メートルの海域にアリューシャン列島がある。アリューシャン列島はUSAの領土である。

1942年6月6日、大日本帝國軍が、アリューシャン列島の西端、アッツ島とキスカ島に上陸した。日付変更線の東側なのでUSAでは6月5日である。キスカ島はアッツ島の東約300キロメートルにある。アッツ島には39人の住民がいた。キスカ島には気象観測隊員10人がいた。大日本帝國軍はアッツ島とキスカ島の住民を北海道に連行し、収容所に抑留した。アッツ島はハワイ諸島オアフ島の北西約4500キロメートルである。

同1942年6月5日から6月7日にかけて、大日本帝國海軍は、ハワイ諸島オアフ島の北西約2200キロメートルのミッドウェー環礁で、USA海軍と戦闘した。日付変更線の東側なのでUSAでは6月4日から6月6日にかけてである。昨1941年12月8日のハワイ海戦に参加した航空母艦赤城・加賀・蒼龍・飛龍・翔鶴・瑞鶴のうち、本1942年6月のミッドウェー海戦では、赤城・加賀・蒼龍・飛龍が大破、自沈を遂げた。航空母艦4隻、搭載機290機を失った。ただ、飛龍は沈没する前にUSAの航空母艦ヨークタウンを大破させていた。後でヨークタウンは大日本帝國海軍の潜水艦伊一六八によって撃沈された。

同1942年6月10日、大本営は、「東太平洋全海域に作戦中の帝國海軍部隊は、六月四日アリユーシヤン列島の敵拠点ダツチハーバー並に同列島一帯を急襲し、四日、五日両日に亙り反復之を攻撃せり。一方、同五日洋心の敵根拠地ミツドウエーに対し猛烈なる強襲を敢行」「米航空母艦エンタープライズ型一隻及ホーネツト型一隻撃沈」「本作戦における我が方損害(イ)航空母艦一隻喪失、同一隻大破、巡洋艦一隻大破」と発表した。大本営報道課長がラジオに出演して、「刺し違え戦法」だったと説明した。

同1942年6月16日、司法省は、「リヒアルト・ゾルゲ等に係る国際諜報団事件」を公表した。フランクフルター=アルゲマイネ=ツァイトゥング社日本特派員のリヒアルト=ゾルゲ、アバス通信社通信補助員のブランコ=ド=ヴーケリッチ、画家の宮城與徳、元滿鐵嘱託の尾崎秀実、青写真複写機製造業のマックス=クラウゼンらが、国防保安法・治安維持法・軍機保護法違反等の罪名で、東京刑事地方裁判所に予審請求の手続きに入った、と。

事件摘発以来、ソヴィエト連邦政府はリヒャルト=ゾルゲについて知らぬ存ぜぬを通した。大日本帝國政府も、貴重な中立国を失いたくないので、連邦政府を追及しなかった。

同1942年6月13日、USA政府は、Office of War Information (OWI)を設立した。ラジオ、新聞、ポスター、写真、映画、その他のメディアを使って、前線と銃後との疎隔をなくすことをめざした。国内向けの部局と海外向けの部局とに分かれ、戦争目的の宣伝に努めた。

同1942年8月、オーストラリア領ニューギニア島の東、ニューアイルランド島とニューブリテン島の南東、ソロモン諸島のガダルカナル島で、大日本帝國軍と、USA・UK・オーストラリア・ニュージーランド連合軍とが戦闘を始めた。

同1942年8月30日、ベルリンオリンピック400メートル障害競走で銅メダルを獲得した、フィリピンのミゲル=ホワイトが、USA軍の兵士として戦い、大日本帝國軍に殺された。

同1942年9月10日、漫画映画『西遊記 鐵扇公主の巻』が公開された。昨1941年に上海で公開された萬籟鳴、萬古蟾兄弟の製作による漫画映画『鐵扇公主』である。ラジオ番組「おとぎ漫談」で人気の徳川夢声などが声の吹き替えをした。

同1942年9月26日、寶塚少女歌劇團が滿洲國へ公演に出発した。新京、哈爾浜、大連、鞍山、奉天、撫順、京城と回って、10月31日に戻った。新京とは、滿洲國になってから付けられた地名で、もとは、長春である。南滿洲鐵道の連京線・京浜線の駅順に従えば、大連、鞍山、奉天、新京、哈爾浜である。撫順へは奉天より一つ大連に近い駅蘇家屯から支線が出ている。

同1942年10月、ニューギニア島とソロモン諸島との間にあるソロモン海で、大日本帝國海軍はUSA海軍と闘い、ドゥーリトル空襲の航空母艦ホーネットを撃沈した。大本営は、USAの航空母艦エンタープライズ・ホーネット・艦名不詳を撃沈したと発表した。註として、「ミツドウエー強襲に於て撃沈と発表せるホーネツト型はヨークタウンなりしこと、又エンタープライズ型は損傷を受けたること」と付け加えた。

昨1941年10月に治安維持法違反容疑で特別高等警察に逮捕されていた亀井文夫が、一年間の留置を経て、起訴猶予で釈放され、保護観察の対象となった。映画法により、監督の免許は剥奪された。

同1942年12月5日から12月27日まで、寶塚少女歌劇團が、花組・雪組・月組合同で、大阪市の北野劇場で、『十二月八日』・『連獅子』・『西遊記』を公演した。

同1942年12月、山本嘉次郎監督の映画『ハワイ・マレー沖海戰』が公開された。最初の画面に、観客に戦意の昂揚をうながす表示、次に海軍の検閲合格の表示、題字と続いて、次の画面から、航空母艦の絵を背景に、海軍の企画・後援を示す表示が次々と出る。
「一億で背負へ
譽の家と人」
「海軍省検閲濟 海検二五五號」
「ハワイ
マレー
沖海戰」
「後援 海軍省」
「企畫
大本營海軍報道部」
「情報局
國民映畫
參加作品」
「謹みて 此の一篇を
ハワイ・マレー沖海戰に
散華されたる
護國の英靈に捧げまつる
製作者一同」
昨1941年12月8日、ハワイ諸島オアフ島を攻撃した、航空母艦赤城・加賀・蒼龍・飛龍・翔鶴・瑞鶴の赫々たる武勲が再現された。USAにとっては12月7日のAttack on Pearl Harborである。撮影に使われた模型はUSAの雑誌に掲載されていた「サラトガ」の写真をもとに作られた。「サラトガ」は、Attack on Pearl Harborのときは、カリフォルニア州サンディエゴで整備中だった。本1942年1月、大日本帝國海軍の潜水艦の魚雷を一発、くらったが、ハワイで応急修理し、搭載機を降ろして、サンディエゴに戻った。ハワイで降ろした搭載機は、航空母艦ヨークタウンに搭載されて、6月、ミッドウェー環礁海戦で、大日本帝國海軍の航空母艦蒼龍を撃沈した。ヨークタウンは、大日本帝國海軍の反撃で満身創痍となって沈没した。乗員の多くは退避して助かった。

ヨーロッパでは、ドイツ政府が、1940年から本国や占領地でゲットーに隔離していたユダヤ教徒たちを、1942年以降、強制収容所に送り、身ぐるみはいで丸刈りにして囚人服を着せ、栄養失調状態で労働させ、衰弱した人々をガス室で殺し続けている。強制収容所は、エストニア・ラトビア・リトアニア・ポーランド・ドイツ・オーストリア・セルビア・イタリアに作られた。また、フランス・ネーデルラント・ベルギーに、強制収容所へ送るまでの一時滞在用の収容所が作られた。ソヴィエト社会主義共和国連邦の占領地では、アインザッツグルッペンが、ユダヤ教徒、ツィゴイネル、パルチザン、パルチザンとみなした人々、共産主義者を殺戮し続けている。ユダヤ教徒の殺害には、ドイツに占領された地域の人々が協力した場合も多かった。殺されなかった人々は、ドイツへ送られて強制労働をさせられた。ドイツでは大量の兵士を動員したために、労働力不足になっていた。

ヨーロッパ南東部、黒海の北東の隅が、クリミア半島によって仕切られて、アゾフ海と呼ばれる湾になっている。アゾフ海に北東から流れ込むドン川は、上流400キロメートルあたりで北西に向きを変える。ちょうどそのあたりの60キロメートル東では、北東から流れてきたボルガ川が、南東に向きを変えて、カスピ海へと向かう。ドン川とボルガ川とを運河で結ぶ工事が、戦争で中断している。運河予定地の北は、古代から交易都市として栄えてきた。1925年より、スターリングラードと呼ばれている。スターリングラードは、製鉄工場・大砲工場・トラクター工場のある、工業都市として繁栄している。さらに、開戦以来、多くの兵士・義勇兵・避難民が集まっていた。

1942年8月、スターリングラードで、ドイツ・ルーマニア・ハンガリー・イタリア軍と、ソヴィエト社会主義共和国連邦軍との戦闘が始まった。ドイツ空軍は大規模な爆撃をおこなった。9月、廃墟と化したスターリングラードにドイツ軍が侵入した。ルーマニア・ハンガリー・イタリア軍はスターリングラードの外側でドイツ軍を守っていた。廃墟のなかで、ドイツ軍とソヴィエト連邦軍との市街戦が始まった。10月、ドイツ軍はスターリングラードの80パーセントを制圧した。11月、モスクワから来たソヴィエト連邦軍が、ルーマニア・ハンガリー・イタリア軍を潰滅させた。ソヴィエト連邦軍は、スターリングラードのドイツ軍を包囲した。12月、ボルガ川が凍結した。ソヴィエト連邦軍はスターリングラード市内の友軍へ補給を始めた。

(19)

1943年1月、リヒャルト=ゾルゲと親しかったオイゲン=オット大使が解任され、新しい大使が赴任した。ヨーゼフ=マイジンガーは留任し、警察大佐になった。

ヨーゼフ=マイジンガーは、大日本帝國の政府にユダヤ教徒迫害に協力するように要請していた。しかし、政府は、ユダヤ教の避難民の流入の制限という以上の積極的な迫害はしなかった。政府には、ユダヤ教徒の財閥を利用したいという魂胆もあったが、そもそも、ユダヤ教とキリスト教との違いよりも、同盟国・中立国・敵国の違いのほうが重要だったはずである。特別高等警察は、鵜の目鷹の目で愛国的でない言動を探し、挙げつらい、逮捕し、拷問し続けていて、そのなかには、キリスト教の一部の宗派の教えによって兵役を拒否した人と、その同宗の人々も含まれていた。兵役拒否をする宗派のキリスト教徒はドイツでも収容所に送られ、殺されている。

この1943年1月、USAで、ウォルト=ディズニーの漫画映画”Der Fuehrer’s Face”が公開された。あのドナルド=ダックが、軍需工場で「ハイル、ヒットラー」という敬礼と作業を際限なく繰り返させられるうちに、ついに発狂。このあたり、チャップリンの”Modern Times”や“The Great Dictator”を髣髴とさせる。

ドナルド=ダックを苦しめるナチスの軍楽隊の兵士のひとりは、小さな旭日旗を持っている。ドナルドが朝起きて敬礼する肖像画は、ヒットラー、ムッソリーニ、そして、昭和天皇のそれである。この昭和天皇の顔は、旭日旗を持っていた兵士とそっくりである。彼の顔は、レニ=リーフェンシュタール監督の”Olympia”に出てきた、眼鏡をかけた、端正なNHKのアナウンサーや、三段跳びで金メダルを取り桂冠を被ったハンサムな田島直人とは、まったく似ていない。

ふと目が覚めると、ベッドのそばに、総統に敬礼する人の影が! あわてて「ハイル、ヒットラー」と敬礼したドナルド=ダックは、それが、窓のそばに置かれた自由の女神像だったとわかり、飛びついてキスする。

総統と自由の女神とは反転可能で、敵国の人々にとっては総統こそが自由の女神に見えている。そんな想像もできる。日本では、ベルリンオリンピックの映画『民族の祭典』『美の祭典』で、ドイツチームの成績を心配して、からだをゆすり、膝をさするヒットラーに、親しみを感じたこどももいた。しかし、ヒットラーに対するにルーズベルトを持ってこなかったのはさすがである。それをやったら敵と同じ。大統領は選挙で交替可能だ。その大統領替えの自由こそ民主主義なのだ、敵にはそれがないのだ!

同1943年1月、USA軍がアムチトカ島に飛行場を建設し、アッツ島・キスカ島を爆撃し始めた。昨1942年6月、大日本帝國軍は、アリューシャン列島の西端、アッツ島とキスカ島を占領した。キスカ島はアッツ島の東約300キロメートル。そのキスカ島の南東約100キロメートルにアムチトカ島がある。アムチトカ島は、他のアリューシャン列島の島々、および、アラスカと同じく、1867年までロシア帝国領だった。ロシア帝国領になる前から島々に住んでいた人々は、アリュート族と呼ばれる。1783年に大黒屋光太夫が漂着したとき、アムチトカ島には、アリュート族と、ロシア人の商人とがいた。1832年には定住者はいなくなっていた。

同1943年1月1日から1月24日まで、寶塚歌劇團花組が寶塚大劇場で、『歌劇 悠久日本』(十五場)『歌劇 航空母艦』(六景)『厚生舞踊 光を浴びて』(四景)を公演した。
ポスターは斜めの線で左上半分と右下半分に分けられている。左上半分は、雅楽の太鼓の絵である。その背後に霞たなびく山々の峰と、霞の間から少しだけ、千木のある屋根がのぞいている。右下半分は赤と青の太い横縞模様である。『悠久日本』が大きな黒い字で左上の左端に縦書きで書いてある。その右に少し小さく、「日本文化史より」と書いてある。『航空母艦』『光を浴びて』は大きな白い字で右下半分に上下に並んで横書きで書いてある。『航空母艦』の上に小さく、「海軍省後援 古橋中佐の手記に依る」と書いてある。

*「ポスター宝塚歌劇1943年1月大劇場」
https://www.hankyu-bunka.or.jp/archive/?app=shiryo&mode=detail&list_id=240&data_id=100093

この一月公演には、もう一枚、ポスターがある。こちらは、黄色い地に、船とその上を飛ぶ戦闘機の絵。船は、貨客船を改造して戦闘機運搬用に作られた航空母艦である。船の下に、横書きで、大きな黒い字の『航空母艦』と大きな赤い字の『悠久日本』が右左に並んでいる。船のへさきの、下の方に、少し小さな赤い字で、横書きで『光を浴びて』と書いてある。

*「ポスター宝塚歌劇1943年1月大劇場」
https://www.hankyu-bunka.or.jp/archive/?app=shiryo&mode=detail&list_id=305&data_id=405105

この一月には、一月十六日だけの催しもある。そちらのポスターは、絵はなく、文字だけである。次のように書いてある。
「戰ふ 海軍の夕」「十六日(土)午后六時半」
「感激に哭く海軍魂の壮美!!」「映画 ハワイ・マレー沖海戦」「日本ニュース」
「海軍省後援」「歌劇 航空母艦」「六景」

*「ポスター戦ふ海軍の夕1943年1月大劇場」
https://www.hankyu-bunka.or.jp/archive/?app=shiryo&mode=detail&list_id=277&data_id=405107

同1943年1月26日から2月24日まで、寶塚歌劇團月組が寶塚大劇場で、『歌劇 悠久日本』(十四場)『歌劇 梅田雲濱の姪』(二場)『歌劇 上海夜話』(一場)を公演した。
ポスターの絵は、雅楽の舞人が舞っているところである。『悠久日本』はその舞人の横、ポスターの右端に大きく縦書きにしてある。その右に少し小さく、「日本文化史より」と書いてある。『梅田雲濱の姪』『上海夜話』は舞人の足の下に、横書きで右左に書いてある。

*「ポスター宝塚歌劇1943年1月大劇場」
https://www.hankyu-bunka.or.jp/archive/?app=shiryo&mode=detail&list_id=307&data_id=100095

この二月公演には、もう一枚、ポスターがある。こちらは、濃淡の赤の地に、舞を舞う白拍子の絵である。白拍子の肩から上と、足の下は、濃い赤である。扇を右手に掲げ、烏帽子を被り、刀を腰に差し、右を向いて舞う、白拍子の表情は、けだかい。題はすべて縦書きで、右端に一番大きく『悠久日本』と書いてある。白拍子の前にあるのが『悠久日本』で、後ろにあるのが『梅田雲濱の姪』『上海夜話』である。彼女のまなざしが、悠久なるときをみつめているかのようである。この絵の上に、横書きで、大きく、「宝塚歌劇二月月組」とあり、その下に、小さく、二段に分けて、次のように書いてある。
「一月廿六日より二月廿四日まで毎日午後一時開演・日曜・祭日・八日正午 五時二回開演」
「八日午後五時より建艦献金公演」

*「ポスター宝塚歌劇1943年1月大劇場」
https://www.hankyu-bunka.or.jp/archive/?app=shiryo&mode=detail&list_id=405&data_id=405101

この月は、寶塚大劇場・寶塚中劇場合同のポスターもある。絵はなく、文字だけである。
「寶塚歌劇」
「建艦献金公演」
「第二回公演・月組出演」
「八日 五時」
「歌劇 梅田雲濱の姪 二場」
「歌劇 上海夜話 一場」
「歌劇 悠久日本 十四場」
「座席券 五十銭・三十銭」
「寶塚大劇場」
「第三回公演・月・雪組合同出演」
「九日 五時半」
「寶塚演劇發表會」
「(九日・十日・十二日・十三日)の
第一日を建艦献金
公演とします」
「座席券 一円十八銭」
「寶塚中劇場」
「御援助を御願ひ申し上げます 寶塚歌劇團」

*「ポスター宝塚歌劇1943年2月大劇場中劇場」
https://www.hankyu-bunka.or.jp/archive/?app=shiryo&mode=detail&list_id=328&data_id=405103

寶塚大劇場では、1943年1月・2月と、花組・月組続けて、『悠久日本』を公演し、花組は『航空母艦』も公演し、花組・月組ともに、建艦献金公演をしている。ポスターに描いてある航空母艦は、戦闘用ではなく、貨客船を改造した、戦闘機運搬用のものである。ポスターでは、一機が飛び立ったところが描かれている。この型の航空母艦は、遊歩甲板の上5メートルの高さに飛行甲板を設けてある。ここから、少数機を離着陸させることは可能であるが、多数機を一挙に発艦させることはできない。一昨1941年12月8日、航空母艦赤城・加賀・蒼龍・飛龍・翔鶴・瑞鶴がハワイで赫々たる武勲を挙げたが、昨1942年6月、ミッドウェー海戦で赤城・加賀・蒼龍・飛龍を失った。昨1942年12月、山本嘉次郎監督の映画『ハワイ・マレー沖海戰』では、その一年前の航空母艦の勇姿が再現されたが、現実には、失われたものは、戻ってこない。

同1943年3月、瀬尾光世監督の漫画映画『桃太郎の海鷲』が公開された。最初に、錨の絵と「海軍省所蔵」、続いて、「大東亜戰争下の少国民に贈る」との表示が出る。航空母艦の隊長の桃太郎は人間で、あくまでもりりしい表情を崩さない。搭載機の整備士はうさぎで、飛行士は犬、猿、雉である。動物たちはユーモラスで、ことにうさぎがかわいい。犬と猿はしょっちゅう、けんかをする。隊長の訓示を聴くとき、緊張して、手を握ったり、ズボンの脇をなでたりするのは、ベルリンオリンピックの走り幅跳びでジェシー=オーエンスや、走り高跳びで矢田喜美雄が、走り出す直前に繰り返した動作のようである。

鬼ヶ島へ飛んでいく途中で、親にはぐれた海鷲の子を救う。三段跳びの田島直人選手のように、段々になって並んで飛んでいる戦闘機を跳び越えていく。三段跳びでは、跳んでから空中で足を動かすと、さらに浮き上がったように見える。猿の飛行士も、空中で、一瞬、浮き上がる。一番高い戦闘機にたどりついた猿の飛行士は、海鷲の子を親鳥のもとに差し出す。親鳥が流す涙のしずくが嘴の先まで流れてきたのを、海鷲の子が自分の羽ですくいとる。たいへん、かわいらしい。

鬼ヶ島には椰子が生え、ウクレレの音楽が流れている。敵兵は、ポパイとブルートである。が、ブルートの頭には角が生えている。USAの漫画のヒーロー、ポパイもブルートも、水兵である。ブルートはポパイよりずっと体が大きく、いつもポパイをいじめるが、ポパイも力を盛り返して、最後はいつもブルートをやっつける。『桃太郎の海鷲』では、そろいもそろってポパイそっくりの水兵たちが蜘蛛の子を散らしたように逃げる。ブルートみたいな鬼だけが逃げ遅れて、うろうろし、ころげまわる。ここは、『西遊記 鐵扇公主の巻』の、孫悟空が火の化け物に追い回されたときのようである。

一昨1941年12月のハワイ海戦をこどものこころの世界に移し替えたような作品である。大好評だった。それにしても、うさぎの耳が手旗信号をするのはおもしろいが、帽子のふちからたれさがったり、たなびいたりするのは、いかがなものか。あれでは天が与えし恵みの聴覚を使いこなせないではないか? 『西遊記 鐵扇公主の巻』の猪八戒が耳たぶをうちわがわりにするのと似たようなものか。漫画家は動物の耳で遊びたくなるものらしい。

昨1942年12月の山本嘉次郎監督の映画『ハワイ・マレー沖海戰』に続き、本1943年3月の瀬尾光世監督の漫画映画『桃太郎の海鷲』でも、一昨1941年12月8日、ハワイでの航空母艦赤城・加賀・蒼龍・飛龍・翔鶴・瑞鶴と零式艦上戦闘機の赫々たる武勲が再現された。しかし、昨1942年6月、ミッドウェー海戦で赤城・加賀・蒼龍・飛龍を失い、多くの零式艦上戦闘機も失った。艦とともに、機とともに、失われた命も、戻ってこない。

本1943年2月27日から3月24日まで、寶塚歌劇團雪組が寶塚大劇場で、『歌劇 みちのくの歌』(十四場)『歌劇 撃ちてし止まむ』(四景)『舞踊劇 桃太郎』(一場)を公演した。ポスターの絵は、積雪の道を、頭巾に雪沓の親子が、薪をのせた橇を引いている。雪靴はスリッパのように引っかける型のものである。親子の後ろに凧が上がっている。演題は絵の下に二段に分けて横書きで、上の段に『撃ちてし止まむ』とある。その上に小さく「陸軍報道部後援」とある。下の段に、『桃太郎』『みちのくの歌』と右左にある。『みちのくの歌』の上に小さく「農林省後援」とある。ポスターの絵からいっても「場」の数からいっても、本来なら、『みちのくの歌』が上の段に大きく目立つように書いてありそうなものだが。

*「ポスター宝塚歌劇1943年2月大劇場」
https://www.hankyu-bunka.or.jp/archive/?app=shiryo&mode=detail&list_id=374&data_id=100096

同1943年3月25日、黒澤明監督の映画『姿三四郎』が公開された。黒澤明の初めての監督作品である。原作は富田常雄の同名の小説である。「明治十五年」の物語なので、町の中を人力車と馬車が行き交っている。明治十五年、すなわち、西暦1882年、本1943年よりも71年前の日本である。

同1943年4月、松竹動画研究所製作、政岡憲三監督の漫画映画『くもとちゅうりっぷ』が公開された。これは横山美智子の童話をミュージカルにしたもので、戦争は出てこない。8本の脚で白い糸を操る黒いくもの動きは、実にみごとである。しかも、くもは、たいへんな美声で歌う。見た目は細いのに、声は太くて低くて深みのある、おとなの男の声である。カンカン帽をかぶっていて、いかにも中年の紳士である。てんとうむしは健康的な水着の美少女で、くもが歌声にのせてハンモックに誘うと、健康的な水着の美少女のてんとうむしは、でも、もうすぐ、日が暮れるから、とことわる。くもは、魅力的な声で朗々と、日が暮れたほうが、もっといいですよ、という。

同1943年5月12日、USA軍約11000人がアッツ島に上陸した。大日本帝國軍守備隊は2666名。

同1943年5月26日から6月24日まで、寶塚歌劇團月組が寶塚大劇場で、『歌劇 唯一つの祖國』(十五場)・『歌劇 その日の布哇』(六場)・『舞踊劇 太刀盗人』(一場)を公演した。ポスターでは、演題はすべて横書きで、一番上に一番大きく書いてあるものは『唯一つの祖國』、題字の上に小さく「勇士ラーチャマヌー」、題字の下に小さく「タイ国外務大臣ウィチットワッタカーン原作 中西武夫改修演出」とある。絵は、シャムで山田長政が活躍していたころの船である。『その日の布哇』・『太刀盗人』は海面の下に右左に並んでいる。

*「ポスター宝塚歌劇1943年5月大劇場」
http://www.hankyu-bunka.or.jp/archive/?app=shiryo&mode=detail&list_id=429&data_id=100099

『歌劇 その日の布哇』は、海軍の慰問雑誌『戦線文庫』第五六号(昭和一八年六月一日)に写真が掲載された。

同1943年5月30日17時、大本営が、次の発表をおこなった。

「アツツ」島守備隊は、五月十二日以来極めて困難なる状況下に、寡兵よく優勢なる敵に対し血戦継続中の処、五月二十九日夜敵主力部隊に対し最後の鉄槌を下し、皇軍の神髄を発揮せんと決意し、全力を挙げて壮烈なる攻撃を敢行せり。爾後通信全く杜絶、全員玉砕せるものと認む。傷病者にして攻撃に参加し得ざるものは、之に先き悉く自決せり。我が守備隊は二千数百名にして、部隊長は陸軍大佐山崎保代なり。
(『大本営発表 改竄・隠蔽・捏造の太平洋戦争』辻田真佐憲著、幻冬舎新書, 2016年、p.150)

大日本帝國軍守備隊は2666名のうち、戦死2638名、捕虜29名、捕虜になったひとりがすぐに亡くなり、生存は28名だった。

同1943年7月29日、木下恵介監督の映画『花咲く港』が公開された。木下恵介の初めての監督作品である。3年前の1940年8月19日に治安維持法違反で逮捕された新劇の俳優本庄克二・小沢栄、その後、釈放されて、昨1942年からは東野英治郎・小沢栄太郎と名乗っているふたりが、出演している。鹿児島県の甑島の、現代の、1940年代の、物語である。実際には熊本県の天草と静岡県の浜松とで撮影している。

同1943年8月15日、USA軍約34000人がキスカ島に上陸した。大日本帝國軍は既に撤退していた。

同1943年9月26日から10月24日まで、寶塚歌劇團花組が寶塚大劇場で、『歌劇 國民の歌』(十六場)・『泰國國民劇 母なる佛塔』(八場)・『舞踊 彌榮』(一場)を公演した。ポスターの一番上に一番大きく書いてある題は『歌劇 國民の歌』で、題字の上に「軍事保護強化運動参加作品」と書いてある。絵は、鳥が嘴に日の丸の付いた棒をくわえて飛び、その下に富士山が見える。『泰國國民劇 母なる佛塔』は、題字の上に「月刊新亜細亜所載 泰国外務大臣ウィチットワッタカーン作」、題字の下に「中西武夫改修演出」と書いてある。

*「ポスター宝塚歌劇1943年9月大劇場」
http://www.hankyu-bunka.or.jp/archive/?app=shiryo&mode=detail&list_id=387&data_id=100420

同1943年10月28日、稲垣浩監督の映画『無法松の一生』が公開された。原作は岩下俊作の小説『富島松五郎伝』である。明治30年から、明治三十七八年戦争、すなわち、日露戦争を経て、第一次世界大戦の頃までの、16年間ほどの物語である。小学生の男の子が第五高等学校の学生になるまでの時間が流れている。物語の舞台は小倉である。

ハナ、ツル、セツの映画、成瀬節(なるせ=せつ)の小学校教師シリーズは4年目に入った。最初の年は尋常小学校3年生の組の担任、2年目はそのまま持ち上がって同じ組の4年生の担任だった。3年目は、1年生の担任になった。4年目は、それがそのまま持ち上がって同じ組の2年生の担任である。時代としては、1883年、黒澤明監督の『姿三四郎』と同時代である。町の中を人力車と馬車が行き交い、ガス燈はあるが、電燈と電話は、まだない。

毎年、春夏の回・秋冬の回と、2作、作り、春夏の回は、毎回、校庭の満開の桜から始める。すずめやめじろが飛び交わし、鳴き交わす。

今回は、満開の桜が、やがて、夕桜になる。鳥たちの鳴き声もやんだ。すっかり、夜になる。星々が瞬き始める。そこへ、一際、明るい星が現われ、みるみる大きくなり、火の玉となって、大音響とともに墜落し、地響きを立てる。人々が、びっくりして、表に飛び出す。小学校に集まってくる。校庭の地面に穴があいている。巡査や新聞記者もやってくる。おとなの背丈ほどの穴の底で、何やら、光っている。小学校の先生たち、こづかいさん、こどもたち、その父母兄弟姉妹、こわごわ、のぞきこむ。成瀬節(なるせ=せつ)先生も、穴を覗き込んでいるうちに、やがて、言う。
「これは、隕星石です!」

隕星石とは、1874年に出版された、宮里正静著『化学対訳辞書』に載っている言葉で、
“Meteorites”の訳語である。“Meteorites”と並んで、“Meteori iron”の項目があり、そちらに、「隕星石(空中ヨリ落タル鐵塊ニシテニッケル及他ノ鑛ヲ含ム)」と解説されている。

今でいう隕石だが、1880年代の日本だと、1880年2月18日午前5時30分頃、兵庫県北部の但馬地方の、床尾山を境として北の出石郡と南の朝来郡とに分かれる、その南の朝来郡の糸井村に落下。また、1882年3月19日午後1時頃、九州北部の有明海に注ぐ六角川の河口近くの肥前杵島郡福富村に落下した。どちらも、農商務省の報告書に記載され、地質調査所と教育博物館に保管された。

教育博物館は、1931年に東京科学博物館となった。田中久重の万年自鳴鍾も、この年、寄託された。

成瀬節(なるせ=せつ)先生は、取材に来ている新聞記者に話して、「東京大學理學部星學科」に連絡に行って貰った。行ったと思ったら、すぐに戻ってきた。隕星石の落下は、東京中から見えたので、天文学者や化学者たちが、押っ取り刀で小学校にやってきたのである。翌日には、あの「天象儀」の製作者伊勢英信(いせ=えいしん)もやってきた。

これはすばらしい科学教材ができたと、成瀬節(なるせ=せつ)先生は大喜び、いずれ、こどもたちもその父母兄弟姉妹も参加できる科学講座を開催しよう、と、小学校の教職員一同で話がまとまる。天文学者や化学者たちには、一年ぐらいのあいだは、墜落現場の小学校で研究してもらい、ある程度まとまったら、こどもたちに授業をしてもらえるように、約束を取りつけた。隕星石は一つしかない。地質調査所か教育博物館か、どっちに納めるかは、その間に、ゆっくり、決める、ということで、関係者一同、合意した。

一年生のときは、午前中だけの授業だったが、二年生からは、一週間に三日、午後も授業をするようになった。その日は、こどもたちは、お弁当を持ってくる。ときどき、忘れてくる子がいる。そういうときは、先生たちのおやつのために買っておいた大福餅とか、お饅頭とかを、こづかいさんの部屋で、お茶を貰って、食べるのである。

しかし、いつも、お弁当を持ってこない子もいた。そうなると、毎回、大福餅やお饅頭では、栄養が偏るだろうと、おにぎりを、こづかいさんの奥さんに作ってもらっておくことにした。だいたい、そんな子が、一学年に、2,3人は、いる。5,6人いる年もある。おにぎりの費用は、先生たちのおやつのための出費から、出すことにしていた。

成瀬節(なるせ=せつ)先生の担任の子にも、いつも、お弁当を持ってこない子がいた。それに、どうやら、朝御飯も、食べていないのではないかと思えるときがあった。この子は、毎日、学校でお昼御飯を食べさせる必要があるのではないか、と心配になる。

成瀬節(なるせ=せつ)は、給食をしてはどうかと、他の先生たちに相談した。学校として、正式に予算を組んで、こどもたち全員に、毎日、お昼御飯を出す、というのである。それは費用がかかりすぎる、と、成瀬節(なるせ=せつ)以外の全員一致で却下。しかし、お昼御飯ではなくて、十時のおやつを出すことにしてはどうか、という意見が別の先生から。おやつを出したら、朝御飯を食べてこなかった子にとっては、助かるだろうが、毎日、きちんと朝昼晩と食べさせてもらえるこどものなかには、おやつを食べてしまったら、お弁当がおなかに入らなくなる子もいるのではないか。おやつの量は、全員同じではなくて、適当に自分のほしい分だけ取るようにしてはどうか。おやつの時間を、授業の一環として、力の強い子がひとりじめしたり、食べ過ぎておなかをこわしたりしないように、先生が指導すればいいのではないか。おやつのあとに、歯を磨くことも指導したり、修身の時間をおやつのあとにすることにしてはどうか。では、おやつの時間を授業時間として、おやつも教材として予算を組んで、とりあえず、やってみよう。ということに、なった。全員におやつを出して、お弁当を持ってこない子は、これまでどおり、先生たちのおやつ代から捻出したおにぎりを、お昼にこづかいさんの部屋に行って、食べることにするのである。

先生たちは、おやつの時間を実行に移す前に、ふたり一組になって、こどもたちの家を順次訪問して、こういうことを計画中ですが、親御さんたちの意見も聴きたいので、何月何日にお集まりください、と言って回った。裕福な家もあれば、余裕のない家もある。両親の揃った子もいれば、どちらか一方だけの親と暮らしている子、両親ともいなくて、祖父や祖母や、伯父叔父伯母叔母と暮らしている子もあった。ほとんど全部の家を回った。会議の日には、全体の半分くらいの家庭のおとなたちが、集まった。そうすると、なかには、うちの子には、自分でおやつを持って行かせます、という親もいた。うちは、クラス全員の分を負担してあげましょう、という親さえ、いた。いや、それは、ありがたいが、こどもさんが卒業してしまったら、頼るわけにいかないので、はじめから、学校で予算を組む方がよろしい、おやつの時間というのは、あくまでも、授業の一環として、おこなうものなのです。

だいたい、話がまとまって、毎日、十時のおやつを出すことになった。

夏休みの前に、隕星石についての公開講座を、「東京大學理學部星學科」と「地質調査所」合同で、小学校で開催。小学校の先生たちも、会場に展示する説明図の作成や、解説の小冊子の作成に加わった。公開講座には新聞記者も取材に来て、大盛況であった。

夏休みに入る。架空の小学校のある架空の町の、お化け好きのおじいさんは、ことしも、毎晩、こどもたちを相手に、お化けの講釈をして、御機嫌の杯を重ねている。

古来、隕石は、世界各地で、祀られている。隕石に含まれる鉄で剣を作る人々も、洋の東西を問わず、いた。近いところでは、榎本武揚の流星刀が有名である。

架空の町の架空の小学校の校庭に落ちた隕星石で、流星刀を作りたい、と考えている人物がいた。かなりの資力があり、誰かを雇って、博物館だか研究所だかに納められる前に、隕星石を小学校から盗んでこさせよう、などと、考えた。

どうしてか、不運続きで、自分の店が傾きかけている人がいた。こどもは、架空の町の架空の小学校に通っている。母親はもうおらず、父親だけで、一人息子を育てている。借金が返せずに店がつぶれたら、親子ともども、路頭に迷う、と悩んでいるときに、流星刀を作るために隕星石を盗んでくれたら、大金を払う、という人物と出逢った。

秋になって、しばらくして、いよいよ、隕星石を博物館に納めることが決まり、お別れ会をしよう、ということになった。そうして、お別れ会の日の朝、隕星石が、なくなっていた。

大騒ぎになって、巡査も来て、捜索したが、隕星石は見つからない。成瀬節(なるせ=せつ)先生は、こどもたちの前で、とうとう、泣き出した。こどもたちも、他の先生たちも、びっくりの、大泣きである。

店がつぶれかけていたが、なんとか、持ち直した人の息子が、家に帰ってきて、きょう、学校で、成瀬節(なるせ=せつ)先生が、大泣きに泣いた、という話をした。父親は、びっくりする。先生が、泣いた、だって! うん、先生、ものすごく、泣いてた。みんなも、しまいに、もらい泣きしちゃった。なんだって、先生が、そんなに、泣いたのかい。父親は、繰り返していた。

流星刀を作るために隕星石を手に入れた人は、グラスで葡萄酒を傾けながら、ためつ、すがめつ、石をなでまわし、悦に入っている。そこへ、書生が来て、訪問者の名を告げる。主人、今頃、何の用だ、さては、もっと金をねだりに来たのか、と思いつつ、会ってみる。来訪者、土下座して、隕星石を返してください、と頼み込む。わたくしがまちがっておりました、不心得なことを致しました、どうか、石を返してください。お金はお返しします。

主人、けんもほろろ。いまさら、店の借金を返すのに使った金を取り戻すことはできまい。それとも、店を売るのか。それぐらいなら、初めから、盗みをしなければよかったではないか。ほら、金を持って帰れ、文句はあるまい。

書生につかまえられて、放り出された人は、今度は、夜更けてから、盗みに入り、見つかってしまい、さんざんに殴られて、追い返されてしまった。もっとも、隕星石の今の持ち主も、警察に届けるわけにはいかないのである。

そんなことがあったあと、学校で、このところ、元気のない成瀬節(なるせ=せつ)先生に、こどもたちのひとりが言った。お化けの好きなおじいさんが、隕星石のことを、天から降ったものだから、天へ帰ったんだろう、だって。

成瀬節(なるせ=せつ)先生、はっとする。それから、ゆっくりと、ほほえむ。

秋も深まった。成瀬節(なるせ=せつ)先生のボーイフレンドの、「東京大學理學部星學科」の研究者が、流れ星を見る会を開こう、という。夏の隕星石の公開講座のときのようにみんなで集まって、流星を見よう。その晩、校庭に、筵や茣蓙を敷き、火鉢を出し、褞袍や毛布を持って、先生たちも、こどもたちも、その父母兄弟姉妹も集まった。隕星石を取り返すことができなかったので、とても合わせる顔がないと思っていた人も、一人息子に引っ張られて、やって来る。星が流れるたびに挙がる歓声。星を見上げて、涙を隠す人。

(20)

1943年からドイツ本土への空襲にはUSAも加わった。7月24日からのハンブルク空襲では、UK・USA・カナダ共同作戦で8昼7夜の24時間体制が組まれた。なかでも、7月27日から28日にかけての夜間空襲では、当日の異常な乾燥や家屋に貯蔵されていた石炭などの条件が加わり、火災旋風が起こった。1923年9月1日の関東大震災の20万人の死者のうち、東京の陸軍被服廠跡だけで3万8千人の死者を出す原因となった火災旋風である。1943年7月27日から7月28日までのハンブルク空襲でも4万人近くの死者を出した。

同じく1943年7月、ソヴィエト連邦のドイツ占領地域では、バルト海から黒海に至る戦線の中央部分で、ソヴィエト連邦軍が反攻に転じた。戦線はキエフの東400キロメートルほどのところにあったが、10月には、ドニエプル川まで西に戻った。11月6日、キエフがソヴィエト連邦軍によってドイツ軍の占領から解放された。

この1943年、USAでは、Office of War Information (OWI)の配給で、1941年12月7日のAttack on Pearl Harborを描いた映画”December 7th”が公開された。

1944年1月、レニングラードが、ソヴィエト連邦軍によって、ドイツ軍の包囲から解放された。

同1944年3月、大日本帝國陸軍は、ビルマとの国境に近い、インドのインパール渓谷のUK軍基地を攻撃するため、ビルマ最大の河を遡って山岳地帯を越える作戦を始めた。

同1944年4月、大日本帝國陸軍は、北京から武漢を経由して広州まで中華民国を南北に縦断する鉄道を全線確保するため、大陸打通作戦を始めた。

同1944年6月6日、ドイツ占領下フランスのノルマンディーに、USA・UK・カナダ・オーストラリア・ニュージーランド・オランダ・ノルウェー・ポーランド・チェコスロバキア・ギリシャ・フランス連合軍が上陸し、ドイツ軍を攻撃した。

同1944年6月、ドイツ軍とソヴィエト連邦軍の戦線は、レニングラードの西約140キロメートル、モスクワの西約420キロメートル、キエフの西約470キロメートルにあった。6月22日、ソヴィエト連邦軍は大規模な反攻を開始し、7月にポーランドに至った。

同1944年6月、大日本帝國軍は、マリアナ諸島・パラオ諸島でUSA軍と戦闘した。

マリアナ諸島の北端にサイパン島とテニアン島がある。サイパン島とテニアン島は10キロメートルしか離れていない。両島とも、第一次世界大戦後、国際連盟に参加した大日本帝國の委任統治領となった。サイパン島から北へ約1160キロメートルで硫黄島、硫黄島から小笠原諸島まで約270キロメートル、小笠原諸島から八丈島まで約720キロメートル、八丈島から東京まで約290キロメートルである。サイパン島から東京までまっすぐ飛んだら約2300キロメートルである。

6月15日、サイパン島にUSA軍が上陸した。

6月16日、USA軍が福岡県八幡市を空襲した。大本営は、「本十六日二時頃支那方面よりB29及B24二十機内外北九州地方に来襲せり。我制空部隊は直ちに遊撃し、其の数機を撃墜之を撃退せり。我方の損害は極めて軽微なり」と発表した。「支那方面」とは、中華民国四川省成都だった。成都は重慶から西北に約270キロメートル余りである。成都から福岡までまっすぐ飛ぶと約2500キロメートルになる。B29による最初の日本空襲だった。B29の航続距離は6000キロメートル余りある。

6月19日から6月20日にかけて、大日本帝國海軍はマリアナ諸島沖でUSA海軍と戦闘した。航空母艦大鳳・翔鶴・飛鷹が撃沈された。ハワイ海戦に参加した航空母艦赤城・加賀・蒼龍・飛龍・翔鶴・瑞鶴のうち、すでにミッドウェー海戦で赤城・加賀・蒼龍・飛龍を失っていたが、さらに、翔鶴も失った。

7月18日、大本営は、「サイパン島の我が部隊は七月七日早暁より全力を挙げて最後の攻撃を敢行、所在の敵を蹂躙し其の一部はタポーチヨ山附近迄突進し勇戰力闘、敵に多大の損害を与へ十六日迄に全員壮烈なる戰死を遂げたるものと認む(中略)サイパン島の在留邦人は終始軍に協力し凡そ戰ひ得るものは敢然戰闘に參加し概ね將兵と運命を共にせるものの如し」と発表した。

7月21日にグァム島、7月24日にテニアン島に、USA軍が上陸した。

同じく1944年7月、USAでは20th Century Fox社の製作・配給で1942年6月のミッドウェー海戦を描いた映画”Wing and a Prayer, The Story of Carrier X”が公開された。

日本では、1944年、東京の寶塚劇場は風船爆弾の工場になった。寶塚歌劇團は、慰問公演の他に、女子挺身隊としての労働奉仕もおこなうようになった。

ハナ、ツル、セツのシリーズ映画も、1944年の春夏の回で完結することとなった。最後の作品は、エーリッヒ=ケストナーの作品を日本に翻案して取り入れ、主人公奈留瀬節(なるせ=せつ)がめでたく結婚する話とした。それは、1938年にスイスで出版された“Georg und die Zwischenfälle”で、1943年、“Der kleine Grenzverkehr”の題で、ドイツで映画化されていた。ドイツ国内では、1933年以後、ケストナーの作品は、こども向きのもの以外は出版禁止になっていた。

以前、合作映画を撮るためにドイツに行ったとき、ハナ、ツル、セツは、ある映写技師の好意によって、検閲や配給会社の都合でカットされたフィルムの完全版や、フィルムが回収されたはずのものや、政府によって上映禁止にされたものを含めて、見たいだけ見る映画三昧の日々を送ることができた。そのときの映写技師とは、その後も文通を続けている。それゆえに、“Der kleine Grenzverkehr”のことも、知ることができたのであった。

シリーズ最後の作品で、セツの演じる奈留瀬節(なるせ=せつ)先生は、これまでのすべての教え子たち、その父母兄弟姉妹祖父祖母伯父伯母叔父叔母従姉妹従兄弟、養父養母義兄弟義姉妹、その他、これまでお世話になった人々、お化け好きのおじいさんまで、前にして、夫となる人を紹介し、おわかれの言葉を述べる。そのなかで、女子師範学校の校長の中村正直の言葉を引いて、言うのだった。

「師範学校の校長先生は、こう、おっしゃいました。英雄は、民を苦しめる。男子にして、しかり。ときあって、女子にも、英雄が出ることがある。が、女英雄たらんよりは、賢母良妻たれ、と。わたくしも、先生の教えを守って、賢い母、良い妻になるよう、努めてまいります。そして、わたくしの夫となる人にも、英雄たらんよりは、賢父良夫たれ、と望みます」

その横で、夫となる人が、胸を張り、賢い父、良い夫になるように努めると言うのだった。

しかし、実際には、多くの男は、賢い父、良い夫になるひまもなく、兵隊に取られて、戦地へ行っていた。農村は、年寄りと女子供ばかりになっていた。鉄道では女性の駅員がふえ、なかには、電鉄会社が女学校を作って学生に市電の運転手をさせているところもあった。

朝鮮にいたセツの次兄も召集され、南方へ送られる途中、船が撃沈されて亡くなった。セツがそれを知ったのは、映画の撮影が完了する直前だった。だから、おわかれのせりふには、万感迫って切なかった。小学校教師シリーズの最後の作品は、1944年の夏の初めに公開され、大勢の親子連れの観客を楽しませた。秋になると、映画を見ていたこどもたちも、映画に出ていたこどもたちも、学童疎開で、親元を離れて行った。

日本にいる中立国や同盟国の人々も疎開した。タイ、スイス、スウェーデン、ソヴィエト社会主義共和国連邦、ドイツ、イタリアの公使館や大使館が、軽井沢や箱根に移った。

大陸打通作戦は、開始以来、秋になっても順調に戦果が報道され続け、一方、インパール作戦は、一旦、4月に報道が絶えたあと、8月に「戦線を整理」と発表されていた。

9月、大本営は、テニアン島・グァム島の守備隊は全員戦死と発表した。

同1944年10月10日、USA軍が沖縄を空襲した。多くの大日本帝國陸海軍の艦船・徴用船・漁船が沈没し、那覇市街地の9割が焼失した。

同1944年10月20日、フィリピン東南部のレイテ島にUSA軍が上陸、周辺の海域で10月25日まで大日本帝國軍と戦闘した。航空母艦瑞鶴、瑞鳳、千歳、千代田が沈没した。ハワイ海戦に参加した航空母艦赤城・加賀・蒼龍・飛龍・翔鶴・瑞鶴のうち、ミッドウェー海戦で赤城・加賀・蒼龍・飛龍を失い、マリアナ沖海戦で翔鶴も失い、最後に残った瑞鶴を、フィリピン北部のルソン島の北東端エンガノ岬の沖の海戦で失った。

10月28日、大本営は、「神風特別攻撃隊敷島隊員として、昭和十九年十月二十五日〇〇時スルアン島の○○度○○浬に於て、中型航空母艦四隻を基幹とする敵艦隊の一群を補足するや、必死必中の体当り攻撃を以て、航空母艦一隻撃沈同一隻炎上撃破、巡洋艦一隻轟沈の戦果を収め、悠久の大義に殉ず。忠烈万世に燦たり(以下略)」と発表した。スルアン島は、レイテ島の東側のレイテ湾の一番外側にある小島である。

続いて10月31日、大本営は、「神風特別攻撃隊は、十月二十五日以来比島東方海面の敵機動部隊並に輸送船團に対し、連続必死必中の猛攻を加へつつあり。(以下略)」と発表した。

これは、もう、あかん。ここでしまいにせんかったら、一億玉砕や。そう思った人が、いた。その人は、常に、日本にいる中立国の人々と接していて、USAの報道や、ディズニー映画の内容まで、知っていた。

ハナとツルは、会社の重役室に呼び出された。社長と専務、それに、見知らぬ人物がいたが、やがてその人は、外務省の役人だとわかった。呼び出した理由は、外務省からの、日本とソヴィエト連邦との友好関係を盛り上げる宣伝映画の製作依頼だった。外務省の役人は、完璧な標準語を完璧な大阪弁でしゃべった。

ハナとツルとは、顔を見合わせ、目と目で確かめ合ったあと、こもごも、疑問を訴えた。

ソ連は、確かに、日本にとっては中立国ですが、同盟国のドイツとは戦争をしています。それなのに、ソ連との友好関係を盛り上げる映画を作ったりしたら、同盟国としての信義に悖るのではないでしょうか。

それに、ソ連は、社会主義の国です。軍事的な理由で、中立関係になっているのは、わかりますが、だからって必要以上に、友好関係を盛り上げようとしたら、社会主義の宣伝をすることになってしまうのではないでしょうか。

すると、外務省の役人は、ドイツとの同盟関係については心配ありません、と答えた。ドイツの外務省も、日本とソ連との中立関係を重んじています。つまり、ドイツのために、その中立関係を役立ててほしいと、言ってきたことがあったし、これからも、あるでしょう。社会主義の宣伝になるのではないか、という点については、あなたたちならば、社会主義の宣伝をせずとも、ソ連と友好的な映画を作ることができると、期待しています。

そこへ社長までが、口を添えてきた。なにしろ、ドイツとの合作映画で、総統も親衛隊も一切映さずに、総統に絶賛される映画を撮った君たちならば、社会主義の宣伝をせずとも書記長に絶賛される映画を撮ることもできる、と、期待しているんだよ。

ハナとツルとは、それこそ、目を丸くして、とんでもない!と、両手を振り、また、目を瞑り、首を振りして、大慌てで否定した。ドイツとの合作映画の話が来たときは、たまたま、ドイツに留学して医学博士になった人の映画を撮りたいと思っていたから、ドイツの監督を説得して、撮らせて貰ったら、それがまた、たまたま、うまく行って、なぜか、総統にも気に入ってもらえたので、ほんとは、実は、正直言って、白状すれば、冷や汗三斗、脂汗たらたら、薄氷を踏む思いでした、もう二度と、あんな思いはごめんです。

すかさず、外務省の役人が、それや、今も、たまたま、撮りたいと思っているものが、あるんじゃないですか? と、きいてきた。

はっとして、ハナとツルとは、しまった、というように、顔を見合わせた。ハナ、ツル、セツの三人は、ドストエーフスキイの小説が好きで、カール=フレーリッヒ監督の無声映画(サイレント)『カラマゾフの兄弟』(1921年)と『白痴』(1921年)も見ている。そこで、来年、1945年には、セツが『白痴』のヒロインのナスターシヤ=フィリッポヴナと同じ25歳になるのを機に、日本の物語に翻案しようと考えていた。

ハナとツルとが、手に手をとって、恐る恐る、しぶしぶ、いやいや、遠慮しいしい、ためらいにためらって、小さな、細い声で、上目遣いで、そのことを打ち明けるや、外務省の役人が、得たりかしこしと、おあつらえむきや! と叫んだ。社長も、それだ、それでいい! と叫んだ。社長は、にこにことして、続けた。

なんだ、なかなか、次の企画が出てこないと思っていたら、実にすばらしい、時世に合った、お国のためになるものを、考えていたんだね、さすがは、ハナくん、ツルくんだ、いやあ、さすがだ、是非、その企画を進めなさい、いやね、実は、なかなか、次の企画が出てこないもんだから、セツくんを大陸へ慰問に行かせようかと考えていたところだったんだ、この非常時に、映画会社が女優を遊ばせておいたら、非国民と呼ばれかねないからね、だが、次の企画があるのなら、セツくんを大陸に行かせるなんてことはしない、是非、セツくんと三人で、練りに練って、いい脚本を作ってください。

ハナとツルとは、もう、後に退けなくなった。

映画ができたら試写会を開いて、軽井沢や箱根にいる外国人に見て貰います、と、外務省の役人が、言った。字幕の翻訳は任せてください、とも。

(21)

ドストエーフスキイの長編小説『白痴』は四編に分かれており、第一編が冬の初めのある一日の出来事、第二・三・四編がその半年後のひと夏の物語になっている。第一編、スイスで癲癇の治療を受けていたレフ=ニコラエヴィチ=ムイシュキン公爵が、およそ5年ぶりにロシアに帰って来る。そして、第四編の終末間際、明くる年の夏、ナスターシヤ=フィリッポヴナの死体と、高熱を発してうわごとをとなえるパルフェン=ラゴージンと、彼の頭や頬をなでるほかは何をきかれても答えられない、「白痴」の状態となったムイシュキン公爵が、人々に発見される。後日談として、さらに半年後、ムイシュキン公爵は再びスイスで治療を受けている。全編で一年余りの物語である。

作者が執筆を始めたのは1867年で、雑誌『ロシア報知』に連載されたのが1868年から1869年まで、単行本が出たのが1874年だった。英語とフランス語の訳が1887年、ドイツ語訳が1888年、米川正夫の翻訳が1914年に出ている。

≪十一月下旬のこと、珍しく暖かい、とある朝の九時ごろ、ペテルブルグ・ワルシャワ鉄道の一列車は、全速力を出してペテルブルグに近づきつつあった。≫
(『白痴(上)』ドストエーフスキイ作、米川正夫訳、岩波文庫32-612-8, 1994年、p.11)

小説『白痴』は、このようにして始まる。すなわち、のちに、第一次世界大戦後に独立するエストニア・ラトビア・リトアニア・ポーランドは、当時はロシア帝国の領土だった。それらの国々を横断して、1850年代から1860年代にかけて、ペテルブルグ・ワルシャワ鉄道が敷かれていったのだった。バルト海の東の端の港湾都市ペテルブルグから、西南の内陸の都市ワルシャワまで、全長約1330キロメートルである。

レフ=ニコラエヴィチ=ムイシュキン公爵と向かい合わせの席に乗り合わせたパルフェン=ラゴージンが、プスコフから帰ってきたところだと語る。このプスコフとは、エストニアとの国境に近い都市でプスコフ州の州都である。

最初に開通したのがプスコフ州の東部の都市ガッチナまでの区間だった。1853年10月である。州都のプスコフまで開通したのは1858年である。その間にロシア帝国は、オスマン朝のトルコ帝国およびその同盟たるフランス帝国・UK・サルデーニャ王国と戦争をしていた。1853年10月から1856年3月まで続いたクリミア戦争である。戦争が終わってから、また、えっちらおっちらと線路を伸ばして、プスコフから西南へ内陸を通って、ラトビアのダウガフピルス、リトアニアのヴィリニュス、そして1862年、ポーランドのワルシャワへと至る路線が開通したのであった。

これを同時代の日本の話に替えるのは無理だった。1853年、ロシア帝国のプチャーチン提督が長崎に鉄道模型を持参し、それを見学した佐賀藩精煉方が、のちの東芝の元祖となる田中久重などとともに2年かけて、蒸気機関車と蒸気船を試作、1854年には、USAのペリー提督が持参した鉄道模型が横浜で運転されたが、嘉永・安政・万延・文久・元治・慶応年間はもちろん、蒸気機関の軍艦が海戦を繰り広げた戊辰戦争が終わった1869年になっても、日本にはまだ本物の鉄道は一本も走っていない。

夏目漱石が1908年9月から12月にかけて朝日新聞に連載した小説『三四郎』が、主人公の三四郎が故郷から東京へ向かう汽車の旅から始まっている。汽車が京都を出て名古屋へ近づくあたりから始まるのだが、熊本の高等学校を出て東京の大学に入るために三四郎が利用した鉄道は、九州鉄道・山陽鉄道・東海道線(以上1909年より、鹿児島本線・山陽本線・東海道本線)である。当時は伊豆半島の両端の熱海と沼津とを結ぶトンネルが開通しておらず、東海道線は箱根山と富士山との間を、御殿場を経由して国府津へと回っていた。総走行距離は約1330キロメートルである。

日本に翻案するなら、このあたりの時代がいいかと思われた。『白痴』が『ロシア報知』に発表されてから40年後である。米川正夫が『白痴』の翻訳を出したのも原作の単行本発行の40年後である。米川正夫は1912年に北海道の旭川にある大日本帝國陸軍第七師団にロシア語教師として赴任、在職中に『白痴』の翻訳を始め、1914年に出版した。

1908年から1912年までは、ハナ、ツル、セツがドイツとの合作映画で撮った、宇良田唯(うらた=ただ)がドイツから帰国してから天津に旅立つまでの間と重なっている。奇しくも、三四郎と故郷が同じ、熊本であった。三四郎は汽車の中で、こんな会話を交わす。

≪すると髭の男は、
「お互いは哀れだなあ」と言い出した。「こんな顔をして、こんなに弱っていては、いくら日露戦争に勝って、一等国になってもだめですね。……(中略)……」と言ってまたにやにや笑っている。三四郎は日露戦争以後こんな人間に出会うとは思いもよらなかった。どうも日本人じゃないような気がする。
「しかしこれからは日本もだんだん発展するでしょう」と弁護した。すると、かの男は、すましたもので、
「滅びるね」と言った。――熊本でこんなことを口に出せば、すぐなぐられる。悪くすると国賊取り扱いにされる。三四郎は頭の中のどこのすみにもこういう思想を入れる余裕はないような空気のうちで生長した。≫
(『三四郎』夏目漱石著、角川文庫271, 1951年初版、1986年97版、p.22)

1944年秋の日本で、このくだりを読み返すと、三四郎の言ったことも髭の男の言ったことも、ことごとく予言となって顕れたように思えてくるのだ。三四郎の言った通り、日本は、発展した。そして髭の男の言う通り、大日本帝國は、今まさに滅びんとするかのありさまなのである。そんな考えを頭の隅のどこにもおけない空気のなかで、ハナ、ツル、セツは映画を撮ってきたのだ。

ドストエーフスキイの小説『白痴』を、1908年の前後10年間ぐらいの日本に翻案し、ペテルブルグを北海道の旭川にする。ハナとツルとセツの意見は一致した。

ラゴージンがそこから戻って来るプスコフは、函館にする。函館から旭川までは北海道鉄道(1909年より函館本線)が通じている。青森と函館とを結ぶ青函連絡船は1908年3月に就航した。初めは、青森にも函館にも桟橋がなく、艀に乗り換えなければならなかった。津軽海峡を渡るのには4時間かかった。

青森から西、あるいは南の旅程をどうするか、ハナ、ツル、セツは考えた。

小説『白痴』で、「ペテルブルグ・ワルシャワ鉄道の一列車」に乗っているレフ=ニコラエヴィチ=ムイシュキン公爵の服装は、彼がどこから旅してきたのかを雄弁に物語っていた。

≪彼は大きな頭巾つきの、だぶだぶした、地の厚いマントを羽織っていたが、それはどこか遠い外国――スイスか北部イタリーあたりで、冬の旅行に使われるものにそっくりであった。ただし、それもオイドクーネンからペテルブルグまでというような、長道中を勘定に入れるわけには行かぬ。≫
(『白痴(上)』ドストエーフスキイ作、米川正夫訳、岩波文庫32-612-8, 1994年、p.12)

「オイドクーネンからペテルブルグまで」という、そのオイドクーネンとは、プロイセン東線の駅で、バルト海に面した港湾都市ケーニヒスベルクから東へ約150キロメートル、プロイセン王国とロシア帝国との国境付近に、1860年に設けられた。

ペテルブルグ・ワルシャワ鉄道も、リトアニアのヴィリニュスから西へ約160キロメートル離れた国境付近まで支線を延ばして、キーバルタイという駅を1862年に設置した。

オイドクーネンとキーバルタイとは、1870年まではプロイセン王国とロシア帝国との、1871年から第一次世界大戦まではドイツ帝国とロシア帝国との、第一次世界大戦後はワイマール共和国とリトアニアとの、国境駅であった。

すなわち、ドストエーフスキイが小説を書いていた当時、ポーランドの北部のバルト海沿岸地域はプロイセン王国の領土だった。

バルト海に向かってゆるやかな弧を描く湾の東側にケーニヒスベルクが、西側にダンツィヒがある。ケーニヒスベルクは、プロイセン王国、ドイツ帝国、そして、第一次世界大戦後もワイマール共和国の都市である。ダンツィヒは、プロイセン王国、ドイツ帝国、そして、第一次世界大戦後はワイマール共和国にもポーランドにも属さない自由都市とされた。

レフ=ニコラエヴィチ=ムイシュキン公爵は、ペテルブルグに着いてからエパンチン将軍を訪ね、「まだベルリンにいるときから」云々と話している。

ベルリンは、プロイセン王国、ドイツ帝国、ワイマール共和国の首都である。ベルリンから真東に(地図上の直線距離で)約520キロメートルのところにワルシャワがある。両都市をつなぐ内陸の鉄道があればいいのだが、そちらは1870年代まで開通していない。

プロイセン東線は、最初に、1851年、ベルリンとダンツィヒとの中間にあるシュナイデミュールから、東のブロンベルクまで開通した。

次に、1852年、ブロンベルクから北のディルシャウを経て、ダンツィヒまで開通した。つまり、これによってシュナイデミュールからダンツィヒまでが開通した。

1853年に、ダンツィヒの東南にあるマリエンブルクからケーニヒスベルクまで開通した。

そして、1857年に、ディルシャウとマリエンブルクとが接続した。これによって、シュナイデミュールからケーニヒスベルクまで、また、ダンツィヒからケーニヒスベルクまでが、開通した。

1867年10月、プロイセン東線は、ベルリンからケーニヒスベルクを経てオイドクーネンまで開通した。

だから、1867年11月に、「ペテルブルグ・ワルシャワ鉄道の一列車」に乗っていたレフ=ニコラエヴィチ=ムイシュキン公爵は、ロシア帝国の西の端の、内陸の、プロイセン王国との国境に近い、ワルシャワからではなく、ワルシャワから520キロメートル西にある、プロイセン王国の首都ベルリンから、北のバルト海沿岸地域へ回って、帰ってきたのだ。

レフ=ニコラエヴィチ=ムイシュキン公爵はエパンチン将軍から問われるがままに詳しく来し方を語った。幼いときに両親を亡くし、父親の友人のニコライ=アンドレエヴィチ=パヴリーシチェフという、知名の士の庇護を受けた。パヴリーシチェフはベルリンでスイスのシュナイデル教授に出逢い、ムイシュキン公爵の治療をゆだねたのだった。

≪あるときパヴリーシチェフがベルリンでスイスのシュナイデル教授に邂逅したところ、こういう病気を専門に研究している教授は、スイスのヴァレス州に病院を持っていて、自家独特の冷水療法、体操療法によって、白痴、瘋癲、精神錯乱を治療し、なおそれと同時に教育を施して、一般に精神発育の方法をも講じていたので、パヴリーシチェフはおよそ五年間、公爵をこの人のもとへ送ったが、二年前に急病で遺言も何もせずに死んでしまった。シュナイデルはそれからなお二年ばかり、彼を養って治療につとめ、すっかり全治こそしなかったものの大変よくなったので、今度とうとう彼自身の希望もあり、またある事情にも遭遇したので、教授は彼をロシヤに帰すことにした、その顛末を公爵はもれなく語った。≫
(『白痴(上)』ドストエーフスキイ著、米川正夫訳、岩波文庫32-612-8, 1994年、p.56)

シュナイデル教授の「自家独特の冷水療法、体操療法」なるものが、実際にどのようにおこなわれたのかは、わからない。

ドストエーフスキイ自身、癲癇の持病があり、治療法を求めて、スイスを含め、ヨーロッパ各地を旅しているが、実際にどんな治療を受けたのか、よくわかっていない。

レフ=ニコラエヴィチ=ムイシュキン公爵は、エパンチン将軍との会談が終わって、夫人と令嬢たちと会食したときに、およそ5年前にスイスへ向かったときは、重い発作を繰り返したあとで苦しかったと語る。

≪「ロシアを出ていろいろなドイツの町を通りすぎたとき、ぼくはただ黙って見てばかりいました。……(中略)……今でも覚えていますが、そのときぼくの心の憂鬱はやりきれないほどでした。もう泣き出したいくらいでした。ぼくはしじゅうびっくりしたり、心配したりしてばかりいました。それは見なれぬ異国のものが、おそろしくぼくの神経に作用したのです。それはわかりました。見なれぬものがぼくを苦しめたのです。その暗黒状態からはっきり目がさめたのは、ある夕方、スイスの入口にあるバーゼルの町に入ったときでした。町の市場にいる一匹の驢馬がぼくを呼びさましてくれたのです。」≫
(『白痴(上)』ドストエーフスキイ著、米川正夫訳、岩波文庫32-612-8, 1994年、p.107-108)

「ロシアを出ていろいろなドイツの町を通りすぎたとき」と言っているのは、「ドイツ」の「いろいろな町」であるとともに、「いろいろなドイツの王国や大公国」の町という意味でもあると思われる。すなわち、プロイセン王国の首都ベルリンから西南へ進んでフランクフルトアムマインに至り、ヘッセン大公国とバーデン大公国とを通っていったはずである。フランクフルトアムマインから、ヘッセン大公国のダルムシュタット、バーデン大公国のマンハイムを経て、スイスのバーゼルまでをつなぐ鉄道が、1855年に開通している。

バーゼルにはフランスの鉄道も1840年代に乗り入れている。バーゼルは、三つの国が境界を接する所のスイス側に位置している。1871年まで、東側がバーデン大公国、西側がフランス帝国、そして、南側がスイスだった。1871年にドイツ帝国が統一されたあとは、ヘッセン大公国とバーデン大公国もプロイセン王国とともにドイツ帝国に含まれ、フランスは共和国になった。

スイス全体では、東をオーストリア帝国(1868年からオーストリア=ハンガリー帝国)、北東をバーデン大公国、北西から西側一帯をフランス帝国、南をイタリア王国で囲まれていた。北辺の中央のバーゼルから、やや東に弧を描きながら南北縦断して、西南の隅のヴァルス州に向かうのである。弧の中央に当たる部分がリュツェルンである。リュツェルンに向かう鉄道は1856年に通じている。

≪「ぼくたちはリュツェルンへ着きました、それからぼくは湖の上をひっぱりまわされたのです。湖はじつにいいと思って感心したのですが、同時に恐ろしく苦しいような心持ちがしました」≫
(『白痴(上)』ドストエーフスキイ著、米川正夫訳、岩波文庫32-612-8, 1994年、p.112)

リュツェルン湖を渡ってから西南へ向かい、ブリエンツ湖とトゥーン湖に至るのだが、その途中にも小さな湖がいくつかあり、水路でつながっているのもいないのもある。トゥーン湖の西の端近くの南岸にある河口まで、全行程を船で行けたら楽だが、途中で何度か陸に揚がらなければならない。馬車も使ったのであろう。

トゥーン湖には南のアルプスから川が流れて来ている。その水源よりもさらに山を越えて南にあるのがヴァレス州である。川沿いの道が、上流で、ヴァレス州への道につながっている。ヴァレス州の南は「北部イタリー」である。

シュナイデル教授の治療法と関係があるかどうかわからないが、スイスは、温泉があることで知られており、ヨーロッパ各地やUSAから湯治客がやってくる。

たとえば、バーデンには、西暦紀元1世紀に造られた古代ローマの浴場と、中世にハプスブルク伯が作った浴場がある。古代ローマの浴場は兵士のためで、ハプスブルク伯の浴場は王侯貴族のためであった。

そして、ヴァレス州のロイカーバートの温泉も、古代ローマ時代から知られていた。ゲーテ、アレクサンドル=デュマ、マーク=トウェーン、コナン=ドイルなど、スイスを旅行したことのある文豪の多くが、訪れたとされている。

ドストエーフスキイについては、ジュネーブにいたことが知られている。ジュネーヴは、スイスの西南の端に突き出したレマン湖の西岸の町で、湖の北岸はヴォー州、南岸はフランスである。レマン湖の東岸にヴァレス州の西北の隅が面していて、ヴォー州と隣り合っている。『白痴』の執筆を始めたときのドストエーフスキイはジュネーブにおり、途中でヴォー州のヴヴェイに移り、さらに、イタリアに入って、ミラノ、フィレンツェと移って、完成させたというから、イタリアに入るときに、ヴァレス州を通り抜けただろう。

ジュネーヴからレマン湖の北岸をぐるっとまわってヴァレス州に入る鉄道が、1860年までに通じている。鉄道はさらに、レマン湖の東岸から南東へ約35キロメートル進んだマルティニーで終点になる。そこから北東に約80キロメートル進んでヴァレス州を3分の2ほど横断したところに、さらに北東に向かう道と南へ向かう道との分岐点があり、南へ進むと「北部イタリー」に入り、アルプスを抜けてミラノへと至る。

マルティニーから北東への道を約26キロメートル進んだところに、ヴァレス州の州都シオンがある。ロイカーバートは、シオンからさらに東へ約24キロメートル進んだところの町ロイクの北側山麓にある。

マルティニーから南へ進んで「北部イタリー」に入る道もあるが、ドストエーフスキイは、北東へ進む道を取ったと思われる。なぜなら、シオンとロイクの間、シオンから5キロメートルほどのところに’Saint-Léonard’という町があるから。’Saint-Léonard’あるいは’Saint Leonard’など、言語によって形が変わるが、レフ=ニコラエヴィチ=ムイシュキン公爵の洗礼名レフは、同じなまえの聖人にちなんだものである。

では、’Saint-Léonard’という町が、シュナイデル教授の病院のある町、ということになるのだろうか?

レフ=ニコラエヴィチ=ムイシュキン公爵は、治療以外の生活の一齣として、滝の話をする。

≪「ぼくのいたその村に滝が一つありました。あまり大きくはなかったが、白い泡を立てながら騒々しく、高い山の上から細い糸のようになって、ほとんど垂直に落ちてくるのです。ずいぶん高い滝でありながら、妙に低く見えました。そして、家から半露里もあるのに、五十歩くらいしかないような気がする。ぼくは毎晩その音をきくのが好きでしたが、そういうときによく激しい不安に誘われたものです。」≫
(『白痴(上)』ドストエーフスキイ著、米川正夫訳、岩波文庫32-612-8, 1994年、p.114)

ドストエーフスキイ自身が、そんな滝を見て、レフ=ニコラエヴィチ=ムイシュキンの療養先に選んだのかもしれない。そんな滝が’Saint-Léonard’にあるのかどうかは、わからない。

スイスは、言わずと知れた内陸国だが、その面積は、日本の内陸県のうち岐阜県・長野県・山梨県・群馬県・栃木県を合わせたものに、ほぼ、等しい。

ドストエーフスキイの小説『白痴』を、日本に翻案し映画化するにあたって、ハナとツルは、最初、その岐阜県・長野県・山梨県・群馬県・栃木県のどこかを、スイスの替わりにしようと思ったのである。ところが、セツが、箱根のほうがいい、と言い出した。それじゃ、スイスというよりも、「北部イタリー」じゃないかと、ハナとツルは肯かない。

それでも、セツが言うには、ドストエーフスキイがスイスのヴァレス州をムイシュキン公爵の療養先に選んだのは、有名なロイカーバートの温泉があるからに違いない、日本でそれに匹敵する温泉といえば、箱根だ、と譲らない。挙げ句の果てに、ムイシュキン公爵お気に入りの滝こそ、ライヘンバッハの滝に違いない、と言い張り、ハナとツルが、それだけは絶対にない、と断固否認、全面否定した。

ライヘンバッハの滝があるのは、ユングフラウよりも向こうだ、「半露里」どころじゃない、仮にロイカーバートからだとするなら五十露里だ、それも地図上の直線距離だ、実際は山あり谷ありだから、100キロメートルぐらいある、レフ=ニコラエヴィチ=ムイシュキンが歩いていけるわけがない、家で寝ているときに音が聞こえるわけがない、云々。

セツも負けてはいない。ドストエーフスキイが別の所で見た滝をヴァレス州にあることにしたのかもしれないし、想像上の滝かもしれない、激しい不安に襲われる滝のイメージは、ライヘンバッハの滝にぴったりだ、云々。

議論は紛糾、沸騰し、一晩たっても埒が明かない。

ハナも、ツルも、セツも、延原謙の翻訳によるシャーロック=ホームズものを愛読していた。ハナは女学校の英語の教師だったので、丸善で買った原書と読み比べて日本語訳に感心したり難癖をつけたりし、ツルは女学校では地理と歴史の教師だったので、ホームズの事件地図や事件年表を作り、セツは、ふたりのような学術的研究ではなく、直観で本質を把握し、まぎれもない証拠をつきつけられても信念を曲げない。

一晩たって、滝はともかく、まあ箱根の滝にもいろいろあるが、それはともかく、主人公の療養先として、確かに、箱根あたりがいいかもしれない、と、ハナとツルは考え直した。

江戸の庶民は、東海道の宿場である箱根に湯治に行くのが、一生に一度の贅沢で、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』や歌川広重の『東海道五十三次』にも登場する。

箱根八里は馬でも越すが、蒸気機関車は山登りが苦手なのである。だから東海道線は、箱根山と富士山との間にある御殿場を回って、神奈川県の国府津と静岡県の沼津とをつないでいた。

箱根と同じく東海道の宿場のあった小田原が、1888年から、東海道線の国府津駅と箱根湯本との間を、小田原馬車鉄道でつなぐようになった。さらに、箱根湯本に水力発電所が建設されて、小田原馬車鉄道が小田原電気鉄道になり、1900年から電車の運行が始まった。

箱根と同様、スイスも、水力発電を利用して、早くから鉄道が電化された。レマン湖の北岸のヴォー州の町ヴヴェイから、湖岸を回ってヴァレス州に入り、州都シオンまで来る路面電車が1888年に開業した。これはスイス国内で最も早い時期の電車の運行である。

ユングフラウ登山鉄道は1898年にアイガー山麓まで電気機関車が運行するようになり、のちに電車になった。標高3454メートルのユングフラウヨッホ駅が1912年に開業した。なお、ユングフラウの標高は4158メートル、アイガーの標高は3970メートル、富士山の標高は3776メートル、箱根の神山の標高は1438メートルである。ロイカーバートの標高は1411メートルである。

ちなみに、小田原電気鉄道より早く京都市電が開業したのが1895年である。

1895年から1900年にかけて、小田原と熱海との間に人力で車両を押す人車鉄道の路線が建設され、1900年に小田原電気鉄道と接続して、豆相人車鉄道が開通した。

小田原は山だが熱海はその名の通り、海辺である。熱海は、風土記や万葉集にもその名が見えるが、徳川家康以来、将軍家や大名・旗本の湯治場になり、大間歇泉の近くに将軍家の御殿もあった。1886年に、内務省衛生局長の長與專齋が大間歇泉の近くに療養所を作り、政治家や官僚が利用するようになった。1889年には皇太子の療養のために、徳川将軍家の御殿跡に御用邸が建てられた。このときはまだ人車鉄道ができていないので、皇太子は小田原から人力車で運ばれた。人車鉄道なら4時間だが、人力車だと半日かかった。

庶民にとっては、尾崎紅葉が1897年から1902年まで新聞に連載した小説『金色夜叉』が人気を博し、小説の舞台である熱海も有名になった。

熱海は、1904年から1905年まで続いた日露戦争のときに傷病兵の療養地に指定された。まるでスイスのバーデンが古代ローマの兵士の湯治場にされていたのと同じである。

ついに熱海・小田原間を蒸気機関車が走るようになったのが、1908年8月からであった。

しかし、せっかく小田原から熱海に来る列車が蒸気を出すようになったというのに、逆に、熱海の大間歇泉は、頻度も量も減ってきた。寺田寅彦を含め、科学者たちが調査したが、徳川将軍時代は厳しく管理統制されていたものが、明治維新後は開発が進み、温泉が乱立し、特に日露戦争後の利用客の増加で、ますます乱開発が進んだ結果、大間歇泉に思いがけない影響が出たものだと、結論付けられた。

それでも、『金色夜叉』は1910年代から1930年代にかけて20回以上も映画化された。熱海の海岸の松の木のそばで、貫一がお宮を蹴倒す芝居を、知らない人はいない。ますます人気が上がり、ますます旅館がふえ、作家や学者などの文化人や実業家の別荘もふえた。

箱根でも、江戸時代から宿場のあった湯本だけでなく、1894年から、新たに山上の強羅に温泉が開発され、公園や旅館が造営され、別荘もふえた。1919年に、小田原電気鉄道の延長線として強羅までの登山電車が開業した。乗合自動車も開業した。しかし、1923年の関東大震災で被害を受け、小田原電気鉄道は1924年まで不通になった。

1925年に、東海道本線の支線として熱海と小田原とを結ぶ国鉄の路線ができ、熱海鉄道・小田原電気鉄道は廃止された。同じ年に、熱海の大間歇泉は完全に枯渇した。そして御用邸も1928年に廃止された。小田原電気鉄道は日本電力との吸収合併を経て、新会社の箱根登山鉄道になった。

1934年に、沼津の東10キロメートルの函南町から熱海まで続く、丹那トンネルが完成し、東海道本線は御殿場へ回るのをやめ、熱海駅・小田原駅とも、本線の駅になった。江戸の庶民は、東海道の宿場のある箱根の湯本で湯治を楽しんだが、それに加えて東京の市民は、小田原から箱根登山鉄道が運んで行ってくれる強羅温泉も、そして、東海道の駅のある熱海への温泉旅行も、楽しむようになった。しかし、1942年頃になると、戦時統制が厳しくなり、1944年頃から観光用の鉄道も自動車も縮小し、1945年には休業した。

1908年の前後10年間ぐらいならば、箱根から青森までの路程は、小田原電気鉄道で国府津まで行き、国府津から東京まで東海道線、東京の上野駅から青森まで日本鉄道奥州線(1909年より東北本線)である。

1908年の大日本帝國は、北は樺太の南半分を領有してロシア帝国と陸続きで境を接し、樺太の東で千島列島を領有して、海を挟んで、さらに北のロシア帝国のカムチャツカ半島と境を接していた。南は台湾を領有して、海を挟んで、さらに南のフィリピンを領有しているUSAと境を接していた。そして西は、海を挟んで、北から南へ、ロシア帝国・大韓帝國・清と境を接していた。東は、太平洋で、8000キロメートルのかなたにUSAがある。

1894年から1895年まで続いた清との戦争に勝利し、1904年から1905年まで続いたロシア帝国との戦争にも勝利した結果、大日本帝國は1905年に大韓帝國の外交権を掌握して統監府を置き、伊藤博文が初代統監になっていた。

1909年、伊藤博文は統監を辞任するが、10月、清のハルビンで、大韓帝國の人、安重根によって暗殺される。安重根は大日本帝國の租借地になっていた清の旅順で裁判を受け、1910年3月、死刑となる。5月、大逆事件に連座したとして社会主義者の大量検挙が始まる。8月、大日本帝國が大韓帝國を併合する。

そして、1911年1月、大逆事件で逮捕された人々のうち、24人に死刑が宣告される。そのうち12人の死刑が執行され、残る人々は特赦で無期刑になる。2月、既に1890年代に改正して領事裁判権を撤廃していた、USA・ヨーロッパ諸国との条約について、更に改正を重ねて関税自主権を回復し、明治維新以来の国家目標だった「不平等条約の改正」を成し遂げる。この年、清で辛亥革命が起こり、翌1912年1月に中華民國が成立する。同年7月、明治天皇が亡くなる。まるで、日本と西洋諸国との「不平等条約の改正」のためにかつぎだされ、かつぎあげられたおみこしのような一生だった。のちの1920年、明治神宮にまつられることになる。

1944年秋の、ハナ、ツル、セツの眼には、1904年頃から1914年頃までのどこかに、大日本帝國の分岐点があったように見えてきた。宇良田唯(うらた・ただ)の映画では、その頃の日本の光の部分を撮った。三四郎が言う、発展する日本である。今度は、影の部分に、ナスターシヤ=フィリッポヴナ、レフ=ニコラエヴィチ=ムイシュキン公爵、パルフェン=ラゴージンの悲劇を置いてみようというのである。髭の男の言ったような、滅びの予感を漂わせることになる。

ナスターシヤ=フィリッポヴナは、ある意味で、宇良田唯(うらた・ただ)と対照的な女性である。なんとなれば、ナスターシヤ=フィリッポヴナもまた、結婚式から逃走するのである。しかし、宇良田唯(うらた・ただ)は、婚礼または婚家からの脱走後40年余り生きて医学への志を全うしたのに対して、ナスターシヤ=フィリッポヴナは、レフ=ニコラエヴィチ=ムイシュキン公爵とパルフェン=ラゴージンとのあいだで、結婚寸前で逃げ出すという行為を繰り返し、ついに男の刃に倒れる。

レフ=ニコラエヴィチ=ムイシュキン公爵は、ナスターシヤ=フィリッポヴナと、エパンチン家の令嬢アグラーヤと、ふたりの女を愛してしまい、どちらか一方を選ぶことができない。

一途にナスターシヤ=フィリッポヴナを愛したのはパルフェン=ラゴージンだし、一途にレフ=ニコラエヴィチ=ムイシュキン公爵を愛したのはアグラーヤ=エパンチナだが、4人ともが、破滅する。

パルフェン=ラゴージンはシベリア送りになる。

ドストエーフスキイ自身、社会主義者の集まりに参加していたために逮捕され、死刑を宣告され、銃殺寸前に特赦を受けてシベリアに流刑になり、数年間、服役した経験がある。彼の持病の癲癇はシベリア流刑時代に悪化したといわれている。

レフ=ニコラエヴィチ=ムイシュキン公爵は、スイスで一緒に治療を受けていた患者で、政治犯として死刑を宣告されたが銃殺される寸前に特赦を受けたという、ほとんど作者本人と同じ経験を持った人物のことを、エパンチン家の夫人と令嬢たちに語っている。

この、死刑を特赦された政治犯を、大逆事件で特赦で無期刑になり、その後、仮釈放された人に置き換えても、不自然ではないと、ハナ、ツル、セツには、思えた。

アグラーヤ=エパンチナは、レフ=ニコラエヴィチ=ムイシュキン公爵との愛に破れた後、家族の反対を押し切ってポーランドからの亡命者と結婚し、ポーランド再興海外委員会の会員になり、実家と絶縁してしまう。

この「ポーランド」を、「大韓帝国」または「朝鮮」に置き換えても、不自然ではないと思われた。

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