ハナ、ツル、セツ (f)

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1938年5月1日から5月31日まで、寶塚少女歌劇團星組が寶塚大劇場で、『グランドショウ スヰート・メロディ』『キノドラマ 軍國女學生』『歌劇 衣川合戦』を公演した。ポスターの絵は、西洋の近衛兵のような軍帽と軍服に似せたブラウスの乙女が横顔を見せている上半身の姿である。彼女が『スヰート・メロディ』のヒロインであろう。『スヰート・メロディ』の題字は左端に縦書きで大きく書いてある。その右側の縦書きの『衣川合戦』の題字は、少し小さめである。そして、『軍國女學生』は、右下に横書きで、左上の二行の題字の中間ぐらいの大きさの字で書いてある。『軍國女學生』の題字の上に小さく、「待望!始めての キノドラマ」、題字の下に小さく、「海野啓一作」とある。「キノドラマ」とは映画とレヴュウを組み合わせた連鎖劇である。「海野啓一」とは、去る1934年5月の『太平洋行進曲』、同年10月の『軍艦旗に榮光あれ』の原作者の海軍少佐酒井慶三の別名である。

*「ポスター宝塚少女歌劇1938年5月大劇場」
http://www.hankyu-bunka.or.jp/archive/?app=shiryo&mode=detail&list_id=783&data_id=100857

『軍國女學生』のあらすじは、1938年5月10日付の朝日新聞に紹介されている。

≪縦に並んだ写真3枚、上と下は海軍の制帽制服の男役、中は女学校のセーラー服の娘役≫
「少女歌劇“軍國女學生”」
「寶塚の星組が出演」

岸村海軍大尉は、明拂暁某地點に敵前上陸を敢行する某部隊を援護すべき命令を受けて張切つてゐる、折柄東京の女學校を今年卒業する妹弘子から慰問袋と手紙が着いて大尉を悦ばせたが蘇州を空襲反抗の敵機三機を撃墜せしめた荒鷲隊の勝報は、松波機の行方不明を傳へて岸村大尉を悲しませた
松波中尉は岸村の妹の弘子の旧友良子の兄で、出發に際して岸村が學校を訪うた際良子から松波中尉に渡すべきお守りを託され今に所持してゐるのだった
(中略)
上陸部隊援護の重大任務を見事に達成した岸村部隊の哨兵は、前方二百米に異様なものを認めて射撃を控へ近よると行方不明を傳へられた松波中尉が愛機を焼いて三日三晩クリークを泳いだ死の脱出であつた、松波の健在を天祐と妹弘子の眞心だと信じた、そしてお守りを首にかけてやつた
(『宝塚歌劇 華麗なる100年』朝日新聞出版、2014年、p.60, キャプション≪1938(昭和13)年5月10日付紙面より≫)

ハナとツルは、女子師範学校の第一回生の物語の続編の続編を作りたいと考えた。西南戦争の後、成瀬節(なるせ=せつ)が、青山千世(あおやま=ちせ)と切磋琢磨しながら、ときには学校の外まで繰り出して、世の中を冒険する話にしたかった。その企画は会社に認められた。1年に2本、春夏の回と秋冬の回とが製作・公開された。

1878年2月23日、守田勘彌が、仮建築の新富座で『西南雲晴朝東風(おきげのくもはらうあさこち)』を上演した。河竹新七が西南戦争を脚色したものである。空前絶後の大入り満員で80日以上、上演し続けた。

1878年6月、本建築の新富座が完成した。6月7日・6月8日に開場式がおこなわれた。太政大臣、外務卿・内務卿・大蔵卿・陸軍卿・海軍卿・工部卿・文部卿・司法卿、大輔、少輔、府知事、外国の使臣、その他、貴顕紳士が招待された。新富座ではガス燈を灯し、守田勘彌、市川團十郎らが燕尾服を着て来賓を迎えた。6月10日、狂言『松榮千代田神徳(まつのさかえちよだのしんとく)―三河後風土記(みかわごふどき)―』と、常磐津・富本・清元の浄瑠璃『牡丹蝶扇彩(ぼたんちょうおうぎのいろどり)』を上演した。後者は「元禄年間の風俗を模せし手踊り」である。元禄時代まで、歌舞伎も能も、白昼、野天で舞台をしつらえて興行していた。その後、屋内で上演されるようになっても、昼の興行だけであった。1878年8月、新富座が、日本で初めての夜間興行をした。『舞臺明治世夜劇(ぶたいあかるきちせいのよしばゐ)』と題して、『八犬傳』と『皿屋敷』を上演した。さて、ある日。

「わたしが学校から帰る頃から、雨がそぼそぼと降り出して、日が暮れる頃には可なり強い降りになった。『わたしは留守番だから、あしたの晩は遊びにおいでよ』と前の日に番町のおじさんが云った。番町のおばさんは近所の人に誘われて、きょうは新富座見物に出かけた筈である。わたしはその約束を守って、夕飯をすますとすぐに番町のおじさんをたずねた。番町のおじさんは、肉縁の叔父ではない。父が明治以前から交際しているので、わたしは稚い時からこの人をおじさんと呼び慣わしていたのである。番町には武家屋敷の古い建物がまだ取払われずに残っていて、晴れた日にも何だか陰ったような薄暗い町の影を作っていた。雨のゆうぐれは殊にわびしかった。おじさんも或る大名屋敷の門内に住んでいたが、おそらくその昔は家老とか用人とかいう身分の人の住居であったろう。ともかくも一軒建てになっていて、小さい庭には粗い竹垣が結いまわしてあった。おじさんは役所から帰って、もう夕飯をしまって、湯から帰っていた。おじさんは私を相手にして、ランプの前で一時間ほども他愛もない話などをしていた。時々に雨戸をなでる庭の八つ手の大きい葉に、雨音がぴしゃぴしゃときこえるのも、外の暗さを想わせるような夜であった。柱にかけてある時計が七時を打つと、おじさんはふと話をやめて外の雨に耳を傾けた。『おい、いつかお前が訊いたおふみの話を今夜聞かしてやろうか』」

という手紙が、西のハゲ君から届いて、続きは会って話したいから、今度の日曜日の朝、人力車を向かいにやるからそれに乗って番町まで来るように、と結んである。成瀬節(なるせ=せつ)は手紙を青山千世(あおやま=ちせ)に見せ、青山千世(あおやま=ちせ)も、続きが知りたいから、是非、行って聞いてくるように、と言う。西のハゲ君の番町のおじさんの住所は、麹町にある青山千世(あおやま=ちせ)の実家に近い。日曜日には寄宿生は、大抵、実家に帰るので、その日の朝、青山千世(あおやま=ちせ)も自分で人力車を頼んで、成瀬節(なるせ=せつ)の人力車と前後ろに並んで出発した。番町で成瀬節(なるせ=せつ)が西のハゲ君のおじさんの家に入るのを見届けてから実家に回るつもりだったが、門の前に待ち構えていた西のハゲ君が、ここから今度は馬車で、赤坂まで行くのだという。赤坂に住んでいる、さる御隠居が、番町のおじさんの関わった、おふみという女の幽霊の謎を解いたのだという話である。

成瀬節(なるせ=せつ)は人力車の車夫に実家の住所を告げて、今日は友達の家に行くから帰らないという言伝を頼んだ。成瀬節(なるせ=せつ)と西のハゲ君は馬車に乗り、青山千世(あおやま=ちせ)はまた人力車に乗って、一緒に出発し、途中で分かれた。成瀬節(なるせ=せつ)はお茶の水から番町へ、番町から麹町へ、麹町から赤坂へと、江戸城のまわりを北東から南西へ、ぐるっと半周することになった。ざっと5キロメートルほどである。麹町から赤坂へ入るときには紀尾井坂を通った。ここを先の5月に馬車で通った内務卿大久保利通が暗殺されたのであった。

西のハゲ君は、赤坂の隠居には、一度、番町のおじさんのお供で会い、その後はひとりで、二、三回、会っている。赤坂で馬車が停まった家には、五十代半ばの隠居が、手伝いのばあやと住んでいた。隠居は、色のあさ黒い、鼻の高い、芸人か何ぞのように表情に富んだ眼をもっている、細長い顔の、瘦せぎすの男であった。御一新前は、赤坂から見てちょうど江戸城の向こう側、神田の三河町で、岡っ引をしていたという。西のハゲ君は、昔の捕物の話を聞きに、せっせと通っているのだった。隠居も、どうやらそれが楽しみらしく、おいしいお菓子とお茶を用意して待っていた。さっそく、お文の幽霊の話を、成瀬節(なるせ=せつ)も聞かせてもらったが、西のハゲ君が隠居と掛け合いで芝居のまねをして、こわがらせたり、おもしろがらせたりした。小石川の、元治元年の雛の節句が終わった頃のお文の幽霊の話が終わると、続いて、その翌年の慶応元年正月の、入谷の寮に住む誰袖花魁と按摩の徳寿の話を聞いた。誰袖花魁に贔屓にしてもらっていたのに、徳寿は、あるときから、誰袖花魁のそばにすわると、「何となしに襟もとから水を浴びせられたように、からだ中がぞっとする」「なにかこう、おかしなものが傍にでも座っているような工合」になるので、花魁の家の前を通りかかって女中に声をかけられても、なんとか言い訳して逃げるようになったのであった。小石川はお茶の水の西、入谷はお茶の水の東、どちらにしろ、赤坂から見て江戸城の向こう側である。

1938年7月、清水宏監督の映画『按摩と女』が公開された。冒頭、ふたりの按摩が山道を歩いている。目が見えない分、聴覚で、歩いてくるこどもたちの人数を当てたり、嗅覚で、道の馬糞を避けたり、と、鋭いところを見せる。途中で追い抜いていく乗合馬車には、男と、こどもと、女の客がいる。その三人は、これから行く先の温泉宿の客となる。温泉宿では、ふたりの按摩は、元気で生意気な女学生たちや、『風の中の子供』の三平にそっくりの腕白坊主に翻弄される。山道を歩くときの女学生たちは、『少女倶楽部』から抜け出してきたような、洒落たスタイルである。その、きりっと、ぱりっと、しかも、いきに、しかも、かわいらしく決まったスタイルは、『少女倶楽部』以上である。同じ山道を歩く武骨な男たちの無粋な学生服姿と対照的である。按摩の徳市が心を寄せる、謎めいた、いわくありげな女を、高峰三枝子が演じている。男とこどもの二人組が、乗合馬車で温泉宿を発ったあと、女がひとりで、宿の唐傘をさして木橋に歩いて行く後ろ姿、橋の上で、うつむいて振り返りたたずむ上半身の映像は、幻想的で美しい。

高峰三枝子は、1937年から1938年にかけて、「歌う映画女優」として売り出してきた。島津保次郎監督の『浅草の灯』で、コーラスガールを演じて歌も歌い、注目を浴び、以後、出演した映画の主題歌のレコードを出して人気を博し、主演級のスターとなった。

同1938年8月、寶塚少女歌劇團は、兵庫県宝塚市に「寶塚映畫製作所」を設立した。星組が5月に寶塚大劇場で公演したキノドラマ『軍國女學生』に、新たに撮影した部分を追加して、完全映画化した。なお、星組は、7月1日から7月31日までの東京寶塚劇場での『スヰート・メロディ』『五十番街の少女たち』『軍國女學生』の公演を最後に、廃止された。

同1938年9月、支那事変で大陸にいる海軍兵士を対象として、慰問雑誌『戰線文庫』が創刊された。海軍省軍事普及部恤兵係の監修を受け、興亜日本社で編纂している。恤兵とは軍隊への寄付であって、軍の予算ではなく、一般国民からの寄付で賄っている。市販されずに、海軍が前線の兵士に配布するものである。海軍慰問雑誌『戰線文庫』は、グラビアに人気女優や歌手が登場し、大衆小説、講談、落語、漫画を掲載していた。

同1938年9月5日、『中央公論』に『生きてゐる兵隊』を発表した石川達三と雨宮庸蔵に、新聞紙法違反で、禁固4箇月執行猶予3年、牧野武夫に罰金100円の判決が下った。

ヨーロッパでは、1938年8月、レニ=リーフェンシュタール監督の”Olympia”が、ヴェネチア国際映画祭でムッソリーニ杯最高外国映画賞を受賞した。ヴェネチア国際映画祭は1932年に創設され、1934年から、イタリアの最高の映画とイタリア以外の国の最高の映画とに、ムッソリーニ杯を授与するようになった。

ドイツは同1938年3月にオーストリアを併合した結果、陸の国境を北から時計回りに、デンマーク王国、リトアニア共和国、ポーランド共和国、チェコスロバキア共和国、ハンガリー、ユーゴスラビア王国、イタリア王国、スイス連邦、フランス共和国、ルクセンブルク王国、ベルギー王国、ネーデルラント王国と接するようになっていた。海の国境はスウェーデン王国とUKとノルウェー王国と接していた。

チェコスロバキアは西半分の国境線を北から南まですっかりドイツにおおわれてしまった。国境に沿った地方はズデーテンラントと呼ばれており、14世紀以来、ドイツ系住民の多い地域だった。同1938年9月、ドイツ南部の州バイエルンの州都ミュンヘンで、すなわち、南側の州境の西の隅はスイス連邦と、残りはオーストリア州と接し、東側の州境でチェコスロバキア共和国と接する、バイエルン州の都ミュンヘンで、UK・フランス・イタリア・ドイツの4箇国首脳会談がおこなわれた。ベニート=ムッソリーニ首相が4箇国語で熱弁をふるった結果、1938年9月30日、ズデーテンラントのドイツへの割譲に4箇国合意成立。会談に参加できなかったチェコスロバキア政府も、受諾した。

日本では、1938年10月2日、寶塚少女歌劇團が、「訪独伊親善芸術使節」を編成して出発した。10月3日付大阪朝日新聞には、「“振袖使節”」「盛んな歡送に乙女心の感傷」「寶塚の渡歐組」「挨拶もオロオロ聲で」「花やかな鹿島立ち」の見出しで、次の記事がある。

日本の寶塚少女歌劇から世界のタカラヅカに飛躍して防共の盟邦、いまズデーテンの勝利に酔ふドイツとフアシストの本拠イタリーで天晴れ日本藝術の粋を大和撫子の體面にかけて發揮しようといふ天津乙女、奈良美也子らの(中略)その名も「訪独伊親善芸術使節寶塚少女歌劇團」とものものしい四十四名は(中略)ギツシリ埋めた花やかにも美しい多数の見送りを受けながら二日午後三時(中略)神戸港を出帆した
花を大きく浮かしたローズ色緞子縮緬の振袖に緑の袴、草履、白足袋濃紺の帯と揃いのいでたちで、(中略)舞台で鍛へたかの女たちもいよいよ晴れの渡欧を前にしてはスッカリあがってしまって見送りのお母さん、姉さん、(中略)ただわけもなくお辞儀をするばかり
「わてらもうあがつてんのでサツパリわからへん、ただ船に自信があるだけ、あつちへ行つたらしつかりやります」
(『宝塚歌劇 華麗なる100年』朝日新聞出版、2014年、p.63, キャプション≪「”振袖使節” 盛んな歓送に乙女心の感傷」の記事=1938(昭和13)年10月3日付紙面より≫)

突堤をギッシリと埋めた見送りのファンに、船上から、手やハンカチや扇子や日の丸の旗を振る、寶塚少女歌劇の生徒たちの写真もある。甲板の向かいにあるテラスもギッシリである。

寶塚少女歌劇の日本残留組は、雪組が寶塚大劇場で、『グランド・レヴュウ 揚子江』『喜歌劇 当世嫁えらび』『オペレット・レヴュウ 曠野の花』を公演していた。ポスターの絵は、白い帽子に青い水兵服を着た男役の上半身で、鋭い目つきで口を引き結び、銃を持っている。その下に、ポスターで一番大きな字で、横書きで、『揚子江』と書かれている。その横に小さな字で縦書きで「グランド・レヴュウ」「全二十景」、下に小さく横書きで、「海野啓一原作+東郷静男 改修及振」と書いてある。『喜歌劇 当世嫁えらび』『オペレット・レヴュウ 曠野の花』は、水兵の顔の横、ちょうどその鋭い眼で睨んでいるあたりに、縦書きで並び、それぞれ、「全三場」「全十場」である。「海野啓一」とは、本1938年5月のキノドラマ『軍國女學生』の作者で、去る1934年5月の『太平洋行進曲』、同年10月の『軍艦旗に榮光あれ』の原作者の海軍少佐酒井慶三の別名である。

*「ポスター宝塚少女歌劇1938年10月大劇場」
http://www.hankyu-bunka.or.jp/archive/?app=shiryo&mode=detail&list_id=381&data_id=100869

同1938年10月27日午後6時30分、大本営が陸軍海軍合同で次のように発表した。

我が軍は、本二十七日午後五時三十分、陸海協力残敵を掃蕩し武漢三鎮を完全に攻略せり
(『大本営発表 改竄・隠蔽・捏造の太平洋戦争』辻田真佐憲著、幻冬舎新書、2016年、p.42)

新聞は号外を出し、東京では提灯行列で祝った。昨1937年12月11日の南京陥落のときと同じ騒ぎである。ただ、前回は、号外が出たときはまだ、軍の一部が城郭都市南京の門に日章旗を立てただけだった。大本営は12月13日になってから、南京を攻略したと発表したのだった。今回は、勇み足ではなく、武漢三鎮完全攻略の発表のあとで、号外が出た。

海軍慰問雑誌『戰線文庫』第三号(昭和十三年十一月三十日)に、スターたちの写真とお祝いの言葉が載った。松竹少女歌劇の水の江瀧子や、人気の映画女優たち、総勢17名のなかに、高峰三枝子も登場している。実におしゃれな、やや、つばの広い帽子に、ウエストの締まった半袖のワンピース、腰の前で手に持ったバッグも軽く涼しげである。

ああ、叉旗行列の波が萬歳を叫んで通ります。みなさまの上を思っては、私も毎日銃後の勤めに、叉撮影に心をひきしめてはくらしております。私たちは何という幸せ者でしょうか、みな様の強いお腕に守られて、こうして安穏に朝夕を送っておられるのですもの。どうぞ、どうぞお元気に、海軍のみなさま。
(高峰三枝子)
(『抹殺された日本軍恤兵部の正体』押田信子著、扶桑社新書304, 2019年、p.102)

訪独伊親善芸術使節寶塚少女歌劇團は1938年11月4日にナポリに上陸した。以下の公演日程である。

・1938年11月14日、20日~23日:ベルリン
・1938年11月29日~30日:ワルシャワ
・1938年12月2日~17日:イタリア各地
・1938年12月20日~1月26日:ドイツ各地

折も折、同1938年11月9日夜、ドイツ各地で、「国民社会主義ドイツ労働者党(Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei, NSDAP)」、通称「ナチス」の突撃隊(SA)が、ユダヤ教の教会や教徒の商店・住宅を破壊し、ユダヤ教徒に激しい暴力をふるい、数百人を殺すという暴動が起こった。この夜、路上にちらばったガラスの破片がきらきらと輝いたので、「水晶の夜」と呼ばれるようになったと言われている。「水晶の夜」は3日間続き、オーストリア州やズデーテンラントにも広がった。

きっかけは、ユダヤ教徒の青年がドイツ人外交官を射撃した事件である。しかし、「国民社会主義ドイツ労働者党(Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei, NSDAP)」、通称「ナチス」のドイツ連邦政府は、その射撃事件を火種にして燃え上がらせる準備を周到に整えていた。時系列を箇条書きにすると、次のようになる。

・1938年3月:ユダヤ教宗教団体の法的公認団体としての権利を剥奪する。
・1938年4月:5000マルクを超えるユダヤ教徒の資産に申告の義務を課す。
・1938年6月:裕福なユダヤ教徒に税務署と警察署への財産リスト申告義務化。
・1938年7月:ユダヤ教徒の医師の開業免許の取り消し。
・1938年9月:ユダヤ教徒の弁護士の営業禁止。
・1938年10月:ポーランド出身でドイツ在住のユダヤ教徒17000人の追放。ポーランド政府は受け入れを拒否。国境付近の町に8000人が留め置かれる。
・1938年11月7日:ポーランド出身のユダヤ教徒青年による、ドイツ人外交官射撃。
(近藤雄二著「マールブルク, 1938年のドイツに触れる」より、「表1. ナチ政権下, 1933年および1938年の反ユダヤ主義に関連した主な出来事」を参照
http://www.tenri-u.ac.jp/topics/q3tncs00000fivtf-att/q3tncs00000fiwb9.pdf)

射撃された外交官エルンスト=フォム=ラートが11月9日午後に亡くなると、”Gestapo”, 秘密国家警察の電信が11月9日23時55分に発信されている。

「…帝国内で2万人から3万人のユダヤ人の逮捕が見込まれている。その際、とりわけ富裕なユダヤ人を選ぶこと。…」
(近藤雄二著「マールブルク, 1938年のドイツに触れる」
http://www.tenri-u.ac.jp/topics/q3tncs00000fivtf-att/q3tncs00000fiwb9.pdf)

ヘッセン州マールブルクで、バイエルン州バンベルクで、夜半、ユダヤ教の教会が放火され、燃え上がった。ベルリンのようすは、スイスの新聞が次のように伝えている。

「ベルリンから伝えられたところによると、ベルリン西区で五つのシナゴーグが炎上、という。さらに、ユダヤ人が住む住宅数戸の窓ガラスが前夜焼き討ちされた、と外電は伝えている。フォム・ラート死去のニュースが伝わり、前夜反ユダヤ・デモがおこなわれた後の木曜日の朝、ユダヤ人商店が相変わらず非常に多数を占めているベルリン西区は、奇異な光景を呈した。すべてのユダヤ人商店のショーウインドーが粉々にうち壊された。……(中略)……木槌や軍刀で武装した、4~5人までの若い男達がユダヤ人商店を破壊している。破壊しながら、このデモ隊は、『ユダヤ人くたばれ、ユダヤ人に死を』と言ったような叫び声を発するのだ。ユダヤ人食料品店の前で、若い男達が、ショーウィンドーから略奪してきたチーズやその他の食料品を配っている。群衆はデモ隊の振る舞いをじっと見つめている」(1938年11月11日付けのスイス「ブント」の掲載)
(近藤雄二著「マールブルク, 1938年のドイツに触れる」より
http://www.tenri-u.ac.jp/topics/q3tncs00000fivtf-att/q3tncs00000fiwb9.pdf)

「国民社会主義ドイツ労働者党(Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei, NSDAP)」、通称「ナチス」の突撃隊(SA)が、ユダヤ教の教会・墓地、ユダヤ教徒の住宅・商店・企業・事務所・学校・病院を、襲撃し、放火し、破壊し、ユダヤ教徒に暴行するのを、人々は傍観した。

「水晶の夜」は明けず、ユダヤ教徒の男性3万人が、ダッハウ、ブーヘンヴァルト、ザクセンハウゼンの強制収容所に連行された。
ダッハウ強制収容所は、バイエルン州のミュンヘンの北西約16キロメートルの都市ダッハウにある。
ブーヘンヴァルト強制収容所は、テューリンゲン州のヴァイマルの北西約7キロメートルのところにある。
ザクセンハウゼン強制収容所はベルリンの北西約30キロメートルの都市オラニエンブルクにある。

同1938年11月12日、以下の制令が出された。

・ドイツ在住ユダヤ人に対する10億マルクの課徴金支払いに関する制令
・全ユダヤ商店の閉鎖などの経済生活からのユダヤ人排除の制令
・ユダヤ系中小企業経営における街路美観補修のための制令
・劇場、映画館、音楽会等へのユダヤ人の立ち入り禁止

「10億マルクの課徴金支払い」というのは、ドイツが被った損害を補償するためという理由で、ユダヤ教徒の団体に求められたものである。さらにまた、個々のユダヤ教徒の登録財産の20パーセントが租税として徴収された。

訪独伊親善芸術使節寶塚少女歌劇團の人々は、ユダヤ教徒の受難を知る機会があったのだろうか、なかったのだろうか。公演よりも前にベルリンに着いているはずだが、「水晶の夜」について、見聞きしただろうか。劇場への出入りを禁止されたユダヤ教徒について、その受難どころか、存在さえも、知らず、気づかず、通り過ぎただろうか。

1938年11月24日、上海に、イタリアの客船「コンテ=ヴェルデ」号が入航した。「コンテ=ヴェルデ」号には、187名のユダヤの人々が乗っており、そのなかには、財産を放棄してダッハウ強制収容所から釈放された人々が、多数、含まれていた。

同1938年11月25日、ドイツと大日本帝國との防共協定が2周年を迎えた。新たに独日文化協定も結ばれた。

ユダヤ教徒についての制令は、まだ、続く。
同1938年11月28日、公開の場所へのユダヤ教徒の立ち入りに関する警察命令、行動の自由制限。
同1938年12月3日、ユダヤ教徒の運転免許証没収。

ベルリンでは、訪独伊親善芸術使節寶塚少女歌劇團の公演の後、独日文化協会の主催で、同1938年12月8日から12月12日まで、俳優学校の生徒による歌舞伎が上演された。竹田出雲・三好松洛・並木千柳の『仮名手本忠臣蔵』全十一段のうちの、五段目・六段目である。トク=ベルツが、ラプソディー風ドラマ『勘平の死』と題し、翻案・演出した。丁髷を結い、裃を付けた浄瑠璃語りがラプソディストで、舞台の上手の床の御簾の中で、見台を前にして語る。役者は花道を通って登場した。着物はもちろん、蓑や笠、鬘や道具なども、できるだけ日本から持って来た本物を揃えていた。たとえば、第一幕、五段目・山崎街道の場に、勘平は、白塗り、浪人髷、縞の着付、二本差し、蓑を着て鉄砲を持って登場した。さすがに三味線はできなかったが、太鼓や銅鑼で拍子を取り、めりはりをつけた。

原作よりも詳細に心理を描写し、理詰めで筋を運び、恋と忠義と義理と人情の葛藤と死別離別の家庭悲劇は、たいへん好評を博した。新聞の報道や論評では、浄瑠璃語りが、大きな興味の対象となり、高く評価されていた。

背景に銅鑼の音を響かせながら、伝統的な仕草で、詳細、リアル、かつ象徴的に描くこの日本の芝居は、その浄瑠璃語りの存在によって、残酷なシーンを手回しオルガンの伴奏で歌ったり語ったりする、昔のドイツの大道芸モリタートに似ていなくもない
ラプソディストは筋の展開、思考、感情について物語る。彼は誰が(そしてどんな感情で)語るかを告げると、その演者が舞台に登場し、告げられた動きを遂行する。ラプソディストはホメロス的なパトスを伴って、主人公と共に泣き、嘆き、笑う
俳優を劇の筋を説明することから解放し、「仕草と身体的リズム」の演技に集中させる
(「トク・ベルツによるドイツ歌舞伎『勘平の死』公演(一九三八)のドキュメント」田中徳一、https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjstr/50/0/50_143/_pdf/-char/ja)

この『仮名手本忠臣蔵』があまりに好評だったので、こののち、ドイツの演劇人による忠臣蔵の翻案・上演が流行する。忠臣蔵を「武士一同の主君に対する忠誠心をテーマとした劇的な叙事詩」と評価し、「主君の死して後も続く臣下の無条件の忠誠心は、日本の若者の理想であるばかりでなく、多数の若者の中から生まれる新しいドイツのドラマの理想」であるとされた。忠誠心を描くドラマばかりが上演され、「お軽勘平」の世話物は上演されなかった。

トク=ベルツは1889年に日本で生まれ、徳之助と名付けられた。父親は1876年から1902年まで、東京医学校・東京大学医学部の教授を務めたエルヴィン=フォン=ベルツで、母親は戸田花子である。トク=ベルツは11歳でドイツに渡って教育を受け、エルヴィン=フォン=ベルツと戸田花子はその後から、1905年にドイツに渡った。エルヴィン=フォン=ベルツは1913年に亡くなり、その後、1928年、トク=ベルツは日本に来て、父親の資料を集め、歌舞伎を研究し、ドイツに戻って、『ベルツの日記』を出版した。その1928年、USSRで市川左團次が公演し、セルゲイ=エイゼンシュテインが見た歌舞伎も『仮名手本忠臣蔵』であった。1932年、チャールズ=チャップリンが日本に来たときに見た歌舞伎も、市川左團次の『仮名手本忠臣蔵』であった。

日本で生まれ、11歳になるまで日本にいた、またそのときに父親も既に24年日本にいた、トク=ベルツは、ドイツとUSAの違いはあるが、佐々木邦の少年小説『トム君サム君』のトマスとサムエルのベンネット兄弟と同じである。『トム君サム君』の単行本は1935年に出版されて以来、人気が続いて版を重ねている。トム君サム君とジョン叔父さんと安井君本間君も、泉岳寺に四十七士のお墓参りに行くが、忠臣蔵について、大議論になる。

『どうもあのお話はアメリカ人にはよく分りません。』
『それぢゃむかふへ行つてから、十分説明して差上げませう』
『活動寫眞を見ると早いんだけれどもね。』
と本間君がいつた。
(中略)
『この四十七人は皆ハラキリをして死んでしまつたんでせう?』
『さうです。一人残らず見事に切腹して相はてました。』
『しかし仇は一人でせう?』
『えゝ。』
『一人の命を取つて、四十七人死ねば、浪人の方が四十六人損をしてゐます。』
『それは仕方がないです。』
『どうも勘定がわかりません。』
『お上の掟に背いたから、切腹をしなければならなかつたんです。』
『切腹をしなければならないほどお上の掟に背くのは悪いことでせう?』
『それは殿様の仇を討つんですから、そんなことを考へてはゐられません。兎に角、相手を生かして置いたんぢゃ武士道が立たないんです。』
『それぢや武士道は法律を破つてもいゝんですか?』
『いけません。』
『四十七浪人は法律を破つたから、切腹を仰せつかつたんでせう?』
『さあ。それはさうかも知りませんけれど、そこが大和魂です。やむにやまれぬ大和魂といふことがあります。』
(中略)
『その仇は年寄でせう?』
『はあ。』
『年寄なら殺さなくても、その中に死ぬでせう。』
『しかし病氣で死なせては仇討になりません。』
『黙つてゐても死ぬものを四十六人もおつりを出して殺すのは、詰まらない話ぢゃないですか?』
『そこが武士道です。』
『すると武士道は算盤が分らないんですね。どうですか?』
(中略)
自動車に乗つて走り出してから、本間君はしきりに首をかしげた後、
『アンクル・ジョン、武士道は算盤つてものを考へません。主君の仇を討つんですから、損をしたつて構はないんです』
といつた。
『もういゝです。議論はしません。』
『しかし大和魂卽ち日本の精神が分らなくては困ります』
『本當ですよ、叔父さん』
とサム君が前の席から振り返つた。トム君が通譯をやつてゐた。
『分りました。考へて見ると、四十七浪人はやつぱり豪いです。』
『考へて見なくても豪いです。』
と運轉手が口を出した。さつきからの議論を聞いて興味を持つてゐたのだつた。
『なぜ豪いか?』
(中略)
『忠義が値打ちです。』
『それは私も認める。しかし損得の算盤が取れてゐないから惜しいといふのだ。』
『算盤珠を弾いてから盡くすやうなのは本當の忠義ぢゃございません。それ、義は泰山よりも重く、命は鴻毛よりも軽しとか。』
『大きな聲だね。』
『ここに大石良雄はーあ……。』
『何ですか? それは。』
『浪花節です。』
『日本音楽、もつとやつて下さい。』
『もういけません。好きですけれど、運転しながら唸るとお巡査さんに捉ります。』
と運轉手はもう黙つてしまった。
(『トム君サム君』佐々木邦著、河目悌二絵、講談社、昭和十年六月十日發行、昭和十四年九月十日二十四版發行、1939年、p.107, コマ番号59/115, pp.108-109, コマ番号60/115, p.111, コマ番号61/115, p.112, コマ番号62/115, 国立国会図書館デジタルコレクション、http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1720724)

『活動寫眞を見ると早いんだけれどもね。』と言っているように、忠臣蔵は何度も映画化されている。日本人は討ち入りが大好きだが、討ち入りできなかった勘平の悲劇も好きである。「江戸時代には素人のお座敷狂言や茶番がはやりまして、それには仮名手本忠臣蔵の五段目六段目がよく出たものでした」
と、岡本綺堂が『半七捕物帳』で、日清戦争の後の時代に、隠居の半七に語らせている。ハナ、ツル、セツの映画、女子師範学校シリーズの1878年編の、「春夏の回」では、6月に新富座が開場し、赤坂の隠居が、成瀬節(なるせ=せつ)と西のハゲ君に、お文の幽霊と、誰袖花魁の家の怪の謎解きをして聞かせた。「秋冬の回」では、1878年11月27日から新富座で『仮名手本忠臣蔵』の公演が始まり、これが名優たちの日替わりで大好評を博し、翌年の春まで続く。そして赤坂の隠居は、「勘平の死」事件について語る。それは元治元年より6年前の、安政五年の暮のことであった。

「お聞き及びでございましょうが、この十九日の晩に具足町の和泉屋で年忘れの素人芝居がございました」(中略)
それはすこぶる大がかりのもので、奥座敷を三間ほど打ち抜いて、正面には間口三間の舞台をしつらえ、衣装や小道具のたぐいもなかなか贅沢なものを用いていた。役者は店の者や近所の者で、チョボ語りの太夫も下座の囃子方もみな素人の道楽者を狩り集めて来たのであった。
今度の狂言は忠臣蔵の三段目、四段目、五段目、六段目、九段目の五幕で、和泉屋の総領息子の角太郎が早野勘平を勤めることになった。角太郎はことし十九の華奢な男で、ふだんから近所の若い娘たちには役者のようだなどと噂されていた。若旦那の勘平は嵌り役だと、見物の人たちにも期待された。
舞台では喧嘩場から山崎街道までの三幕をとどこおりなく演じ終って、六段目の幕をあけたのは冬の夜の五ツ(午後八時)過ぎであった。(中略)
角太郎の勘平が腹を切ると生々しい血潮が彼の衣装を真っ赤に染めた。それは用意の糊紅ではなかった。苦痛の表情が凄いほどに真に迫っているのを驚嘆していた見物は、かれが台詞を云いきらぬうちに舞台にがっくり倒れたのを見て、更におどろいて騒いだ。勘平の刀は舞台で用いる金貝張りと思いのほか、鞘には本身の刀がはいっていたので、角太郎の切腹は芝居ではなかった。夢中で力一ぱい突き立てた刀の切っ先は、ほんとうに彼の脇腹を深く貫いたのであった。苦しんでいる役者はすぐに楽屋へ担ぎ込まれた。もう芝居どころの沙汰ではない。
(『半七捕物帳(一)』(岡本綺堂著、光文社時代小説文庫、「勘平の死」、pp.64-65)

岡本綺堂が、博文館の雑誌『文藝倶楽部』に『半七捕物帳』の第三作『勘平の死』を発表したのは1917年、その後、1925年に戯曲化し、翌1926年、六代目尾上菊五郎が上演している。その舞台では、楽屋に運ばれた角太郎が半死半生で唸っている場面から始まる。

新富座を主催した守田勘彌は、西洋演劇を取り入れて、日本の演劇を改良する運動を起こした。花道をなくし、女形を廃止する、などの実験を試みた。守田勘彌らの演劇改良運動は、1880年代に始まり、終わった。しかし、その後も、市川左團次や阪東壽三郎などの歌舞伎役者も加わっての新劇運動など、西洋演劇を学び、日本の演劇を革新しようという試みは続いている。そしてまた、西洋でも、トク=ベルツのように、日本の歌舞伎をドイツ語でドイツ人俳優たちによって上演することによって、西洋の演劇を革新しようという試みが行われた。その際、守田勘彌らは花道をなくそうとし、トク=ベルツは花道を作ったのは、おもしろい。ただし、守田勘彌が女形をなくそうとしたのに対し、トク=ベルツは、女の役は女の俳優にさせた。西洋でも、シェイクスピアが生きていた頃は、男が女を演じたものだが、20世紀の西洋演劇で、演劇学校の生徒で、その伝統を復活させることは無理だったか。

それとも、「国民社会主義ドイツ労働者党(Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei, NSDAP)」、通称「ナチス」のもとでは、女形は受け入れられないと判断したか。

UKとUSAでは、1938年、アルフレッド=ヒッチコック監督の映画”The Lady Vanishes”が公開された。音楽で暗号を伝えるアイディアは、原作のエセル=リナ=ホワイトの小説”The Wheel Spins”にはない。1931年に公開されたジョセフ=フォン=スタンバーグ監督の映画”Dishonored”, 邦題『間諜X27』に影響を受けたのではないかと思われる。最初に主演俳優の名前が映るが、次にタイトルが映ると同時に、問題の音楽が聞こえてくる。「間諜X27」はオーストリアの間諜だったが、”The Lady Vanishes”は、架空の国とUKとの諜報戦である。その架空の国とはドイツであることは一目瞭然であった。

オーストリアでは、ドイツとの併合後、ウィーンの中華民國大使館が領事館となっていた。何鳳山領事は、そのときから増え始めたユダヤ難民に、上海へのビザを大量に発給し続けた。

1938年12月2日、大日本帝國では、大本営陸軍部命令第241号が発令された。これに基づき、1938年12月26日、陸軍航空兵団が重慶を爆撃した。去る10月27日に占領した武漢に航空基地を作ったのだった。

翌1939年1月までに、ドイツの強制収容所から、昨1938年11月の「水晶の夜」に逮捕されたユダヤ男性たちが、財産の放棄と即時出国とを条件に、全員、釈放された。

同1939年1月、上海で創刊されたばかりの日本語の日刊新聞『大陸新報』に、ドイツを出国したユダヤの人々の記事が載った。

昭和14年1月12日(木)「三十万に及ぶ/ユダヤ人の米移住/米査証官増派の騒ぎ」
昭和14年1月12日(木)「世界平和の敵/猶太の進寇に備へよ(上)」
昭和14年1月26日(木)「大上海/外人就職戦線に/ユダヤ人旋風/安住の地を求め一万名」
昭和14年1月29日(日)「上海へ猶太人の波」
(「『大陸新報』に見る戦時期上海のユダヤ社会-- (1) 1939年1~4月 --」菅野賢治、JSPS科研費, 平成29~32年, 基盤研究(C) (1)課題番号17K02041,
http://www17.plala.or.jp/kenjikanno/shanghaishinpo1(jp).pdf)

ユダヤの人々は、上海の国際共同租界に住み着いた。

同1939年2月、USAで、ジョン=フォード監督の映画”Stagecoach”が公開された。原作はアーネスト=ヘイコックスの”The Stage to Lordsburg”である。“Lordsburg”とは、メキシコとの国境に近いニューメキシコ州(state)の町である。映画は、ニューメキシコ州と西隣のアリゾナ州が、まだ、準州(territory)だった時代の物語である。二つの準州(territory)がともに州(state)になったのは1912年である。

USAでは、ヨーロッパからの移民の子孫と、元々、この大陸に住んでいた人々との戦争を、インディアン戦争と呼んでいる。最初にこの地にたどりついたヨーロッパ人がインドだと思い込んだところが、後から別の大陸だとわかってアメリカと名付けたのなら、もともと住んでいた人々のこともアメリカ人と呼べば良さそうなものを、インド人呼ばわりのままである。いわゆるインディアン戦争はUSAの建国前から始まり、20世紀まで続いた。あのリンカーン大統領といえども、インディアン戦争が続いていた時代に「インディアン」に対してしたことは、1930年代のヨーロッパで、ヒットラー総統が「ユダヤ人」に対してしていることと、あまり、違わない。エイブラハム=リンカーンだけではない。ジョージ=ワシントンも、その他の大統領も。

アリゾナ準州の町から東隣りのニューメキシコ準州の町へと向かう乗合馬車は、ずっと、「アパッチ」の影に脅かされている。さらに、乗客たちの会話が、旅の進行とともに、いやがうえにもサスペンスを高めていく作りになっている。金持ちそうでやたらと先を急がせる嫌味な男、騎兵隊にいる夫に会いに行く貴婦人、酒のセールスマン、賭博師、飲んだくれの医者、娼婦、途中で乗り込んで来たガンマン、といった面々である。

このあたりは、伊豆の乗合自動車の運転手と乗客を主人公にした清水宏監督の映画『有りがたうさん』と似ている。どちらの映画でも、娼婦が重要な役割を果たしている。彼女の他の人々に対する発言・評価、人々の彼女に対する振る舞い・認識の変化が、正義と偽善、聡明さと狡猾さの違いを際立たせる。

『有りがたうさん』の乗合自動車の娼婦も、”Stagecoach”の乗客の娼婦も、どこか、長谷川伸の『一本刀土俵入り』のお蔦に通じるところがある。ただの通りすがりの人に、まことに「深切」である。売られていく娘に、一文無しで腹をすかせた男に、赤ちゃんを産んだばかりの女とその赤ちゃんに。

『有りがたうさん』では、乗合自動車の旅が終わりに近づくにつれ、ひとりの娘を飲み込もうとする不景気の影が、いよいよ大きく迫ってきていたのが、最後に、ぱっと消えてしまう。娘が笑顔になって、のんびりした会話が続いて終わる。

”Stagecoach”では、乗合の人々、途中で貴婦人の産んだ赤ん坊まで含めて、全員の命が奪われる災厄の影が見え隠れしていたのが、もうすぐ旅が終わろうとするときに、もう助かるかと思ったときに、突き刺さる矢、騎馬の大集団による襲撃という、仮借のない姿をあらわす。
「アパッチ」による大襲撃、その迫力は、大好評を博し、絶賛された。

『有りがたうさん』でも、”Stagecoach”でも、最後に一組のカップルが成立するが、このときの「娼婦」の扱いは対照的である。一方は、物理的に、ひとりの「娼婦」が消える。売られていく娘を脅かす影が消えたときに、娘の将来像のようだった女が消えるのである。実に象徴的である。他方は、社会的な意味で、「娼婦」が消える。また、一方は乗合自動車の運転手が主人公なのに対して、他方は乗合馬車の御者は脇役だったのだが、最後に、カップルの男の方が馬車を御していく。そこは、『有りがたうさん』と共通する点かもしれない。おとぎ話風に言えば、娘を幸せの馬車に乗せて運んでいく王子様になったのである。

3年前の1936年2月に公開された映画『有りがたうさん』では、伊豆半島を走り回る乗合自動車は、ガソリンで動いていた。しかし、東京では、1938年から、木炭で動く乗合自動車が走っている。ガソリンは、国家総動員法に基づいて統制されるようになっていた。

本1939年2月、江戸川乱歩著『妖怪博士』の単行本が講談社から出版された。挿絵は、『少年倶楽部』と同じ、梁川剛一である。『少年倶楽部』では、『大金塊』が一月号から連載されている。挿絵は林唯一である。名探偵明智小五郎は登場するが、怪人二十面相は出てこない。昨1938年10月、「新聞紙法」に基づき、「児童読物改善に関する指示要綱」が通達された。あの、宝石とか美術品とか、美しくて珍しいものが好きで、人を傷つけたり殺したりしない、残酷なことが嫌いな、怪人二十面相は、夜の闇に紛れて消えてしまった。

本1939年3月5日、寶塚少女歌劇の「訪独伊親善芸術使節」團が帰国した。寶塚映畫製作所によって、記録映画『日・独・伊親善寶塚振袖使節道中記』が製作され、5月に公開された。

ヨーロッパでは、同1939年3月15日、ドイツ軍がズデーテンラントよりもさらに東のチェコスロバキア領内に侵入したが、戦闘は起こらなかった。総統が、プラハでドイツとの併合を宣言した。チェコスロバキアを西と東に分けて、東のスロバキアをドイツの保護国とした。スロバキア共和国はハンガリーと戦争になり、南部をハンガリーに割譲した。

この頃、UKの株式仲買人ニコラス=ジョージ=ウィントンが、チェコ難民委員会の協力要請でプラハに来て、ユダヤ教徒のこどもにUKの里親を見つけ、送り届ける事業を始めた。ニコラス=ジョージ=ウィントンの両親は、キリスト教に改宗した、元ユダヤ教徒だった。

オーストリアでスキー教師の資格を剥奪されたハンネス=シュナイダーは家族とともにUSAに亡命した。

1939年4月、ドイツは、陸の国境を北から時計回りに、デンマーク王国、リトアニア共和国、ポーランド共和国、スロバキア共和国、ハンガリー王国、ユーゴスラビア王国、イタリア王国、スイス連邦、フランス共和国、ルクセンブルク王国、ベルギー王国、ネーデルラント王国と接している。海の国境はスウェーデン王国とUKとノルウェー王国とに接していた。

2020年1月25日

(13)

1939年4月4日、寶塚少女歌劇團が「訪米芸術使節」を編成して出発、ハワイのホノルルを皮切りに、サンフランシスコ・ロサンゼルスなどで公演した。4月28日付大阪朝日新聞には、サンフランシツコのオペラハウスでの公演の記事が載った。

「寶塚娘凄い人気」「初公演に“キレイ”連發」

なにせ日本より最初の豪華な歌劇團の渡米といふので前人気は素晴らしく切符は二週間前賣切れといふ有様であつた
當夜の演し物は三番叟、大漁踊、歌舞伎曽我、東京娘、豐年踊、大阪娘、かつぽれ、蝶々夫人などであつたが、衣装の綺麗なこと、踊りの花やかなことで米人たちは、”綺麗だ、可愛い”の連發、二時間の間熱心に鑑賞していた
ことに日本舞踊がオーケストラによつて行はれたことはこれまでないことで三味線、太鼓とのみ考へてたのが見事に東洋と西洋の楽器で調和されたのには賞賛を送つてゐた、舞踊中では蝶々夫人や豐年踊り、かつぽれ、大漁踊り、娘道成寺など大喝采だつた
(『宝塚歌劇 華麗なる100年』朝日新聞出版、2014年、p.65, キャプション≪「宝塚娘凄い人気」の記事=1939(昭和14)年4月28日付紙面より≫)

同1939年4月5日、内務省・文部省・厚生省の立案による「映画法」が施行された。

映画法(昭和十四年四月五日法律第六十六号)

第一条 本法ハ国民文化ノ進展ニ資スル為映画ノ質的向上ヲ促シ映画事業ノ健全ナル発達ヲ図ルコトヲ目的トス
第二条 映画ノ製作又ハ映画ノ配給ノ業ヲ為サントスル者ハ命令ノ定ムル所ニ依リ主務大臣ノ許可ヲ受クベシ
前項ニ規定スル映画製作業及映画配給業ノ範囲ハ勅令ヲ以テ之ヲ定ム
(中略)
第八条 行政官庁ハ危害予防、衛生其ノ他公益保護上必要アリト認ムルトキハ命令ノ定ムル所ニ依リ映画製作業者ニ対シ映画ノ製作ノ現業ニ従事スル者ノ就業其ノ他映画ノ製作ニ関シ制限ヲ為スコトヲ得
(中略)
第十条 主務大臣ハ特ニ国民文化ノ向上ニ資スルモノアリト認ムル映画ニ付選奨ヲ為スコトヲ得
第十一条 主務大臣ハ公益上特ニ保存ノ必要アリト認ムルトキハ映画ヲ指定シ其ノ所有者ニ対シ複写ノ為一時其ノ提出ヲ命ズルコトヲ得
(中略)
第十四条 映画ハ命令ノ定ムル所ニ依リ行政官庁ノ検閲ヲ受ケ合格シタルモノニ非ザレバ公衆ノ観覧ニ供スル為之ヲ上映スルコトヲ得ズ前条第ニ項ノ規定ハ前項ノ場合ニ之ヲ準用ス
第十五条 主務大臣ハ命令ヲ以テ映画興行者ニ対シ国民教育上有益ナル特定種類ノ映画ノ上映ヲ為サシムルコトヲ得
行政官庁ハ命令ノ定ムル所ニ依リ特定ノ映画興行者ニ対シ啓発宣伝上必要ナル映画ヲ交付シ期間ヲ指定シテ其ノ上映ヲ為サシムルコトヲ得
(中略)
第十九条 本法施行ニ関スル重要事項ニ付主務大臣ノ諮問ニ応ズル為映画委員会ヲ置ク映画委員会ニ関スル規程ハ勅令ヲ以テ之ヲ定ム
第二十条 行政官庁ハ当該官吏ヲシテ映画ヲ製作シ又ハ上映スル場所ニ臨検セシムルコトヲ得此ノ場合ニ於テハ其ノ身分ヲ示ス証票ヲ携帯セシムベシ
行政官庁ハ映画製作業者、映画配給業者又ハ映画興業者ニ対シ其ノ業務ニ関スル事項ニ付報告ヲ命ズルコトヲ得
第二十一条 第二条第一項ノ規定ニ依ル許可ヲ受ケズシテ映画ノ製作又ハ映画ノ配給ノ業ヲ為シタル者ハ六月以下ノ懲役又ハ二千円以下ノ罰金ニ処ス
(以下略)

亀井文夫監督は、一昨1937年7月に始まった「支那事変」の記録映画『上海 支那事変後方記録』を昨1938年2月に、『南京』『北京』を8月に公開した。『上海』が好評だったので、亀井文夫監督は更に陸軍の依頼を受け、昨1938年6月から5箇月間従軍して武漢作戦の記録映像を撮影した。それをもとに、映画『戰ふ兵隊』を製作し、本1939年、試写会を開いた。試写会は1日に数回、1箇月にわたっておこなわれた。多くの人が鑑賞し、あの「肉弾三勇士」という表現のもととなった、『肉弾-旅順実戦記-』の著者桜井忠温も含め、皆、ほめたのである。亀井文夫は、「戦争で苦しむ大地、そこに生きる人間(兵隊も農民も)、馬も、一本の草の悲しみまでものがさずに記録したいと努力した」と語っている。

タイトルが映るとともにティンパニの演奏。タイトルバックは煙を吐く煙突である。続いて、海軍の軍艦の画像にかぶせたクレジットに、「音楽 古関裕而」の名がある。この映画では、音楽が重要なはたらきをしている。この映画には、1938年の『上海』のような、語り手がいない。字幕と、音楽と、実況された会話と音だけである。

「現地の兵隊は
この映畫の撮影に
非常な好意を
示してくれた」

何もない、広大な平原。悲しげな音楽。
「いま 大陸は
新しい秩序を
生み出すために
烈しい陣痛を
体験してゐる」
大木の下の祭壇に向かって、何度も、地面にひれ伏して祈る人。
大木のこずえが映り、次に、大木のそばに、燃えさかる家が映る。

燃える家を見つめる、老人の顔の大写し。

子供たち。肩を落としてすわりこんだ人の後ろ姿。燃える村。人々が、荷物を担ぎ、子供を連れて、旅立っていく。日本の兵隊が見張っている。長く続く人の列。道の端を小さな子供が一人、遅れて歩いて行く。その後ろからトラックが来ている。顔をおおって泣く人形の頭。顔をおおった人の姿をした、こけしのような小さな石像が一つ、道端に立っている。
日の丸の旗を立てた戦車がやってくる。画面は移動する戦車からの視点に変わる。日の丸の大写し。たなびき、すすんでいくその日の丸の向こうには、瓦礫の山と燃え落ちた家々が次々と……。悲し気な音楽が、元気そうな音楽に変わる。画面は移動する車からの視点。
「前線の根拠地」
谷あいの地。ティンパニの音がフォルテで聞こえてくる。兵隊の日常の場面では、ほとんどつねに、ティンパニのフォルテが聞こえる。森のそばの野営地。馬のいななき、ティンパニ、馬のいななき、ティンパニ。草をはむ馬、牛、驢馬、テント、地面に寝ている兵隊たち、自動車、トラック、幌を掛けた戦車、荷車、戸の開いた戦車。画面は止まる。兵器の手入れをする兵隊たち。ティンパニ。穏やかで明るく軽やかな音楽。ティンパニ。穏やかで明るく軽やかな音楽。ティンパニ。中国語で捕虜と会話している。自分は百姓で、30歳で、こどもがふたりいて、家に帰りたいと。音楽は止まる。ティンパニだけ、繰り返される。兵隊の鍛冶屋。蹄鉄を作り、馬の足に付ける兵隊。ティンパニ。兵隊の病院。医療器具を煮沸消毒する。石鹸で腕と手を洗う。包帯を巻いた兵隊。レントゲン写真。顕微鏡で病原菌を見る医師。ティンパニ。ティンパニ。ティンパニ。並んで寝ている兵隊に、衛生兵が薬を渡していく。
「支那大陸は
どこへ行っても
水が悪い
兵隊は
故郷の清らかな水を
いくたびか思ひ起す」
「衛生隊の水質検査」
「給水班が来た」
水筒に水を汲む兵隊たち、柄杓で水を飲む兵隊たち、食器を洗い、米を研ぐ。
「乾燥菜 乾燥馬鈴薯
乾燥人参 それに
粉味噌を使って
汁をつくる
兵隊は つくづく
新鮮な野菜を
食ひたいと思ふ」
食事をする兵隊。犬の鳴き声。日が暮れる。黒い影になって見える、体を拭いている兵隊。

「部隊は
前進移動して
この地を去った」
悲し気な音楽。がれきが広がっている。まわりは何もないように見える大地。雲の広がる空。悲し気な音楽から、明るい音楽に変わる。高らかなホルン。
「また 部隊が去った
その日から 
農民は
働きはじめる」
ひび割れた大地。高らかなホルン。
鋤と、牛の足と、人の足、耕される土。遠くから見る、大地に豆粒のような人が両側から鋤を起こしている。
「しかも
こゝには最早や
戰火のうれひが
なくなったのだ」
のんびりした明るい音楽。大木とお堂の間に、日の丸を掛けた棒。竈の上に茶碗。屋根のない家。掘っ立て小屋。犬。すわっているこども。髪をとく女性、鍋をかきまぜるおばあさん。お乳を含んで眠たそうな目の赤ちゃん。草を食む牛。枯草を撚って燃料にする。子供も手伝う。藁を束ね、屋根を葺く人々。

「部隊は
大陸の奥深く
進む」
画面には地図が映る。南京から揚子江に沿った線と、西に分かれた線と、2本の経路で南下していくことが表わされる。
元気な音楽で、日本軍の行軍するようす。多くの、荷を積んだ馬と馬車と牛車と人の列が果てしなく続く。音楽が、少し、テンポを落とし、だんだん、音が低く、小さくなる。
「追撃の急な時は
病馬を捨てゝ
行く事がある
こんな時 兵隊は
心の中で 泣いている
だが作戰上
やむを得ないのだ」
悲し気なヴァオリン。兵隊が行軍するときのような元気良い高らかなトランペット。再び、悲しい音楽。画面中央の一本道に背を向けて立つ、一頭の馬。馬に近づく。道は右寄りになる。砂煙にほとんど隠されて、急いで去って行くふたりの兵隊の頭が見える。砂煙が消える。馬が道の方を向く。よろよろしてくる。ゆっくりと、前脚の膝を折って横向きに倒れる。やがて、頭が地面に着く。まだ少し、足が動いている。日が暮れる。

大地。銃撃の音。
「兵隊は
死闘してゐる」
兵隊が見張りを交替する。銃撃の音。爆撃。機関銃を討つ兵隊。大地をかけていく、豆粒のような兵隊たち。
「悠久の大陸の自然に
歴史の一頁を
刻んでいるのだ」
盧山の雄大な姿。盧峰の雄大な姿。木漏れ日。美しい音楽。銃撃音。美しい音楽。銃撃音。音楽が止まる。川を白鳥が泳いでいく。銃撃音。
「故飯塚部隊長之墓」と書いた白木の墓標が映る。
機関銃の音の響く、戦闘場面。兵隊たちが、担架に乗せた人を運んでいく。続いて、兵隊を背負って運んでいく兵士。
「大君の邊にこそ
死なめ――
この言葉を思ふ時
兵隊の感情は
美しく昂揚する」
悲し気なヴァイオリンの音色。遺骨の飾られた祭壇の前で、4人の兵士が手紙を読んでいる。
「おたよりありがとうございました。あなたさまも、今回、第一線に立たれ、まことにお難儀のことと思いよります。十八日の新聞に、ながた、かみやま上等兵、あいついで倒れたとのこと、書いてありました。一家のおどろき、皆、悲しんでおります。戦死か負傷か、わからないので、毎日、新聞を見ますが、きょうまで、発表になりません。十八日より、仕事もせず、毎日、家におりまして、なんとか、通知がありはしないかと、待ちおるのでございます。それから、先般の手紙に、こどもたちの写真を、といってきておりましたが、仕事の為、写真の撮り方が遅れまして、数日前、やっとできあがりましたが、先に書きましたような次第で、送るのを見合わせておりました。きょうまで、なんのご通知もございませんから、ことによったら、御無事でいられるかと思い、こどもの写真をお送りいたしました」
幼い男の子と赤ちゃんの写真。日の丸の上に置かれた鉄兜。
「家は皆、元気で暮らしておりますから、ご安心くださいませ。なにより、天皇陛下さまのために、いっしょうけんめい、おはたらきくださいませ。九月二十三日 妻より」
「こんな晩
兵隊は
驢馬の泣声が
しきりに
耳につく」
驢馬のいる馬小屋。驢馬の泣き声が聞こえる部屋で、兵隊たちが眠っている。蝋燭の明かり。隅でひとり、涙を拭き拭き、手紙を書く兵隊。

夜が明ける。

武漢への進軍が始まる。戦車に乗り込む兵隊たち。キャタピラーに蹂躙される大地。戦闘機の座席で、軍刀を受け取るパイロット。プロペラの風でたなびく、草の葉の群れ。

元気な音楽とともに、行軍する兵士たち。西部劇の幌馬車隊を思わせるような荷馬車の列である。こわれた橋をなおす一方で、石ころだらけの河原をトラックで渡ろうとする。トラックは、なかなか、がんばるが、やはり、無理である。兵隊たちが、降りて、押したり、河原の石をどけたりする。ようやく、トラックも、渡り切る。

機関銃の音、爆撃音、豆粒のように小さな兵隊たちが、大地でうごめく。響く軍靴の音、大地の中央の曲がりくねった道をゆく、豆粒のような兵隊たち。

「武漢
抗日くづるゝ日」

ティンパニがフォルテで鳴る。讃美歌が聞こえる。ハリストス正教会で祈りを捧げる人々。ひとり、離れて立つ、端正な洋装の婦人。人気のない、あちこち、こわれた町。廃屋。子犬たち。鳩。線香。倒れた仏像。猫が鳴きながら通る。こわれた駅。「保衛 武漢」と落書きした壁。落ち葉の落ちる街路。抗日ポスターの貼られた町。日本軍がらっぱを吹きながら入ってくる。銃を肩にした兵隊たち。軍歌の音。広がる大都市の町並み。りっぱな建物の並ぶ街路。軍楽隊の演奏する行進曲とともに、日本軍が入ってくる。時計台の鐘が鳴る。

「漢口江漢関の廣場で
軍楽隊の演奏が
行はれた」
すわって、軍楽隊の演奏に聞き入る兵士たち。
「兵隊は
武勲を語らない
名誉を思はない
ただ
大いなる
事業を
果した後の
快い疲れを休めて
静かに楽しんでゐる」
静かなヴァイオリンの音楽。藁の上にすわりこんでいる兵隊。居眠りする若い兵隊。
「兵隊は
荒涼たる戰場を
超えて来たのだ」
花が咲いている。じっと見つめる若い兵隊。花に蝶がとまっている。茶館の前で、驢馬の横にすわって休む兵隊。兵隊の服は、あちこち、破れている。
「この日
早や裏町には
文字通り焦土の中で
うごめく
生活の意欲をみた」
支那服の人が、がれきの中から、使えそうなものを拾い上げている。子犬を抱いた小さい男の子。大都会の町並み。りっぱな鐘楼の鐘が鳴る。映画は終わる。内務省の検閲により、『戰ふ兵隊』の映画館での公開は禁止された。「戰ふ兵隊」どころか、「疲れた兵隊」だと非難された。そりゃあ、疲れもするだろう。1937年12月13日の南京陥落で戦争は終わると思ったのに、この映画は、南京からさらに南下して続いていく戦争の記録なのである。

昨1938年2月公開の『上海 支那事変後方記録』で、動く船で下から沿岸のりっぱな建物や軍艦を見上げる視点を取るのは、1936年公開の小津安二郎の『一人息子』を連想させるし、画面がレール上を動く台車からの視点で沿線の廃墟を見せたり、行軍する日本軍の上からの視点で、上海の町に入ってくる日本軍を、日の丸を掲げて歓呼の声を挙げて迎える日本人居留民と、沈黙している地元の人々とを見せたりするのは、1935年公開のレニ=リーフェンシュタールの「国民社会主義ドイツ労働者党(Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei, NSDAP)」、通称「ナチス」の党大会の記録映画”Triumph des Willens”で用いられていた技法を思わせるものだった。『戰ふ兵隊』でも、移動する戦車からの視点で、大日本帝國陸軍が焼き払った村の瓦礫の山と燃え落ちた家々を次々と、それも、戦車の掲げる日の丸の向こうに見せたのは、非常に象徴的で印象的だった。映画の主人公は大日本帝國陸軍であるはずだが、支那の百姓もまた、主人公になっている。なかんずく、焼かれている家を映した後、画面に大写しになった、老人の顔ほど、印象的な顔はない。この映画で最も重要な顔だったと思わざるを得ない。あとは、亡くなった兵隊の妻が、夫の死を知らずに書いた手紙を読み上げるそばに置かれた、幼い男の子と赤ちゃんの写真、日の丸の上に置かれた鉄兜。

同1939年5月、陸軍航空兵団および海軍航空隊が、重慶爆撃をおこなった。

同1939年7月1日、滿洲國と外蒙古との国境付近ノモンハンでの、大日本帝國軍・滿洲國軍対ソヴィエト社会主義共和国連邦軍の戦闘が始まった。

同1939年7月、寶塚少女歌劇「訪米芸術使節」が帰国した。7月5日付大阪朝日新聞に、7月4日に横浜港に着いたときのようす、7月5日神戸港帰着予定と載っている。

同1939年7月8日、国家総動員法に基づき、国民徴用令が制定・施行された。

勅令第四百五十一号 昭和十四年七月七日
第一条 国家総動員法第四条ノ規定ニ基ク帝国臣民ノ徴用ハ別ニ定ルモノヲ除クノ外本令ノ定ル所ニ依ル
第二条 徴用ハ特別ニ事由アル場合ノ外職業紹介所ノ職業紹介其ノ他ノ募集ノ方法ニ依り所用ノ人員ヲ得ラレザル場合ニ限り之ヲ行フモノトス
第三条 徴用ハ国民職業能力申告令二依ル申告者(以下要申告者ト称ス)二限リ之ヲ行フ但シ徴用中要申告者タラザルニ至リタル者ヲ引続キ徴用スル必要アル場合ハ此ノ限り二在ラズ
第四条 本令ニ依リ徴用スル者ハ国ノ行フ総動員業務ニ従事セシムルモノトス
(以下略)

同1939年7月13日、小津安二郎が復員した。

1939年8月21日、寶塚少女歌劇團が「北支皇軍慰問團」を編成、神戸から出発した。

上が北になっている地図で、朝鮮半島の西岸を数字の「3」にみなすと、「3」の上の部分が遼東半島である。「3」の上の上にあるのが遼東湾である。「3」の上半分の向かいに山東半島がある。山東半島は台形で、東側の朝鮮半島に向いている方が右の斜辺、北側が上の短い辺、南側が下の長い辺である。北側にあるのが渤海湾で遼東湾と合わせて渤海になる。

寶塚少女歌劇「北支皇軍慰問團」は山東半島から入って内陸へ西進して南下して西進して北上して東進して、つまり、半円を描くようにして遼東半島に戻って来る。進路は、遼東半島と山東半島の北西側に囲われた湾の形を大きく外側からなぞるような形になっている。青島から済南、徐州、開封、新郷、石家荘、太原、原平鎮、寧武、大同、張家口、北京、天津、大連まで、華北交通・満州國國有鐵道・南満州鐵道を乗り継いで一周できた。

・8月24日~8月26日:青島で最初の公演。青島は山東半島南岸の付け根にあり、北京の南東約560キロメートル、天津の南東約440キロメートルである。
・8月27日:済南公演。青島から内陸へ、北西約290キロメートル、北京の南約360キロメートル、天津の南約270キロメートル、南京の北約540キロメートルである。山東半島の北で渤海湾に注ぐ黄河の河口から約210キロメートル上流の沿岸都市である。済南からは、一旦南へ下がってから西へ進み、北京へ向かって北上して行く。
・8月28日:徐州。済南の南約270キロメートル。
・8月29日:開封。徐州の北西約270キロメートル。
・8月30日・9月1日:新郷。開封の北西約70キロメートル。
・9月2日・9月3日:石家荘。新郷の北約300キロメートル。
・9月4日:太原。石家荘の西約170キロメートル。
・9月5日:原平鎮。太原の北約95キロメートル。
・9月6日:寧武。原平鎮の北西約60キロメートル。
・9月7日~9月9日:大同。寧武の北東約150キロメートル。
・9月10日:張家口。大同の北東約160キロメートル。
・9月11日~13日:北京。張家口の南東約160キロメートル。
・9月14日~9月16日:天津。北京の南東約110キロメートル。
・9月17日~9月19日:大連。天津の対岸、東へ直進すると400キロメートルあたりになる遼東半島の先端、鉄道で北東の奉天へ回って南西に戻ると約970キロメートル。

以上の公演を終えて、寶塚少女歌劇「北支皇軍慰問團」は、帰路、奉天から大連まで南滿洲鉄道、大連からは大阪商船の鴨緑丸に乗って、9月24日に神戸に戻った。「鴨緑丸」とは朝鮮半島と遼東半島の境界を流れる「鴨緑江」から取ったなまえである。

そうしようと思えば、奉天から朝鮮総督府鉄道で鴨緑江の鉄橋を渡って新義州から京城まで京義線、京城から釜山まで京釜線を乗り継ぐこともできた。北京と釜山の間を特別優等列車「大陸」号が一昼夜半で走り抜けていた。南滿洲鉄道には特急「あじあ」号が走っていた。

北京から大連までは、北京から天津を経て山海関まで華北交通の京山線、山海関から奉天まで滿洲國國有鐵道の奉山線、奉天から大連まで南滿洲鐵道連京線が通じている。
南滿洲鐵道は、日露戦争の後の1906年に設立された。
滿洲國國有鐵道は、1932年の滿洲國建国の後の1933年に設立された。
華北交通は、昨1938年10月に大日本帝國軍が武漢を占領した後に設立された。
奉天から大連までの鉄道は、元々、ロシア帝国が清から鉄道敷設権を得て建設したもので、1903年に開通した。
北京から奉天までの京山幹線・奉山線は、元々、清が1881年から1911年までかけて建設したものである。
青島と済南の間は、ドイツ帝国が清から敷設権を得て建設した鉄道が1904年に開通していた。
北京から武漢までは、清がベルギーからの借款で建設した鉄道が1906年に開通していた。武漢は北京の南約1050キロメートルにある。
北京~天津~済南~南京、正確には南京の揚子江対岸の浦口まで、清がUKとドイツの資本によって1908年から建設した鉄道が、1912年に開通していた。
張家口と北京の路線は京張鉄路と呼ばれ、1909年に完成した。これは、清の人、詹天佑が設計したもので、資金も建設作業も、清の資金、清の人々だった。清は、1872年、留学生30人をUSAに送っている。詹天佑はそのひとりだった。

まだ寶塚少女歌劇「北支皇軍慰問團」が山東半島の青島で最初の公演をする前、ヨーロッパでは、1939年8月23日、ドイツとUSSRが不可侵条約を結んでいた。こはいかに、大日本帝國が3年前の1936年11月25日にドイツと調印した『共産「インターナショナル」ニ対スル協定及附属議定書』は、USSRを仮想敵としていたものを。なおかつ1937年11月6日にはイタリアも加わり、『日本国独逸国間ニ締結セラレタル共産「インターナショナル」ニ対スル協定ヘノ伊太利国ノ参加ニ関スル議定書』に調印したのである。しかるに今や「欧州の天地は複雑怪奇」と、大日本帝國の首相は述べるに至ったが、当の欧州の国々にとっても驚愕の出来事であった。

同1939年8月25日、UKとフランスがポーランドと相互援助条約を結んだ。

同1939年8月28日、リトアニアのカウナスにある大日本帝國領事館に、領事代理として杉原千畝が着任した。カウナスは、バルト海に注ぐネムナス川の上流約200キロメートルの沿岸都市である。杉原千畝は、リトアニアに来る前はフィンランドのヘルシンキにある公使館勤務、その前は滿洲国外交部に勤務していた。その頃、彼は、亡命ロシア人と結婚し、ハリストス正教会の信者になった。また、USSRからの北滿洲鐵道譲渡交渉を担当した。その後、離婚し、再婚している。

同1939年9月1日、ドイツ空軍がポーランドを爆撃し、ドイツ海軍がポーランドを艦砲射撃し、ドイツ陸軍がポーランドに侵入した。スロバキア共和国陸軍も侵入した。ドイツは1936年以来、ラインラント、オーストリア、ズデーテンラント、チェコスロバキアと、軍を進駐させ、どこでも抵抗を受けず、むしろ、歓迎されたほどだったが、ポーランドでは、そうはいかなかった。ポーランド軍は応戦し、1939年9月3日には、相互援助条約に基づいてUKとフランスがドイツに対して宣戦布告した。しかし、宣戦布告だけで、軍隊を動かさなかった。にもかかわらず、この宣戦布告のせいで、UK人ニコラス=ジョージ=ウィントンは、ユダヤ教徒のこどもをUKに送る事業を継続できなくなった。既に669名を出国させたが、まだ出国予定名簿に6000名が残っていた。そのこどもたちは、……。

同1939年9月15日、滿洲國と外蒙古との国境付近ノモンハンでの、大日本帝國軍・滿洲國軍対USSR軍の紛争が停戦した。

同1939年9月17日、USSR軍がポーランドに侵入した。ワルシャワの東北約240キロメートル、国境に近い町グロドノでは、市民ボランティア、ボーイスカウト、学生が応戦した。UK・フランス両国政府はポーランドと相互援助条約があるにもかかわらず、USSRに対して、宣戦布告さえ、しなかった。

同1939年9月22日、ワルシャワの東約186キロメートル、国境に近い町ブレスト=リトフスクで、ドイツ軍とUSSR軍とが共同勝利パレードをおこなった。年9月24日から9月25日にかけて、USSR軍がエストニア・ラトビア・リトアニアに侵入したが、戦闘は起こらなかった。9月28日、ワルシャワが陥落した。ドイツとUSSRとは境界友好条約を結んだ。ポーランドの他の都市はまだ戦い続けていた。9月28日から10月にかけて、USSRは、エストニア・ラトビア・リトアニアと相互援助条約を結び、連邦軍の駐留を認めさせた。

同1939年10月6日、ポーランドは全面降伏し、大半をドイツに占領された。グロドノからブレスト=リトフスクまではUSSRに占領された。リトアニアも、グロドノの東北約150キロメートルにあるヴィリニュスを占領した。

ポーランドとリトアニアとは、16世紀から18世紀まで、「ポーランド王国およびリトアニア大公国」という複合国家を形成していた。18世紀に、ロシア帝国・オーストリア帝国・プロイセン王国によって分割され、ポーランドの西半分はプロイセン王国領、ポーランド南西部はオーストリア帝国領、ポーランドの東半分とリトアニアはロシア帝国領になった。

20世紀に入って、1914年7月28日から1918年11月11日まで続いた大戦で、ロシア・オーストリア・プロイセンの王朝が倒れた。一足早く王朝が倒れたロシアの革命政権が、ブレスト=リトフスクで、ドイツ帝国・オーストリア=ハンガリー帝国・トルコ帝国と講和条約を締結した。ヨーロッパ大陸北部のバルト海沿岸のフィンランド・エストニア・ラトビア・リトアニア・ポーランドはドイツ帝国領となったが、すぐその後でドイツとオーストリアの王朝も倒れ、前記の国々は独立した。また、ヨーロッパ大陸南部の黒海沿岸北西部のドニエストル川西岸地域、ベッサラビアとブコビナは、ルーマニア王国の領土になった。

1918年にポーランド・リトアニア共和国が成立し、1920年にリトアニア共和国が独立した。そのときに、ポーランドとリトアニアとの間で戦争になり、リトアニア南東部の国境に近いヴィリニュスは、ポーランド領になった。それゆえに、リトアニアは、ヴィリニュスの北西約90キロメートルにあるカウナスを首都にしたのである。

1939年9月以後、ポーランドでは、「アインザッツグルッペン」が活動した。

ドイツ警察の長官は、「国民社会主義ドイツ労働者党(Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei, NSDAP)」、通称「ナチス」の親衛隊(SS)である。「人種衛生学」や「人類遺伝学」や「犯罪生物学」をたたきこまれており、それを警察組織全体に浸透させた。ユダヤ、ツィゴイネル、その他、反「ナチス」分子、「労働忌避者」「常習犯罪者」「反社会的分子」などに分類した人々を逮捕し、強制収容所に送った。あるいは医療の手に委ねて断種した。

ドイツ政府がポーランドとの戦争の準備を始めると、親衛隊(SS)の”Sicherheitsdienst”, 略称”SD”, 「親衛隊保安部」が諜報活動をおこなって、「ユダヤ」や反「ナチス」分子の名簿を作成した。そして、軍の制圧後に名簿に従って人々を逮捕し、処刑するために、”Einsatzgruppen der Sicherheitspolizei und des Sicherheitsdienstes”, 「保安警察と警察保安任務のための出動部隊」、略称”Einsatzgruppen”, 「アインザッツグルッペン」を組織した。

ポーランドでは、「アインザッツグルッペン」によって、教師、医師、ジャーナリスト、その他知識人、公務員、将校、裕福な地主、聖職者が連行され、銃殺された。この聖職者というのは、キリスト教のあらゆる宗派、カトリック、プロテスタント、ハリストス正教会、ユニテリアンなど、そして、枢機卿から修道士まで、僧職の身分位階の上下すべてにおよんだ。すぐに殺されなかった人々は強制収容所に送られた。ダッハウの収容所に、特に聖職者の区域があった。ユダヤ教徒も、殺されなければ、財産を没収されて、ゲットーに送られた。

ドイツ国内では、同じ頃、総統によって、「人智ではかり治癒不能とされた患者」に死を与える権限が、特定の医師に認められた。ただし、新しい法律を制定したわけではないので「公布」の日はない。

6年前の1933年7月14日、”Gesetz zur Verhütung erbkranken Nachwuchses” , 日本の国会議員が「劣性人絶種法」と翻訳した法律が制定され、7月25日に公報に掲載された。この法律には、「1933年7月25日」という、「公布」の日がある。

しかし今度は、「公布」なく、何の法律に依らずして、心身に重度の欠損ありと診断された人、「同性愛」に分類された人、生まれつき心身に重度の欠損があると診断された赤ちゃんやこどもが、特定の病院に送られるようになった。そして、患者の家族に死亡届が届いた。

1939年11月30日、USSR軍がフィンランドに侵入し、フィンランド軍は応戦した。2週間後の12月14日、USSRは国際連盟から追放された。

(14)

USAで、1939年12月、ヴィクター=フレミング監督の映画”Gone with the Wind”が公開された。原作は、1936年にマーガレット=ミッチェルが発表した同名の小説である。1938年に大久保康雄が『風と共に去りぬ』の題で翻訳している。豊かな暮らしをしていた南部の農場主たちが、南北戦争で敗北し、没落し、また、立ち上がっていく姿を、スカーレット=オハラのたくましい生き方であらわしたこの小説、この映画は、絶後とは言わぬまでも空前の人気を博した。

日本では、同1939年12月、レオニード=モギー監督の映画”Prison sans Barreaux”が邦題『格子なき牢獄』として公開された。昨1938年にフランスで公開されたものである。感化院の院長イヴォンヌと反抗的な少女ネリーとの関係は、1931年にドイツで公開された『制服の処女』の寄宿女学校の教師フォン=ベルングルクと転入生マヌエラとの関係に似ている。年上のほうの女性はどちらも、旧弊な権威主義的教育にあきたらず、生徒と心を通わせる開放的な教育をめざしている。

ただ、『制服の処女』は第一次世界大戦前のドイツ帝国の話だったが、『格子なき牢獄』は第一次世界大戦後のフランス共和国の話である。格子を一本、一本、のこで切っていく映像で始まる。感化院の院長の恋人の男性も登場する。院長とネリーと男性との関係がややこしくなる。このあたりは、もう一方の、原作者クリスタ=ヴィンスローエも監督レオンティーネ=ザーガンも女性で、あくまでも女性同士の愛を描いた『制服の処女』と、まったく、異なる。ネリーを演じたコリンヌ=リュシェールは、たいへんな人気になった。

松竹少女歌劇が、同1939年9月、浅草国際劇場で『ぶるう・むうん』を上演したのを最後として、レビューの単独公演をやめ、翌1940年1月より、映画の併演に戻った。

ハナ、ツル、セツの映画、女子師範学校第一回生シリーズも、いよいよ、最終回を迎えた。

女子師範学校では、音楽の授業を、宮内省の雅楽の伶人が来て笏で拍子を取りながら教えていたのが、学年が進んでから、オルガンが揃えられ、USAで音楽を学んできた伊澤修二(いさわ=しゅうじ)が教えるようになった。伊澤修二(いさわ=しゅうじ)は、戊辰戦争後、東京に出て、深川の中浜万次郎(なかはま=まんじろう)宅を訪ね、英語の塾生になったという話を生徒たちにする。しかし、プロイセンとフランスとの戦争が始まって中浜万次郎(なかはま=万次郎)が視察団に随行することになり、自分も従僕として連れていってくれと頼んだが叶わなかった。しかたなく、別のところで英語を学び、この女子師範学校が開校した年、ハーバード大学に留学したのだった。

伊澤修二(いさわ=しゅうじ)は、日本に帰って来てから、東京師範学校の校長になった。同時に、音楽取調係長になり、同校の教員の稲垣千穎(いながき=ちかい)を音楽取調係にした。稲垣千穎(いながき=ちかい)は、もともと、和文教育に取り組み、教科書『和文読本』を編纂し、大好評を博していた。

女子師範学校の生徒たちが、漢文で書かれた物理の教科書がむずかしすぎると苦情を言ったとき、やさしい教科書に替わったことがあったが、そういう教科書を作るのにも、稲垣千穎(いながき=ちかい)のような人の努力があったと思われる。もっとも、女子師範学校の生徒たちは、もう一度、もとのむずかしい漢文の教科書に戻してくれ、と言ったわけだが。

音楽取調係になった稲垣千穎(いながき=ちかい)は、いくつもの外国の歌を、日本の人が歌えるように、日本語の詞を作った。

女子師範学校の授業で、伊澤修二(いさわ=しゅうじ)は、スコットランド民謡”Auld Lang Syne”を教える。意味も訳す。次に、稲垣千穎作詞『螢の光』を教える。生徒たちが、オルガンで弾き、歌う。始めは原曲を、次に『螢の光』を。歌と共に、教室の大きな地球儀が回る。窓から、風に乗って、ひとひらのはなびらが飛んできて、地球儀のまわりをまわって、また、窓の外へ飛んでいく。ミセス=カクランの英語塾へ。いつかのクリスマスパーティーのように、フィドルやバンジョーやアコーディオンやハーモニカを演奏している人たちがいる。若い男たちが”Auld Lang Syne”を歌っている。部屋の中には、大きな柱時計と、大きな地球儀がある。地球儀が回る。

旧友は忘れていくものなのだろうか、
古き昔も心から消え果てるものなのだろうか。
友よ、古き昔のために、
親愛のこの一杯を飲み干そうではないか。

我らは互いに杯を手にし、いままさに、
古き昔のため、親愛のこの一杯を飲まんとしている。
友よ、古き昔のために、
親愛のこの一杯を飲み干そうではないか。

我ら二人は丘を駈け、可憐な雛菊を折ったものだ。
だが古き昔より時は去り、我らはよろめくばかりの
距離を隔て彷徨っていた。
友よ、古き昔のために、
親愛のこの一杯を飲み干そうではないか。

我ら二人は日がら瀬に遊んだものだ。
だが古き昔より二人を隔てた荒海は広かった。
友よ、古き昔のために、
親愛のこの一杯を飲み干そうではないか。

いまここに、我が親友の手がある。
いまここに、我らは手をとる。
いま我らは、良き友情の杯を飲み干すのだ。
古き昔のために。
友よ、古き昔のために、
親愛のこの一杯を飲み干そうではないか。

螢の光、窓の雪、
書讀む月日、重ねつゝ、
何時しか年も、すぎの戸を、
開けてぞ今朝は、別れ行く。

止まるも行くも、限りとて、
互に思ふ、千萬の、
心の端を、一言に、
幸くと許り、歌ふなり。

筑紫の極み、陸の奥、
海山遠く、隔つとも、
その真心は、隔て無く、
一つに盡くせ、國の為。

千島の奧も、沖繩も、
八洲の内の、護りなり、
至らん國に、勳しく、
努めよ我が兄、恙無く。

Should auld acquaintance be forgot,
and never brought to mind ?
Should auld acquaintance be forgot,
and days of auld lang syne ?
For auld lang syne, my dear,
for auld lang syne,
we'll tak a cup o' kindness yet,
for auld lang syne.

And surely ye'll be your pint-stoup !
And surely I'll be mine !
And we'll tak a cup o' kindness yet,
for auld lang syne.
For auld lang syne, my dear,
for auld lang syne,
we'll tak a cup o' kindness yet,
for auld lang syne.

We twa hae run about the braes,
and pou'd the gowans fine ;
But we've wander'd mony a weary fit,
sin' auld lang syne.
For auld lang syne, my dear,
for auld lang syne,
we'll tak a cup o' kindness yet,
for auld lang syne.

We twa hae paidl'd in the burn,
frae morning sun till dine ;
But seas between us braid hae roar'd
sin' auld lang syne.
For auld lang syne, my dear,
for auld lang syne,
we'll tak a cup o' kindness yet,
for auld lang syne.

And there's a hand my trusty fiere !
And gies a hand o' thine !
And we'll tak a right gude-willie waught,
for auld lang syne.
For auld lang syne, my dear,
for auld lang syne,
we'll tak a cup o' kindness yet,
for auld lang syne.

映画の最後に、”Auld Lang Syne”を歌わせるために、ハナとツルは、早稲田大学の合唱団を呼んできた。無論、1879年には、まだ、早稲田大学も合唱団も存在しない。しかし、当時は、日本政府に雇われたスコットランド人の技師や教育者が、大勢いた。西のハゲ君も彼らに教わったひとりで、『螢の光』を知らずに、スコットランド人自身が歌う”Auld Lang Syne”を覚える。そして、自分はアコーディオンを演奏し、仲間が歌うのである。スコットランド人技師や教師たちは、1880年代には、政府の方針が変わったために、帰国してしまった。映画に出演した学生たちは、みごとなハーモニーを聴かせた。

セツは、映画だけではなく現実の女学校も卒業し、寄宿舎を出た。撮影期間中は休学、撮影が終わると復学を繰り返したので、あの松竹少女歌劇の好きな友達や、寶塚少女歌劇の好きな友達は、先に卒業してしまっていた。最後の年は、寄宿舎のセツの部屋は個室だった。

ハナ、ツル、セツの映画に出てくる女子師範学校の1879年の地球儀の日本は、『螢の光』のとおりに、北は千島列島から南は沖縄までが領土で、北側の海を挟んで対岸の、北西のサハリン島と北東のカムチャツカ半島はロシア帝国の領土で、東側は太平洋、その向こうのアメリカ大陸との間に日付変更線がある。南側の海を挟んで対岸の臺灣は清の領土、西側の海を挟んで対岸の大陸に南から北へ清・朝鮮・ロシア帝国があった。

同じく、1879年の地球儀のロシア帝国は、北は北極海である。東は、ベーリング海峡を挟んで、USAのアラスカと国境を接していた。南は、東の端で、海を挟んで、日本と、そこから西へ向かって、陸の国境を、清、アフガニスタン王国、ペルシア王国、トルコ帝国と接し、さらに西へ、黒海を挟んで南岸のトルコ帝国と国境が接していた。西は、陸の国境を、南から北へ、黒海西岸のルーマニア王国、内陸のオーストリア=ハンガリー二重帝国、ドイツ帝国、バルト海を挟んで対岸のスウェーデン王国と接していた。さらにバルト海北岸のスカンディナビア半島で陸の国境をスウェーデン王国と接していた。

1940年1月現在の大日本帝國は、北は千島列島から南は臺灣までが領土で、北側の海を挟んで対岸の、北西のサハリン島南部も大日本帝國領南樺太、北東のカムチャツカ半島はUSSRの領土で、東側は太平洋、その向こうのアメリカ大陸との間に日付変更線がある。海を挟んで臺灣よりも南東にUSA領フィリピン、西側の海を挟んで対岸の大陸に中華民國があり、その沿岸地域は、北東の滿洲國と接する地域から沖縄の対岸に至るまで、大日本帝國軍が占領していた。占領地域には、北京、天津、南京、上海、武漢がある。中華民國の北東の滿洲國では元首は滿洲國皇帝だが統治権力は大日本帝國の官僚と南滿洲鉄道株式会社と關東軍が掌握しており、滿洲國南東の朝鮮半島は大日本帝國領、滿洲國は西をモンゴル人民共和国、北をUSSRと接していた。

1940年1月現在のUSSRは、北は北極海である。東は、ベーリング海峡を挟んで、USAのアラスカと国境を接していた。南は、東の端で、海を挟んで、大日本帝國と、そこから西へ向かって、陸の国境を、滿洲國、モンゴル人民共和国、中華民国、UK領インド、アフガニスタン王国、ペルシア王国、トルコ共和国と接し、さらに西へ、黒海を挟んで南岸のトルコ共和国、黒海西岸のブルガリア王国と国境が接していた。西は、陸の国境を、南から北へ、黒海西岸のルーマニア王国、内陸のハンガリー王国、バルト海沿岸のドイツ、リトアニア、ラトビア、エストニア、そして、フィンランドと接していた。

1940年2月2日、帝国議会第七十五回衆議院本会議において、齋藤隆夫議員が『支那事変処理に関する質問演説』をおこなった。

実に此の度の事変は、名は事変と称するけれども、其の実は戦争である。而も建国以来未だ曾て経験せざる所の大戦争であります。随て其の犠牲の大なると共に、其の戦果に至っても亦実に驚くべきものがある。昨日も此の議場に於て陸軍大臣の御話がありました通り、今日の現状を以て見まするならば、我軍の占領地域は実に日本全土の二倍以上に跨って居るのであります。
(中略)
又眼を転じて欧羅巴の近状を見ましょう。御承知の通りに二十幾年前に欧羅巴はあの通りの大戦争をやった。五箇年の間国を挙げて戦った。戦争の結果はどうなったか。敗けた国は言うに及ばず、勝った国と雖も徹頭徹尾得失相償わない。其の苦き経験に顧みて、戦争などはやるものでない。凡そ世の中に於て戦争ほど馬鹿らしきものはない。それ故に未来永久、此の地球上からして戦争を絶滅する。其の目的、其の理想を以て国際連盟を作った。我が日本も五大強国の一として之に調印して居るのであります。平和は得られましたか。国際連盟の殿堂はどうなって居るか。民族の発展慾、国家の発展慾は、紙上の条約などで以て抑制することが出来るものでない。十年経ち、二十年経つ間に於て又もや戦争熱が勃興して来る。欧羅巴の現状は活きた教訓を吾々の前に示して居るのであります。
(中略)
此の現実を無視して、唯徒に聖戦の美名に隠れて、国民的犠牲を閑却し、曰く国際正義、曰く道義外交、曰く共存共栄、曰く世界の平和、斯の如き雲を掴むような文字を列べ立てて、そうして千載一遇の機会を逸し、国家百年の大計を誤るようなことかありましたならば現在の政治家は死しても其の罪を滅ぼすことは出来ない。私は此の考えを以て近衛声明を静に検討して居るのであります。即ち之を過去数千年の歴史に照し、又之を国家競争の現実に照して彼の近衛声明なるものが、果して事変を処理するに付て最善を尽したるものであるかないか、振古未曽有の犠牲を払いたる此の事変を処理するに適当なるものであるかないか。東亜に於ける日本帝国の大基礎を確立し、日支両国の間の禍根を一掃し、以て将来の安全を保持するに付て適当なるものであるかないか。之を疑う者は決して私一人ではない。
(草柳大蔵著『齋藤隆夫 かく戦えり』、文藝春秋、文春文庫315-2, 1984年、p.303-314)

齋藤隆夫の演説は陸軍から抗議を受け、一部が速記録から削除された。さらに、官報では、全体の3分の2が削除された。翌日、東京の新聞には削除済みの演説が掲載された。しかし、地方紙には全文が掲載され、それが外国に報道された。斎藤隆夫は懲罰委員会にかけられた。

同1940年3月、齋藤隆夫議員が衆議院を除名された。

日本最大の琵琶湖の面積は約670平方キロメートル、滋賀県の面積は約4000平方キロメートル、北海道は約83400平方キロメートル、本州は約228000平方キロメートル、四国は約18300平方キロメートル、九州は約36800平方キロメートルである。

ヨーロッパ最大のラドガ湖の面積は約16400平方キロメートルである。四国よりも約1000平方キロメートルほど狭い。そして、USSRとフィンランドとの国境になっている。

ヨーロッパの大陸北部で、スカンディナビア半島によって大西洋から囲い込まれた、南北に細長い湾になっているのがバルト海である。バルト海の東岸は、南北の中間あたりで東へ細長く入り込んでいる。そこがフィンランド湾で、フィンランド湾の奥にある陸地にラドガ湖がある。ラドガ湖とフィンランド湾との間にある陸地はカレリア地峡と呼ばれている。

フィンランド湾の入口に近い、北岸西部の都市がフィンランドのヘルシンキで、北岸東部、あるいは南岸東部、湾奥の都市がUSSRのレニングラードである。ヘルシンキとレニングラードは、フィンランド湾上約290キロメートルである。また、ヘルシンキから西へ、バルト海上約400キロメートルのところに、スウェーデンのストックホルムがある。レニングラードとストックホルムは海上約690キロメートルになる。

ラドガ湖はレニングラードの東から西北にかけて広がっている。ラドガ湖の真ん中から西がフィンランド領とされていた。フィンランド全体として見れば、ラドガ湖は南東の片隅にある。フィンランドと連邦USSRとの国境は約1100キロメートルある。

昨1939年11月30日、USSR軍が、フィンランドとの国境の南北に渡って侵入した。本1940年2月11日、カレリア地峡で、フィンランド軍兵士グンナー=ヘッケルトが、USSR軍に殺された。グンナー=ヘッケルトは、1936年のベルリンオリンピックの5000メートル走で14分22秒2のオリンピック記録を出して金メダルを取った人である。

1940年3月12日、モスクワでフィンランドとUSSRとは講和条約を結んだ。フィンランドは、カレリア地峡、すなわち、ラドガ湖西岸地方の領土を、USSRに割譲した。

同1940年4月9日、ドイツ軍がデンマーク王国とノルウェー王国に侵入した。

デンマークは、ヨーロッパ大陸北岸からバルト海の入口をふさぐようにスカンディナビア半島に向かって突き出しているユトランド半島の北半分と、まわりの島々から成り立っている。コペンハーゲンはユトランド半島の東側のシュラン島の東岸にあり、対岸のスウェーデンの海岸までの距離は約30キロメートルである。ユトランド半島の南半分はドイツ領で、半島の付け根あたりにある都市が、ハンブルクである。ユトランド半島の対岸のスカンディナビア半島は、南端が二つに分かれて、ちょうどユトランド半島を両側から囲むようなかたちになっている。二股の奥の西寄りにある都市がノスウェーの首都オスロである。

1940年4月9日午前4時、ドイツ軍はユトランド半島の国境を越えて侵入し、デンマークは6時間未満の戦闘を経て降伏した。同じく4月9日、ドイツ空軍と海軍がオスロを攻撃したが、その日のうちに占領することができず、その間に、国王と政府はオスロを退去した。ノルウェーはUKとフランスの協力を得て、6月まで抵抗を続けた。デンマーク国王クリスチャン10世とノルウェー国王ホーコン7世は兄弟で、クリスチャン10世はデンマークに留まり、ホーコン7世はUKに亡命した。

日本では、同1940年4月、清水宏監督の映画『信子』が公開された。高峰三枝子が、九州から東京に出てきて女学校の教師となる小宮山信子を演じた。画面に登場した小宮山信子が最初に出逢うのは芸者見習いの少女である。置屋の女将がおばさんである。信子は置屋に下宿する。芸者見習いの少女チャー子とも仲良くなる。小宮山信子は就職先の女学校で、「くにではみな、わし・あんた、っていいますけ」「わし、はいけません。わたくし、あなた、とおっしゃい」などと、方言をなおすように校長から注意される。つい、「けっこうでございますけ」などと言って、あわてて口を押さえる。

授業で方言を使ってしまって、生徒にからかわれて、泣いてしまう。ものごとを説明するときに、「何々ちゅう何々」と、「何々という何々」という意味で「ちゅう」という言葉をはさんでしまう癖を、「ちゅうちゅうたこかいな」とからかわれる。

「ちゅうちゅうたこかいな」と歌ったのは、これまでも新米の教師が赴任するたびに、いびりたおしてきた、生徒たちの反乱分子の親玉、細川穎子である。父親が金持ちで女学校を寄付で支えているので、教師たちが遠慮して、細川穎子をのさばらせている。

しかし、小宮山信子先生、寄宿舎の舎監になると、最初の晩こそお化けを見て悲鳴を挙げて蒲団に潜り込んだが、次の晩からは、ひるまず、お化け退治に乗り出す。蒲団を被って逃げ回る曲者との大捕物は、2階と1階を上がったり下りたり、廊下をあっちへこっちへ走り回り転げ回り、遠巻きにする生徒たちが悲鳴を挙げて引いたり寄せたり、なかなかの迫力である。基本は、『風の中の子供』で多用されていたのと同じく、画面中央を人物が遠ざかったり近づいたりする、上下運動である。階段を上がって行った小宮山信子先生と蒲団妖怪が画面から消えて、てんやわんやの物音と小宮山信子の怒鳴り声だけが聞こえ、一階で他の生徒たちや先生が心配そうに見ている場面もおもしろい。曲者を生徒のいたずらと信じて疑わず、「こら、妖怪変化!」と追いかけ回す小宮山信子先生には、どこか、『風の中の子供』の腕白坊主三平が、そのまま大きくなって、性別を女にしたようなところがある。蒲団を被った曲者の下敷きになり、負けるものかと抵抗しながらも、思わず、助けて、と言う先生の姿には、こういう態勢なら普通はこれからけしからぬことが始まるのを、一瞬、想像させるおかしみもある。妖怪退治のはずが、怪我の功名で、寄宿舎に忍び込んだ泥棒をやっつけた小宮山信子先生、すっかり人気者になる。細川穎子だけは、それが気に入らない。

女学生たちのハイキングが挙行される。同じ清水宏監督の1938年の映画『女と按摩』のときよりも、大人数である。女学生の服装は、『女と按摩』のほうが、おしゃれだった。大部分の女学生が制服では、たちうちできない。しかし山道に響く、よく揃った歌声はいい。団扇太鼓を叩いて歩く巡礼や、乗合自動車などは、やはり同じ清水宏監督の1936年の『有りがたうさん』を髣髴とさせる。仲間からはぐれた細川穎子を探すとき、生徒たちが「えいこさーん」と呼びかける声が谷川をはさんで両岸にこだまする場面は、実に芸術的である。まさしく、サイレントでもサウンドでもない、トーキーの、「発声」映画の真骨頂である。

細川穎子はひとり勝手に乗合自動車に乗って先に行っていたことがわかる。寄宿舎に帰った女学生たちは、もう、細川穎子の我儘につきあうのをやめる。小宮山信子先生に叱られた細川穎子に、みんなも不満をぶちまける。細川穎子は姿を消してしまう。小宮山信子先生と生徒たちとが、ハイキングのときと同じように名前を呼んで学校中を探し回る。ここは、明らかに『制服の処女』の、マヌエラを生徒たちが探し回る場面をなぞっている。誰もいない教室のドアを開けて確認するところなど、そっくりである。マヌエラと同じように、細川穎子も自殺を図っているところを発見される。

細川穎子が病院のベッドで泣きながら、さびしさでいっぱいだった胸の内を小宮山信子先生に打ち明けるとき、画面に映っている彼女の頭は、ベッドの格子の向こうにある。彼女は、物理的にではなく、心理的に、彼女を閉じ込めていた格子を破って出て来るのであった。ここは『格子なき牢獄』を意識したものか。

小宮山信子先生もまた、旧弊な道徳主義的教育にあきたらない教師であった。しかし、『格子なき牢獄』の感化院の院長イヴォンヌや、『制服の処女』の寄宿女学校の教師フォン=ベルングルクは、愛を知る、成熟したおとなの女性として描かれていたが、小宮山信子は、愛に関しては、無邪気なままである。女性同士、あるいは女性と男性との恋愛の要素はない。せいぜい、細川穎子とは別の生徒から付け文を貰って日記に書き留めるぐらいである。

性の暗い側面がほのめかされる場面もある。芸者置屋の少女チャー子が、芸事で身を立てることには憧れや誇りを持っているのだが、生活のために疑似的な恋愛を強いられることへの嫌悪感をあらわす。小宮山信子はチャー子の気持ちを女将に伝え、女将は、チャー子を養女にして、芸者にするのをやめる。このあたりも、『有りがたうさん』の大団円を思わせる。チャー子はそのうえ、女学校に入る意思を示して、小宮山信子を喜ばせる。無邪気であれ、とは、小宮山信子が生徒たちに向かって言う言葉だが、それは、作者の願いとも受け取れる。

高峰三枝子は、反抗的な生徒に手を焼きながらも、まっすぐにぶつかっていって心を通わせる、かわいくてうつくしくて元気で熱心な先生を好演した。原作は獅子文六が1938年から1940年まで雑誌『主婦の友』に連載した小説『信子』である。夏目漱石の『坊ちゃん』(1906年)と『三四郎』(1908年)とを足したようなもので、東京から松山の中学校に赴任して教師になる坊ちゃんと、熊本から東京の大学に出て来る三四郎とを混ぜ合わせて、主な登場人物を皆、女性にしたようなものである。もっとも、江戸っ子の坊ちゃんは、松山の中学生の方言にいらいらしていたようだが、三四郎が方言で苦労する話はなかった。

ヨーロッパでは、同1940年5月10日、ドイツ軍が、ルクセンブルク大公国・ベルギー王国・ネーデルラント王国に侵入した。

ルクセンブルクは非武装中立国だった。ドイツ軍の攻撃が始まるとすぐにシャルロット大公はフランスへ亡命した。フランス軍がドイツ軍とルクセンブルク国内で戦ったが、激しい戦闘は起こらなかった。フランス軍の敗走に従い、シャルロット大公は、スペインへ、さらにポルトガルへと移った。

ベルギーは、フランス・UKと協力してドイツ軍と戦った。同1940年5月28日、ベルギーは降伏した。国王レオポルド3世はドイツ軍に監禁された。

ネーデルラントは応戦した。同1940年5月13日、ウィルヘルミナ女王がUKへ亡命した。5月14日、ロッテルダムがドイツ空軍の激しい爆撃を受けた。5月17日、ネーデルラントはドイツに降伏した。

ちなみに、ルクセンブルク・ベルギー・ネーデルラントの面積・水面積率は次の通りである。

ルクセンブルク:面積、 約2590平方キロメートル、水面積率、極僅か
ベルギー:面積、約30530平方キロメートル、水面積率、1パーセント未満
ネーデルラント:面積、約41860平方キロメートル、水面積率、19パーセント未満

ルクセンブルクは内陸国だが、ネーデルラント・ベルギー・フランスは、北から南へ並んでドーバー海峡に面しており、対岸はUKである。海峡の最も狭い部分は、フランスのカレーからUKのドーバーまでの約40キロメートルである。カレーよりも北にあってベルギーとの国境に近いダンケルクからUKのドーバーまでの距離は約75キロメートルである。

同1940年5月26日から6月4日にかけて、UKからダンケルクへ、860隻の漁船・貨物船・遊覧船・救命艇が向かい、UK・フランス両軍の駆逐艦・巡洋艦と協力して、両軍兵士331226人の撤退作戦を敢行した。その間、カレーにいたUKの部隊は、ドイツ軍をひきつけておくために救出されなかった。ダンケルクでも全員が救出されたわけではなかった。カレー・ダンケルク、両方でドイツ軍の捕虜となった兵士は約3万人いた。

同1940年6月22日、フランスはドイツと休戦協定を結んだ。東部のドイツとの国境に近いアルザス=ロレーヌはドイツに割譲され、南東部のイタリアとの国境に近いニースはイタリアに割譲され、パリを含む北部および西部海岸一帯はドイツに占領された。ドーバー海峡としては南の方にあって、フランス側に近い、チャネル諸島は、UK領で、ここもドイツ軍が占領した。約97000人の島民のうち、約31000人がUKへ避難した。

同1940年6月、ソヴィエト社会主義共和国連邦の主導でエストニア・ラトビア・リトアニアはそれぞれ社会主義共和国となり、9月、連邦に併合された。

占領地ノルウェー・デンマーク・ネーデルラント・ベルギー・北部および南西部フランスを合わせたドイツは、陸の国境を北から時計回りに、スウェーデン王国・ソヴィエト社会主義共和国連邦・スロバキア共和国・ハンガリー王国・ユーゴスラビア王国・イタリア王国・スイス連邦・フランス・スペインと接するようになった。海の国境はUK・スウェーデン王国と接していた。

1940年現在の中華民國は、陸の国境を時計回りに、北をモンゴル人民共和国、北東を滿洲國、東は海を挟んで大日本帝國と大日本帝國領臺灣、南東に海を挟んでUSA領フィリピン、UK領ボルネオ、再び陸の国境を、南東部をフランス領インドシナ、南をUK領インド、ネパール王国、ブータン王国、西をソヴィエト社会主義共和国連邦と接していた。

中華民國は、大日本帝國との戦争で、南京が陥落すれば武漢に、武漢が陥落すれば重慶へと、首都を移転してきた。重慶は、フランス領インドシナとの国境に近い都市南寧までの距離が約770キロメートルである。大日本帝國軍は、去る1938年12月、1939年5月と、重慶を爆撃した。昨1939年11月、南寧を攻略した。かつ、フランス領インドシナ政府に、中華民國への禁輸、南寧の大日本帝國軍への補給を求めた。フランス領インドシナ政府が拒絶したので、大日本帝國軍は、本1940年まで、インドシナの鉄道を爆撃した。

1940年6月、フランスがドイツに占領されると、大日本帝國は、この機に乗じてフランス領インドシナ政府への要求を増大させ、大日本帝國軍の進駐と経済協力を認めさせた。しかし、一部のフランス軍との間で戦闘がおこなわれた。

日本では、同1940年6月、レニ=リーフェンシュタール監督の映画”Olympia”が、二部に分けられて、前半が邦題『民族の祭典』として公開された。後半は12月に『美の祭典』として公開された。どちらも記録的な観客動員数になった。

同じく1940年6月、ジョン=フォード監督の映画”Stagecoach”が邦題『駅馬車』で公開された。『駅馬車』の主題歌は、カウボーイによって歌われた民謡として知られている。もとは、船乗りたちによって歌われていた。USAでは、19世紀の前半、捕鯨業が栄えたが、世紀の後半になると、衰えてしまった。代わって、南北戦争後、原野で野生化していた牛を狩り集めて大陸横断鉄道の駅まで何日もかけて運ぶ旅が商売として成立した。牛の群れを落ち着かせるために、子守歌ならぬ牛守歌を歌って旅をした。

1940年6月、NHKラジオ番組『國民歌謡』で、「隣組」を宣伝啓発する歌が放送された。作詞は岡本一平である。

とんとん とんからりと 隣組
格子を開ければ 顔馴染み
廻して頂戴 回覧板
知らせられたり 知らせたり

とんとん とんからりと 隣組
あれこれ面倒 味噌醤油
御飯の炊き方 垣根越し
教えられたり 教えたり

とんとん とんからりと 隣組
地震や雷 火事泥棒
互いに役立つ 用心棒
助けられたり 助けたり

とんとん とんからりと 隣組
何軒あろうと 一所帯
心は一つの 屋根の月
纏められたり 纏めたり

「隣組」は、一昨1938年4月に制定された国家総動員法に基づき、同年5月に制定された。5軒ないし10軒の世帯を一組とする。

1940年5月26日から6月24日まで、寶塚少女歌劇團花組が寶塚大劇場で、『グランド・レヴュウ 世界の詩集』(十八場)、『メロドラマ 支那の夜』(十二場)、『歌劇 廣虫姫』(五場)、『歌劇 真夏の夜の夢』(三場)を公演した。ポスターの絵は、半袖のブラウスと裾の長いスカートに、花模様の詩集のあるエプロン、ベールをかぶった女性が椅子に腰かけ、その足元のゆりかごで眠っている赤ちゃんに静かなまなざしを向けている姿である。この女性が「廣虫姫」である。演題はすべて縦書きで、右から左に、『廣虫姫』『支那の夜』『真夏の夜の夢』『世界の詩集』の順に並んでいる。『世界の詩集』の題字が、他の三つに比べて、やや大きい。ちょうど、「廣虫姫」の顔の前にあるのが『廣虫姫』である。この題字の右に小さく、「紀元二千六百年記念 全日本保育聯盟理事長西村真琴博士原案」と書いてある。

*「ポスター宝塚少女歌劇1940年5月大劇場」
http://www.hankyu-bunka.or.jp/archive/?app=shiryo&mode=detail&list_id=834&data_id=100740

西村真琴は、箇条書きにすると、

1935年、第5回満州巡回病院一行の団長:7月から28日間で5287名救療
1936年、第6回満州巡回病院一行の団長:6月から60日間で8691名救療
1937年、北支巡回病院一行の団長:12月から8日間で2809名救療
1938年、北支巡回病院の活動を1月から2月まで続行(以後、戦火拡大に伴い中止)。
(「植物学者・西村真琴の思想と実践(その1) : 戦時下の保育・社会事業活動を中心に」、土井 洋一・板原 和子著、社會問題研究. 1996, 46(1), p.21-53,
http://doi.org/10.24729/00003412
参照)

以上のように、1935年から1938年まで、すなわち、あの亀井文夫監督の記録映画『上海 支那事変後方記録』が1938年2月に公開される頃まで、4年間、毎年、「滿洲・北支」に渡り、戦災孤児の治療・救済にあたっていた。そして、1938年より、孤児たちを大阪の養育施設で育てる事業を開始していた。

映画を見終わっても、自分の背丈ぐらいの棒に通した袋をかついで歩くこどもの後ろ姿が目に焼き付き、袋はかっぱらったものを入れるもの、という声が耳について離れなかったような人々も、西村真琴の事業に協力したかもしれない。

1940年夏、約9万人の規模になっていた大日本國防婦人会に、寶塚少女歌劇團も生徒全員が入会し、寶塚少女歌劇團分会が設立された。秋には、「寶塚少女歌劇團」は、「寶塚歌劇團」に改称した。


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