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共感と客観

¡Holla!

 最近、課題をパソコンで行うようになり、自動変換が専門用語になってしまい、苦労しています。共感してくれる人はいませんか?(滑動、降伏、など)

 今回も週刊Nocturneの活動です。
 週刊Nocturneの今週のテーマは、書籍『「間合い」とは何か』の読書感想文?になります。

 この本を読んだ感想は、「いや~、頑張った」です。(本の感想ではないな。)
本を読むことが嫌いではありません。いや、むしろ読書は好きです。(確かに、4章の祭のフィールドワークから、カフェの感想、ブラジリアン柔術の技のかけ方と興味を失う物であったかもしれないません。)読み終わった今は、本質的な内容には、かなり興味を持っています。

 なぜ、読書の感想が「頑張った」になったのか。一人称視点、自身の内側からの視点でものごとを見てみようと思います。すると、気づいたことがあります。あの感情は、学校などの課題やアルバイトに行きたくないと同じ気持ちである、ということです。(注:人から勧められたこと、もの全てにそう思うわけではありません。)
 やるなと言われたら、やってみたくなるように、やってと言われたらどうしてもやりたくないという気持ちが芽生えるのと同じです。
 なにも強制されているわけでも、本の内容がつまらなかった訳でもありません。ただ、自分が読書を課題、やらなければいけないタスクだと捉えてしまったというだけです。
 2週間以上前に本を借り、時間があるにも関わらず、一切手をつけない。本が嫌いのように見えますが、期日の当日に読破する。(時間の掛かるタスク、複雑なタスクは後回しにする派です。)客観的に見ると、行動はかなりおかしいです。しかし、一人称視点で見ると、理由があるように見えます。

 ここまで、本の感想とは違う部分を書いてきましたが、ここからは内容について触れたいと思いますが、呼んでいない人には伝わりにくい内容になるります。たぶん。本当の感想文です。

 この本では、様々な分野の「間合い」に共通する考え方が「二人称的(共感的)かかわり」です。人との間合いや会話における間合い、スポーツにおける相手との間合いがあります。また、人(物)が持つエネルギーのようなものを他者や空間から感じるとも言っています。
 「二人称的かかわり」とは、「相手の身体で生じているものごとに歩調を合わせる」という現象を説明する概念。相手に起きていることに共感することで、歩調が合いやすくなるという考え。要するに、相手の立場に立って、共感することで、相手の考えていることを理解するということ。

 特に、おもしろいと思ったのは会話における間合いです。

日常会話を、「相手にかかわろうとするエネルギー」をさまざまなやり方で醸し出し合うことで、互いにとって心地よい間合いを絶えず形成し続けるプロセスである、と捉えてみましょう。相手にかかわろうとするエネルギーを、言語的あるいは身体的なふるまいに乗せて繰り出し、それに対する相手の反応に含まれるエネルギーを感じ取って、さらに自分のふるまいを調整する、といったプロセスです。会話における心地よい間合いは、互いのふるまいが醸し出すエネルギーに寄り添うべく、さまざまな反応を返すことで、形成されていると考えられます。

 ここでは、話し手は「話したい」というエネルギーをもっていて、聞き手の「聞いてますよ」というエネルギーを感じることで、会話が成り立つとしています。相手のエネルギーの大小を敏感に感じることで、話す番を察したり、反応の機会をうかがいます。話し手が聞き手のエネルギーを感じれなければ、不快に感じる。話し手のエネルギーが小さいときに発話、相づちを打ちます。
 野球も似ていて、バッターはピッチャーとタイミングを合わせるために、ピッチャーの持つエネルギーの変化を察しようとします。球が速いいわけではないが、速く感じる選手がいるのは、ピッチャーがエネルギーの変化を上手く隠しているためです。
 そして、日常会話はマルチタスクで行われることが多く、コミュニケーションでは、「聞いてますよ」というエネルギーの伝達が重要です。相手に目を合わせることはできない、話ができない状況では、視線の移動や頷き返すことで、会話を行います。それらの動作などで、いかに自分のエネルギーを伝えるかが重要です。そこで、二人称的立場から自分の発するエネルギーを察して、良い空間になっているかを意識する必要があると思いました。前回も述べましたが、可能なら合間に相づちを打ち、相手に共感を明確に示すことで、ソトともコミュニケーションが円滑になるのだろうと思います。

 また、技術の進歩でいろいろな出来事が映像などで拡散するようになりました。その時、問題なのは三人称的視点でのみ物事を見て、語る人が多い気がします。(一方的客観視:今考えた造語)一部の側面からの判断をするので、噛み合わない会話、コメントが発生します。サッカーのことを触れていましたが、上から試合を見ている人と実際にプレーしている人は違います。全体が見えている訳ではないし、感じ方は違います。「二人称的かかわり」をすることで、こうするべき、すべきでなかった、という一方的な押しつけは起きません。(自分の経験からになってしまうが、)一度、相手の立場になって想像することで無駄な諍いや的外れなコメントがなくなる(経験がなく、想像ができないという問題はまだ残っている)のではないかとも思いました。

 自分の意見とは別に、相手の立場に立って考える、想像するというのは、以外と難しいかもしれません。そのプロセスを忘れなければ、会話はもっと楽しいものになりそうです。また、人や物はエネルギーのようなものを持っているという考え方は良いと思いました。人の動作には、エネルギーの変化が現れ、それを察するのことが上手い人になりたいですね。

 最近、文調、語尾が混在している文章になっています。何に統一したら良いですかね。次回からは、統一できると良いなーとは思っています。

Esto es todo. ¡Gracias!

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