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【回想】2020年7月のフォト日記①より



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https://cms.oklab.ed.jp/jh/yakita/index.cfm/1,9520,c,html/9520/20230409-094824.pdf


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柴田君の思い出

 柴田君と初めて会ったのは、はっきりとは覚えていないが、高円寺の事務所でお手伝いをしていた頃だった。陽気で早口で「俺、早稲田に入ったけど全然勉強してなくて、麻雀ばかりしてた。でもこんなところがあるなんて、こんな人たちがいるなんて」と大学生から社会人まで、自由に出入りしていた当時の杉並連絡事務所の仲間達に共感を覚えたようだった。

 柴田君はとっても気さくで、誰とでもすぐにうちとけていた。私の事も「耐ちゃん」と言って、当時豊島区長崎の画家夫妻の家に間借りしていた下宿先から、事務所のある杉並区南阿佐ヶ谷のビルに引っ越した時は、私がバイトで時間がなく困っているのを察し、率先して引越しの手伝いをしてくれた。当時からフットワークが良かったんだな。

 それからしばらく経って、後に柴田君の奥さんとなる森山久寿子さんとも知り合いになり、JVCの記録書作成のお手伝いをした時は、代表の岩崎駿介さん・美佐子さんご夫妻が住まわれていた筑波大学の職員宿舎(?)に久寿子とお伺いしたことがあったりと、柴田君ご夫妻とのご縁ができた。

 二人が結婚を決めた時は久寿子から「あのね、柴田がね、お前じゃなきゃだめなんだって言うの」と、嬉しさを隠さずあの、満面の笑みで私に惚気たっけ。その後結婚、お祝いは何がいいと聞くと「オムツ」だという。現実的だった。

 何かの用事で川崎に行った時は、ちょうど柴田君が選挙に出た年で、夫婦二人三脚で頑張ってる姿を見させてもらった。

 柴田君の家にも一度遊びに行ったっけ。久寿子が勉強会のコーディネートをしており、その日は帰りが遅かったのだけれど、当時3歳だったさんかちゃん(長女)も働くお母さんの姿を見ていた。電車を乗り継ぎ、家に着いたのは夜の10時頃。それでもぐずる事もなく、しっかりとした娘さんだなぁと思ったものだ(私はちょうどその頃、保育の勉強をしており、さんかちゃんの事は保育体験記録のレポートに書かせてもらった)。

 その夜は、私はなんとさんかちゃんと一緒におネンネ。柴田君も久寿子も腰が悪いという事で板を敷いて寝ており、さんかちゃんも両親と同じように板の上に布団を敷いて寝ていた。頑張りやさんのさんかちゃんの寝顔を見ながら、私も床についたなぁ。

 その後は、私がやっていた小さなかわうそ会を応援してくれたっけ。私が遅い結婚をしてからは子育てに四苦八苦。柴田君が愛地球博の事務局で働いていた頃は、星野基金のお手伝いをちょっとだけしたのだけれど、自分の子育てで精一杯で、それからは連絡が途絶えていた。それが先日、数年ぶりに連絡が取れた田島君のFBで悲しい現実を知った。壮絶な闘病だったとのこと。久寿子も大変だったろうなと思う。

 二人三脚、夫婦で駆け抜けてきた人生だったんだなぁ、とつくづく思う。でも、それにしても早すぎた。

 いつだったか、いただいた年賀状に「息子、早く大きくなってくれ~」と書かれていたっけ。柴田君の事だから、天国でも元気でやっていると思う。まだまだ長い人生、久寿子もご家族の皆様も、柴田君があちら側からいつも身守ってくれていると思って、元気で頑張ってください。

 プロジェクト仲間というより、ご夫妻のプライベートでのおつき合いが多かった分、私的な内容になってしまい申しわけありません。子供たちが、お父さんの事、誰よりも見ていたと思います。子煩悩な、いいお父さんでしたね。 合掌 (2020.6.11 鈴木耐子 旧姓:戸田)


追悼

「柴田久史物語」を拝見して

・1982年、大和定住促進センターでは住み込み? でインドシナから日本に定住してきた人たちのお世話をしていたんでしたね。色々あったようですが、柴田君の子供たちに接する姿が愛情に溢れているのを感じました。そして、何より子供達、みんな元気で明るかったですね。

 日本語家庭教師は初期の頃、槌田君と一緒に何度か伺わせていただく機会がありましたが、柴田君の場合は、相手の懐に飛び込んでいく勇気と情熱に溢れていたんだなぁと感じました。

・1983-85年、ソマリアでの農業プロジェクトでの活動。長期に渡る男所帯での仕事はしんどかったと聞きました。時間観念の違いも精神的に大きな打撃だったとも。お国が違えば色々と摩擦もあったらしいのですが、そこは柴田くん独特の調整力があったからこそ、幾多の苦難をも乗り越えられたのだと思いました。

・1987年4月28日。ご夫妻の結婚を祝う会(於:JVC東京オフィス)での久寿子さんの満面の笑みが印象的でした。

・1991年、イラクでの活動。湾岸戦争の戦地へ。命がけだったと思います。確かこの頃だったと思うのですが、柴田君の家へ泊まりに行った時、ピューリッツア賞を受賞した報道写真家、ケビン・カーターさんの事をまるで自分に言い聞かせるように、あれは自殺じゃない、と何度も何度も話していたのを覚えています。

・1992年、カンボジア。1992-95年、南アフリカ。1993年、グアテマラ。

 1990年代に入ってからは世界各地の紛争地などで、命を繋ぐコーディネート役として最前線で活動してきたんですね。

 何時だったか、「そういう危険な場所に、一人でも外国人がいるということだけで、現地の人の救いになることがあるんだ」と、NGOの、ある種の重要な役割があるというような話を聞いたことがあります。また、医療現場では、緊急事態の時には助ける命には順番があるんだ、とも。

 20代の頃、私はアフリカをこの目で見てみたくて語学を学んだ事があるのですが、未だに行けずじまいです。当時、南アフリカでは人種隔離政策や過酷な現場で働く鉱山労働者の存在などがクローズアップされていたのですが、結局、何もできませんでしたが、心は南アにありました。

 その後、柴田君は選挙に出馬~塾教師に転身。それまでの、実体験に基づいた、エピソードを交えた授業が生徒たちに人気だったとお聞きしました。

・2003-05年、愛・地球博-地球市民村事務局でのコーディネーター。とっても張り切っていましたね。頑張り過ぎが祟ったのか、病に倒れ、過酷なリハビリを乗り越えた末の永い闘病生活、永眠だったと、田島君からお聞きしました。

 最後に、加藤さんをはじめとする「柴田久史さんを偲ぶ会実行委員会」が制作された、この「柴田久史物語」を見て、改めて、写真の持つ大事な力を感じる事もできました。記録する事で、柴田君の笑顔はいつまでも、私の記憶の中で微笑んでくれています。

 とっても早口で、いい事も、そうでない事も、あっけらか~んといつもしゃべっていた陽気な柴田君。やすらかにお眠りください。

(2020.6.12 鈴木耐子 旧姓:戸田)

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