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井の頭通信 07

朝は王様のように(リゾートホテルのビュッフェで。カットオフのニットワンピを着た友だちと一緒に),昼は貴族のように(戸隠そば。もちろん手打ち),夜は貧者のように(たまごとチーズを載せて,余っていた牛乳で煮た辛ラーメンを)食べよ。
各食事のあとにはもちろんロキソニンも付いてくる。スマートなデザート。末梢神経系にこびりついた憂うつにさよならしよう。体幹を感じよう。身体について集中しよう。心臓から送られたばかりのいちばん温かい血があなたの眼を青くしていることを。

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 地元はのんびりしていた。

 最近そう思う。

 いやしかし,うまく比べられるものではない。地元で働いたことがないから,会社でパソコンと向き合っているときの焦燥感を,ほかのことで相対化することは難しい。まだ一社目だし。
 瀬戸内海あたりの人はのんびりしている。これはおそらく本当のことだ。これがもっと南,たとえば九州あたりになるとさらにすごいことになってくるが(原稿の締切日を全然守ってくれない。「締切」というルールは,九州では通じない。焼酎くさいゲラが返ってくる),瀬戸内海あたりに住んでいると人間はのんびり屋になるというのがある。

 全身の筋肉が弛緩するのだ。

 こればかりは,一年間,岩国だか廿はついちだか江田島だか倉敷だかに実際に住んでもらわないとわからないだろう。
 太陽がぽかぽかで,道路が広くて整備されていて,瀬戸内海はとは無縁でぬるい湖のようだし,女の子は愛想がよくてぼってりしているし,都会は一個もないがどの街もそれなりに栄えていて便利だ。

 ほかにもいろいろあるけど,都市論を語るつもりはない。
 気温と風と,波の強さの話だ。
 あんなところで育ってしまえば,そりゃのんびり屋になるのは無理もない。はっきり言って天国だ。
 電車に小一時間揺られれば,広島市にも行ける。

 最近はもうなんか,いいかな。十分かな。満足したな。ていうかしんどいな。と思っている。東京に住むことについてだ。
 おおかたのことはやってしまった。という話を友だちにすると,「どっか行っちゃうの,寂しいから嫌だよ」みたいなことを言われる。
 もちろん私だって寂しい。だが,もはや,東京にいる理由が,友だちと離れることが寂しい。くらいしかない。
 なんとなくの目標として,いま住んでいる明大前を出るときは,それで最後にしたい。
 明大前で打ち止めかよ。けっこうしょぼかったな。代々木上原とか蔵前とか,みょうだにとか住んでみたかったな。
 井の頭線で始まり,井の頭線に終わる。そういうとなんとなく収まりがいい。

 次は北九州か新潟に住みたいと考えている。理由は特にないが,この数年間,移住のために日本のあちこちを観て回った感想として,そのあたりが素敵だなと思っている。

 まあ,友だちと離れるのはつらい。

 つらいけど,仕方のないことだ。
 「仕方のない」ことについて悩んだってどうしようもないと思えるまでにずいぶん苦労した。努力なんてひとつもしないおちゃらけた毎日だが,「仕方のない」ことを受け入れることは,自分にとってかなり苦しいことで,それをいくぶんか克服できたことは,素直に頑張ったことだと思える。

 まず,失恋。

 私の場合,これで3年くらい人生を棒に振った。3年間毎日,無気力状態みたいなことだ。一般的に失恋の記憶はよく味覚に喩えられるが(ほろにが~い),当時のことを思い返すと,口の中に膿の臭いが広がるのを感じる。実際にちょっと膿が分泌されてるのかも。このトラウマを「仕方のない」ものにできたのは,自分が頑張ったからだ。もちろん,いまの彼女のおかげでもある。
 正直なところ,その記憶にくらべれば,友だちと物理的な距離が空くことは,だいぶ容易い。
 というか,「それ」とくらべてしまうと,私に起こりうるあらゆる困難は,お気楽なものだ。それくらいヤバかった。
 当時の私の書いたものを見返すと,まるで別人のように思える。それに,「こいつはどこの世界に住んでたんだ」と思ってしまう。
いまだって,なにもアイディアを用意せず,思うがままに書いていると話題の重心が「それ」に引き寄せられているではないか。
 「それ」は実際のところ,なにも解決はしていない。「仕方のない」ことになっただけだ。
 先延ばしのロジックとしては,原発と同じだ。
 だけどまあ,そういうふうにしかならないこともある。「仕方のない」ことになったのがゴールだと思っていたほうが,健康的だと思う。

 クソ田舎でよろしくやってろよ,とも思う。

 彼女がいるというのはとても良いことだ。不必要なジェラシーと反感を招かぬように,このあたりで話を終わろう。という気になれる。

 昨日の晩,小牧がnoteをあげていたので読んだ。仕事をしながら創作をするのは困難だ,みたいなことをその中で書いていて,私はワインを2本開けたあとでとても気分が良かったので,浅い理解と共感のまま小牧に電話をかけた。楽しい電話だった。
 私も最近,働くことについて関心がある。周囲の人間が,働くことについてどう考えているのかにはもっと関心がある。同居人の井上は,最近もう仕事の話しかしていない。こいつの場合,働くことについて考えているのかどうかはよくわからないが。
 『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』ももちろん読んだ。アツいヴァイブス鳴ってる人が書いた本だった。だがしかし,現状私はかなりゆるい会社に就いていて,それに満足しているから,[本が読めなくなる=余暇の時間を,趣味に使わず,だらだらスマホを眺めてしまう]人の気持ちがあまりわからない。実に幸福なことである。

 意図的に,仕事の話題を避けているということもある。
 他人の仕事の愚痴を聞かされるのはほとんどの場合苦痛だ。私🧟‍♀️はてめーのインコ🦜かおにんぎょうさん🧸かよ,みたいな気分になる。だって私には,それに返事するための愚痴がないんだもん。
 日中,嫌なことはたくさん起こるが,「嫌なこと=自分にとって嫌なこと」ではなく,「嫌なこと=自分の役職にとって嫌なこと」がほとんどなので,そんなものは会社の門を出るころには忘れている。ていうか,「嫌なこと=自分にとって嫌なこと」が発生するような会社は,マジで一刻も早く辞めたほうがいい。あまりにもくだらない。

 じゃあ逆に,「良いこと=自分にとって良いこと」が,雇われの身で成り立つかどうか,考えてみてほしい。私はあり得ないと思う。うすら寒い。

 私がいまのところ,働いていて気にしているのは,社会的に成熟することに関して必要なスキルの磨き方と,お金の稼ぎ方と(実際に儲けているのはあなたではないが),えらい大人とのコミュニケーションの取り方などなど。勘違いしないでほしいが,私は『PERFECT DAYS』の平山になりたいなどと言っているわけではない。あの映画も,それで健康なのかと考えると,うーん? となる。お金を稼ぐことは大事だし,組織のなかで評価されることも大事だと思う。ただそれを内面化(自分自身の価値判断の基準におくこと)していいのか? という問題だ。
 そういう疑問なら,仕事の話だろうがなんだろうが,めちゃくちゃしたい。

 朝,明大前のマンションを出て,向かいの道に渡る陸橋を降りたあたりに,リフォーム会社の事務所がある。リフォーム会社らしく,たまに家具類が乱雑に積まれていて,「ご自由にお持ちください」と紙が貼ってある。通りに面した事務所はショーウィンドウのように全面がガラス張りになっていて,時間帯的に太陽がちょうどガラスを照らす格好になっているから,ちょっとした街の大鏡になっている。
 そこを通り過ぎていく人たちは,ほとんどの場合,その「大鏡」をちらりと見る。中でデスクワークしている人たちを見ているのではなくて,全身鏡として使っている。
 私は性格がいいから,ときどき陸橋からそれを眺めて,彼らの心の声(わたし今日もかわいいな~)を勝手にアフレコしている。

わたしには車が必要だ。
車で会社に行き,仕事が終わってスーパーに寄っていくという,至極一般的な平日をわたしはイメージできない。土曜日に「わ」ナンバーの日産ノートでどこか気晴らしの旅に行くのとはわけが違うし。マイカーとレンタカーでは何もかもが別。あこがれのマイカー。想像の向こう。

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