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9/22~練習

9/22

 買い物をしたり買うものを見つけるためにふらふら歩いているときに何か書くきっかけが現れたりするので、たいして必要もないものを毎週買い、そのおかげで金はいつもない。意志がない消費者それがわたし。現代の人間は一生何かを買い続けて何も残さずに死ぬ。グリーンティーの粉末なんかいるか?苺のホワイトチョコがけもいるか?その靴下は持ってないか?まあ歯ブラシは買っといてもいいな。200円だし。わたしと同じように歯ブラシコーナーの前に突っ立ってなにも考えずに携帯をスクロールしている男がいる。携帯とともにスクロールしているから微妙にゆらゆら揺れている。半歩歩いた際に発生する波動だけでその男をのけぞらせる。おい腑抜け本当に歯ブラシを求めているのはわたしだ。どけどけ。ものを買うだけの人間は本当に買いたいものを生涯見つけることはない。コンビニのカップ麺はこれからますます唐辛子とニンニクの粉末を大量に添加しているから商品棚が占める赤色の比率が高く高くなっていく。そのなかで本当に欲しかったものを思い出せるか?しばらくすれば寒くなって味噌味のものばかりになる。これ美味しそうかもつって虚無味噌味のカップ麺を購入。食品メーカーは生産ラインから虚無唐辛子粉末と虚無ニンニク粉末を抜いて虚無味噌粉末をトッピングするだけ。今日は山札から5枚商品をドローしたが気の利いた書き出しは集まらなかった。ただ本当に苺のホワイトチョコがけは要らない。

9/23

 富山にある魚津埋没林博物館と、相模湖のほとりにある桟橋のことを考えている。どちらもわたしにとって特別な場所だ。それぞれ一度しか訪れたことはないが、これから何度も思い出し、おそらく何度も訪れることになる。
 わたしにとって水辺とは何か特別な場所なようで、昔から静かな水辺にいると珍しい気持ちになった。心がざわざわする。ざわざわするが、根本の部分は落ち着き払っている。宙ぶらりんの心持ちになって、あらゆる感覚を手離したくなる衝動がある。実際上で並べた2つの場所でわたしは時間を忘れてただただ佇んでいた。音楽を聴いたり本のページを繰ったりしてみたがすぐにそれもやめて、目を半分閉じて水の動きを肯定していた。あまり視覚や聴覚は機能せずに、ただ水の周期的な波紋がイメージになって投射されていた。こういうことを書きたいんだと思う。そう、こういうことが書きたい。
 10年前の深夜家を抜け出して河口まで行った。河口は引潮が止まりきった状態で膠着していた。工場の煙突に取り付けられたランプが反射していた。橙・オレンジ・黄色。大きな魚の背鰭が水の膜を切り分けて進み光が怪しくなった。その瞬間取り憑かれたようにも思われる。

9/28

 相模湖駅を降りてからバスに乗ってお目当てのフランス料理屋に向かう途中にさがみ湖リゾートフォレストという遊園地のような施設があって、駅から乗り合った客はほとんどがその前のバス停で降りて行った。バブル期に作られたようなペンキの禿げたその遊園施設の看板を尻目に山道をもう少し入ったところにある絶品の欧風レストランで仔羊とパスタを食ったあと、オーナーの頑固そうな爺さんに名刺をもらって再び相模湖の方面へと出発した。便が少ないのでコンビニでしばらく暇を潰した。待っている間にミニバンでさっきの爺さんがきた。まだランチの時間だというのに、もう店を閉めて、夜の分を仕入れに行くらしい。わたしはこの爺さんをとても気に入った。家族連れでランチに来た客を入り口で追い払っていたというのもある。予約もなしに当日来た客を追い返すというならばわたしはなぜここで極上のクスクスを食えたのか知らないが、まあ、気まぐれだろう。
 帰り道、先程のさがみ湖リゾートフォレストから帰ってきた客が大量に乗ってきた。それはそれはたくさんいて、田舎の路線バスはぎゅうぎゅう詰めになった。それを予見せずに最後方の座席にいたのだから運が悪い。驚くことに乗ってきた家族づれの全員が感嘆すべき不細工だった。美味いランチを食ったあとでなかったら絶叫するほど醜い家族ばかりだった。一緒にいた女友達にそれを伝えるとそいつもそれに同意していた。我々の隣にはひどく腫れぼったい瞼をふたつこさえた女子が座ってきて、小便くささにむせそうになった。そいつを孕ませた父親は最悪のカッターシャツに最悪のバックパックを抱え、指紋のついた眼鏡をかけていた。母親はいうまでもない。さっきの爺さんが見たら銃殺ものだろう。
 だが最も悲劇的なのはそいつらが相模湖には抜群に美味いフランス料理屋や、そもそも相模湖自体かなり魅惑的な場所が多くあることを知りもせず調べようともせずに、ただ休日を家族で過ごすためによくわからないレジャー施設に足を絡め取られ大切な時間を蔑ろにし、挙げ句の果てには帰りのバスで同じような不細工どもと酸欠で共倒れ寸前という状況に自ら陥っていることだ。
 ”すし詰めのスキー列車や、イモを洗うような海水浴場や、「チンジャラジャラ」とやかましい騒音の充満しているパチンコ屋などに、ほんとうの欲望の解放など、あるわけがないのです。そこにあるのは、労働の苦痛を忘れるための、ゆがめられた開放のイメージだけです。”と書いたのは澁澤龍彦だが、わたしはここに、さがみ湖レジャーフォレストも追加するべきだ。と大いに思う。我々はその後相模湖のほとりにある桟橋を進んだ先の筏に置かれたソファに座ってワカサギ釣りの様子や潮を吹くクジラボートを眺めながらクラフトビールをいただいた。こんな千円札数枚で済むような些細な快楽でさえあのバスに充満していた不幸者には想像することも実践することもできない。不細工な旦那が言うだろう。うちの子供はどうするんだと。そんなものはドッグランで犬と一緒に走らせておけとあのひねくれた爺さんは鉄鍋を振りながらいうだろう。あるいは若き頃の村上龍にやはり銃殺してもらうしかない。

9/29

 ケンタッキーによると毎月の28日は”ニワ”トリの日と冠されていて、チキンとフライドポテトが安く買えるらしい。その日は同居人がチキンを買ってきてくれて、一緒に食う。今日は夜更けに彼を起こさないようにして台所までネズミのように背をかがめて這っていき、冷蔵庫からチキンを取り出し、温めようとした。レンジはあのクソでかい音で調理を開始するものだから努力も虚しく起こしてしまったに違いない。規定のあたため時間が終わると同じくけたたましい音でブザー音が鳴り響くのでその1秒前で取り消しボタンを押し(これで結局うるさい取り消し完了音が出る)、サントリーの強い酒と一緒に自室に戻る。夜更けに無茶をして食べるこってりした鶏の皮と胸肉の味はもちろんうまい。小冒険を果たしたあとでなおさらうまい。味覚の豊富さと言った点ではお粗末でただただ機械油の匂いと鶏油のドロドロした塊が喉をコーティングしていく。同時に睡眠薬と安定剤をそっと懐に忍ばせ酒で飲み下す。極上のふりかけ。そのあとタバコを吸って適当に棚から選んだ文庫本を取り出す。快楽の質としてはお粗末だが、これが限界で、同居人には感謝のほかない。

10/12

 女友達はアバズレばかり。アバズレは口が大きい。口が大きいから隣あった鼻が小さく見えるが鼻は普通。明るいアバズレと暗いアバズレがいるが口の大きさに関してはどちらも共通。

 明るいアバズレは大きい口でサーロインをふたくちぶん捉え、血とソースと肉汁を唇の端に止めるのが得意。そのあと炭酸入りの酒をがばがば飲む。次にはサーロイン由来の汁は消えている。暗いアバズレは昼に素麺を作り、夜は帰りにラーメンを啜る。大きい口のもったいない使い方。唾液が出ている。

 口が大きい女はどうしてなぜだかパルコとかHMVとか深夜バスの待合室に多くて、それらはアバズレだ。普通の口よりサイズが一回り大きいというだけで、唇が分厚いわけではない。また前歯が飛び出していたりして全体のバランスが著しく損なわれているのも珍しく、ただ目立つな、という印象を与える。明るいアバズレはおしゃべりだから特に目立つ。喋らない方のは、それはそれで妙な存在感がある。

 大きいね!なにが?あなたの口だよ!という会話はよくある。自分の顔なのにはじめて言われたし、今気づいたなという反応が多い。目の周辺や前髪に細心の注意をはらって化粧をすることがほとんどで、口への関心はまあ今日の相手は暗いカザノヴァみたいなやつだしそういう色を塗っておくかと変な色のリップクリームを塗るくらいだ。暗いカザノヴァは変な色のリップクリームが大好き。

練習

 大学でできた彼女を湖に連れて行ったこともある。ほとりの南欧料理屋でランチをした。そこの店は仔羊のクスクスが美味いからそれをすすめた。肩の肉は特に柔くて繊維の隙間から溢れてくる肉汁が舌の上でクスクスと混ざり合うときに恍惚、といった気持ちになる。分厚い茄子が肉とワインのソースにたっぷり浸かっているのでいける。わたしはここ以外で茄子を食べない。茄子が嫌いだからだ。茄子って、ぐじゅぐじゅしてるだろ?
 羊の肉を食べると獣の毛皮の匂いがむわっと香ってきて、祖先の記憶が蘇る。はるか昔モンゴル平野を2本の手綱で駆け巡り、戦争をし、敵の首を剥ぎちぎり、ゲルの中でラムの背脂入りそばを家族と囲んだはるか遠い日のことを思い出す。わたしはいつか蒙古の民だった。羊の肉が好きだし、羊のことがけっこう好きだ。
  「2人で仔羊の腕肉を分けよう。あとはパスタももちろんうまい。ヒヨちゃんはイカスミで真っ黒いパスタ食べたことある?」
  「ないわ」
  「ならそれにしな」
  「ケルくんは?」
  「わたしはクリームソースとアスパラにする」
  「好きなの?アスパラ」
  「あまり好きじゃないよ」
  「どうしてじゃあ?」
  「このお店はなんでもうまいから」
 薄い緑のカーテンを入口から順番に開けているオーナーをちらと見る。会話には興味がない様子だった。 
  「ケルくんって楽しい。おしゃれなお店たくさん知ってるから」
  「喜んでくれてよかった」
  「ねえ、いつもどうやって見つけてるの?」
  「インターネットだよ」
  「インターネット?」
  「インターネットでもなんでも、探し方にこつがあるんだよ」
  「こつってどんなこつ?」
  「まず時間をかけること」
 ヒヨコちゃんはなんでも質問をする女だった。返答としては不適切なことをいっても怪訝な顔はしない。質問に相手が答えてくれれば満足なのだろう。

練習

 ヒヨコちゃんはなんでも質問をする女だった。返答としては不適切なことをいっても怪訝な顔はしない。質問に相手が答えてくれれば満足なのだろう。
 2人が座っている窓側の席は、峠を抜けていく乗用車や、競技用バイクの集団を映していた。天気がそぞろにしとしとしてきた。車が一台店の敷地に停まった。子どもが先に降りて、そのあと若い夫婦が揃ってやってきた。淡いスカーフを巻いた女がこちらを捉える。結局その家族は予約の電話を入れていなかったからぶっきらぼうなオーナーに入り口で突き返されていた。来たときと同じ歩幅で子どもが車の方へ帰り、夫婦がそれに続いた。都会的な態度を感じた。少し湖の方へ戻るとカレー屋がある。その家族はおそらくそこでバターチキンカレーを食べるのだと思った。子どもはラッシーを飲むだろう。スカーフを巻いた女はマンゴーラッシーかも。

 店の客はヒヨコちゃんとわたしだけだった。

 ヒヨコちゃんは少し食べ方が汚い。言い方を変えれば、粗く早く料理を食べる。大きな口の両端にイカスミが黒々と残っていた。ヒヨコちゃんはあの皿とこの皿とあちらの皿を行き来して食事をしない。自分の手前にサーブされた皿から食べる。甘栗みたいなとろとろした顔が食事の時間だけは少し強張った顔になる。この女はいまのようにパスタをそれぞれオーダーしたとして、互いのものをそれぞれ取り皿に分けて、交換し、相手のものの味を褒めたりしない。相手の注文に間違いがなかったことを保証するような顔をやらない。それどころかちょっと君のも味見させてよなんていうと嫌がる。

 わたしもちっとも欲しくない。

「カニを食べたよねこの前。カニの話していいか」
「いいよ。なんでわざわざ聞くの?」
「飯を食べてるときほかの飯の話するのはちょっと懸念があるから」
「気にしないよ」
「わたしはヒヨちゃんみたいな女の子とカニを食べるのが大好きなんだ」
「一点マイナスだよ。わたしといるとき別の女の人の話するの」
「いま言ったか」
「言った」
「言ったかもね。もうしません。ヒヨちゃんがカニを食べるのを見るのが好き」
「ヒヨちゃんの丸くて小さい手が、グロテスクめな甲殻類の関節を逆向きに捻ることに興味がある」
「関節が逆向きに折れるまで、手はまるで容赦ない。少しどきっともする。でもね、その瞬間のヒヨちゃんの顔が実はもっと素敵で、とても素敵だ」
「どんな顔なの」
「冷たいんだ。とても」

 それは冷たくてセクシーだった。今度はこの女にロブスターを食わせよう!まるでアイスピックだ。痛みを持たない哀れな甲殻類の、グズグズに固まった自意識の外殻を無慈悲に貫く。触覚が痙攣している。もう一度刺す。亀裂が広がりきっかけにして無防備な肉質が露出する。ヒヨコちゃんは氷の顔に肉を近づける。そして間髪を入れずして口へ入れる。彼女の口は大きい。まだイカスミがついている。

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