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9/8~9-14


9/8
カミュの『幸福な死』の137ページに、「精神のない美のなかには、なにか神々しいところがある。」という一節があって、主人公が恋人の屈託のない美しさを評した文章である。

 カミュはここで、いわゆる白痴の美学を語っているのだと思う。ただただ美しい女性が、それを鼻にかけた態度をとったり、そのために悩みを作ったり、美的崇拝の対象にあたる自分を客観視することなく、太陽のように周囲に慈しみを振りまいているとき、彼女は知性をのぞかせることなく美しいのだと。

 坂口安吾の『白痴』もそのことを描いているのだと思う。白痴に登場するヒロインには内面の深みがなくて、主人公は彼女たちの姿形の美しさのみによって人生を変えられているようにも見える。

 カミュと安吾に共通しているのは、徹底的にリアリストであるということ、はやくから近代的個人主義に根ざしていたということだ。それぞれの作品に登場する主人公たちは神を信じていないが、突如目の前にヒロインや太陽があらわれる。天災のように。主人公の理性は神の代替物としてのそれらに破壊される。



9/9
  山形県内唯一の百貨店、大沼は2020年1月29日に閉店した。大沼は松坂屋、三越に次ぐ日本で3番目に古い百貨店で、創業は1700年だった。現在山形市の中心市街地にあたる七日町で荒物屋を開いたのが歴史の始まりだった。

 2017年には、大沼は4期連続の赤字に陥っていて、全国の百貨店の経営再建を手がける投資企業のMTM(マイルストーン・ターンアラウンド・マネジメント)から経営支援を受けることを発表した。しかしその後支援資金が思うように集まらず、MTMから再び経営権を地元の実業家へ取り戻したものの、状況は好転することなく、2020年1月26日に破産宣言並びに同日以降の閉店を発表した。これにより、大沼は江戸時代以降300年続いた歴史に幕を下ろすことになった。

 同年の12月には山形市都市振興公社が大沼の土地・建物の競売に参加し、3億で落札した。今後は山形市と公社が連携して土地の商業機能の再生を目指しながら、耐震性を満たしていない旧大沼の建物をどう改築していくのかが問題となってくる。山形市では老舗商店や歴史的建造物が取り壊され、跡地がマンション開発に利用される事例が相次いでいたが、市は大沼の跡地に商業機能を維持するために急遽取得した形になる。



9/10
  とはいうものの、私小説的なものをこれ以上読みたくないし、書くなんて絶対嫌だ。どんなブログ書いてるの?と聞かれたらエッセイみたいな感じだよと誤魔化しているが、わたしのブログはまごうことなき私小説の真似をしているし、私小説について何か知見がある人はちゃんとそれが古臭いやり方だと見抜いている。いま、だれが私小説なんか読みたいんだろう。それに、ブログで私小説ごっこをする悲しさといったら。

 私小説はたしかに異性誘引には満足のいく効果をもたらした。ブログを書いたおかげでたくさんの女たちと寝ることができた。あるいは少ない友人もできた。彼らはわたしの物語になりたかったのかもしれない。彼らはおそらく、まともな小説を読んでいない。わたしがなにか物語を語っていると勘違いしていて、そのためになにか車酔いのような状態になっていたのかもしれない。

 自分語りは即刻やめたほうがいい。わたしも君もだ。ちゃんと文章と真摯に向き合うべきだと思う。



9/11
 町田康の『くっすん大黒』を読む。いい本だった。本はカフェでゲラゲラ笑いながら読むのがいい。くっすん大黒はかなり笑えた。やはり文学をせせら笑ったような小説は大好きだ。全く読書とはいい娯楽だと思う。

 秋も春も嫌いだが、秋の方がより嫌いだ。なんだかいけすかない奴らが秋を叙情的にのたまったことをこれみよがしに喋るからだ。秋は人間にとってちょうどいい外気温であるからして、こういった夏や冬ではくたばってしまってろくに喋りもできない軟弱者たちを野放図にしてしまうのだ。

 わたしは夏が好きだ。夏は太陽が一番眩しく熱いからだ。太陽が好きなだけだ。
それに比べて秋になると途端にむくっと起きやがってうるさい声でこちらに向かってくるバカどもはなんなんだろう。奴らは秋のことをなんか奥ゆかしい寂しそうな言葉でいうが、結局厚顔無恥で破廉恥ともいえるやつらを好き勝手にさせておるのは秋のなんともいえないだらしなさが招いたことだから、秋は決してきれいな季節ではない。太陽のことを信じなさい。



9/12 
 高田馬場にある羊蝎子という中国料理屋がお気に入りだ。もともとは隆一くんに教えてもらった。羊蝎子という店名をすらすら発音できる日本人は少ないだろうから説明すると、羊蝎子は「ヤンシェズ」と読んで、羊の背骨という意味だ。そして蝎は、サソリという意味だ。なぜ蠍かということも教えて欲しいなら教えてあげる。羊の背骨は上から見るとさまざまな方向に細く角ばっていてサソリみたいだからだ。たっぷりの羊の背骨を煮込んだ火鍋がここの看板料理だ。

 たまに羊のことを考えるとじゅるじゅるによだれが出てくる。とにかく羊のことに関しては腹が減る。胡椒とクミンをまぶしたラムの串焼き、黒い油がタジン鍋の斜面をドロドロと降っていくジンギスカン、ただ臭いだけのマトン入りラーメン。そして羊蝎子の火鍋。

 どんな料理でもいいが、羊の肉を噛み締めると、肉繊維の奥の方から獣の毛皮の匂いがむわっと香ってくる。それを肉汁と一緒に啜り、吸う。はるか昔モンゴル平野を馬に乗って駆け、ゲルの中で煮込んだ羊の背脂いりそばを家族と囲んだ日のことを思い出す。わたしはいつかモンゴル人だった。羊の肉は好きだし、羊のことがけっこう好きだ。



9/13
 最近はアドビを頑張っている。アドビ、アドビ、インデザ、イラレ、アドビ、倉庫作業、出荷、ロイホでランチ(社長の奢り)、アドビ、あとはひたすら校正が続く。

 本物の素人なのでまず長方形が作れない。枠の真ん中に縦:横=2:3くらいの四角形を配置させたいのだが、線を引こうとするとダイレクト選択ツールのままだったので枠自体を動かしてしまう。

 塗りと線というものをわかっていないから突然画面が巨大な真っ黒になって慌ててすべて削除し、慌てて最初に戻ろうとするもctrl+zとかそういうのも分かっておらず、じゃああんたは大学でなにを教わってきたんだと、少なくともctrl+zでひとつ前の操作にバックできることに関しては教わっていませんと、それ以外ならだいたい知っているが......と言いたげに上司の横であわあわしている。

 それが1ヶ月前くらいだ。

 仕事しているとき以外はコメダでアイスクリームに蜂蜜をかけているかコインゲームをしている。中学の担任がいいかガキども殺人と放火だけはせんほうがええぞと言ってた。わたしは人を殺して屋上を焼け焦げにして、長方形ひとつ作れない。三角形にいたってはもう勝手が分からん。

 多角形ツールを選択して、辺の数を選ぶと、好きな図形を組める。



9/14
 10年前はうごくメモ帳というソフトが流行っていた。そのすこし前にWi-Fiという無線通信技術が一気に普及して、DSのような携帯ゲーム機でインターネット通信を楽しめるようになった。

 うごくメモ帳は任天堂が パラパラ漫画を作ってみんなでシェアしてね みたいな目的でリリースしたソフトで、わたしたちはWi-Fiのおかげで世界中のユーザーが作ったコマ送りの動画を閲覧したり、自身のメモをポストしたり、お気に入りのチャンネルを保存して共通の趣味で盛り上がったりすることができた。これらはすべてほぼ革命に等しい通信技術の高速化と低コスト化によるものだった。地方都市で暮らす子どもたちは自分たちの街の外に、同じような子どもたちが無数に生活している場所があることをネット回線に乗って垣間見ることになり、ネット回線の普及は再構築が繰り返される物流システムの最終段階へ突入していった。

 都市間のモノ移動が先鋭化していくプロセスを「街道と船運の時代」→「汽車と列車の時代」→「バイパス道路の時代」→「高速道路の時代」の4段階に分類する。https://www.dir.co.jp/report/consulting/reg-revitalization/20151016_010222.pdf

 それから「インターネットの時代」がやってきた。インターネットの時代は従来のモノの移動方式のどれとも違っていてどれよりも速く、モノの渡し手と受け取り手は原則物理的な移動を必要としなかった。

 わたしの家にバッファロー社のルーターが設置された日に、わたしはアメリカのガキ、スペインのガキ、韓国のガキとマリオカートDSで遊んでいた。8キャラクターのうち半数以上はいつも日本国旗を掲げたユーザーで、日本人はとても強かった。わたしはカロンを選択していて、まったくレースには歯が立たなかった。当時のルーターはまだ通信が途切れ途切れで、マリオカートのようにフレーム単位で状況が変化するレースゲームには不向きだった。

 それからポケモンもやっていた。もちろんやりまくっていた。オーストラリアはサウスウェールズ州のクソガキに改造データのレックウザをもらった。ポケットモンスターダイヤモンド/パールのグローバル通信交換は違法パッチで量産されたでんせつポケモンの交換が横行していて、当時はいろちがいのガブリアスやラスターカノンを覚えたゴウカザルなんかがBOXにたくさんいた。とにかくあり得ないほど未知の情報が氾濫していて、その上澄み分だけでもわたしの終わってる田舎なんかでは窒息するほどの混沌だった。

 亀井くんが大阪から同じクラスに引っ越してきたのは6年生の春だった。西の方からやってきたほかの子と違って関西弁を全然使わない男の子で、ひどいニキビづらだった。都会からやってきた子どもだけに向けられるどこかまぶしい視線が1週間ほど乱反射したあと、教室のエントロピーは柔軟に小康状態へと揺り戻され、亀井くんのポジションも落ち着こうしていた。つまり彼は目立たないオタクだった。

 亀井くんのアパートに行ったのは何故だったか忘れたし、わたしのほかに何人いたかどうでもいいけど、とにかく夏休みが始まる前に彼の家へ遊びにいった。両親は働いていて、妹がリビングにいたような気がする。たしか全然可愛くなかった。それぞれがみな第二次性徴の前段階にいるのだから、赤の他人の妹を可愛いと思うわけもない。ましてやここは山口県なのだ。

 わたしたちはDSiを各々のポーチから取り出して遊んでいた。DSiは任天堂が本格的なインターネットの時代の到来に向けて開発したハードで、当時のすべての子どもが持っていた。亀井くんはそのときうごくメモ帳を開いていた。

 なにやってるの 亀井くんの画面を覗いた。彼のアカウントが表示されていた。そのアカウントをわたしは前から知っていた。それに、その場にいた誰もがそれを知っていた。付け加えていうと、クラスの全員が彼のアカウントを知っていただろうし、皆さんもきっと見たことがあるだろう。なぜなら当時の子どもは全員DSiを持っていて全員うごくメモ帳で遊んでいたからだ。彼はそれくらい有名なメモ動画のクリエイターだった。

 白くて丸い頭の棒人間たちが黒くて丸い頭の棒人間たちと戦ったり、白くて丸い頭の棒人間が世界を冒険する長い動画(動画?パラパラ漫画?うごくメモ帳ってどんなメディアだったっけ。ただうごくメモ帳が最初期のSNSだったことは間違いない。)が人気のコンテンツで、彼はそのコンテンツで最も有名な作者だった。

 亀井くんは目立たない内気なオタクだったし、それをひけらかしたりするような態度はとらなかった。それでもその日から彼は学校の狭い範囲でヒーローになって、わたしは彼の家によく行くようになった。
 :わたしや彼はにちゃんねるのような匿名掲示板に疎かった。彼はインターネットで不特定多数から注目を集めるということに対して、うまく実感が持てなかったのだろう。もっとも10年も前のことで、それは仕方のないことだ。

 中学にあがってから彼とはまったく話さなくなって、彼に対する興味も失せた。それは通信技術のレベルがさらに一気に高度になったからで、その頃にはDSなんかしなくなっていた。iPhoneが発売されたからだ。読み込みに何分もかかるポルノサイトをDSiで閲覧するなんて馬鹿馬鹿しい。

 だが、それまでの短い時間でわたしはとにかく亀井くんからインターネットのことを吸収した。棒人間動画の作り方も教えてもらった。わたしも作って投稿した。同じようなクソ田舎に住んでいる同世代の子どもと仲良くなって、ネット恋愛もした。 

 ネット恋愛!ネット恋愛を経験したことがないやつは退屈だ。亀井くんはひどいニキビづらの暗いオタクだったけどインターネットではみんな彼の作品を知っていて、彼は一流のクリエイターのようにみえた。棒人間を1分間なめらかに動かすのに何週間もかかることを知った。パラパラ漫画の要領で、キャラクターの関節をわずかづつ動かすのだ。わたしにはまるで関節の場所がわからなかった。彼は白丸に短い棒がついただけのオブジェクトをまるで本物の人間のように動かすことができた。

 骨の硬さと、関節の可動域を知っていたのだ。

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