魔の6月

一緒に働いてる先輩のお母さんが亡くなったようだ。しばらくお休みをもらうことを詫びるメッセージがグループトークに送られ、それは返信不要の文字で締めくくられていた。

しばらくしてから個人的にメッセージが送られてきた。直近の日曜出勤の代打がわたしになったのを上司から聞いたとのこと。そこでも彼女はわたしに詫びた。せっかくの日曜にごめんなさいと。

こういうときになんて言葉をかけたらいいか分からない。ひとまずお悔やみと、前もって準備できることでもないから人に頼らざるをえないことに引け目や負い目を感じないように、と送った。

そこで思い出した、そうか6月か。

人がひとり亡くなるというのは本当に大変なことだ。今まで見てきたもの、聞いてきたもの、そこから生まれたもの、空間も時間も人も、膨大な情報がその量とは決して見合わない小さなたんぱく質の器に閉じ込めてある。それがあるときこの世から消えてしまう。正確に言うと生きてる人たちが消してしまう。

火で燃やすというのは保健衛生上の点でももちろんのこと、精神衛生上の点でもとてもよい。身近な人であればあるほど、ふとしたときに呼吸を再開するんじゃないかと、触ればそのうち温かくなるんじゃないかと期待していつまでもいつまでもそばで眺めてしまう。燃やして灰にしてしまえばさすがにこりゃもう無理だ、戻ってこれないな、そしてこの状態にわたしたちがしたんだと諦めがつく。

火の力はすごい、なにかあったときの選択肢のうちのひとつにしようといつも思ってる。

身近な人の死を悲しんでるとき、こんな思いをしたのは世界で自分しかいないと思う。こういう思い出があって、こういう言葉をもらって、そこからこういう感情が生まれて、それらを失った。自分は世界で唯一の悲しみに暮れていると思う。

世の中にはそこから立ち直った人たちと、その人たちの言葉がたくさんある。みんなが口を揃えて言う、時間が慰めてくれたと。それが認められない。陳腐だと思う。自分は世界で唯一の悲しみに暮れてるんだからそんな手垢のついた言葉で慰められるか、と本気で思う。

ただでさえ身近な人を失ったのに、そんな考えでどんどんひとりぼっちになっていく感じがする。当たり前だ、世界で唯一の悲しみに暮れてるんだから。そのうちなにが悲しいのかもよくわからなくなる、ただきっかけが人の死だったということだけは覚えてるからあの人が死んで悲しいんだとしか言えなくなる。

しばらくすると1分思い出さない時間があったな、と気付くときがくる。それが30分になって1時間になって半日になって1日になっていく。そのうち1週間1ヶ月1年と過ぎていくんだと思う。新しいことがどんどん上から重なっていって思い出は深いところに沈んでいく。取り出さなければ見えなくなっていく。

これ以上の詳しいことはもう忘れてしまった。聞かれても答えられない。考えてたら悲しいから思い出さないようにしてたらもう思い出し方を忘れてしまった。引き出しの中身がなくなったわけではないけど、その引き出しの取っ手がとれてしまって開けられなくなってしまった。

本当によかったと心から思う。

たまに何かの拍子に勝手に引き出しが開いてしまうことはあるけど、すぐ戻るようになった。そのうち立て付けが悪くなって一生開かなくなればいいとすら思う。