原点回帰の迂回路

死んだ曾祖父が夢に出てきた。

夢に出てきたのは母方の曾祖父、わたしの母親はとにかくこの曾祖父が今でも大好きで、彼女がする幸福な幼少期の話にはいつも彼が登場する。どんな話をしても最後は必ず「じいちゃんは本当に優しくて、たくさん可愛がってくれて、わたしはじいちゃんが大好きだった」で締めくくられる。

以下、呼称として彼のことはじいちゃんとします。夢の内容はこうだ。

どこの家だかはわからない、古いお屋敷みたいなところにいて、家族は床で雑魚寝をしてた。わたしは何となく暇で、探索でもしてやろうと目の前にあった茶色いドアを開けたらその部屋にあるソファーの上にじいちゃんがちょこんと座ってた。

わ~~じいちゃん~~!!と言いながら近寄るとじいちゃんはニコッと笑った。

夢の中でじいちゃんはすでに死んでいて、目の前にいるのは幽霊だということはわかっていた。そしてどうやら地縛霊よろしく自分ではその場から動けないらしいことも何となく理解できた。

せっかくだから外の景色でも見ない?と提案したらすごく嬉しそうにニコッと笑ってくれたので手を引いて窓の近くに行こうとした。少しだけ手応えがあって、紐に括られた風船を引いているようだった。

窓の近くに行く途中、雑魚寝してる家族を跨いだんだけど、あれほど可愛がった孫(わたしの母親)には目もくれず外の景色に胸を躍らせてる表情をするじいちゃんを見て、ああ一度死んだら大切にしてたとか可愛がったとかいうしがらみに似たものも全部なくなって、ただ自分の目の前にあるものだけに目を輝かせることができるんだと思った。

それが心底羨ましくて、楽しそうに窓から景色を眺めるじいちゃんの背中を見ながらわんわん泣いた。というところで目が覚めた。

この夢の話は母親にはしなかった。

一度手にしてしまったもの、そこから生まれる感情は本当にこわい。それに、たとえばそれを失ったとしても、似たものが人生を横切ると得たときの喜びを思い出して追いかけてしまう、手に入れば今度は失ったときの悲しみを思い出して勝手に不安になる。その繰り返しだ。

集めるものの結末をハッピーエンドに限定したいけど、終わりを確定できるのは死ぬときだけだと思ってるから今あるものが出来るだけハッピーエンドで終わるよう早めに死んでしまいたいと思う。

知る悲しみについてひとつの答えを出してる人がいた。

一度知ってしまったらもう知らなかった頃には戻れない、本にせよスーツにせよシガーにせよ、別になくても生きていけるが一度知ってしまったらそれなしの人生など考えられなくなる、つまり知ることは深い悲しみをもたらす、より多くを、より良いものを知ってしまったがために当たり前の日常に感動できなくなる、それでも知らぬ平穏より知る悲しみのある人生のほうが高級だ、という内容だった。

完全無欠の美しい話だと思う。苦味や辛味を趣として、これらがある人生を高級だと捉えられたらどんなにいいだろう。それを主体の味としない賢さ、それらを構成要素のひとつとして違和感なく迎え入れる度量がわたしにあったなら、それすらも良いものと思えたなら、世の中のいろんなことが自分にとって必要なものだと心から思えるだろう。もしかしたら不快だとか余分だとか思ってたものに価値を見出だしたとき、自分の存在も誰かにとって同様のものであるという思い上がりも生まれるかもしれない。

そのためにはやっぱりいろんなことを知らなければいけないと思う。知る悲しみのある高級な人生を認知するために学ぼう、そこから得た知識でさらに深い悲しみを知り、さらにそれを理解するために深く学ぼう。

そうして知ることに縛られて身動きがとれなくなってしまえば、滅多なこともやらずに済むかもしれない。頭の環境を薬で整えるより頭の悪い部分をなにかに縛りつけておくほうがよっぽど効くような気がする。物理は強い。

最近心から未来の話が出来るようになった。本当によかった。生きてればいいことがあるから生きようなんてふうには思えないけど、どうせ死なずに生きていかなきゃいけないんだったらこれでよかったと本当に思える。

結末にするならこんな最後がいいと思う。

やっぱり今死んどいたほうがいい気がしてきた。