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1-3 突然の変化

 物心ついた2、3歳から小学校時代は、父からの暴力と外の世界への緊張で心の中は暗黒。父の暴力のことは、決して口にしてはいけないこととして、家族で話題に出ることは一切なく、母も父の怒りがおさまった頃に、冷たいタオルを持ってきてくれたが、何も言葉は出なかった。母も何も言わず、私も何も言わない。そこに私も、なんの疑問も持たなかった。当然のように耐え、誰かに守ってもらえるなんて想像すらできなかった。年子の妹も同じ目に遭っているから、彼女のことを心配したりしてた。よく鼻血を出していたから。血が出ているのを見ると、すごくひどいことが起こっていると実感せざるを得ない。妹と「痛い」「怖い」「あれはひどい」なんて言葉さえ交わせなかった。あの時期のことを二人で回想できるようになったのは、三十代後半になってから。それくらい辛かったのに、そのひどい出来事は、誰にも言えず、なんなら近所や友人にも絶対にバレないようにしていたくらい。悔しいけど、父を守りたかったんだね。母のことも。それでも日常は、何もなかったかのように静かにできるだけお利口さんに過ごしていた。母がボランティアをやっていて、私もそこについて行くのが楽しみだった。大人びていたけれど、まだ小学生の私が老人ホームに行くと、泣いて喜ばれた。顔を見せるだけで。母はいつものように、誰にでもそうだけど、献身的にボランティアをしていて、私も自然とそこでできることをするようになった。何年も通った。ボランティアなんてかっこいいけど、私も母も、お年寄りに癒されていたのだと思う。あんなに喜ばれることなんて、日常生活では感じられづらかったから。しわくちゃの手をさすりながら、お話を聞いたりするのは、幸せだった。血の繋がりがないのに、人生の最期の時を少し一緒に過ごせることは、なんてすごいことなんだろうと思った。母も霊感が強いから、よくお世話していたお年寄りがあの世に還る時に、母のところに寄ってご挨拶してくれるそうで、母が当たり前のように「◯◯さんが来た。昨夜、あの世に還ったよ」と報告してくれた。実際の家族メンバーだけではない方々の還りを私も一緒に見送った感覚があるからか、あの世に還る人を見送ったことがいっぱいあるという感覚はこの時期の経験かもしれない。人のために何かするのは、自分のためになる方が圧倒的に大きい。それもこの時期に学んだこと。今でも、しわくちゃの優しい手と涙しながら喜んでくれたおばあちゃんたちの顔が浮かび、懐かしく優しい気持ちが込み上げてくる。私にとって、それはまさしく救いだった。
 そんな葛藤しながらも、現実的には、できることを静かにしていた私に突然、変化が起こったのは、小学校5年生の頃。私の住んでいるところは、子供会が二つの学区にまたがっていた。同じ子供会なのに学校が違う人と一緒に活動する。子供会では、高学年になると役員になり、会を運営していく。お母さんたちで構成された育成会のサポートを受けて、協力して、たくさんの行事があった時代。5年生になった時に、なぜか私が役員になった。その活動は、違う学校の新しい友人との出会いもあり、私も楽しかった。毎年行っている行事をもっと楽しいものにするために、いろいろ工夫したり、みんなで協力することが新鮮だった。お母さんたちとの関わりも興味深く、いろんな家庭があるのだと知った。お母さんたちには、とても可愛がってもらった。同級生と話すより、お母さんたちとの方が話が合ったような気がした。翌年には、子供会の会長もした。1年生から6年生まで、しかも違う学校の人々と関わって、たくさんの刺激とやりがいを感じた。私のやりたいことはなんでもやらせてくれた。地域を超えて、研修などにも行かせてくれて、他校との児童やボランティアの中高生との関わりも楽しかった。その2年で、すっかりその周囲の人には、会を積極的に運営できる人としてみられるようになった。それでも、私の心は自分のことを「目立たない人」という認識が消えなかった。しつこい。
 中学は、私の小学校からほんのわずかしか行かず、これも学区の関係なのだけど、ほとんどが新しいメンバー。それが私にはよかった。誰も私を知らないし、このまま静かに目立たず過ごそうと思っていた。ところが、夏休み明けの弁論大会で、学年1位になってしまった。その題材は、私がずっと通っていた老人ホームでのお年寄りとの交流について書いたもの。まるであの時のおばあちゃんたちが、私を応援してくれるような気がした。一学年に9クラスもあるマンモス校で一気に知られてしまい、毎年、弁論大会では選出され、外部の大会にも出場した。一年の後期から学級委員もすることになった。それからずっと学級委員、生徒会、部活でも部長となり、すっかりリーダー役が定番となってしまう。とにかく家には居たくないから、学校の仕事が増えることは超ウエルカム!学校はヘブン!中学校が荒れている時代だったけど、私にとっては天国。学校にいられる用事が増えれば、家に帰る時間が遅くなっても叱られない。家と学校を比べることもできないほど、学校が好きだった。できることがある。そして、学校行事でも、今までやっていないことにチャレンジする先生との出会いがあり、ゼロから作り上げていく楽しさや喜びもたくさんあった。勉強は、父が成績のことで怒りまくらないような成績を取るためにしていた。家は牢屋みたいで、学校だけは特別に許された娑婆だった。それはもう楽しかった。牢獄の時代だったけど、喜びもたくさんあった。出会いに恵まれた。私はずっと出会いに救われ続けた。

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