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私の3.11

何気ない日常がどんなに幸せなのか。日々の些細な小さな営みが、どれほど人生の根幹を成すことなのかと強く思う。日常のことは、普段はあまりに当たり前すぎて気づかずに流してしまう。家族がある幸せ。住む家がある幸せ。仕事がある幸せ。仲間がいる幸せ。当たり前の中に幸せを見いだせるようになると、大きな悲しみの中にあってさえ、幸せを見つけられる。その静かな強さと優しさに私は何度涙しただろう。偉業を達成したり、多くの人を助けたりしなかったとしても、人はこんなにも美しく弱くも強い。

人間、何があっても本質はそう変わらない。だけど、日々進化し、驚くほどの変化を見せるのも事実。何を見て、何を感じて生きているのか。それによって、人生は大きく景色を変える。


3.11は、人類に何をもたらしてくれたのだろう。その答えは、きっと生き残った人が創っていくんだろう。それぞれが、その生きた軌跡に刻んでいくんだろう。多くの命は、生きていることが奇跡だと教えてくれた。生かされていることを教えてくれた。支え合い、助け合って命がつながっていることを教えてくれた。それぞれが、人生をかけて答えを見つけていくんだろうと思う。自然は時に残酷なまでに容赦ない変化を見せる。だけど、それは人間の力ではどうすることもできない圧倒的な静けさに似ていた。まるで地球が一瞬、深呼吸しただけだったみたいに。

 私のところに聞こえてきた話は、絶望の中でも、人はこんなにも強く生きられるんだということばかりだった。アパートが津波に流され、すべて、何から何まで全部、お箸からお子さんのへその緒まで全部なくしてしまった方が、「それでも家族が生き残れました。こんなに幸せなことはありません。震災直後は、仕事も休みになり、家族三人で過ごした10日間は、生まれてきた歴史の中で一番幸せでした。」と言ってくれました。沿岸部でも被害の大きかった南三陸町の方は、「だいじょうぶでしたけど、だいじょうぶじゃないです(笑)。だけど、こんなにみなさんに助けていただいて、すごいんです。良いこともあるんですよ。一人っ子の息子もいろんな方に可愛がっていただいて、喜んでいます。」という力強い言葉。だけど、大変な状況であることは事実。家族や大切な人を失った人もいる。長年積み上げてきたものがすべてなくなってしまった人もいる。人生設計が真っ白の状況になってしまった人も少なくない。津波の被害が甚大だったため、沿岸部以外の地域は被災地であるにもかかわらず、「被災地とは言えないですよ。家財が壊れ、家がダメージを受けたけれど、電気やガス、水道が止まっただけですから。」と多くの人が言う。しかし、人生設計が真っ白の状況になってしまった人も少なくない。何しろ本震、余震を含めて数え切れないほどの揺れは、建物や環境に大きなダメージを残した。そして、何より、心に大きな大きな痛みを残していることを忘れてはならないと思う。この震災を経験した人々、そして、この惨事に触れた人はみな大きなショックを受けたはず。「自分ができることは何だろう。」そう考えなかった人はいないと思う。


 ある日、タクシーに乗ったときに運転手さんが、しみじみとハンディータイプのナビゲーションを見ながら言った言葉。

「このナビゲーションがあれば、どこへでも連れて行ってくれるんですよ。便利なんですけどね。震災後、保険会社の方を現地にお連れしました。県内で行っていない地域はないですね。住所を打ち込むと、そこへ着いちゃうんです。何もないのに。何一つ残っていないのに、ぴったりその場所へ行けてしまうんですよ、いやー、何とも言えないですよ、その気持ち。何度も何度も行きましたけれど、そのたびに複雑な気持ちになりましたよ。」

運転手さんは、後部座席に座るお客様のやるせない想い、不安な思い、怒りの想いなど、いろんな話を聞いたそうだ。私は、頷きながら、運転手さんのお話に耳を傾けていると、運転手さん自身の話を語り始めた。

「夜勤明けで、自宅で休んでいました。ぐらっと来て、これは危ないと思いましたね。飛び起きて、居間の方に逃げようとしたら、あまりの揺れで転びそうになったんです。そこへ、タンスが倒れてきました。タンスと共に宙を舞ってしまって、マンガみたいに身体が浮いて、壁にぶつかってしまいました。顔から壁に激突してしまって、上下の前歯を打って、鼻血が止まりませんでした。歯も入れ歯になりました。でもね、女房はちょうどパートに行っていて無事でした。もし、女房が家に居たら、死んでいたかもしれません。けがをしたのが、私でよかった。家は、全壊しました。参りましたよ。でも、私も、命があって、こうやって仕事があるからまだ良い方です。生活は一変しましたけどね。沿岸部に行くたびに、命があるだけで有り難いと思いますよ。あ、すみません、私の話なんかしてしまって。」
それぞれのあの日は、大きな大きな出来事だった。


 その日、私はオフィスの近くの美容院にいた。お帰りになるご婦人をオーナーさんがお見送りをして、私は鏡の前に座っていた。すると携帯の地震速報が鳴り、同時くらいに聞いたことないほどの地鳴りと共に激しい揺れが起こった。店内の照明があっという間に消えた。私は、店を出て、外の駐車場に避難した。そこなら倒れてくるものはないと思った。隣のビルから看板やガラスが降ってきた。目の前に止まっているベンツが、トランポリンに乗っているように跳ねていた。そのとき、三男からの電話が鳴った。急いで着信ボタンを押したけれど、つながらなかった。この時点では、息子は生きているんだと思ったが、揺れは止まったわけではない。なおも、激しく揺れ、立っていられないほどで、塀につかまろうとしたけれど、33年前の宮城県沖地震でブロック塀の下敷きになって亡くなった方が多数いたことを思い出し、避難してきた作業員風のおじさんたち数人と輪になって手をつなぎ、中腰になって揺れが収まるのを待った。長い。世界は、もうこのまま終わってしまうのではないかと思うほどだった。それも仕方がないという冷静な自分がいた。それくらいあらがうことのできないものだった。3分間にも及ぶ、ものすごい揺れ。

 揺れが落ち着き、オーナーさんにこのまま戻りますとお話しして、オフィスに戻った。夫とスタッフも無事でほっとした。すでに携帯電話は繋がらず、メールは送信しましたという表示は出るものの、相手に届いているかどうかは、わからなかった。家族の安否が心配だったので、最低限の荷物だけ持って、歩いて自宅へ戻った。すぐ近くの避難場所である仙台市役所庁舎前や市民広場は、避難してきたオフィス街の人々ですでにいっぱいだった。余震は、絶え間なく続いていたが、見知らぬ近くの人たちに「また揺れていますね、怖いですね。気をつけましょうね。」などと、声をかけあっていた。パニックとは、ほど遠く、落ち着いていて、静かで冷静だった。私は人々の目に、愛する人の無事を祈る光が誰の目にも輝いているのを見ていた。誰もが愛する人の無事を想っていた。余震が続く緊張した状況にそぐわないかもしれなかったけれど、私は人々の視線の先にある世界を感じて、それがあまりにも暖かくて、泣きそうになった。

停電で信号機も停止。道々には、近くのサラリーマンが自主的に交通整理をしていた。ガラスが降ってきた場所には、コーンが置かれ、危険箇所にはマークがしてあった。震災後、1時間も経たないうちに、みな、自分のやるべきことがあらかじめ決まっているかのようだった。水道管が破裂し、道路の真ん中から噴水のように水が噴き出している場所もあった。道路や歩道も、亀裂が入り、タイルが割れ、歪んででこぼこになっていた。今、こうやって、夫と自宅へ向かっていることがまるで夢のようだった。あの揺れで、けがもせずに生きていることが不思議すぎた。自宅まであと2キロというところで、雪が降ってきた。三月の牡丹雪は、あっという間に辺りを白い世界にした。私も夫も雪だるまみたいになって歩いた。自宅まであと少しという場所で、末息子と電話がつながった。

「お母さん、だいじょうぶ?僕はだいじょうぶだよ、今どこにいるの?」

「よかった!もうすぐおうちに着くよ。」

息子は、雪が降る中、走って迎えに来てくれた。

 あの夜は、静かで穏やかだった。家の中は、天井と壁に固定していた食器棚が倒れ、ガラスが散乱。足の踏み場もないほどだった。電気も、水もない。暖房も使えない。ないないづくしだったけれど、命があったことで、不足感はなかった。テレビもラジオもない世界で、いろんなことを話した。お腹も空かないし、別に何か欲しかった訳じゃないけれど、近所のコンビニまで行こうと家を出た。街灯もすべて消えている真っ暗な空は、星雲まで見えた。美しい星たちがすぐそばまで来て、私たちを照らしていてくれているようでその美しさに言葉を失った。あの星空を私は一生忘れないだろうと思った。時折通る車のヘッドライトが、目を開けていられないほど眩しく感じた。

 真っ暗なコンビニでは、オーナーの車のヘッドライトで店の入り口を照らし、買い物かごに在庫商品をすべて入れて、順番にお客様に販売していた。頻繁に余震が来て地鳴りと建物がきしむ音が響いた。ここでも皆、励まし合って、
「大きな揺れが来ると、危険だから、すぐにお店の人も避難できるように入り口をもっと開けましょう。」
「ここまで生き残ったのだから、みんな生き残ろうね。」
そんな会話が飛び交っていた。
すると、そこに偶然通りかかった、長男夫婦と出会った。お嫁さんは、臨月。抱き合って泣きながら無事を喜び、買い物もそこそこに長男夫婦と共に自宅に戻った。
 長男は、アパートに一度立ち寄ったそうだが、ドアが外れ、家の中はめちゃめちゃで入れる状態じゃないと言っていた。家族が偶然にも集合でき、埼玉に住んでいる大学生の息子とも電話がつながった。あの状態で、家族の安否確認ができたことは奇跡的だった。あの晩に、家族の安否が確認できた私たちは、数え切れないほどの余震と、強い揺れを知らせる携帯の地震警報が鳴る中ですら、言葉に尽くせない幸せを感じていた。

 翌日から、実際に生活機能が完全に途絶えていることを実感することになったが、なぜか落ち着いていることができた。命があるというだけで、何とかなる気持ちがした。家族が無事だったことが大きい。
 そして、日本中から、世界中から届いてくる祈りのようなエネルギーには、心底頼もしく感じていた。
「こんなにここに注目と想いが集まっているのだから、だいじょうぶだ。」
と、思えた。それはとてもリアルに届いた。想いが実際に物資や人材や作業などとして届くまでに、時間は要するかもしれないだろうけれど、絶対にだいじょうぶだと思えた。
それまでは、あるもので何とか生き延びようと思った。

 震災2日目の晩、カウンセリングルームのひとつの部屋にふとんを敷き詰めてみんなで横になっていた。すると、ラジオから「仙台市荒浜地区に200~300体の遺体が打ち上げられた。」とのニュースに、そこにいた全員が静止した。全身の血が引いた。想像はしていたものの、生活圏内から10キロしか離れていない場所で、多くの人が亡くなっている現実。
その晩、あらためて「生き残ったんだ。」という実感がこみ上げた。
生き残ってしまったんだ。
それは、祈りみたいな強い宣言みたいな気持ちだった。この出来事の全体像や亡くなった人々のことを思った。たくさんの破壊と貴重な命の喪失を。
人がこの世を去るとき、生きていた時よりも強烈なエネルギーやメッセージを残していく。私は、震災の前年亡くなった母と6年前に亡くなった父を思った。生き残ったからには、私は私の命を最期のその日まで、悔いなく美しく生き抜こうと自分に誓った。

3月は、時間の感覚を失っていた。普段以上に規則正しい生活だった。残り物のあり合わせのもので間に合ったし、美味しかった。むしろ豊かな日々を送っていたようにも思える。どこからともなく、食料が届いたり、分けていただいたりした。みな、自分たちも被災者であるにもかかわらず、余裕のあるものは、分かち合っていた。「分け合っていたら、気がついたら余った。」という話をよく聞いたけれど、私たちのところもそうだった。3月中は、移動するとき以外は、ほとんどお金を使わずに済んだ。というか、使う場所がなかった。お店も閉まっているし、物が売っていない。並んで買うよりも、まずある物を使い切ってから考えようと思っていた。ガソリンスタンドにも一度も並ばなかった。歩くか、自転車、原付バイク。近くで急ぐときはタクシーを、長距離移動は、高速バスを利用した。結局、3月中は、仙台のカウンセリングルームを休業とした。その間、私は、ひとりの主婦として家族を守っていた。その日のことだけ考えて生きるという生活をしてみて、「これが『今ここ』か。」なんて、やけに納得してしまった。明日のことは、まったくの白紙。本当のところ、明日のことは、本当にまったくわからなかった。今日のことに集中する。今を生きた。

その日の想いやメッセージをブログに綴ることは、私自身の気持ちの整理になっていた。ブログを読んだ方々からたくさんメールが届いた。「ブログを読んで、我に返った。」とか、「ブログを読んで救われました。」とか。自分では何がよかったのか、そのときはよくわからず、とにかく今を生きることで、私自身も精一杯だった。不安がないはずもなく、それでも、幸せと感謝を感じながら生きられたのは、私のライフワークのおかげだった。

3月13日からそのメールは届き始めた。
「明日以降の雨、雪には皮膚を絶対にあてないように
危険な化学物質と放射能が大気中に沢山あるという知り合いの自衛隊からの、ラジオとテレビで流してない情報だからだそうです。
また、お医者さんから聞いた情報です。
これからしばらく毎日海藻品を食べつづけてください
海苔、海藻に含まれるヨウ素を十分にとっておくと、放射能が身体に吸収されずに排出されます
海苔などをとっていないと身体に放射能が大量に吸収されてしまう
チェルノブイリの時よりも酷い大事件らしいので。
チェルノブイリのときは、日本からチェルノブイリに海苔がたくさん
送られました。かなり効果があります。
できるだけみんなに教えてください。」

13日から何通も届きました。
まるでチェーンメールのように。
何パターンかの文面があったので、複数の方が発信していることがわかる。
今ならそのメールを送った人が、原発事故付近の人たちを必死で守ろうとしたことがわかる。
だけど、その時、普段ほとんどメールのやり取りもない方から、何通も同じようなメールを受け取りして、
「何よ!そんな心配ないよ!なんでこんなメールばかり送りつけて恐れをあおるの!
放射能なんか、ないよ!なにもきけんじゃないよ!」
と、友人から私にメールが来た。

「あなたはみんなに愛されているんだね。
病気になったり、死んだりしてほしくないんだよ。
だから、その思いやりの気持ちだけ受け取ればいいよ。
相手は必死にあなたを守りたいと思っているんだよ。
その情報に関しては、頭に入れておいて、自分に必要なことを活かしていこう。
いたずらに怖がることもないけれど、まだ震災4日目。
どんなことが起きているか、私たちはまだ知らない。
冷静に情報を見ていこうね。」
そんなメールをした。
私は、そんなやりとりをする前日の3月13日夕方に「公式メルマガ緊急号」を発行。
届くのか、届かないのか、わからないけれど、無心で書いたメッセージ。
「大きな地震があり、まだまだ全体像を見るには時間がかかりそうです。
みなさんは、ご無事でしょうか。
被災地ほど情報が少なく、不安が募りますが、
まず今日一日を生きましょう。
明日のこと、明後日のことを考えると不安が大きくなります。
阪神大震災経験者から、「72時間を過ぎれば救援物資が届き始めるので、
まずそれまであるもので生き残ることを考えればOK」との連絡がありました。
後は、救済の手を信じましょう。
世界中が動いています。
まず自分と家族の身を守ること。
助けが必要な時は、助けを求めること。
被災者は無理をせず、できる範囲以上のことは引き受けないこと。
状況を見て、日々、行動をリニューアルしていくこと。
生きている限り、現実を受け止めた上で、生き残る方法を考えること。
元気でいることで、できることがあります。
特に大勢で避難生活をしている方は、ストレスフルですが、
生き残った幸せ、家族といられる幸せ、普段できない話などしてみましょう。
ひとりの方は、こういうときこそ、近所のコミュニティーと情報交換すると
今後も大きな助けになります。
仙台市内でも、少しずつですが電気が通り始めたと聞いています。
職務で、現場にいなければならない方々、
復旧のために尽力してくださっている方々に支えられて、今生きています。
全国で被災地を支援してくださる方へ。
その想いが、非常に助けになります。
どうぞ東北が一日も早く復興することをお祈りください。
FAITHはしばらくの間、休業します。」

結局使わず仕舞いだったが、安定ヨウ素剤、特殊マスク、防護服が事務所に届いていた。送ってくださるのだ。
「元気で生きていて」
という想いが届いていた。
その想いにどれだけ励まされたことか。
今でもあの日々のたくさんの想いを思い出し、胸が熱くなる。


自分の心の動きを大切にし、魂の声に従うことで、環境や感情の変化や出来事に関しての大波、小波を越えて、その日を生ききることができたように思います。ありのままに生きること。シンプルに、とことんシンプルに。不安なときは、家族とその想いを共有する。できる範囲のことを精一杯する。無理なことはしない。その日会った人には、その日が最後の日だったとしても後悔しないように思いっきり愉しむ。伝えたいことは伝える。愛しい気持ちを言葉にする。笑顔を交わす。スキンシップを大切にする。よく眠る。自分の時間を持つ。そんなシンプルな生き方は、大切なものを浮き彫りにしてくれた。

人間の存在は自然の中では小さいけれど、その小ささを知り、それでも、人間の可能性の無限を感じた。まさにその両極を感じながら、自分の存在を見たときに感じる畏敬の念と感謝の念。生かされている奇跡を忘れない。毎日が奇跡だということを忘れない。みなそれぞれ、唯一無二の存在だということを忘れない。大切な命を守り、次へ繋いでいくために今生きているのだと、強く思う。震災後、次代に何を遺して、何を繋いでいこうと考えた。自分が生きることで次にのこせるもの、つないでいくもの。それは、今、地球が、全人類に問うているように私には思えてならない。人間は、自分の可能性や愛を忘れてしまったから。何気ない日常にある小さな愛を見つけようと地球は伝えているのかもしれない。目覚めの時。

※Spotify「朝水久美子ラジオ」にて配信中


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