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1−6 牢獄から抜け出す!

 双子のように育った年子の妹がアメリカに留学して、私は妹のいない家で大きな節目を迎える日が近づいてくる。高校まで親の望み通りの進路を進んで、子どもとしての義務を果たしたと自分では思っていた。大学は自分の希望を通そう、通るはずだと思っていた。言い換えれば、「もうこれ以上、親の望み通りに生きません。私は私の道を行きます。」という強いものだった。だけど、頭の中では、そこまでだったとは思っていなかった。それはまさに心の叫びであり、魂の叫びだった。それなのに私は、その声に気づかなかった。どこか、「こんなに我慢したのだから、もう自由にさせてくれるはず。」という期待が大きかったからだ。なぜか、大学の選択は承諾してくれると思い込んでいた。ところがそうはいかなかった。
 県外の大学はダメだと言う。しかも、学部も、教育学部にしろと言う。この時ばかりは、私も黙っていなかった。大学は、私にとって、学問を究めるところであって、学びたい学問を学びにいく場所だと思っていること、その学部は、心理学だと初めて父に告白した。カウンセラーになるんだ、と言った。父は、「それでは食べていけない。」と言い、取り合ってくれない。そしていつもの「学費は誰が出すと思っているんだ」と印籠を出してきた。
 その時、私を突き動かす声があった。「私は私の道を行きます。もう言うことは聞きません。」というきっぱりとした声だった。
「大学には進学しません。働いて、できるだけ早くこの家から自立します。もう負担はかけません。」と、父に言い放った。三年生の五月頃だったと思う。国立大学進学コースを取っていたが、急遽、就職することに。ちょうど国家公務員の試験の申し込みに直前で間に合い、受験した。幸い合格し、採用合格者名簿に載ることができた。公務員試験は、各省庁が採用を希望している場合に、エントリーできる資格のようなもので、公務員試験に合格しても採用されるかどうかは、別な話。でも、全然、落ちる気がしなかった。どの省庁に行きたいか、なんて全然無関心。とにかく働いて、できるだけ早く実家を出たかった。自分の夢は、それからだと思っていた。東北の各省庁の採用を募集している一覧表の一番上から受験しようと一番最初にあった「検察庁」を受験。落とされても、必ずどこか採用してくれると確信していたし、落ちる気がしなかった。仕事ができるとかじゃなくて、私を採用したら、めっちゃ役に立てると思っていた。根拠のない自信は、実家で培った「あの家で生き残ったのだから、どこでも生きていける」という類のものだった。
 そして、すぐに採用が決定した。地方検察庁で採用試験を受けたのだが、いい人材がいた場合に採用を考えていた高等検察庁に配属が決まった。試験官の中で一番怖い目をしていたその人が、私をいいと思ってくれた。その後、直属の課長となって、大変お世話になった。
 いよいよ採用が決定し、父は何としても私を大学を卒業させたくなっていた。学費を払うから、東北学院大学の二部(夜間)に行かないか、と言って説得した。英文科は少し興味があったけど、仕事を片手間にできるほど、自分を器用だと思っていなかった。中途半端が一番嫌だった。
 進路で自分を貫いて気づいた。私が牢獄だと思っていた場所は、すでに鍵がかかっていないことに。進路のタイミングで、父に背いてからというもの、私は二度と父のいいなりになることはなかった。そうするしかない、そうするのが最善だと思っていたのに、他に選択肢があったことにやっと気づけた。18歳の春。妹がアメリカに行っている間に、私も、最初の脱皮できたのかもしれない。故郷を離れ、海を渡った妹が輝いていて、きっと大いに勇気をもらっていたのだと思う。もう私は止まらない。

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