心と魂

この世とあの世。
物心ついた時から、私にとってはこの世とあの世がほとんど同じに感じていた。境目がわからなかった。この感覚がなかなか言語化できなかったことと、拙い言葉で言ったところで伝わらないばかりか叱られたり、気味悪がられたりして、この感覚のことは言ってはいけないことなのだと思ったのは6歳頃だと思う。
父方祖父が亡くなったときは、まだわからず、臨終に際して祖母や叔母たちが泣いているのを不思議な気持ちで見ていた。白い布をかけられた祖父の枕元で妹と歌ったり、踊ったりした。病気で亡くなった祖父が解き放たれたように感じたような感覚になってはしゃいでしまったのは、もうほとんど理屈じゃない。死の意味を人間という物質レベルだけで見るという感覚が乏しかった。その頃は、お化けから神様みたいな光など、いろんなものが見えて、聞こえた。そしてそれは生きている人間も混在していて、境目がなく、私にとってはカオスで、何もかもが怖かった。とりわけ一番怖かったのは現実と言われる次元で、人間がすごく怖かった。お化けも暗くて湿っていて重くて雰囲気はとても怖かったけれど、エネルギーが現実より弱いと感じていた。お化けは物理的に殴ったりしなかったから。そして神様みたいな光は、暗闇の中に放り込まれたような感覚だった私の、文字通り一筋の希望の光だった。

 現実次元に強く切り替わったことを、はっきり覚えている。小学校に入学してまもない頃、若い男の人に自転車で追いかけられた時だ。その時、あの世とこの世の境界線が私の中で明確に引かれた。こっちとあっち。こっちに腰を据た瞬間だった。自分が男性から性的な興味を持たれたという衝撃は、お化けより何千倍も何万倍も怖かった。
 ところが自転車で全力で漕いで追いかけられて、表情までわかるくらいの距離まで近づいてから、距離が縮まらない。もちろん私も全速力で走って逃げたけど、ランドセルを背負っている小学一年生の全力だ。両脇は田んぼだったが、突然現れた民家を見つけ助けを求めた。
 今となっては、その民家が本当にあったのかさえ幻だったように思える。あの追いかけて来た若い男の人の欲望に満ちたエネルギーに感じた恐怖だけがべったりと残った。この世はいろんな人がいて、自分が嫌がるようなことをする人が(父以外にも)存在することをリアルに認識した瞬間だった。

 それをきっかけに私は現実にほとんどの意識を置くようになった。そんな小学校二年生の時、同級生のお母さんが亡くなった。クラス替えしたばかりで、まだ一言も話していなかった同級生。なぜか私がクラスで一人だけ、担任の先生とお葬式に参列することになった。その理由は、彼女が先生に「お母さんに似ているから来て欲しい」とお願いされたからだという。
自宅でひっそりと行われた葬儀で、遺影の同級生のお母さんが微笑んでいた。担任の先生が、遺影を見て「似てるかな?そんなに似てないと思うけど」と小さな声で私に呟いたのを聞いていた。私は何も答えられなかった。そのお母さんの、愛するまだ幼い娘を遺して逝ってしまった無念が伝わって来た。もっとそばに居たかったという切なる想いと、それを大きく上回る揺るぎない娘への信頼と深い愛も。母親を7歳で見送る同級生は、とても気丈にしていた。死の意味がわからないのではなくて、どこか覚悟しているように私には感じられた。私の記憶では、その後、彼女と言葉を交わした記憶はない。でも、言語化できないものをやりとりしていた。私のことを「お母さんに似ている」と言ってくれた友。私はその年の夏休みに転校して、彼女と2度と会うことはなかった。でも忘れられない記憶だ。

 その忘れられない現実なのに、今となっては、こうやって思い出せば出すほど、彼女と同化していく。私が、彼女だったような。そして、彼女のお母さんとも同化していく。境目がなくなり、少し意識を切り替えれば、彼女になり、お母さんにもなる。現実にほとんどの意識を置いていたはずだったが、またもや境目が薄くなっていると気づく。

 この世とあの世。自分と誰か。別々だけど、分けられない領域で繋がっているのだ。現実に意識をしっかり置かなければと思って頑張った。ちゃんとしないと危ないのだと思ったし、そうすれば両親が仲良くしてくれるのではないかと期待した。そこですごく頑張って、自分なりに親や周囲に認められるようになった。でも、限界がきた。自分の中の世界の一部をしっかり見ないと、その意識で生きないと自分が全然納得しないんだと。親が反対しようと、誰かが支持してくれなかろうと、私がそうしたいことを選ばないと。そして私は周囲の大反対の中、結婚して、出産した。すごく現実的な選択だったけれど、私の中ではとても魂に従った感覚だった。どれだけ自分がそのような意識状態になることを待ち望んでいたかと思うと、誰にも理解されない感動で胸が震えた。
 結婚、出産、公務員を辞めて専業主婦へ、その後、経済的な理由で仕事復帰、そして、夢の実現のためにカウンセラーになった。そのどれもがとても現実的なことだけれど、私の中では魂的な選択で、私は私との繋がりをどんどん深くしていった。両親が望む娘ではなくなっていく不安が時折顔を出したが、後戻りする気持ちにはなれず、どんどん私との関係を深めていった。

 心はこう思っているのだけど、魂は違う方へ向かっているという状態、つまり乖離(かいり)が辛いのだ。。カウンセリングでも、そこを見ている。乖離が強ければ強いほど、精神的に辛さを感じたり、現実がちぐはぐに感じるようなことが多くなる。
 心と魂が一つになる感覚は、それこそがエクスタシーではないかと思う。
エクスタシーを得ようとするのではなく、心と魂の調和がもたらすもの。魂は揺るがない。心を揺らしながら自分の中の揺るぎないものを感じる。どんなに見失っても、そこにあり続けるもの。

自分を生きることで深い繋がりを感じる。
心の声と魂の声を聞く、そして、光を見失わずに今日も生きる。


気に入っていただければサポートお願いいたします。私の活動費と創作エナジーになります。