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いちゃもん『羅生門』

芥川への<いちゃもん>ではない、黒澤映画『羅生門』へのそれである。

初めて見た時は寝てしまった。さて、二度目…ネタバレ&毒舌デス。

『羅生門』か⁈

土砂降りの中、廃屋と化した巨大な羅生門。そこで、杣(そま)売り〈志村喬〉、旅法師〈千秋実〉、下人〈上田吉二郎〉が「解らん」「嘘だ」「人間なんてそんなもんだ」等とやり合うのは、確かに好い。どでかいセットを作りたかった、役者を立たせ羅生門ごと雨に濡れる画を撮りたかったんだろう。だが、これをもってバーンッ『羅生門』とタイトルにするのは、どうなんだ。芥川には言わずと知れた『羅生門』がある。上田吉二郎演じる下人が芥川作『羅生門』と同一人物?そうなの? これって、原作者への冒涜の始まりとは言えまいかー。

あるべきものが無い

多襄丸〈三船敏郎〉、金沢武弘〈森雅之〉、真砂〈京マチ子〉、三つ巴のシーンで要所を締めているのは森雅之のみ。彼が演ずる金沢武弘は、妻・真砂が落としていった小刀(さすが)で胸を突く。原作では、意識のある内に見えない誰かの手によって胸の小刀を抜かれ永久に闇へ沈む。映画でこれは全く描かれない。見えない誰かは映画に存在しない。冒涜其の二…。

繰り返しは五月蠅い

三船敏郎は黒澤映画の他作と大差ない。「わはははは」といきなり笑う、猿のように飛び跳ねる、、、の繰り返し。京マチ子のすすり泣き音も、全く同じ音、同じ圧力、機械的ですらある。じっとした芝居ができないのか。繰り返しが好きな子供や大人はいるが駄目だ。三船に至っては滑舌も怪しい。

多襄丸の太刀

三船の多襄丸が武弘を太刀で刺すシーンが二度ある。二度とも太刀を投げて殺している。その後の多襄丸の手に太刀は無い。これでは、基本的な辻褄が合わなくなる。勿論、「辻褄が合わない」のが『藪の中』であり、構成の妙である。が、この映画の辻褄の合わなさは、それとは別次元のように思われてならない。

変な風

金沢武弘は死人であり、巫女〈本間文子〉の口を借りて事件を再現する。巫女は検非違使の庭でトランス状態の中、武弘の声で語る。彼女の周りには風が吹き、異様さが際立つ。が、背後に座す杣売りや旅法師の周辺にはそよとも吹かない。彼女の周りだけ空気が波立つのが恐ろしさを増すとでもいうのかーいや、これでは興ざめだ。本間文子は迫真の演技で、武弘の声もすごくいいのに。

小刀

妻・真砂の護身道具で、彼女の懺悔では夫を殺した凶器となる。一方、武弘はこれで自害したと物語る。原作でも非常に気になるアイテムだ。「かなり高価なもので、死骸の第一発見者が持ち去ったのでは?」と考える読者も多いだろう。映画も然りで「螺鈿をあしらった」と強調される。ー正直、これにはポカンとした。一般的すぎやしないか?解りやすすぎやしないか?しかも、それがこの映画を大団円へ導くきっかけになってしまうのだ。

そんな事ってあるかいっ!

黒澤明は「死骸の第一発見者が事件を途中から目撃していた」真実を、ラストに描く。杣売りが繰り返す「嘘だ、嘘だ」「解らない」の所以である。【真砂は男ふたりに総スカンを食らうが自ら豹変して汚名返上、男たちはいきなり本気で戦いだす】…というのが、それだ。ちょっと待ってください!金切り声をあげて焚きつけられた位で、そんなにコロコロ真逆の意識になるもんかい!【解らない】話を、解りやすくすることが演出なのか?一般受けするため? 原作への愛はどこへ行った?!

村田喜代子作 『鍋の中』を読んでから、黒沢映画『八月の狂騒曲』を見た時も怒り心頭だった。だって 『鍋の中』じゃないもんっ。村田自身も不満で「ラストで許そう黒澤明」を『別冊文藝春秋』に寄稿したと言う。凄いなー村田さんは。自分は『八月の狂騒曲』も『羅生門』も許せない~。原作モノが映画化されて満足する事は無いに等しい。しかし作家が産みの苦しみで世に出した作品を、膨大な費用と人の力で映画にするなら、原作を愛し、変に曲げずに、映画としての世界観を存分に活かすことだって出来るんじゃないか。でなければ、監督の得手勝手だ。

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