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「バリアフリーツーリズム京都」中村敦美さん #38

「出でよ!ジャンヌダルク!!~女性経営者が未来を変える~」。
(毎月第一金曜日・午後7時~)https://www.be-happy789.com/
毎回、創業間もない女性経営者にゲストとしてご登場していただき、
何故、起業し、そして、今後、何をして行きたいのかを、お好きな曲とともに根掘り葉掘りお聞きしていきます。
8月のゲストは、「バリアフリーツーリズム京都」の中村敦美さんです。

(中村敦美さん:写真左)

京都に事務所を構え、2020年から障害者と高齢者の専門の旅行業を手掛ける中村さん。そんな中村さんに、ボクがアイデアを持ち込み今年の4月に実現したのがこちら!

(聴覚に障害があるメンバーがガイド役に/写真左の男性)

その名もサイレントツアーです。
手話エンターテイメント発信団oioiの聴覚障害のあるメンバーがツアーの
ガイド役となって、参加者とともに京都市内の観光地を巡ると言うもの。
一方参加者たちは、一泊二日、最後のランチタイムまで一切喋らない。身振り、手振り、ジェスチャー、筆談、出来る人は手話などを駆使して、目的地に向かう、お土産を買うと言う奇想天外なツアーを敢行されたのです。
さて、参加者たちの反応はどうだったかと言うと、ツアー終了後には、参加していた子どもたちが「帰りたくない」と泣きだすほどで、本当に楽しかったそうです。そして、中村さんは、こうおっしゃいました。

「障害者の方の立場に立つって、口では言えるし、頭ではわかるけれど、そう言う機会もないし、実際やってみないと分からない。しかし、実際にその立場に立ってみると、様々なストレスがあって、障害者の方々って普段はこう感じておられるんだな、もっと寄り添っていかねば、と思いました」

さて、そんな中村さんが、何故、障害者と高齢者の専門の旅行業を手掛けることになったのか?それは、中村さんの人生そのものが「後押しした」と言っても過言ではありません。
まず、中村さんは昭和42年京都生まれの、京都育ち。ご実家が「ふすま屋」さんだっと言うことで、家の中には美術関係の資料なども多く、小さい頃から絵を描くことが好きで、高校卒業後は服飾の専門学校へと進まれます。そして、その後は、まずは下着会社にデザイナーとして就職し、次いでインテリアデザイナー、さらに、ウェディングドレスのデザイナーと着実にキャリアを積んでいかれます。そうした中、26歳の時にご結婚。しかし、ここでキャリアの中断を余儀なくされます。それは・・・

(若き頃の中村さん)

「結婚した夫の母が、慢性関節リュウマチと言う難病で、結婚した時から寝たきり。介護をしながら仕事をしたんですが、結局、介護を優先せざるをえず、半年程度で仕事を辞めることになりました」

自宅での介護はやはり大変。そこで、スタートしたばかりの介護保険を活用してヘルパーさんに24時間来てもらう体制を整えて、やっと一息。そこで感じたのが、その後のビジネスにも繋がるんですが、さて、どう言うことだったんでしょうか?

「自分一人で全てをやろうと思っていたんですが、ここで初めて人手を借りることが出来て、人の手を借りることって、大事なんだと実感しました」

しかし、です。中村さんは、その後、お子さんを授かるんですが、二番目のお子さんがダウン症で生まれ、さらに5歳で自閉症スペクトラムと診断され、重度の知的障害があることが明らかになります。その結果、片時も目を話すこともできない状態になり、家の中は荒れ、中村さんも夜な夜な涙すると言う精神崩壊一歩手前と言う状態に陥るですが、そのタイミングで福祉事務所からの援助が入り、お子さんを一旦施設に短期ですが預けることが
出来ました。その時中村さんはこう振り返ります。
 
「ゴミの中で、一人真ん中で泣いていると言う状態でしたから、ようやくホッと出来ました。10年ぶりくらいにゆっくり寝ることが出来たと思います」
 
その時、感じたのも・・・
 
「やっぱり、人の手は借りないとあかんと」
 
その後、お子さんも大きくなり、少し余裕が出てきたところで何かやりたい、出来れば自分で何かやりたいと考えていたときに、周囲から言われたのが「介護の仕事はどうか?」と言うことでした。
 
「最初は、私生活でも母の介護、娘の介護もしているのに、それを仕事でするのはどうか、と思ったんですが、よくよく考えたら“実際”をよく分かっている。これは強みだなと思い、やってみようかと思ったんです」
 
そして、最初は介護保険でカバー出来ない部分を担うヘルパーとして活動し、その後、様々なお家から「こんなんもやってくれへんか」と言う感じで頼まれるようになって、自然と家事代行と言う感じになり、事務所を京都のど真ん中近くに移転されたのを契機に、これもご自身の経験から「車椅子を使って京都観光する人もいるやろ」と車椅子レンタルを始めるんです。
そして、その観光旅行の最中に、例えば食事の介助やお風呂の介助などにヘルパーを頼んで来る方もおられたことから、そうした分野も手掛け始めるんですが、さらに、あるオーダーをキッカケに、ついに今の事業を決断する時がやってくるのです。
「出でよ!ジャンヌダルク!!」「バリアフリーツーリズム京都」と言う事業は、どうやってスタートしたのか?その瞬間を切り取って、以下のようにラジオドラマ風にお伝えしました。

「はい!?余命二か月のお母さんを、何とか、京都観光に連れていってやりたい。それは、いつのことですか?えっ、2週間後。う~ん、そうですか。
分かりました。何とかしましょう!」
キッカケは青森県からの一本の電話でした。
全身ガンのお母さんが、最後の望みとして家族にお願いをしたのは、二泊三日の京都旅行。旅行会社でない限り、勝手にツアーを企画出来ません。
そこで、敦美は「介護タクシーの手配や、シャワーチェアの用意、リクライニング付の車椅子の準備は全部用意するから」と言って、旅行会社に企画を依頼し、何とか実現。
そして、その日がやってくるんですが・・・
 
「痛い、痛い、痛い」
ツアーに同行し、出迎えに立ち会った敦美が見た光景は、痛みに顔をゆがめる全身ガンのお母さん。
「こんな状態で、二泊三日、大丈夫かなぁ」
しかし、敦美のこの心配は杞憂に終わりました。敦美が実質企画したそのツアーの様々な演出に、家族は大満足。帰る頃には、そのお母さんの表情は優しく柔和なものに変わっていたと言います。
     
その二か月後のことでした。また青森から、電話。
「母は先日亡くなりました。しかし、ずっと京都旅行は楽しかった、楽しかったねと言い続け、枕元には、最期までその時の写真を置いていました。
いい思い出をありがとうございました。」
敦美は思いました。
「なんていい仕事なんだ。感謝したいのは、こっちの方なのに。こちらこそありがとうございますやわ」
そこからの敦美の行動は早かった。
コロナ禍で、京都の観光客が減っていることを逆手にとって、時間が出来た今がチャンスと勉強し、ついに自ら旅行会社を立ち上げたのです。
人生に無駄な経験などないことを教えてくれるジャンヌダルクなのでした。

いかがですか?
まさに、中村さんの人生に根差したビジネスだと思いませんか?
当の中村さんも、こう話します。
 
「私、このビジネスが本当に天職だと思います。仕事をしていて全くストレスを感じないんです。仕事をしていて、本当に楽しいことばかりだし、ツアーに参加された皆さんからはお礼を言われるし。この仕事に携われて本当に良かったと思いますね」

改めて思いました。人生って、どんなに厳しい事態に出会っても、それも決して無駄じゃないんだと。
中村さん、素敵なお話し、本当にありがとうございました。
 
ところで、中村さんが「ここぞ!」と言う時に聞かれる曲は、エレファントカシマシで「俺たちの明日」だそうです。
中村さんはこう説明してくれました。
 
「中でも、『お前の輝きは俺の宝物』と言った歌詞が沁みます。『自分の輝き』ではなく『お前の輝きが俺の宝物』と言う部分に共感出来ますね」
 
とのことでした。
障害のあるなしなどに関係なく多くの人々の頑張りに寄り添ってきた中村さんならではの捉え方だと思いました。
今後、中村さんがどんな新たな企てをするのか、本当に目が離せませんね。

(次女とともに・・・)

さて、次回は、どんなゲストが、どんなお話しをお聞かせくれるのか?
皆様!!お楽しみに!(*^_^*)

【参考】

http://sapotabi.sapokaji.com/

一般社団法人 手話エンターテイメント発信団 oioi | oioi(おいおい)はバリアクラッシュという理念のもと手話エンターテイメントを発信している団体です。 (oioi-sign.com)


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