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ペーパームーン

三日月の夜は「三日月は鉤爪魔女の月」という母親の呪文のような言葉を思い出す。

私が育ったいなか町に、ペーパームーンというイタリアンレストランがあった。シーリングファンが回っていて、天井が高くとても開放感のあるオシャレなレストランだった。中二階のようなスペースがあり、階段を登ったところにもテーブルがいくつか並べられていた。そこからは一階のフロアが見渡るようになっていた。家族で行った事も何度かあり、ピアノの発表会の後に友達家族と一緒に行ったり、何か特別な日はよくペーパームーンに行った。なんでもない日の日曜日のお昼に母に連れていってもらった事もあった。

今でもよく思い出すのは「森のキノコ」といういかにも説明不足の和風パスタと「コーンスープ」である。私はどちらかというとトマト系のパスタが好きなんだけど、なぜかペーパームーンの「森のキノコ」は忘れられない味になってしまった。ある絵本の、森の奥にあるレストランのお話も思い出す。ストーリーはあやふやである。動物のシェフが張り切って数々の料理を作るのだけど、お客さんが全くこないという話だった気がする。ペーパームーンは私にとって大切な思い出のレストランである。

ある仕事帰りの夜、猫を散歩させているおじいさんに出会った。「犬の散歩」はよく聞くけど、「猫の散歩」はまだまだ耳に新しいのではないだろうか。猫が自由に外を出歩くのは当たり前の光景だと思うけど、人間とともに散歩をしているのは珍しい。それでもリードで繋がれた猫には何度か遭遇した事があったけど、今回出会った猫はリードなしだった。おじいさんの呼び声に忠実に反応し、ものすごく楽しそうにちょこちょこ歩いていた。その場の独特な空気感に引き寄せられて、「かわいいですねぇ~」と無遠慮に話しかけてしまった。

その猫はなんと目が見えないらしかった。「この子ね、目が見えないんですよ。でも散歩が大好きでねぇ~」とおじいさんが言う。とてもそんな風には見えなかった。見えない世界に怯える感じは全くなく、ただただおじいさんの「呼び声」を頼りに、足取りはとても軽やかだった。尻尾が気持ち良さそうにゆらゆらと揺れていた。

私の見たものは一体なんだったのか。あの時、「信頼関係があるんですね」咄嗟に言ってしまったけど、絶対的な信頼感なんて、言いたかったのはこんな言葉じゃなかった気がする。それはもしかしたら満ち足りた空間だったのかもしれない。足りないものがあるからこそ満たされるのかもしれない。

三日月を見ると私はペーパームーンの「森のキノコ」と「コーンスープ」を思い出す。無性に食べたくなるのである。

母親の「三日月は鉤爪魔女の月」というヘンテコなネーミングも一緒に。





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