未来を思い出す

2021年9月25日

 義理の伯父が亡くなって2年半.あのとき高校受験の真っ只中だった伯父さんの孫(自分から見て従兄弟の子)も既に高校3年生.この春からちょくちょくと大学入試に関してアドバイスをさせてもらってる.

 話していて,本当に立派な子に育ったのだなぁとつくづく感じる.礼儀正しく,向上心も高く,負けん気が強いのに謙虚で,そして自分のやりたいこともきちんと持っている.これなら押し付けがましい受験指導なんてしようと思うわけがないし,彼女の自主性を(出しゃばりすぎず)適切にサポートしたいと心から思う.

 もちろん彼女なりの苦悩は尽きないのだろうけれど,それでも大人から見て,こんな風に子どもが育ってくれたら喜ばしいだろうなぁ.そう思えば思うほど,伯父さんにこの姿を見てもらいたかったし,こんな立派な孫に育ったことを自分からも報告したかった.そういう気持ちが何度も何度も胸の深くから湧き上がってくる.

 しかし,思う.彼女のいまの姿は,伯父さんが生きていたときから既に孕まれていたのだ,と.彼女と自分との関係性だって.であれば,伯父さんは生きていたとき,既にイマを知っていたのと同じじゃないか,と.

 現在は過去が孕んでいて,現在は未来を孕んでいる.であれば,僕らはみな,未来を既に知っている.未来というのは,切り拓くものでも,思い描くものでもない.そう,思い出すものなのだ.

 仕事柄,たくさんの子供たちと関わるけれど,彼ら彼女らが自分自身の未来を思い出せるように,しなやかな添え木(そしてそれは不要になったら朽ちてゆく)みたいに,何気なく側に在れる大人で居たいと,そう願う.そして,いつまでも,そう願っていられる自分でありますように.

 伯父さん,また会いたい,な.20年前に亡くなった叔母さんのことだって,いつも何度でも思い出しているよ.

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