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 昔の話をひとつします。
 そのころ、私は代々木にある予備校に籍をおいていた。しかし授業にはほとんど出席せず、パンを製造する工場の夜勤や引越しの荷物運びなど、短期のアルバイトで得た小銭を新宿や渋谷の路地裏で浪費するような日々を送っていた。
 ある冬の日、西武新宿駅と道を挟んで向かいにあるパチンコ店から出て、輪ゴムで括られたレコード針の束を両替所で換金し、その足で靖国通りと交差する所まで来ると、ファーストフードの店先でたむろする者たちのなかに知った顔を見つけ、思わず下を向いた。タバコの吸殻や風俗店のチラシが散乱する歩道の一角を擬視するふりをし、信号が変わると、私は四谷方面に歩き出した。慌てないそぶりを装い、二ブロックほど歩いてから、首を後ろにまわし、彼らが私に気づかなかったことに安堵した。彼らは私の高校の同級で、比較的名の通った大学の学生であった。

 私の育った家は変わったところがあり、経済的に余裕があるときとそうでないときとの落差に激しいものがあった。良いときはリゾートホテルのようなマンションに住み、そうでないときは旧い公営団地の二間しかない一部屋を家財道具の倉庫のようにして使い、残った一間で家族全員が寝るような暮しぶりだった。玄関先には、ときおり人相の悪い男たちが尋ねてきて借金の返済を迫ることもあった。私は居酒屋で、そういうことを繰り返す不思議な家族の日常を友人たちに面白おかしく語って聞かせたものだった。
「おまえも大変だな。家がそんなじゃ受験勉強どころじゃなかったよな」
 誰かが言いだせば私は満足し、
「いや、それとこれとは別の問題さ」
 などと応える。しかしそんな翌朝の不快感は、二日酔いのせいばかりでないことを、私は分かっていた。

 靖国通りを歩くうち、辺りはすっかり暗くなり、私は花園神社の手前の脇道に入った。この小道は大久保の連れ込み宿が密集する地域に通じていているのだが、その途中にあのゴールデン街がある。かつての私娼窟がそのうらぶれたままの形で残され、安普請の小さな店が密集する飲み屋街。今では世に出る前の芸術家たちが、安酒を呷りながら激論を戦わせる文化の砦となり、既に名を成した者もお忍びで通う店が何軒かあるという。私は、愛読する小説家が通う店もその一角にあることを知っていた。 
 世界に受け入れ難い魂が片隅に追いやられ、壁際に押しつけられるとき、魂は壁を蹴り、その反力を利用して自分の行くべき処を探しにゆく。
 その小説家は創作活動というものをそういう例え話で表現した。私は直感的にそれが正しいことを理解したが、自身では何も創造できない私のような者は、永遠に壁に押しつけられたままではないか、と絶望的な気持ちになった。小説家などという者たちが紡ぎだす言葉に心を奪われるのはあまり良い傾向とはいえない。私はその「まえだ」という屋号の店をいつも横目で通りすぎた。
 私の目的地は、ゴールデン街にほど近い所に建つ雑居ビルの一室だった。扉を開けるとジャージ姿の吉田と磯貝が片側の壁一面に貼られた大鏡に身体を奇妙な形に歪めた姿を写していた。
「なんや、遅かったやないか」
 吉田が甲高い声で言った。
「パチンコでフィーバーがレンチャンしたんだ。晩飯はおれが奢るよ」
「そうか、それじゃ九州ラーメンにしないか? やっと美味い店を見つけたんだ」
 磯貝が言う。
「ああいいよ、餃子も頼んでビールでも飲もうや」
 私は答え、ロッカー室で柔道着に着替えた。

 ある日、ことばに言いあらわせないほど屈託した心持ちで付近を徘徊していた私は、旧い雑居ビルにかけられた珍しい看板を見つけた。
〈何某ヨガ道場、練習生募集、宇宙と対話してみませんか?〉
その人を食ったような文言は、私を和んだ気分にさせた。冷やかし半分でチャイムを押すと、杉山と名乗る柔道着を着た髭面の男が応対に出た。
 教祖は一種の超能力者であり、数冊の著作があること。名古屋に本部があること。自分はそこから派遣されたトレーナーであること。それ以外の話、例えば宇宙との対話、についてはさっぱり理解できなかったが、杉山の縄文人のような風貌、朴訥とした話し方には独特な魅力があった。私はたまにその道場に立ち寄るようになり、数ヶ月後には練習生になっていた。
 吉田と磯貝も、私とほぼ同時期に練習生になった。私は二人に積極的に近づいていった。吉田は大阪から、磯貝は福岡から上京してきた大学生で、私は彼等を寅さん映画のロケ地である帝釈天やテレビドラマの撮影で使われることの多い井の頭公園など、彼等が行きたがる所に案内した。東京に不慣れな彼等は何かと私をあてにし、私も彼等と一緒にいることで気が和んだ。彼等が二人とも、あのファーストフードの店先にたむろしていた同級生たちよりも名門とされる大学の学生であることも、私の自尊心をくすぐった。
 練習生になって半年ほどが過ぎた。杉山は鍵を私に預け、外出することが多くなった。杉山は既にヨガには見切りを付けていて、東京に定着し、新聞販売店を経営したいのだと言う。その根回しのための外出であるらしかった。杉山の留守中、入門希望者が来れば、私が面談した。私も杉山を真似て柔道着を着た。話を聞きにきた者に、ジャージ姿で応対するよりは柔道着を着ている方が信用されやすいのだという。私も黒帯を締めた自分を大鏡に写すと、なんだかその気になるのが可笑しかった。
 吉田と磯貝ともより親密になった。吉田はじつは神道系の新興宗教の信者だった。当初はここにスカウトに来たらしいが工作活動はさっぱり上手く行かない。教団からは執拗に成果を要求され、最近はその教団に嫌気がさしているようだった。磯貝は檀家を多数持つ大きな寺の長男で、大学を卒業したら坊さんになる修行を始めるのだそうだ。
 彼等は私を感動させることは滅多にないが、侵食してくることもない。ヨガの効果ではなかったが、私は徐々に精神のバランスを取り戻しつつあることを自覚していた。
 練習生希望者は珍客ばかりであった。
「宇宙人が私の耳の奥に小さな機械を埋め込み、私の行動は、全て宇宙人の命令による。それに打ち勝つにはヨガしかないと思う」
 などと訴える十六〜七の少女がいれば、
「私の直属の上司は会社で後ろの席から常に私を監視していて、そのおかげで、私の背中には毛が生えてしまいました」
 などと真面目な顔で言う有名企業に勤める者もいた。

 最近頻繁に道場に出入りする者に朴(パク)さんがいる。朴さんは細身の長身で、髪をオールバックにし、銀縁の眼鏡をかけている。年齢は私より一回りは上だろうか。口調には韓国人特有のつよい訛りがある。
 朴さんは金まわりが良いらしく、私たち三人を頻繁に高級な焼肉料理の店に誘い、骨付きのカルビだのサムゲタンだの値のはる料理を食わせてくれた。何度かそんなことがあり、ある晩、デザートのヨーグルトがテーブルに運ばれると、朴さんは「自分はキリスト教の神父である」といった。
「きみたちは信仰を持っていますか?」
 一瞬、凍てついたような間をおいて、磯貝が言った。
「おれ、実家はお寺さんなんですよ。だからおれは仏教徒かな」
 磯貝の表情は必要以上に屈託がないように見えた。私は吉田がどう応えるか興味があったが、吉田はニヤニヤするだけで何も言わない。
「朴さん、おれは無神論者ですよ」
 ビールに酔ったせいか、私はすこし声を荒げた。
「そうですか」
 朴さんは柔和な表情をくずさずに言った。
 私の家は、母方がプロテスタント系のクリスチャンで、私は幼児のころから中学生になるまで、なかば強制的に教会に通わされた。
 私は朴さんの真意を理解していた。朴さんは統一教会の関係者なのだろう。統一教会は、私が通った教会では邪教とされ、入信し抜け出せないでいる者のかけこみ寺のような活動もしていた。
 そのことがあってからも、私たちは朴さんの誘いを受け、美味いものを食いつづけた。
 ある晩、私たちには朴さんからパーティに招待された。それは六本木の中国料理の名店で行われ、夢のような美味い料理が次々と丸い中華テーブルに運ばれてきた。
 出席者のほとんどは韓国式の民族衣装に身をつつんでいた。演壇では「勝共連合定例会」と銘うたれた大きな看板を背にした極真空手の創始者、大山倍達の演説がおわり、弟子たちによる演舞が行われていた。
 私は一度食べてみたかった甘酢あんかけの大きな鯉の唐揚げを小皿に取りながら、この辺りが引き際だと考えていた。

「こんちは杉山さん、ご無沙汰してます」
「おや、これは久しぶり。おまえ、予備校にちゃんと通ってるのか?」
「いや、籍はまだあるみたいだけど、いまはパンをつくる工場でバイトしてるんだ」
「吉田や磯貝はどうしてる?」
「元気みたいっすよ。最近は会ってないけど」
「杉山さん、朴さんはまだ通ってくる?」
 杉山は一呼吸おいてから言った。
「おまえな、一時は大変だったんだぞ。おれは朴からおまえらの住所を教えろと執拗に迫られたぞ。しまいにゃ人相の悪いのが一緒に来るようになってな。でもおれは最後まで喋らなかったぞ」
「ありがとう。さすがは杉山さんだ」
「それはべつにいいけどな。この道場は来月で閉鎖だぞ?」
「え? あそこから圧力でもかかったの?」
「ちがうよ。ただの業績不振。この辺りは家賃が高くて練習生の数がいまの倍にならないと採算が合わないんだってよ」
「へえ、そうなんだ。ちょっと寂しいね。杉山さん、新聞屋は開業できそう?」
「いや、だめだな。とりあえずおれは一度名古屋に戻るよ」
「そう。元気でね」
「ああ、おまえも勉強してどっかの大学に入れよ」
 以来杉山さんとは会っていない。吉田とも磯貝とも疎遠になり、私の家は例の如く引越しばかりで当時の誰とも連絡がつかなくなってしまった。
 ところが先日、とあるパーティ会場で吉田と遇会した。じつに三十年ぶりの再会であった。
 私はすぐに吉田だと判ったが、先に近づいてきたのは吉田の方だった。
 吉田の名刺は「アーティスト」と謳われていた。私は未だ一人身、現在失業中で渡す名刺がないことを告げると、吉田は微かに安心したような表情をうかべた。聞けば吉田には三人の娘がいて、アーティストとしての収入は殆どなく、教員をしている奥さんに食わしてもらっている状態だという。
 ゴールデン街はバブル景気のころに再開発が決定し、ほとんどの店が立ち退いたが、景気が低迷するとその計画が頓挫し、一時期は歯抜けのゴーストタウンのようになってしまっていた。いまでは殆どの店が入れ替わり、昔とは違う雰囲気の歓楽街になった。
 私はいま、その中の一軒の店のカウンターで水割りのグラスをかたむけながら、吉田が渡した、自身の作品を絵葉書にしたものを眺めている。
 それは抽象画で冬の曇り空のような模様のバックに「明るいナショナル」と太い字で書いてあり、画題は「松下幸之助の肖像」とある。
 現代アートに興味が持てない私にとって、それは単なる悪ふざけにしか思えなかった。
 私は四十を過ぎてから始めた創作文芸について、具体的には「アリの穴」という投稿サイトにアップしたいくつかの作品を吉田に教えるべきか否か迷いながら、空になったグラスを振って代わりを頼んだ。
              
                  <了>                                    

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