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7月12日、ユスラウメと格闘技と、おばあちゃんの話。

7月12日、大好きだったおばあちゃんの誕生日なのでおばあちゃんのはなしをします。


私は母方の祖母が大好きだった。おばあちゃんっ子だった。

父親は亭主関白で子供たちにも厳しかったので、リビングにいるよりもおばあちゃんの部屋の方が居心地が良かった。

私が3歳の時におじいちゃんが死んでからは、おばあちゃんも一緒に暮らすようになり、父親がリビングのテレビを支配しているときは(基本父親のみたい番組。大好きなアニメやMステが見れなかった)おばあちゃんの部屋に行って好きな番組を見せてもらった。私が小学校から帰る時間には家の玄関の外でうしろで手を組みながら待っててくれ、お菓子あるよといつも押し入れにわたしのすきなお菓子を買ってくれていた。(ポテトチップスとトッポ)

私が描いた絵を誰よりも褒めてくれ、おばちゃんの8畳ほどの部屋の壁は私の描いた絵で埋め尽くされていた。

中学2年生のとき、急におばあちゃんがボケてしまった。
つまずいて転んだ際に大腿骨折をしてしまい、入院中にボケてしまったのだ。私の名前も分からなくなり、子供のような話し方をするおばあちゃん。そういった体験が初めてだった私には衝撃的だった。優しくて、朗らかな、私の大好きなおばあちゃんの姿は消えていった。

その姿がどうしても耐えれなく、気持ちが悪いと思ってしまった。「あーこのままおばあちゃんは死んでしまうんやろなぁ」「お見舞いに行ってへんと死んだあとに後悔してしまうよなぁ」と考え、重い足を無理やり運んで病院に行っていた。大好きなおばぁちゃん。死んで欲しくないはずの自分と、そんな風に考えてしまう自分が信じられなかった。

そして、中学3年生の冬、12月、寒い夜だった。
大阪では雪がちらちらと降っていた。
祖母は死んだ。


その日私は中学の友達男女4人で遊びに出かけていた。その遊びの約束はどうしても断りたくなかった。そのとき私が好きだった男の子も来るとわかっていたからだ。「おばあちゃんもう長くないで?それでも行くの?」と母親に言われたのに、約束だから断れないと言っておばあちゃんの側におらず、友達との遊びを選んだ。友達との遊びを選んだというか、ちゃんと現実に向き合いきれなかったのかな。
その日に祖母は死んだ。母親から連絡があり、友達と別れてから、顔をぐちゃぐちゃにして泣きながら祖母のもとへ急いだ。

病室についたのは夜の9時過ぎ。

冷たくなった祖母のそばで母親はひとり泣いていた。「おかあちゃん、おかあちゃん。ごめんな。足の爪も綺麗に切ってやれてなかった。こんな伸びてしまっててんな。ごめんな。」と言って、声を出して薄暗い部屋でひとり泣いていた。
母親が祖母のことを「おかあちゃん」と呼ぶのも、声を出して泣く姿も、その時初めて見たのだった。看護師さんは、これからのことを淡々と母親にはなしていた。受付にいたスタッフさんは何か楽しそうなはなしをして笑い合っていた。

父親はお見舞いにはほぼ来ていなかった。父親と祖母はもともとそんなに仲が良くなかったし、母親は一人っ子だったため入院している祖母の世話は母親1人でしていた。家では気丈に振る舞っていたが、あの時どんな気持ちで家と病院を行き来していたのだろう。

お通夜もお葬式も、家族だけでひっそりと行った。母親は泣いていなかった。泣いている姿を見たのは、そのときの病室だけだった。


自分は、あんなにも愛情を注いでもらった祖母を最期は大切にできず、母親にも辛い思いをさせてしまったのだと、同時に2人の大切な家族を裏切ったような気持ちになり悔やんだ。そのあと何年も心の片隅にモヤモヤと残った。
大学生になったときは、祖母の誕生日のタトゥーを服で隠れる位置に入れた。命日より、誕生日にした。祖母を身体に刻みたかった。毎日自分のからだを見たときに思い出せるように。祖母を決して忘れないように。



今私は、タトゥーを見なくても、生活しているなかで、祖母を感じることがある。


祖母はいつも掃除機をかけてから、丁寧に濡れた雑巾で床の拭き掃除をしていた。それを見ていたので、私も掃除機をしてから濡れた雑巾で拭き掃除をする。(あ、毎日ではないです基本めんどくさがりです、はい)
いつも漂白剤でタオルを真っっっ白にしていた。あの頃は、「おばあちゃんめっちゃ真っ白にするやん」と思っていたけど、今では私も漂白剤がすきで、なんでもハイターにつけたくなる。ハイターのにおいは、ちょっと祖母を思い出す。
祖母はお花が大好きで、いろんな花の名前を知っていた。ホームセンターで季節の花を買ってきては鉢に綺麗に植えていた。旦那さんに「なんでそんな花の名前知ってるん〜?」と言われたが、祖母がいつも教えてくれたからだろう。
お裁縫が上手で、破れた靴下は綺麗に縫って何度も履いていた。わたしのダメージジーンズを綺麗に縫ってくれていたこともあったが、あれはさすがにおかしかったし、なんならちょっと嫌だった。
本当〜に物を大切にする人だった。
私も少し破れた靴下を縫ってみようとしたが、裁縫はどうも苦手で…祖母のようにうまくはできない。次実家に帰ったときに、母親に教えてもらおう。
優しい朗らかな人だが、格闘技が好きでよく格闘技の番組を見ていた。「おばあちゃん、こんな殴り合うスポーツが好きなん?」と当時は理解できなかったが、今私は旦那さんと2人でよく格闘技の番組を見る。大晦日の楽しみも、紅白ではなくRIZIN。(1番すきなのは堀口恭司さんです)おばぁちゃん、結局わたしも格闘技が好きみたいです。

まだ祖母が元気な時、誕生日にユスラウメの小さな苗をプレゼントしたことがあって、とても喜んでくれて大切に育ててくれていた。20年近く経った今でも実家にあり、今では立派な姿で毎年たくさん実をつける。実をつけると、祖母が話しかけてくれている気分になる。


もう今はタトゥーを見なくても、生活している中で祖母を感じる。わたしの中に、おばあちゃんがいる。やっと私は、下を向いて泣くことなく、祖母を想うことが出来るようになった。思ったより時間がかかってしまったけど。

祖母の優しい部分が、私の中にある。
嬉しい。温かい。それをふと感じる時が幸せ。

次大阪に帰ったときは、祖母のお墓に手を合わせに行こう。


おばあちゃん、コロナで今年は世界が大変なんやけど、そんなときでも今年もユスラウメはよぉさん実をつけてたで。お母さんが写真を送ってくれたよ。きっとおばあちゃん、那須川天心のこと気にいると思うし、格闘技のはなしも、私の旦那さんのはなしも、いっぱいしたい話があるわ。

おばあちゃん

私の大好きなおばぁちゃん。

そちらで元気ですか?

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