射形が「綺麗」って何?

弓道における射形って陸上競技のフォームとか、野球の投球フォームとかと同等だと思うので、結局は最適化する過程で綺麗になってく物であって、そんな走り方で速くても意味ないでしょとかそんなフォームで160キロ投げても意味ないでしょとはならんように、「そんな射で中てても意味ない」とはならんでしょ本当は。射法八節と競技規則を守ってるという前提ではあるけど。

※ただ、体配・着付けぐちゃぐちゃで中てても意味ないみたいなのはしっかり同意します。

個人的な経験則として「射形は綺麗(風)だけど的中が伸び悩んでる選手」が中るようになった例より「射形はかなり独特だけどそこそこ中る選手」が射が洗練されていった結果さらに中るようになった例の方が遥かに数が多かったといえる。

センスと言ってしまえばそこまでではあるけど敢えて言うなら、前者のタイプの選手は弓道における基本が出来ていない場合がほとんどだったと思う。

じゃあ基本ってなに?という所に自分は一定の結論を持っていて、「胴造りとか肩線とかが基本ってよく言われるけど、いや弓道における基本ってまずは狙いと離れの再現性でしょ。というか、全ては狙いと離れを安定させるための手段でしょ。」と毎回思っている。

もちろん「胴造り、肩線が基本」みたいな指導をしてくれる人自身はこれを理解しているが、指導を受ける側はそれそのものが基本であると勘違いしがちではある。勿論、それらを整えることで狙いと離れは安定しやすいのだが、整えることで自動的に安定するわけではない。どんなに優れた指導者でも、やるべきことを100%正しく伝えるのは中々難しいし、仮に100%伝わったとしても、それを聞き手が100%遂行できるとは限らないので、目的がはっきりとしてないことには、残り1%のずれや間違いに聞き手本人が気付けない、そこまで来ると見た目にはわからないことなので指導者側もどこが良くないのか気付きにくい、という状況は容易に起きうる。

じゃあ何を目指せばいいのかって、結局は「弓道を知らない人が見ても綺麗なことが分かる射」っていうのを目指すのが共通意識として正しいのではないだろうか。体配や着付けなんかの射そのものに関わらない部分もここに通じるし。

そして、弓道を知らない人が見た時に「この人上手だね」っていう選手の共通点はこのあたりに集約されている。

・中る(当たり前だけど)
・会で動かない
・離れのキレがある

要するに会の形とか肩線とか手の内とか、それらは絶対的な必要条件でもなければ、ましてや的中のための十分条件ではないということかと思う。勿論的中を容易にし得る近道ではあるけども。

そしてこの上に「とんでもない再現性で射癖を武器にしている選手」という存在もあるのだ…………

まあ要するに、中る射がすべて正しいわけじゃないけど、中らない射は100%間違っているということだよね。自戒を込めて。

この話がどこに帰着するのかというと、指導者は「的中が向上してきた選手を褒める時」のようなポジティブな場合以外に「綺麗」とか「綺麗になった」という表現を使わないのが育成には案外大事なんじゃないかという。
「綺麗だけどなんで中らないんだろうね」みたいな言葉は聞き手を混乱させるし、どうしても似たような表現を用いる必要がある時は上手か下手かを使うのが望ましいんじゃないかな。

あと、人の射形を「汚い」とか表現する人間はどうせ上手くないしこれ以上上手くなんないからほっといていいと思うよ!

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