「半ドン」=「ハレの日」
「半ドン」の意味が分かる人って、どのくらいいるのだろうか?吉祥寺の南改札口を出たところで慶子は思った。
2019年、4月20日午前11時。
井の頭公園に向かう人々の波が揺れている。小さい子供の手を引いて歩く夫婦。高校生の男女グループの姿、みんな楽しそうに見えてしまう。
遠くには桜色の海。アスファルトには昨日までの雨がまぶしく光っている。
この時期の吉祥寺はいつにも増して人があふれかえっている。南改札口から丸井までの道は狭いうえに、バスも通るから警備のおじさんの声も大きくなる。
慶子は駅ビルの地下に潜りこんだ。5日間ぶりの外出で人込みに酔ってしまいそうだ。
地下には雑誌にも載るような有名なパン屋がある。菓子パンや総菜パン、サンドイッチも種類がたくさんあっていつも迷ってしまう。アボカドやエビのサンドイッチ。スモークサーモンとチーズ。くるみパンに鶏の胸肉を挟んだものまである。緑から赤、黄色とカラフルなサンドイッチはオシャレという言葉しか出てこない。値段はやっぱりお高め。
慶子はサンドイッチ一つ持ってレジにいく。
さっきの「半ドン」の意味の説明。
「半ドン」とは、土曜日の午前中だけ授業を受けて、給食を食べないで家に帰ること。今、考えるとすごいがんばってた、私達と先生と親。
半ドンが終わると、上履きと給食のエプロンが入った巾着を足でポンポン蹴りながら友達と通学路を歩いた。家には母が用意した昼ご飯が待っている。
小学1年生の半ドンの日、初めてサンドイッチを食べた。いつも半ドンの日はおにぎり、チャーハン、カップラーメンがテーブルに置いてあるのだけれど、その日はお皿に三角形が並んでいた。白い薄いパン(耳付き)に、黄色い粗みじん切りされたゆで卵。ゆで卵にはたっぷり過ぎるほどのキューピーマヨネーズ。きゅうりのみじん切りは噛むたびにリズムを奏でて、やわらかいパンと卵の単純なリズムにアクセントを加え、噛むことを退屈させなかった。
「おいしい!」と慶子は母を見て叫んだ。サンドイッチと一緒にコーヒー牛乳も飲んだ。それは特別な昼ご飯だった。なぜなら、昼にパンを食べたから。それもコーヒー牛乳と一緒に。おにぎりが日常なら、昼に食べるサンドイッチは非日常、「ハレの日」だ。
慶子は人並みにのまれながら、なんとか井之頭公園に着いた。桜の木の周りには人が群がっていて近づけないし、何よりも行きたくなかった。
人がいない公園の奥まで来た慶子は、湿った臭いのするベンチに座った。5日ぶりの外出なのに、一人になりたいと願ってしまう自分に驚いたし、悲しくもあった。
そんなに人が怖くなってしまったのか。
世の中にはよくある二股だったけど、まさか自分がその二股の片方になっていたなんて。怒りも湧いてこないほど、涙もでないほどの衝撃だった。怒れたら、泣けたら、今ごろは、きれいさっぱり忘れているはずなのに。
慶子は地下で買ったサンドイッチを出した。
卵サンドイッチ。一番安いから選んだのではなく、思い出の味に甘えたいから。だけど飲み物はコーヒー牛乳じゃなくて、スタバのカフェラテ。
食欲も一時ストップしていたけれど、卵サンドイッチなら食べられるはず。
一口食べて泣けてきた。
母のサンドイッチを思い出して泣けてきた。
5日間、泣けなかったのに。
塩気たっぷりの卵サンドイッチを食べた。
今日は「半ドン」「ハレの日」
もう一日休んだら、また日常にもどろう。
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