そしてコージは死んだ   倉本聰(転記)

先月、日本尊厳死協会のホームページ上で作家の倉本聰先生の緊急メッセージが発表されました。多くの方に目を通して欲しので、発表された手書きの原稿を転記しました。原文と併せてご一読下さい。

https://songenshi-kyokai.or.jp/archives/4989

 親しい友人が癌で死んだ。
 62才。尊厳死協会の会員だったが、その会員証は何の役にも立たなかった。僕は今、悲しみと空しさと、怒りの中でこの文章を書いている。
 友人。コージとだけ記しておこう。
 コージは僕の富良野塾の創設期からのスタッフであり、四十年近い付き合いになる。
 ログビルダーに憧れており、カナダにも修行にやり、こつこつと一人技を磨いて塾の建築のリーダーとなった。丸太小屋を含む十数件の家を作り、僕の今住んでいる石造りの住宅もアトリエと呼んでいる稽古場も全て彼の作りあげたものである。
 九州男児。寡黙にして我慢強い、実にさわやかな男だった。
 その彼が肺癌に冒されたのは、今から約二年半近く前のことである。既にステージ4と云はれましたと、照れたような顔で報告に来た。後二年位が限界だそうです。
 
彼はその齢でまだ独身であり、自分の終(つい)の棲家となる家を一人コツコツと建てている最中だった。だからその家で死にたいです。病院に入ることは絶対厭です。彼は通院して治療を受けながら、痛みの間を盗んで自分の家を完成させようとした。僕は直ちに旭川の大学病院を紹介し、同時に、尊厳死協会への入会をすすめた。
 富良野は人口二万二千。協会病院という総合病院があるが、ここには旭川の大学病院からの派遣医たちが主につとめている。
 丁度数年前、「風のガーデン」という末期癌に冒された医師のドラマを僕は書いており、その時膵臓癌のこと、緩和ケアの実情について、かなりの勉強を僕はしていた。殊に旭川の大学病院で緩和医療を主導しておられるI先生という麻酔科の教授には台本の監修をお願いして親しくさせていただいていた。先生は既に停年を迎えて、札幌の病院に移っておられたのだが、そのお弟子さんが旭川の医大で緩和医療室を継いでおられたのでその方に話を通していただき、緩和ケアの専門家のいない富良野の病院の担当医と密な連携をとっていただくことにした。そういう形でコージは在宅のまま抗癌剤治療をし、調子の良い日はそれでも仕事を続けていた。
 一年が過ぎ、二年目に入って抗癌剤の副作用が出始めて、治療はステロイドに切り変った。この頃から苦痛はかなりのレベルに昂っていた筈だ。だが、無口な彼は周囲に決して弱みを見せなかったから、不覚にも僕らはその苦痛の激しさを見逃した。
 その年の十一月。突然彼は自殺を計った。
 刃物で首を二ヶ所切断し、死にきれず今度は電動ドリルを心臓に突き刺して穴を開ようとした。それでもうまくいかず、たまたま訪れた他のスタッフが血みどろの彼を発見し、救急車で搬送され一命をとりとめた。
僕は仰天し、旭川から飛んできてくれた緩和医療の担当の医師に、尊厳死協会の彼の会員証を示し、助からぬものなら麻薬を打って少なくとも彼を苦痛から楽にしてやってもらえないかと懇願した。
 実は、
 僕の義弟、妹の亭主は、骨髄癌で十数年前死んだ。彼らは大阪に住んでいたのだが、二人共熱心なクリスチャンだった。骨髄の癌は想像に絶する苦しみに見舞われる。夫婦は丸二年間、強烈な苦痛と戦った揚句、二人で話し合い、有馬温泉にあるキリスト教系のホスピスに入る道を選択する。
 ホスピスでは大量の麻薬投与される。苦しみからは解放されるが、死は確実に覚悟せねばならぬ、彼らは話し合い、その道を選んだ。僕はその時初めて、ホスピスというものの存在を知った。
 入院直後に有馬に見舞うと義弟の顔はそれまでと全くちがい、信じられないぐらい明るく転じて人が変わったようによくしゃべった。
時には麻薬の副作用らしくトンチンカンな会話もまざったが、苦しみは一切彼から消えていた。ウソみたいでしょうと妹は云い、昨夜は夜中まで二人で賛美歌を歌ったの、と涙をかくして笑ってみせた。それから何と九ヶ月も生きて、義弟は息を引取った。何とも和やかな死に顔だった。
 その記憶が僕には強烈にあった。
 だが富良野にはそういう施設はない。
 北海道全てを見渡してみても、数える程しかホスピスはない。

 大学病院の緩和ケアの先生は、判りましたと云ってくれ。それでも心配で内科の医師に相談した。その時返された医師の答えは、しかしまだ新薬が出来る望みもありますから最後まで希望を捨てないように。だった。札幌の麻酔科医に電話したら、今頃内科はまだそんなこと云ってるんですか!と怒った。
 86才になり、死が現実のものとして近づいてきた今、僕は心底から考えている。
 死はもう恐くない。だが苦しむのは絶対にいやだ!ホスピスが欲しい!誰か近くにホスピスを作ってくれないか!

 一月。彼の癌は骨に転移した。
 それでも彼は苦しみに耐えながら、在宅での戦病を懸命に戦っていた。
 去年の十一月の自殺未遂が、彼自身に相当響いているようだった。自分の始末をつけられなかったこと。周囲に迷惑をかけてしまったこと。大きな恥をかいてしまったこと。

 以前にも増して彼は無口になり、在宅のままステロイドの投与を受けていた。麻薬の投与も始まっているらしかったが、彼の苦痛の表情からは明快な効果は認められなかった。
 97から98あるべき血液中の酸素濃度がどんどん下がり、酸素ボンベは使っているものの彼の形相はどんどん変っていた。
 三月十四日。酸素濃度が60まで下がり、耐えかねた彼は救急車を呼んで、富良野協会病院に自分から入院した。

 病院はコロナの臨戦態勢で、完全に面会禁止だったが、頼みこんで限定したスタッフの一名を、つき添いとして24時間、病院にはりつけてもらうことを許された。
 何もすることの出来ない僕は、彼に長文の手紙を書いた。永いつき合いのこと、愉しかった想い出、そして感謝。最後に俺は今君の苦痛が一刻も早く去ることだけを祈っていると書いた。書きつつ今自分はまだ生きている本人に向かって弔詞を書いているという錯覚に陥った。

つきそいから翌朝電話があり、読み始めてコージはもう一枚目で泣き出して後が読めなかったという。そして最後の一行を読み終えると、”先生は俺の気持ちを判ってくれてる”
と呟いたそうだ。
 そのスタッフからいきなり電話で叩き起こされたのは十七日の午前一時である。コージが苦しんで先生の名前を必死に呼んでるからすぐ来て下さい!ということだった。夜勤の看護士さんには内緒で話を通してあります!

 かけつけた時コージはベッドの上で、半分のたうちまわっていた。酸素吸入のマスクと鼻からの管は入っていたが、いくら吸っても酸素が体内に入って行かないようだった。一息一息を全力で吸おうとして、声にならない声をあげていた。手を握ってやると握り返そうとしたが、その手に力はもう残っていなかった。労働で鍛え上げたコージの荒れた手を、僕は必死にさするだけだった。僕に向かって何か訴えるコージの声はもう声にならず、只胸を精いっぱい上下して空気を吸おうとする空しく荒い呼吸音だけが病室の空気を震はせていた。
 血中酸素濃度は何と、40まで下っていた!
 楽にできませんか!何とか楽にしてやって下さい!看護師さんに懇願したが、看護師さんはさっきから既に枕元の機械のダイヤルをいじっていた。いじってはいたがコージの様態に変化はでなかった。夜勤の若い看護師さんにはそれ以上の麻薬の増量にふみこむ資格はないにちがいない。彼女たちには恐らくそれ以上の医療判断は許されていないのだ。僕は彼女たちに頼むことを諦め、コージの荒れた手を必死にさすりながら、空しい嘘を叫ぶしかなかった。
 もう少しだ!もう少しがんばれ!もうじきすぐに楽になる!
 コージは虚ろな目で天井を睨み、口に装填されたマスクをひっぺがし、荒い息を吸い、すぐ又口につけた。その動作を何度もくり返した。
 こんなむごいことがあっていいのだろうか!鼻につき上げる涙をおさえながら心の中で僕は思っていた。
 胃カメラを飲むという検査の時ですら、今病院では点滴によって意識のレベルを下げてくれ、全く苦痛なく挿管してくれる。今の医学はそこまで出来る。出来る筈なのに死を前にして彼はここまでのたうちまわっている。彼の意識はしっかり生きている。生きて苦痛の極限にいる。医学は人命を救うことを究極の目的としているというが、今目の前にくり拡げられていることは、人道的と果して云えるのだろうか。楽にできるのにしてやらないこと。これは拷問であり、明らかに非人道的行為である。こんなむごいことが許されていいのだろうか!
 2時間程彼の手をさすり続け、荒い呼吸音が少しおさまったのを見て、僕はもう居たたまれず病室を後にした。

 家に帰っても眠れなかった。
 様々なことが頭に飛来した。
 86年人生を生きて様々な死に僕は立会っている。祖父の死、父の死、祖母の死、伯母の死。夫々がそれなりの苦しみを経て、最後の息を必死で吸おうとし、それが吸えなくて息絶えた。だが今回のコージの姿は、かつて見た中で類のない程、凄惨で残酷な時間だった。

 これは僻地の病院の事件で、しかも深夜の出来事であり、更にはコロナで逼迫し疲弊し果てている医療態勢の中でのことだったから致し方のないことだったのだろうか、
 僕にはそうは思えなかった。
 断っておくが、その晩必死で対応してくれた看護師、遠くから指示を出してくれた医師、それらの医療関係者の対応を責めるつもりは毛頭ない。
 僕のもっともひっかかるのは人命尊重という古来の四文字を未だに唯一の金科玉条とし、苦痛からの開放というもう一つの大きな使命である筈の医学の本分というものを、医が忘れてはいまいかということである。
 人工呼吸、胃瘻、透析、エクモ、エトセトラ。医学は目を見張る進歩を現代人の生命を永びかせた。その功績は無論認める。しかし命を永びかせる、そのことに余りにこだわりすぎた為、植物人間の存在を生み、物理的生存を重視するあまり、たとえば尊厳死、安楽死の問題をタブーという檻の中に閉じこめて真剣な議論の俎上にすらのせないで逃げている。そのことに僕は違和感を感じる。
 果して医はそういうものでいいのだろうか。
 たとえばコロナによる医療崩壊。
 入る病院が見つからなくて救急車で何件もたらい廻しにされ、或いは医師の手に触れることも叶はず家庭で死を迎える不幸な患者。彼らはどんな死と対面するのだろう。それはやっぱりコージのような、のたうち廻っての死になるのだろうか。
 医学にその技術がないなら仕方ない。意識のレベルを下げることが出来るのに延命の為にそれを用いない。そういう延命はごめん蒙りたい。苦しさから解放され、一気に死にたい。その為に僕は、尊厳死協会に入会している。コージも亦その為に入会していた。
 その日の昼すぎ、コージはやっと息を引き取った。
 よかった!
 おつかれ様!
 という言葉しか、僕の頭には浮かばなかった。

 四十数年前、富良野に移住を決意したとき、一番先に僕のしたことは、町を歩いて病院の所在を確認したことである。
 町の中央にさほど大きくない、富良野協会病院という総合病院があった。それは都会で見るような近代的な大病院ではなく、恐らく設備や医療のレベルも最先端の都会のものに比べて何年か遅れたものだろうと思はれたが、此処に移住を決意した以上、何年か遅れの医療の基準で命を終えれば良いのだと覚悟した。
 今その病院は建て直されて、四十年前とは比較にならない設備と医療を備えた新しいものに生まれ変っている。

 だがその病院で僕はコージの、最後の日の苦しみに立会ったのである。
 それが僻地の病院だからとは、断じて思はない。
 それは医術の進歩とは関係ない、医学という一つの学問の中での思考のあやまり、いわば哲学の欠如である気がする。
 そのことに僕は今、口惜しさと怒りを噛みしめている。

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