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【鑑賞めも】第24回岡本太郎現代芸術賞

少し前ですが、恩師が受賞したとの事で岡本太郎美術館へ。
(観に行ったのは少し前ですが・・・)

第24回岡本太郎現代芸術賞
↑賞の概要などはこちらをご覧ください

作品をyoutubeで観ることができます。
00:52 小野 環『再編街』が恩師の作品



百科事典や美術全集から作品を制作しています。

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比較するものが上の写真しかないですが、とにかく細かい。
youtubeを観てもらうと作品全体が観られます。

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係りの人に不審者がられるかも。と思いながら長時間居座っていました。
大きな本から更に全集が作られたりします。
観れば観るほど発見があって飽きない…
観るほどに味が出てくる感じは、先生とお話している時の感覚に似ていま。
そして、先生の研究室を思い出す(笑)

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正直、受賞のお話を聞いた時に、私の中で先生と岡本太郎の接点が見えず
「はて?先生の中に岡本太郎的な要素があったっけ?」と。

久々に美術館で先生の展示が観られることもありましたが、その接点なる部分はきっと本物を見ないと分からないだろう。と観に行く事にしたのです。到着して、まずは岡本太郎の作品を鑑賞します。岡本太郎と高度成長期の勢いに飲まれそうだったので、サラッと鑑賞。

そして、企画展へ。

作品を観た瞬間に「常設展→企画展」の流れが良かったと思いました。
岡本太郎の作品群で高度成長期を体感した後に見せられる、その時代を象徴する団地。

美術全集で作られた団地たち

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ただ、この団地は高度成長期という時代は感じられるけれど、周りのものを否応なしに巻き込んでしまうあの時代が持つ空気感とはまた違うものを持っています。
今は個々で活動することが簡単にできる時代になり、これまで必要と思っていた大きな塊から皆離れ細分化されている。
大家族から核家族へ変化していったように、団地も変化していき、当時は人々の憧れでもあったはずなのに、時代の変化とともに不要なものとされ、今では随分とその数は少なくなってきている。

同じく不要の物として扱われるようになった美術全集。
再編することで不要なものとされてしまった行き場のないエネルギーがまた静かに生命を吹き込まれる。
いや、吹き込まれはしていないかもしれない。

なくなってしまったものと同じ形に再編することで「不要」という枠が外され、ただそこに在る存在になった。

懐かしいという感情のほかに、高度成長期の象徴がなくなる喪失感のようなものが同居し、物悲しい。それなのに、かつてあった大きな塊としてのエネルギーもどことなく感じられ、その何とも言えないバランスがこちらを惹きつけるのかもしれない。

「絶妙なバランス」と思った。

バランスといえば、モリソン小林さんの作品でもそれを感じることができました。

全て金属で作られている植物たち

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先生にお聞きした話によると、モリソンさんは普段はこういった賞の類には出品しておらず商業用の物を作っている機会が多いのだとか。先生もよく発表はされていますが、賞を獲りに行こう!というスタンスで制作はしていないはず。

お話を聞く中で最終的に発表する・人に見せる部分、を無意識に意識しているような気がしました。お二人の作品の前に立つと少しだけ乾いた、人の息遣いが感じられない独特な瞬間がありました。
それはきっと、人から見られることを意識して客観的に作品を捉えるから起きる「自分の意識をなくす作業」の部分ではないかと思うのです。

そして、今回はその客観性を何処までみせるのか?という静かな心の葛藤があったように感じられました。作品の前に立つと感じる凛とした緊張感。どこからどこまでを見せるのか、自分の中にあるギリギリのラインをそこに表現しているのではないのかしら。

今回の大賞受賞者は最年少の高校生。
作品を観た時に高校生が描いたものだとは思わなかった。私と年齢が近いかも、と思ったくらい熟している感じがしたからだ。
でも、高校生と聞いて納得した部分がたくさんあった。あのパワフルな筆跡は素晴らしい情熱だと思う。

ただ、私の中の心に引っかかったのは「絶妙なバランス」。

これを維持していくことはそれこそバランス・感覚なのだと思う。勢いだけでもテクニックだけでもない、自分の表現の限界を静かに問いかける。
この静かだけど燃やし続ける情熱が岡本太郎スピリットだな。と思ったのです。


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