"嫌われる勇気"か、"嫌われない努力"か。

「嫌われる勇気」という本がベストセラーになった。
啓発系のSNSの投稿もこのような言葉が溢れえていると思う

「他人の目を気にするな」
「君は君だ」
「あなたらしく過ごしていれば、それが嫌だという人は去っていくし、それが好きだという人が集まるから、無理にキャラを作らなくていい」

それを見るたびに、「皆、そんなに己を殺して、和を尊んで生きているのか、、、しかもそれを苦しんでるのに続けているのか」と感心している。

しかし、個人的にこのようなメッセージはしっくりこない。
「お前はもうちょっと他人の意見を気にしろ」という人種もいると思っているかだら。

私のことだ。

私は好き勝手しすぎというか、人の意見を聞く気がないので、
他人(特に目上の人)と摩擦を生みまくり、嫌われボッチである。

人間関係を問題なく作れる人は「自分らしく」していいと思うが、
「もともと他人の気持ちを考慮せず。素の性格が嫌われるタイプ」が自分らしくありすぎるとさらに孤立して取り返しのつかないことになるのは必須。

そんな嫌われ者達も、別に無駄に敵を作りたいわけでもないだろう。
話が合う人とは仲良くなりたいとは思っているし、
天涯孤独で死んで行きたくはないだろうと思う。
ホモサピエンスは社会性動物なので、「幸福」であるために人間関係は不可欠だ。

良好な人間関係を作るために、私のような人間は「ちょっと嫌われない努力する」のは必要だと思う。

180度 別キャラを装うのは無理があるし、楽しくないし、メッキが剥がれた瞬間のギャップ落差が酷すぎて余計警戒されるだろう。
また嫌われる人は「他人からどう見られているか」を察っせなかったり、どうでも良かったりすると思う。四六時中ずっっと他人目線を意識し続けるという苦手と向き合うのはきつい。

実行&継続するにも"ちょっと"が現実的かと思う。
そのため私はこのようなことを気をつけるようにしてる。

「人と関わる時は"相手ファースト"
"相手との時間"をより良いものにする努力をすべきだ。
基本ボッチだから1人の時間は膨大にある。好き勝手はその時すればいい。
"対人用の仮面"を被っていられる体力の範囲内で人付き合いをしていこう」


そもそも「人付き合いに疲れて、振り回されてしまう」と悩んでるというが
「人付き合いができる」「他人の気持ちを読み取れ、配慮した言動ができる」はものすごい特殊能力だし、その人のアドバンテージだと思う。
みんなが出来るわけじゃないからな。
私は喉から手が出るほどその能力がほしい。

「自分らしく、嫌われてもいいんだよ」というメッセージを伝えて精神的に楽になるのもいいことなのだと思うが、
「その能力を使い倒して、より高みを目指したほうが良くね?」と思ってしまう。

現代はビジネスなどで合理的、論理的が思考がもてはやされてるけど、
それはAIの得意分野だから、どんどん人間がやらなくて良くなると思う。
これからの人類に求められるのって「気持ち」や「感性」とか「人間関係を構築・維持できる能力」だと思うんだ。

せっかくその能力があるだから自信を持って生かしてほしいなぁと思ったりする。

隣の芝生は青いのかも。
バランスが大切だ。

自分は「嫌われる勇気」より「嫌われない努力」を少しせねばと思ったこの頃でした!

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