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イイシラセ【『太陽の法』仏の化身】(2024/04/15)

一方に高級霊がおりながら、他方に低級霊がなぜいるのかという問いに対しては、仏の世界観は、「平等」と「公平」という二つの観点からなりたっているということから答えていかなくてはなりません。

『太陽の法』第2章 仏法真理は語る P81

したがって、高級霊であれ、低級霊であれ、仏の生命を体現しているということに関しては、すべて平等なのです。平等でないというのは、「高級」「低級」という言葉の響きに迷わされているだけにすぎません。

『太陽の法』第2章 仏法真理は語る P82

仏は、すべての霊に、仏に向かっての一本の道を進ませているという点に関しては平等をまもっておられます。また、すべての霊が仏に向かって進んだだけの距離でもって評価されるという点で公平をまもっておられるのです。

『太陽の法』第2章 仏法真理は語る P84

現代社会は「平等」を強く語ります。自由・平等・博愛を掲げたフランス革命以降、平等は世界の価値の柱とされている感があります。
ここでは二点考えてみたいところがあります。
一点は「平等」という概念そのものについて。
一点は「平等」と「公平」の二つの観点について。
まず「平等」の概念ですが、上記にあるように「仏の生命を体現していることに関して」平等であるとされます。これは人間のみならず、あらゆる生命に対しても敷衍される概念です。しかしこれはすべてが「同じ」であることを意味ないのは自明です。人間には人間の役割があり、ライオンにはライオンの、鷲には鷲の、クジラにはクジラの役割があるのです。これをすべて「同じ」にするというならば、それは平等でもなんでもありません。無知でしかなく、オーダーの破壊でしかありません。
大きなポイントとしては「仏の生命」を体現している、という部分です。法の下の平等という概念を語る人がいます。それはそれでよいのですが、真理の観点からすれば「仏の生命」という原点を外しては考えることができません。つまり唯物論的世界観でもって「平等」を語っている人がいても、それは真理の世界で語られる平等とは異質な概念でしかないのです。
「公平」は「評価」からみたときに重要です。評価については公平をベースにするべきです。評価をするときには平等を持ち出すべきではありません。この点、現代アメリカや日本は異常な状況になっていると思います。

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