デ・キリコ展 感想(?)

デ・キリコ展に行ってきたので、感想を残しておこうと思う。感想でもないかもしれない。批評と言ってもいいけれど、少し大仰だ。ただ、デ・キリコ展に言って、絵を見て、絵と私の間で何が起こったのか、ということを、メモにしておきたい。どうせ忘れるので。



デ・キリコの絵では、異常な空間が展開されている。それは、空間が過剰に構成されているからだ。


画面、絵の平面にオブジェクトを置くと、それだけで空間が構成される。これは、デ・キリコに限らず、絵一般に妥当することだ。リンゴを描くだけで、重力の方向はどうなっているのか、光はどう当たっているのか、空間はどう広がっているのか、視点はどこで、……諸々。オブジェクトは、空間を開く。現実世界ではまず空間があり、その中にオブジェクトが置かれるのに対して、絵の世界では、オブジェクトがあり、それが空間を開く。空間を開墾する。それは絵が表面、平面だからだ。平面を空間化するには、オブジェクトを介さねばならない。


デ・キリコの話に戻ろう。デ・キリコの作る画面、デ・キリコの絵(特に形而上学的絵画の時期)では、空間が過剰に構成されている。オブジェクトは空間を分泌する、というのは先に述べた通りだけれど、デ・キリコの場合、各オブジェクトが各々別個に空間を構成している。ごくふつうの、われわれに目眩を与えることないような絵画が、各オブジェクトa,b,c,d,……が、ひとつの安定的な空間Sに属するのに対して、デ・キリコの場合はそうではない。彼の絵画に、目眩を与えるような彼の絵画に、安定的な空間を与えることはできない。デ・キリコが画面に配置するオブジェクトa,b,c,d,……は、ひとつの空間作り出すことなく、それぞれ固有の空間A,B,C,D,……を作り出す。過剰なほど多くの空間があり、それらが干渉し合って、ひとつの画面をなんとか作っている。

言い換えるならば、デ・キリコの作り出す画面において、全てのオブジェクトは、不安定化させるような姿勢で、空間を撹乱させるようなしかたで、そこにある。

さらに言い換えよう。デ・キリコの絵画は、オブジェクト指向である。それも、グレアム・ハーマンがO・O・O(オブジェクト指向存在論)を提唱したのと同じ仕方で。

今のところ、この種の空間のつづら折りが、デ・キリコの絵を見たときにわれわれが感じる目眩の正体なんじゃないかと思っている。
外部と内部の関係の話とか、まだ話したいことはあるけれど、これ以上は、どんどん胡乱な話になっていくので、やめよう(これまでも十二分に胡乱な話だったけれど)。
上のことは書く気になったらさらに書くかもしれない。書かないかもしれない。

とりあえず、デ・キリコを見て思ったことの基本線は、こんな感じ

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