2024-06-11

何をそんなに怯えているんだい。

Youtubeであるボーカリストのライブ映像が目に留まった。「この人の曲をきっと好きになれる」と思って、その人のバンドの曲を片端から聞き流した、時間をかけて。私が求めていた(のだろう)心臓を死ぬほどきつく掴まれる感覚は得られなくて、でも満足してないとも違うような、この感覚は、とにかく、なんというか、どうにも、で、勢いの形だけが残って、前から好きなアーティストの聴いてなかった曲を聴きまくった。穏やかな恋心が戻って来るけれど、贅沢にも事実にも、確かにうつろだった。あの人のことを好きになりたかった、という恋の反転は、ひどく自然である、という方向でしか理解できそうになかった。

ずっとなくさずにいられていた大事なものを立て続けにいくつもなくしてしまって、それでいて大した喪失感もなくぼんやりとしていることに納得している。自分を大切にしているようでいて、自分以外(例えば時間、例えばお金、……、例えばあなた)を大切にしていないならそれは、いいえ、それは自分に含まれているから? 落ち込むのはいいとして、落ち込みの増幅に有益な点が見いだせないという認識。

最近の授業より、創造的絶望というトレンド。自分がなりたい姿のための努力の仕方が間違っていることに直面する。出来事は変わらない、思考と行動、およびそれらの結びつき方は変えられる、というのがとにかく無限に広がって、あらゆる大小の問題に効く。ところで、こういう話からなんとなく人生は二次元で、触れてはいけない三次元目があり、目を瞑って時間の中を漂っていることを夢を見て誤魔化してる、ように思えることもあるけど、正気を取り戻してはいけないというだけで、教授もはっきりと「なぜ生きなければいけないかという問いに答えようとすれば負ける」と言っていた。私たちには懇願しかない。感覚的に、懇願でなら三次元目に侵入できる気がする。どういうこと?

いわゆるエロから全く遠くて、だからあまりにもエロい、としか言いようのないものにはまっていて、授業中にいくつか思い付いたから、短い映像集として作ってみたい。ところで今の私のエロいの使い方はエモいのそれよりさらに邪悪という感じがするが、どうしたものか。エロ、という言葉それ自体が、私にとってかなり神聖で清潔で、というのはあって、だから使い倒してしまうのだけど。

人と話すことが楽しくなっている。もっと楽しい喋り方ができたらと思う。同じことを考えていた時間で色々なことを考える練習をする。あの日々で捕まえようともしなかった全ての蜻蛉をしつこく追い回す。(一つでも多くの(ある一に対して何度でも))恋をするために生きている。それが率直な実感である。

(この文章も(偏りなりに)間違いなく今を完全に反映しているということ)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?