うちのグループにおわします彼の御人に、思わず手を合わせたくなった

※こちらのnoteは、個人の考えを仲間内に共有する目的で公開します。何らかの社会的ないし宗教的意見を世に投じようとは考えておりません。ご理解賜りますようお願いいたします。


 アイドルの語源は「偶像」だという。
 古来より、人は祈り捧ぐ対象として、信じるべき絶対存在を理想の形に落とし込み、希望や決意を注いできた。
 今日、推し活と呼ばれる活動において、人々は様々な存在に情熱を傾け、愛し、尊敬し、時に信仰を見出している。それは温度や色は違えど、古来よりこの国の民がアニミズムに親しんできたように、生活に根差している場合もあろう。

 私のそれの対象は、言わずもがなの五人である。立てば熱狂、座れば盤石、歩く姿は意気揚々。
 時には魅力的な振る舞いに色めき立ち、時には信頼できる頼もしい言動に元気づけられてきた。もし辛いことがあれば、乗り越えるため、彼らの分けてくれた勇気をもって歩きもした。

 ところで私事ではあるが、先般、私は永遠の、無念の別れを経験した。立ち直るには相当の時間がかかるか、あるいは真に立ち直ることは成らず、一生抱えて生きていくのかもしれない。
 しかし、どんなに落ち込んだところで、世界は今日も回り、時間は平等に進む。私が泣こうが喚こうが、萌えようが滾ろうが。ずっと嘆いている訳にもいかず、生活をこなし、手隙にはそれこそ信教のように習慣化した推し活に勤しむ。食後に一息ついてSNSをチェックし、電車ではアプリで耳慣れた音楽を再生する。いずれも心がここにあらずとも出来てしまう。
 生活も信仰も、そして推し活も。気持ちがどんなに世を疎もうと、物理的に手を動かすことで、精神をこの世に結びつける。そんな働きがあるのかもしれない。少なくとも私はそんな感覚をおぼえた。いやわたしあと50年は絶対死にませんので安心してほしいんですけども、感覚として……

 こんなに悲しいのに、私にはまだまだ沢山の、一人一人比べるべくもないほど大切な人たちがいる。
 しかしこの先、大切な人たちを愛するほどに、また心身がすり減るような別れを経験して、そうして私の世界は取り返しがつかなくなっていくのか。そう思うと、いっそ大切な存在を手放してしまいたい。大切だった事実すら無かったことにしたい。そんなヤケを起こしたような気持ちが、多くの悲しみにほんの少し混ざり出した。

 時間軸が前後するが、私は先般の前夜祭に参加することが出来た。アクセスも会場の特性もいつもとは勝手が違ったが、関わった皆様のご尽力のおかげで、とても楽しいライブだった。
 ライブらしい高揚感の中、私は五感をいっぱいに使った。私の推しはご存知の通り、グループ最年少にして最高身長の彼である。肉眼か双眼鏡、もしくはモニター越しに見る生身の彼は、相も変わらず私の好きな彼だった。大好きなサウンドや演出、全てが愛おしく、受容するのに忙しかった。

 しかし、今回のライブで最も印象に残ったのは、翻ってグループ内で最も小柄な彼の言葉だった。
 私から見た彼は、情熱の人であり表現者であり、親しみやすさの中に、必死に生きてきた人の激しさと、どこか人界と隔絶した所のある存在に映っていた。そんな彼はこんな趣旨のことを言っていた。

 嬉しい涙と悲しい涙、これまでも沢山流してきたし、これからも沢山流していこう。
 そんな中で、今日の涙は嬉し涙だ。

 本当に雰囲気でのみ記憶しているため、誤りはご容赦いただきたい。とにかく、嬉しいことも悲しいこともこれから沢山経験するだろうと、彼はそう言った。
 以前の私であれば受け入れられない言葉だった。私はかつて、努力して何かを勝ち取り、幸せの総量を増やし、憂いなく生きていくのが至高の人生だと疑わなかった。何なら今でも、その幻想が心に少しだけ引っかかっている。
 しかし(比較するのはおこがましいが)、彼らが歳を重ねて変容したように、私も時間とともに考えを改めた。
 幸せを手に入れることは喪失と隣り合わせで、元が大きければ反動も大きい。何かを得たとして、それは永遠に続かない。これを実感を伴って理解したのは、もしかすると今回が初めてなのかもしれない。薄々気づいていた虚しい真実を受け止めねばならなかったとも言える。ユートピア的な憧れは間違っていた。そんなことを考えながら、私はとにかく落ち込んだし、今も呆然としているし、そしてこれから先この虚しさを忘れることはない。

 改めて、彼の言葉を咀嚼した。
 嬉し涙があれば悲し涙もある。これは、喜びと悲しみが繋がっていること、人生はその巡りに翻弄されることを示唆していたのかもしれない。私にはそう感じられた。
 そんな残酷な事実を、高らかに眩しく叫ぶ彼は、どうしてそういう風にあれるのだろうか。喜びと悲しみが同量であるならば、彼をこうして輝かせる源泉は何なのか。

 私の浅見が導き出した答えは「彼がそう生きようと決めたから」であった。そしてこれは、彼だけではなく五人みなに共通しているのではと閃いた。
 これまで彼が、どんな人生を歩んで来たかを全て知ることはできない。しかし明かされた情報から推し量れば、決して平坦ではなく、困難に見舞われ、それこそ幾度となく悲嘆したであろう。それでも、様々な経験を踏まえて、湧き上がるように、強く前へ進むことを決めたのではないだろうか。
 この世がどんなに喜びを奪おうと、愛する存在に永遠を許さなかろうと、それでも、したいことをし、愛したい人を愛し、なりたい自分になろうともがく。そう決心して、いつもその通りに歩む。
 その道は生半可ではない、諦めてほどほどの幸福とほどほどの不幸に甘んじてもいい。ゼロに近づき、ニュートラルに生きる選択肢はあるのだ。
 しかし、彼らはきっと、それを是としない。彼らの進む姿を見せてもらうにそう思う。きっと、彼らはこれからも、新たなものを獲得しようと挑むだろう。その先に何らかの悲しみが待ち受けていようとも。
 この世は、喜びと悲しみをどうやっても等価交換でしか与えてくれない。そんな構造を悟っていたとして、どうしてああも果断に生きられようか。人間を突き詰めた凄みの中に、私は神秘的な何かを感じずにはいられない。

 彼が演じたある舞台の、印象的な台詞を思い出した。
 「プラスでもマイナスでもいい、ゼロから離れて生きていたい」
 舞台が幕を下ろして一年が経とうかという今、この言葉がとても響いた。人は、必死に生きる中で、どうなってもいいから強くもがきたい。そんな衝動に駆られることがあるのかもしれない。

 私は、彼らがあくまでも人間らしく泥臭く、愚直で俗っぽく生きるさまに、この世ならざる神的な煌めきを見出した。一度見てしまったイデアに、この先もきっと焦がれ続ける。

 かくして私は、彼と彼を擁するチームの輝きの理由を垣間見た気がして、まだ弱々しくはあるが確かな希望を持つことが出来た。この希望は、いくら世の中がプラスとマイナスを同量でしか与えないとしても、希望は私の中にしかないものだから関係ない。私が捨てない限り、絶対に失わない。
 別れの無念さと、後悔は尽きることはないと思う。けれども、ゆっくりと事実を受け入れて、私の中に芽生えた希望を育てて、また新たな私になりたい。そう思えるのは、自分自身の努力や周囲の温かな関わりによるし、私の愛する五人のありようが心の芯に強く響いたからである。
 私はこの先も、必死にもがいてゼロから離れていきたい。傍らで彼らを思い出し、おのずと手を合わせ、私なりの情熱と信仰を彼らに注ぎたい。そしてまたこう叫ぶ。



 eighterでよかった〜〜〜!!!!!

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