認知の歪みを自覚してからオタクやれ(と私は思う)

 そこのあなた、いい加減にしなさい。えげつない強い言葉で誰かのことをメチャクチャこき下ろしてるあなた、そうあなたです。
 もっと言えば、ある視点からの持論に過ぎないものを、この世の真理みたいに掲げてデモ行進でも始めそうなあなたです。
 さらに言えば、「じゃあ自分は違うわッフンッ」と私の話にハナから否定的なあなたです。まぁプラカードを下ろして座りなさい。うわぁそれ、年季入ってるねぇ、いつから手に持ってたの?

 今から認知の歪みについて話します。この言葉が全く把握できない人は、ググってからご覧いただけると早いと思います。一から易しく解説出来ない拙筆をご容赦ください。

 さて、この世はあなたの主観で出来ている。
 あなたという生命体は、あなたの持つ知覚機能から情報を得て、それをあなたの自我というシステムによって処理しているからだ。
 疑いようのない理論だとか、万人を頷かせる証拠だとか、そういった客観的事実も、全てあなたという主観を通過する。その時点で真理は失われるのだ。
 このあたりの話は、恐らく哲学という餅屋で散々焼かれ、もとい議論されているだろうから、私はこれ以上言及しない。何かこんなん昔哲学の講義で聞いた気がするんだよ。Twitterだったかもしんないけど。

 要するに、自分の見方はどんなに均したものであると見えても、結局「あなたの感想ですよね」。つまり自分が見聞きした時点であなたというフィルターを介していることに気がつきなさい、ということ。
 そしてそのフィルターは、必ず滴下した雫に何らかの変化をもたらしている。ペットボトルに砂利を詰めて、泥水を濾し出す様子を見たことがあるだろう。人は皆この世に降り注ぐ情報を、それぞれの自我という濾過器で濾し出してから飲んでいるのだ。

 私もそう、あなたもそう、どんな偉人も聖人君子もそう。それ自体は生きる限りきっと変わらない。
 問題は、濾過器を介していることをすっかり忘れて、降ってきた雨をそのまま飲んでいるつもりになる人だ。
 彼らは、自分の視点から見た真実をまことしやかに語る。賛同者とのトークを通じて確信を深める。

 そういう人間に限って、浄水場は流行らないだの、ホンモノの天然水の味を知らないだの言って憚らないのだ。自分の様子をすっかり忘れている。客観と主観との間に横たわる恒河を忘れているのだ。ただの川じゃないよそれ。知覚するに余りあるほどの砂の彼岸を股にかけることは、人間には出来ない。



 まぁ結局、誰が何を言おうとも、結果的に全てその人の主観による所でしかない。ほどほどで考えるのを止めておかないと「この世は全て無意味」なんてニーチェに傾倒しなければならなくなる。
 大丈夫、あなたにとっての「神」は生きている。あなたというエゴの真ん中に燦然と輝いている。私たちオタクは自分で信教を選んでいるはずだ。胸を張って信仰を叫びなさい。
 ただし、自分が「それ教徒」だと一瞬たりとも忘れてはならかい。そうしないと、異教徒を知らず攻撃するかもしれないのだから。

蛇足:ない話を「見た」と叫ぶオタクが案外一番本質を掴んでいるのかもしれない。それかマジで見えちゃったのかな。私もよくやる、それ。

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